ヴェルサイユ条約 — OpenHistory
制裁
1916年12月12日、ドイツ帝国 が和平の探りを入れるために覚書 を発表すると、12月18日に中立国であったアメリカ合衆国大統領 ウッドロウ・ウィルソン は平和覚書を発表し、和平仲介を買って出た。しかしこの際は連合国の拒否に遭い、和平は実現しなかった6 。ウィルソンはその後も和平実現の望みを捨てず、1917年1月22日の上院 演説で「国際連盟 設立」、公海の自由 、世界規模の民主化、ポーランドの自由化を求め、公正な「勝利無き講和」を訴えた7 。その後アメリカは連合国側として参戦することになるが、ウィルソンはその後も公正な講和を唱え、1918年1月8日には「十四か条の平和原則 」を発表し、公正な講和を目指す旨をアピールした8 。
1918年の夏になるとドイツの敗北は明らかになり、9月29日にスパ で開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した9 。10月3日に首相 となったバーデン公子マックス はアメリカに講和のための覚書を送付し、アメリカとの間で覚書交換がはじまった10 。この講和交渉の中でアメリカは「十四か条の平和原則」を講和条約の基礎とした上で、専制的と見られたドイツの体制変革を要求し、10月22日にバーデン公子マックスもこれを受諾した11 。ただしこの時点ではイギリス ・フランス といった連合国間での合意は行われておらず、ウィルソンは友人であったエドワード・ハウス 名誉大佐をパリ に派遣した。ハウスはかなりの妥協と引き替えに「十四か条の平和原則」を講和の前提とする合意を取り付けた12 。10月27日には講和に反対するエーリヒ・ルーデンドルフ 参謀次長が解任され、10月28日には首相の権限が強化された憲法改正が行われ、専制色が薄められた13 。
共和国政府 を率いることになったエーベルトの臨時政府は休戦交渉を引き継ぐこととなり、エルツベルガーらに交渉の継続を命令した。交渉の末、11月11日に休戦協定が結ばれた。この休戦協定は占領地やアルザス=ロレーヌ からの即時撤退を含む、抗戦継続を不可能にする大変厳しいものであったが12 、「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「民族自決 ・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた15 。
休戦期間は1か月とされており、ドイツ側の状況によっては期限満了後に更新されないことになっていた。
講和条件に対するドイツ側の想定
エルザス(アルザス)地方 や、東部国境については住民投票で帰属を決定する。またポーランドの海への出口は保障する。ただしザール地方 などのフランスの要求には応じられないしドイツ系オーストリアのドイツへの合併は認められなければならない。
ベルギーと北フランスの損害再建費用として10億金マルク 程度。さらに無制限潜水艦作戦 の損害賠償で380億マルクを要求される可能性があるが、200億マルク以上の支払い能力はドイツにはない。
その後、講和会議の間までドイツ国内の政治家は「公正な講和」を求める主張をたびたび行っていた。またこの間、クルト・アイスナー らのバイエルン自由国 政府が独自に連合国と講和する動きを見せたが、他のドイツ諸邦や連合国の支持は得られなかった17 。
条約策定 講和会議の協議ではドイツに大きな負担を負わせ、自国の安全保障を図ろうとするクレマンソーの主張と19 、行き過ぎた懲罰に反対し、自らの「公正な講和」概念を貫こうとするウィルソンの二つの路線が対立した20 。またロイド・ジョージはヨーロッパの勢力均衡をとろうとする意図からフランスほど強硬ではなかったが、多くの戦費や債務をドイツ賠償で補おうとする点では変わらなかった21 。さらに連合国が支払った膨大な戦費や損害、そのためにアメリカから借り入れた債務、そして賠償とドイツに対する懲罰を要求する英仏両国の世論 も会議に影響を与えた22 23 。条約は秘密の中で作成され、4月後半にはドイツへの提示案が完成したが、これを事前に公表すればドイツが応じることはなく、また過激派の力が増大することが危惧されていた。協議の結果、ドイツ提示後に概略を公表することとなった24 。
ドイツに対する提示と交渉 4月18日、ドイツに対して代表団派遣が招請され、ブロックドルフ=ランツァウを首席とするドイツ代表団は4月29日にパリに到着した。5月7日午後、外務省付近のトリアノンホテルで条約案を提示された。ドイツ側には文書による意見を述べる14日間の回答期限が設定されていた。口頭での交渉は許されていなかったが、ブロックドルフ=ランツァウはその場で着席したまま戦争責任条項に対する抗議を行い、ロシアの動員こそが世界大戦 に至る原因であったと主張した。しかし、この態度は連合国首脳によい印象を与えなかった25 。
条約案を受け取ったドイツでは激しい反発が起こった。5月12日にはシャイデマン首相が、18日にはエーベルト臨時大統領が受け入れられないと声明した26 。代表団も次々と覚書を連合国に送付したが、5月10日に連合国は基本的方針を堅持すると伝達した27 。ブロックドルフ=ランツァウが特に問題としたのは戦争責任を定めた231条 (戦争責任条項、英 : War Guilt Clause)であり、交渉決裂も辞さない構えであったが、エルツベルガーら一部の閣僚は交渉決裂は戦争につながると危惧していた28 。ドイツ側は反対提案をまとめ、5月29日に提出したが、その内容は以下のようなものであった。
賠償金上限を無利子1000億金マルク 、1926年5月1日までに200億金マルク支払う
ただし賠償支払いは1914年時点でのドイツ領土維持を条件とする
エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)の支配権は放棄するが、帰属先を決める住民投票を要求する
ポーゼン州のうち、明らかなポーランド人の居住地域については割譲する。ポーランドの「海への出口」はヴィスワ川 の自由通航と、メーメル・ケーニヒスベルク ・ダンツィヒを自由港とすること等で達成させる
フランスの炭鉱が復旧するまで石炭を提供する
シュレースヴィヒについては住民投票で帰属を決定する
オーストリアおよびベーメン(ボヘミア 、特にいわゆるズデーテン地方 )のドイツ人についても民族自決権が適用されることを期待する
(手交された講和条約案に)従いながら、経済を再建することなど不可能である。「かくて国民全体が自らの死刑判決に署名しなければならないのである」
三首脳やフォッシュ元帥はドイツ側が条約を拒否すれば、最終目標をベルリンとする戦争を再開する構えであった24 。ドイツ側の反発だけではなく、イギリス・アメリカのマスコミ等も過酷であると批判した。しかしウィルソンやクレマンソーはドイツ側の意見に対してもなんら考慮する姿勢を見せなかった30 。一方でロイド・ジョージはイギリス帝国内部の首脳31 やイギリス世論が条約への反発を強めたことと、ドイツ側が拒否する公算が高まってきたことから、譲歩に傾き始めた。6月1日にイギリス帝国戦時内閣の緊急閣議が開かれ、ドイツ側に譲歩する必要があるかを協議した。南アフリカ外相のヤン・スマッツ ら閣僚はドイツに譲歩するべきであると主張し、東部国境・占領期間・ドイツの国際連盟 への加入・賠償の一定額固定への変更の4点について、ドイツ側に譲歩する提案を四人会議で交渉する権限がロイド・ジョージに与えられた32 。6月2日の四人会議でロイド・ジョージは譲歩を主張したが、原則主義者であるウィルソンとクレマンソーはロイド・ジョージの変節に怒り、協議は難航した33 34 35 。6月14日に四人会議の議論は決着し、ザールやオーバーシュレージエン (上シレジア )の譲渡が住民投票に変更される等の細部の譲歩が行われることとなった36 。
6月16日、ドイツ側の所見に対する回答が行われたが、この日に三首脳はドイツが条約締結を拒否すればベルリンまで攻撃するという案の確認を行った。ところがフォッシュは現状では三首脳が期待するような攻勢の準備は出来ないと発言したため、三首脳はフォッシュの責任を激しく追及した37 。
条約受諾 6月18日、政府はヴァイマル で与党であるヴァイマル連合 (ドイツ社会民主党 、中央党 、ドイツ民主党 )に条約受諾 の賛否を問うた。社会民主党は75対35で抗議つきの調印を支持し、中央党は231条と戦犯引渡しを拒否するという条件で調印を承認したが、民主党会派では反対が上回った。しかし、軍 のグレーナーが軍事的抵抗は不可能であるとの認識を示したことが決定打となり、方針が受諾へと傾いた38 39 。グレーナーは当初拒否の方針であったが、受諾拒否がかえって共和制やドイツ国家の解体につながることを懸念して条約受諾に方針転換した40 。6月19日の閣議ではグレーナーと国防相グスタフ・ノスケ が国民議会各派や閣僚を説得し、最終的に受諾方針が固まった。シャイデマンは内閣の総辞職を宣言してグスタフ・バウアー が首相となった。さらに民主党の意見により条約改正 を求めた電報が送られることになったが、効果なしと見た社会民主党の反対により、この電報は署名なしで送られている41 。
6月22日、バウアー首相は戦争責任について認めず、皇帝への有罪判決や戦犯処罰は受け入れられないと条件をつけた上で、議会で条約受諾を声明した。国民議会は237対128で賛成し、政府は条件付で条約を受け入れる旨を連合国に申し送った42 43 。しかし連合国は無条件での受諾を求め、国民議会は6月23日に講和には反対するが、講和を受諾したものが愛国的な動議に基づくものであると認めるという付帯決議をつけた上で、政府の条約調印権限を承認した。ここに至って政府は条約の受諾を声明した44 。
条約調印 条約調印式は1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた。鏡の間は「平和の間」と「戦争の間」を繋ぐ回廊 であり、また、かつて普仏戦争 の仮条約締結と、ドイツ帝国 の成立が宣言された場所でもあった。ドイツ側の代表として条約受諾に反対し辞任したブロックドルフ=ランツァウにかわり、ヘルマン・ミュラー 外相とヨハネス・ベル 運輸相が調印した。中華民国 は山東問題 の解決を不服として署名しなかった。
その後、各国での批准手続きを経て、1920年1月10日に発効した。またアメリカ合衆国においては、ヴェルサイユ条約とその他の講和条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際にアメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという規定が存在し、共和党が優位だったアメリカ合衆国上院 の外交問題委員会は、この条項に留保条件を付けることを主張した。しかし民主党のウィルソン大統領は妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった45 。それでも、アメリカ共和党のハーディング大統領は1921年8月25日に米独平和条約 を、中華民国は1922年5月15日に中独平和回復協定 を締結しドイツとの講和に至った。
内容
国際連盟
ドイツの領土 第二篇(27条から30条)はドイツの境界を規定している。一部の地域に関しては住民投票 による帰属決定が行われることとなった。
ヨーロッパの政治条項 第三篇(31条から117条)ではヨーロッパ各国の政治について定められた。
ドイツの国外財産・植民地 第四篇(118条から158条)は、ドイツの国外権益を定めている。ドイツはヨーロッパや条約締結国における、自国領域外にある権益・特権の一切を放棄する。ただし、膠州湾租借地 と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題 )。また従来の植民地 はすべて放棄する。一環としてドイツ・オリエントバンク がモロッコ銀行株を手放した。
軍備条項 第五篇(159条から213条)はドイツの軍備に厳しい制限を加えるとともに、武装解除 についても規定している。
軍備制限
ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵7個師団と騎兵3個師団以下、将校を含めて10万人以下とする。
本条約締結から3か月以内に20万人規模、歩兵14個師団、騎兵6個師団以下に縮小する。
ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2か月以内に1万5000人、うち下士官は1500人規模に縮小する。
参謀本部 、それに類似する機関は禁止する。
国境警備隊は1913年以前より増員してはならない。
一般義務兵役 は廃止し、志願兵制度のみを採用する。
兵の勤続年数は12年を下限とする(短い勤務年限で退役させることで予備兵力を増やせないように)。
下士官 は総兵員定数の5%以下とする。
陸軍大学校等各種軍学校の生徒は兵員に算入する。
ドイツが国際連盟加盟を許されるまでは、兵器に関して以下の制限を設ける。
1920年3月31日までに以下の量まで削減する。
砲弾数制限。口径10cm以下は一門につき1500発、口径10cm以上は一門につき500発まで
補充分として携行火器は25分の1、火砲は50分の1以下を許容範囲とする。
兵器、航空機を含む軍需物資の製造は連合国の許可を必要とする。
軍需材料の輸入禁止。
装甲車 ・戦車 ・潜水艦 ・毒ガス ・化学兵器 の輸入・製造を禁止、毒ガスについては研究も禁止。
兵器の貯蔵量は以下を限度とする
小銃 :84000丁
騎銃 :18000丁
小銃・騎銃の弾薬は一丁あたり400発、合計4080万発。
重機関銃 :792丁
軽機関銃 :合計1134丁
機関銃の弾薬は一丁あたり8000発、合計1540万8000発。
中迫撃砲 :63門、弾薬一門あたり400発、合計2万5200発
軽迫撃砲:189門、弾薬一門あたり800発、合計15万1200発
77ミリ野砲 :204門、弾薬一門あたり1000発、合計20万4000発
105ミリ榴弾砲 :84門、弾薬一門あたり800発、合計6万7200発
ドイツ海軍が保有できる艦艇は下記の制限以下とする。潜水艦はこれに含まれない。
ドイツ港湾にある一切のドイツ国艦艇の所有権を放棄する
ヘルゴラント 、ラインラント 等の戦艦8隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦42隻、新型水雷艇50隻を武装解除して2か月以内に引き渡す。ただし、砲はそのままとする。
潜水艦はすべて連合国に引き渡す。新規の建造は商業目的であっても禁止する。
代艦を建造する場合は、以下の排水量を限度とする
装甲艦:1万トン
軽巡洋艦:6000トン
駆逐艦:800トン
水雷艇:200トン
大戦中、北海 に敷設した機雷 を除去する。
機雷除去任務のため、100機の航空機、1000人以下の兵員を保有できる。それ以外の航空機や部品は連合国に引き渡す。
連合国の航空機は、撤退までの間、ドイツ国内を自由に飛行・着陸できる。
航空機とその部品、航空機用エンジンの製造・輸入は禁止される。
動員 を禁止する。
バルト海 の海路自由通航権を守るため、北緯55度27分から北緯54度、東経9度から16度の間に要塞を設置してはならない。航路図・海図を連合国に提出する。
現在のドイツ海岸線から50km以内の砲台は防御設備と認める。
ベルリン等にある大規模無線電信所は、非政治的な目的に限って使用を許可する。新規に大規模な無線電信所を設置してはならない。
条約に基づく軍の編成
軍団 司令部は2を上限とし、所属する将校数は一司令部につき30名、下士官150名。
軍団司令部の武器は師団割り当ての余剰分を用いる
歩兵師団一個師団には将校410名、下士官10830名が所属可能であるとされた。
歩兵師団 司令部に所属する将校数は一司令部につき25名、下士官70名。
師団指令歩兵部は1、将校は4名、下士官30名。
師団指令砲兵部は1、将校は4名、下士官30名。
歩兵連隊 は一師団に3個連隊。1個連隊は3個歩兵大隊と1個機関銃大隊で構成される。1個連隊につき将校70名、下士官2300名。
迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
野戦砲兵連隊は一師団に1個連隊。1個連隊は3個砲兵大隊で構成される。1個連隊につき将校85名、下士官1300名。
工兵 大隊は一師団に1個大隊。1個大隊は2個工兵中隊、ポンツーン 部隊1、サーチライト 班1で構成される。1個大隊につき将校12名、下士官400名。
通信隊は一師団に1個隊。電話隊、聴取班、軍用鳩班それぞれ1で構成される。1個隊につき将校12名、下士官300名。
師団衛生隊 は一師団に1個隊。1個隊につき将校20名、下士官400名。
諸廠および輜重担当は一師団に将校14名、下士官800名。
以下の火砲配備制限
小銃:一個師団あたり12000丁、合計84000丁
重機関銃:一個師団あたり108丁、合計756丁
軽機関銃:一個師団あたり162丁、合計1134丁
中迫撃砲:一個師団あたり9門、合計63門
軽迫撃砲:一個師団あたり27門、合計189門
77ミリ野砲:一個師団あたり24門、合計168門
105ミリ榴弾砲:一個師団あたり12門、合計84門
騎兵師団一個師団には将校275名、下士官5250名が所属可能であるとされた。
騎兵連隊は一師団に6個連隊。1個連隊は4個騎兵中隊で構成される。1個連隊につき将校40名、下士官800名。
迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
騎砲兵大隊は一師団に1個大隊。1個大隊につき将校20名、下士官400名。
以下の火砲配備制限
騎銃:一個師団あたり6000丁、合計18000丁
重機関銃:一個師団あたり12丁、合計36丁
77ミリ野砲:一個師団あたり12門、合計36門
国際監督委員会 203条から210条では、ドイツの軍備制限や武装解除を監視するための連合国国際監督委員会 の設置が定められた。
捕虜と墳墓 第6篇(214条から226条)では捕虜や抑留者の返還と、大戦中に設営された兵士の墳墓の保存について規定している。
制裁 第7篇(227条から230条)では、「前」ドイツ皇帝への訴追条項および一般戦争犯罪 の裁判について規定している。227条では前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 が「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」としてヴィルヘルム2世を特別法廷で裁くことを規定している46 。戦犯法廷には米英仏伊日五カ国から一名ずつ裁判官を任命するものとされた。さらにドイツ政府は戦時国際法 を犯したものを連合国に引き渡すことも定められた。この戦犯法廷はヴィルヘルム2世がオランダに亡命したため開廷されることはなかった。
賠償 第8篇(231条から247条)ではドイツが連合国等に支払う賠償について記述している。
231条は戦争がドイツとその同盟国の攻撃によって引き起こされ、賠償責任はドイツとその同盟国にあると記述しており、戦争責任条項と呼ばれる。ヴェルサイユ条約の賠償規定では現物、家畜等による莫大な賠償が記述されたが、賠償総額については決定されず、後に設置される賠償委員会で決定されることとなっていた。
財政 第9篇(248条から263条)では、占領に伴う経費等の支払い方法について規定している。
戦勝国は譲り受ける旧ドイツ帝国植民地に関してその植民地が保有していた一切の財産を取得するが、その価格は賠償委員会が査定して取得者たる戦勝国から補償金を受けとりドイツの賠償分に計上するし、この措置は皇帝・王族の財産にも適用される(256条第一段)。ただし、普仏戦争 で敗北し50億フランを負担したフランスは、アルザス ・ロレーヌ を無償で譲り受ける(256条第二段)。この点、ベルギー も同様とする(256条第三段)。第22条により旧ドイツ植民地の統治を委任される国は統治する植民地の公債を負担しないし、統治国の資格で植民地の財物を譲り受けても補償せず皇帝・王族の財産についても同様とする(257条)。
中央同盟国 と連合国 、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコ、加え各国の植民地、およびロシアにおいて、行政庁・国立銀行・代表機関その他国際的な金融・経済機関に対し、ドイツは一切の参加権を放棄する(258条)。ライヒスバンク はトルコ政府紙幣 を初めて発行するときオスマン債務管理局 名義で正金を寄託されたが、それをドイツは条約施行後一月以内に引き渡す(259条1項)。第二回の政府紙幣発行でも、やはりオスマン債務管理局名義で、幾度かドイツ大蔵省証券を寄託しているが、その券面の規定によりドイツは12年間年金を支払う(同条2項)。1915年5月5日の協定によりオスマン債務管理局からトルコ政府に貸し付けた正金の残高で、ライヒスバンクや他の銀行に預けられたものも引き渡す(同条3項)。1919年5月を弁済期とするオスマン内国公債の元利償還を目的として、1918年11月トルコ政府に交付した金銀のドイツ保有分を引き渡す(同条4項)。オーストリア・ハンガリーに対する貸付につきドイツが担保として占有した正金も一月以内に引き渡す(同条5項)。
経済 第10篇(264条から312条)では、ドイツにおける関税、通信(万国郵便連合 ・万国電信連合 関係)、債務・私有財産等の扱いについて規定している。また295条は1912年に調印された万国阿片条約 の批准措置となっている。
航空 第11篇(313条から320条)では、航空の分野において連合国がドイツにおいてドイツ国民と同等の権利を受けることを規定している。
水運・鉄道
国際労働機関 第13篇(387条から427条)は、国際連盟の姉妹機関とされた国際労働機関 の規約となっている。これもサン=ジェルマン条約、ヌイイ条約、トリアノン条約、セーヴル条約と同様の構成である。
保障 第14篇(428条から433条)は、ドイツに対する監視措置を規定している。
428条では、ライン川左岸50km地域を連合軍が15年間占領することが規定され、429条ではドイツの履行状況に応じて部分的に占領を解除することが規定されているが、状況によっては占領期間の延長ができるとしている。430条では賠償が履行されない場合には再占領を行えると規定しており、後のルール占領 の根拠となった。433条ではブレスト=リトフスク条約締結後にドイツが占領したバルト地方からの撤兵と、バルト諸国 に対する干渉禁止について規定している。
雑則
直接の影響
制裁裁判 ヴィルヘルム2世の裁判は亡命先のオランダが引渡しに応じなかったため、実現しなかった。オランダの世論は告発者による裁判所が中立的な法の尊厳を維持できるはずはなく、皇帝の引渡しはオランダ国法および憲法に抵触する可能性があると論じた47 。またフランス政府も裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している48 。さらにドイツ政府が戦犯の引渡しを拒否したため、戦犯裁判は国際裁判ではなく国内裁判で裁かれることになった。1921年5月23日からはライプツィヒ戦争犯罪裁判 が開催され、連合国が指名した、捕虜虐待容疑などの45人の戦犯が裁かれた。有罪となった者の刑期はそれほど長くなく、死刑になった被告は一人も出なかった。
住民投票
シュレースヴィヒ シュレースヴィヒのデンマーク系住民は大戦末期からシュレースヴィヒの帰属を決める住民投票を希望しており49 、1918年11月17日にはデンマーク系住民居住地域の南限である「クラウセンライン」50 を国境とするべきであるという「アペンラーデ決議」を発表した。しかしデンマーク政府はドイツ系の住民が多数を占める中南部の編入を望んでおらず、その点ではドイツ共和政府とも了解が取れていた51 。しかしドイツ系住民の「シュレースヴィヒ公爵領のためのドイツ委員会」はシュレースヴィヒの一体性を主張し、住民投票の際はシュレースヴィヒ一体で行うべきと主張していた52 。ヴェルサイユ条約ではクラウセンラインが採用され、ライン以北を第一地区、以南を第二地区として別個に投票を行うことになった。
シュレースヴィヒの住民投票 は、北部の第一地区では1919年6月28日、第二地区では1920年3月14日に行われた。北部ではデンマーク 所属派が75%と優勢であり53 、中部シュレースヴィヒの投票では80%がドイツを選択する53 などははっきりした傾向が現れた。また南部のドイツ支持が明確な地区では投票自体行われなかった。この結果に不満を持ったデンマークの国家主義者は中部シュレースヴィヒのデンマーク編入を要求し、国王クリスチャン10世 も介入する一大政治問題となった(1920年のイースター危機 )。結局デンマークは住民投票の結果どおり、中部シュレースヴィヒ獲得を断念した。一方ドイツ政府はクラウセンライン以北にあるドイツ住民が優勢な地域を考慮して国境を引きなおす案を提案したが入れられず、国境線はクラウセンラインが採用された。その後、北部シュレースヴィヒは1920年6月15日にデンマークに編入された。
東プロイセン 東プロイセンの住民投票 はポーランド・ソビエト戦争 のさなかの1920年7月11日に行われた。ほとんどの地域でドイツ編入を希望する票が95%を上回り、投票が行われた地域はほとんどドイツ領(東プロイセン領)のままとなった。ただしいくつかの村は住民投票が行われずポーランド領に編入されている。
上シレジア 上シレジアの住民投票 は困難であった。この地域はドイツ系とポーランド系の住民が交錯しており、いずれの帰属となっても混乱は必至であった。1921年3月20日に住民投票が行われたが、ポーランド系の大規模な蜂起が発生した。連合国管理委員会は裁定を断念し、国際連盟に提訴した。結局上シレジアの3分の2がドイツ領となったが、重工業地域などはポーランド領となり、両国間に確執が残ることとなった。
メーメル メーメルとその周辺については、暫定的にイギリス・フランス・イタリア・日本の4カ国で構成される大使会議 の統治下におかれることとなったが、実質的にはフランスの管理下におかれた。1923年1月にリトアニア 政府が軍事侵攻し、メーメルを支配下に置いた(クライペダ蜂起 )。フランスはルール占領 に手を焼いており、これに介入する余裕がなかったため、連合国はリトアニアの支配権を追認することとなった。1924年5月8日のクライペダ条約 によってメーメルはリトアニアの自治地区となった。
植民地 ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する、委任統治 に移行した。
賠償 これ以降連合国側もドイツ経済に配慮するようになり、ドーズ案 によってドイツの賠償支払いは一段落した。しかし1928年頃からはドイツへの資金流入が減少しはじめ、ヤング案 が採択されて支払いはさらに緩和されたものの、1930年代の世界恐慌 と欧州金融恐慌により、賠償の支払いは事実上不可能となった。ドイツは賠償支払いの一時停止を宣言し、1932年6月のローザンヌ会議 で賠償問題は事実上解消された。
武装解除 ドイツ海軍艦艇は連合国に引き渡されることになっていたが、当時イギリスのスカパ・フロー 港に抑留されていたドイツ艦艇は、ルートヴィヒ・フォン・ロイター 提督の命令で1919年6月21日にいっせいに自沈し、艦艇74隻中52隻が沈没した(スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈 )。いくつかの艦は引き上げられず、連合国は引き渡しを受けることができなかった。ドイツ世論ではロイター提督が国民的な英雄であると受け止められた。
当時の評価 条約成立過程はほとんど秘密にされていたため、全容が世界に公表されたのは5月7日のドイツ側への手交以降だった。イギリスでは講和条約が過酷であり、連合国の戦争目的と異なるという批判が労働組織の機関紙を中心に広がった24 。ランシングをはじめとするアメリカの代表団内部でも条約が「十四原則」とかけ離れていると批判する声が高かった30 。また大戦中から和平への努力を行っていた教皇 ベネディクトゥス15世 も公然の批判は行わなかったものの、ヴェルサイユ条約が復讐の産物であるという認識を示していた57 。
ロイド・ジョージもドイツにとって過酷であると考えており、条約公表前の4月5日に「平和条約は、ドイツがヴェルサイユに来た時に、彼らに手渡される。それ以前に条約が公表されたら、ドイツ政府の立場はとてもありえなくされるだろう。この条約は、ドイツを革命に導くかも知れぬ。」24 。また南アフリカ代表のヤン・スマッツ も、軍事占領と産業条項の両立は不可能であり、ドイツを国際連盟に加えることで孤立化を防ぎ、独露提携を回避するべきであると指摘している58 。
一方で対独強硬派であるフェルディナン・フォッシュ らにとってはこの条約があまりにも手ぬるいものであると考えられた。フォッシュは「これは平和ではない。20年間の休戦だ」61 と述べたと伝えられる。
アメリカ代表団の一人であったハーバート・フーヴァー は「もし真に平和を望むのであれば、ドイツをいかなる自力回生も不可能なほどの貧困と無力状態におとしいれるか、自由な政府を持たせて人類家族の平和なメンバーにするか、そのどちらかにすべきであった。」と回想し、フランスの作家ジャック・バンヴィル も『平和の政治的帰結 』において「過酷な点があるにしてはあまりに手ぬるく、手ぬるい点があるにしては過酷に過ぎる」と評し、条約がいずれにしても不徹底であるとした62 。
戦争が終わり冷静さが戻ると、ドイツ軍残虐プロパガンダ の嘘が暴かれた。イギリスの戦争宣伝局 が作成し、アメリカにおける反独感情醸成に貢献した、ドイツ軍がベルギー占領の過程で行ったとされる残虐行為に関するブライス報告 は、イギリスを代表する知性としてアメリカでも高く評価されていたジェームズ・ブライス が責任者であったために、アメリカを席巻したが、ベルギーで行われた検証は、報告中の主たる事例のうち、ただの一つもその存在を示せなかった。当のブライスも、戦争中はどんなことでも生じ得るとだけ言い残し、戦後ほどなく亡くなった63 。ドイツ単独責任論も講和直後から揺らぎ始めた。1920年、アメリカの歴史学者シドニー・フェイ は「世界大戦の起源に新たな光を当てる」という論文を発表し、ドイツ単独責任論に疑問を呈した。さらに1928年、フェイは『世界大戦の起源』において、ドイツとその同盟国だけに大戦の責任があるというベルサイユ条約 の裁断は、歴史として根拠薄弱であり、改めなければならないと結論づけた。この書籍は高く評価され、ドイツはもちろん、イギリス、アメリカにおいても、戦間期にはベルサイユ条約に否定的な修正史観が歴史研究の世界で確固たる位置を占めていた64 。
ドイツへの影響 ドイツ側では講和条約に対する反発が根強く、受諾への動きを見せたエルツベルガーですら、「悪魔の仕業」と呼んでいた65 。ドイツの大半は戦火に巻き込まれなかったため、ドイツ一般市民には敗北感が薄く、さらにヒンデンブルクが議会証言で、革命派による「背後の一突き 」によってドイツが休戦に追い込まれたと主張したことで、「不当な休戦」によってもたらされた「過酷な講和条約」に対する怒りはドイツ国民間に広く浸透した66 。これを好機と見たヴェルサイユ条約の軍備制限に反対するヴァルター・フォン・リュトヴィッツ 元ベルリン防衛軍司令官は、1920年3月13日にヴァイマル共和政打倒のクーデターを敢行するが、市民の支持は集まらず失敗した(カップ一揆 )。
しかし講和条約を受諾した以上、ドイツ政府は講和条約を実行する「履行政策」に勤めざるを得なかった。しかし賠償金支払いは困難を極め、インフレがじわじわと進行した結果に賠償金支払いが滞り、フランスのルール占領 を呼び込むこととなった。ルール占領によってインフレーションは破滅的な規模に拡大し、ミュンヘン一揆 等、左右両翼の暴動・反乱が相次いだ。しかしグスタフ・シュトレーゼマン 内閣以降はドイツ経済と政情も一時的に安定し、ロカルノ条約 の締結と国際連盟加盟実現により、ドイツは事実上国際社会に復帰した。しかし世界恐慌 以降は再び条約に対する不満が惹起され、ナチ党の権力掌握 を招くことになる。
エルツベルガーら休戦協定に署名した人物は、国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党)等右派によって「11月の裏切り者」と非難された。1920年8月26日、エルツベルガーは極右テロ組織コンスル の手によって暗殺された。
武装解除と秘密再武装 ドイツの武装解除と動員解除には、連合国の連合国国際監督委員会による監視措置が執られることとなった。しかし国軍 は連合国の監視を逃れ、兵士を私兵組織(ドイツ義勇軍 、フライコーア)に偽装し、参謀本部を兵務局 と偽装して組織を温存した。またラパッロ条約の締結後は秘密議定書に基づき、ソビエト連邦 の領土内での軍事訓練などを行った(1941年以前の独ソ関係 )。MG13機関銃 やleIG18歩兵砲 など、戦後に開発された兵器には実際よりもさかのぼった年式が与えられ、敗戦以前に開発されたと偽装された。不安定な政治状況を乗り切るため、エーベルトは参謀次長であったヴィルヘルム・グレーナー と電話会談し、政府に軍が協力する見返りとして、軍の機構を維持する密約を結んでおり(エーベルト=グレーナー協定 )、これらの条約逃れは政府も黙認していた。1925年のロカルノ条約 締結により、1927年には連合国国際監督委員会による監視措置は終了した。
連合国への影響 クレマンソーは「この条約は、他の条約同様、完全な履行まで戦闘行動の延長でありかつそうでしかありえない」67 と語ったように、対独強硬路線はフランスの基本路線となり、賠償支払いが停滞したドイツに対するルール占領を引き起こした。しかしこの占領は失敗に終わり、イギリスの仲介もあってフランスも強硬方針を改めざるを得なくなった。1924年には賠償支払い手続きにアメリカを組み込んだドーズ案 が決定され、賠償支払いもようやく円滑となった。
1925年にイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ドイツの集団安全保障を定めたロカルノ条約 の締結によってドイツは国際社会に復帰し、1926年9月には国際連盟にも加盟した。1928年には不戦条約 の締結でロカルノ体制は安泰となったかに思われたが、世界恐慌の発生とそれにともなうヨーロッパの不安定化は、英仏に新たな体制構築をせまることとなった。
アメリカにおいても、ウィルソン大統領 が唱えた「世界をデモクラシー にとって安全な場所にせねばならない」という標語の下に参加した大戦への疑問が国民全体に広がった。1930年代にはナイ委員会 において、戦争の過程でアメリカの銀行と軍需産業が大きな利益を上げたことが取り上げられ、国民の孤立主義 的傾向に拍車がかかり、圧倒的大多数のアメリカ国民が、ヨーロッパ やアジア における戦争にアメリカが関わるべきではないと確信していた68 。
ナチス・ドイツと第二次世界大戦 英仏の対独宥和政策が強まる中、ラインラント占領が1930年6月に終了し、賠償問題もローザンヌ会議 で事実上終結するなど、ヴェルサイユ条約の対独監視措置はヒトラー内閣 成立の1933年以前にほとんど終了した。
反ヴェルサイユ条約を掲げたアドルフ・ヒトラー らナチ党のいわゆるナチス・ドイツ 成立以降は、軍事面での監視措置を次々に破った。1933年にはジュネーブ軍縮会議 から離脱した上で国際連盟から脱退し、1935年3月16日には軍備制限条項の無効を宣言し(ドイツ再軍備宣言 )、1936年にはラインラント進駐 を行い、ヴェルサイユ条約の軍事条項は完全に死文化した。またイギリスも1935年6月18日に英独海軍協定 を締結することでこの状況を容認し、いわゆる宥和政策 が開始された。フランスは小協商 諸国との連携やマジノ線 建築、さらに小協商およびポーランドにソ連をくわえた東方ロカルノ体制案でドイツに抵抗しようとするが、いずれも不十分に終わったため、ドイツを抑制することはできなかった。またザールも1935年にドイツに復帰している。
ヒトラーはヴェルサイユ条約で喪失した領土と、植民地の代替となるヨーロッパ領土、いわゆる東方生存圏 の獲得を狙って第二次世界大戦 の引き金を引くが、結果としてドイツは崩壊し、さらなる領土と人命、財産の喪失と、ドイツの分断を招くこととなった。連合国 の指導者フランクリン・ルーズベルト 大統領は、休戦協定とヴェルサイユ条約が完全なドイツの敗北をドイツ人に認識させなかったことが今次の大戦の原因であると考え69 、枢軸国 に対して完全な「無条件降伏 」を求める方針をとった。またドイツ軍の降伏手続きにおいては「背後の一突き」伝説が発生しないよう、軍の指揮権を持つ者に署名させた。一方でドイツからの賠償については、正貨ではなく捕虜による労務や現物による賠償で代えた。これはヴェルサイユ条約の賠償支払い方式が経済に与えた影響をかんがみたものであったが、強制労働によって多くの捕虜の人命が失われることになった。
現在における影響
条約参加国 前文では特に「アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス国、イタリア国、日本国」を「主たる同盟及び連合国」として他の参加国より先に記述している70 。
調印したが、批准を行わなかった国
講和会議に参加したが調印を行わなかった国
参考文献
尾上一雄「アメリカ金融資本主義と第一次世界大戦」『経済研究』第3巻、成城大学、1955年、105-145頁。
黒川康「ドイツ国防軍と「レーム事件」--第1次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察」『人文科学論集』第5巻、目白大学、1970年、19-31頁、NAID 110007351772 、NII:1514/00000955 。
ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー 『自由と統一への長い道〈1〉ドイツ近現代史 1789-1933年』後藤俊明、奥田隆男、中谷毅、野田昌吾 訳、昭和堂、2008年7月。ISBN 978-4-81-220833-5。
脚注
ドイツの国外財産・植民地
ヴェルサイユ条約 (ヴェルサイユじょうやく、仏 : Traité de Versailles )は、1919年6月28日にフランス のヴェルサイユ で調印された、第一次世界大戦 における連合国 とドイツ国 の間で締結された講和条約 の通称。「ベルサイユ条約」とも表記される1 2 (「ヴ 」の記事も参照の事)。
正文 はフランス語 と英語 であり、正式な条約名はそれぞれフランス語 : Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l'Allemagne 、英語 : Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germany であるが、ヴェルサイユ宮殿 で調印されたことによって、ヴェルサイユ条約と呼ばれる。
日本における正式条約名は同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約 (大正9年条約第1号)。
この条約および、諸講和条約によってもたらされた国際秩序を**ヴェルサイユ体制 **(ヴェルサイユたいせい)という3 4 。
ヴェルサイユの表記揺れで、ベルサイユ条約 やベルサイユ体制 と表記することもある5 。
背景
休戦交渉と休戦協定 1916年12月12日、ドイツ帝国 が和平の探りを入れるために覚書 を発表すると、12月18日に中立国であったアメリカ合衆国大統領 ウッドロウ・ウィルソン は平和覚書を発表し、和平仲介を買って出た。しかしこの際は連合国の拒否に遭い、和平は実現しなかった6 。ウィルソンはその後も和平実現の望みを捨てず、1917年1月22日の上院 演説で「国際連盟 設立」、公海の自由 、世界規模の民主化、ポーランドの自由化を求め、公正な「勝利無き講和」を訴えた7 。その後アメリカは連合国側として参戦することになるが、ウィルソンはその後も公正な講和を唱え、1918年1月8日には「十四か条の平和原則 」を発表し、公正な講和を目指す旨をアピールした8 。
1918年の夏になるとドイツの敗北は明らかになり、9月29日にスパ で開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した9 。10月3日に首相 となったバーデン公子マックス はアメリカに講和のための覚書を送付し、アメリカとの間で覚書交換がはじまった10 。この講和交渉の中でアメリカは「十四か条の平和原則」を講和条約の基礎とした上で、専制的と見られたドイツの体制変革を要求し、10月22日にバーデン公子マックスもこれを受諾した11 。ただしこの時点ではイギリス ・フランス といった連合国間での合意は行われておらず、ウィルソンは友人であったエドワード・ハウス 名誉大佐をパリ に派遣した。ハウスはかなりの妥協と引き替えに「十四か条の平和原則」を講和の前提とする合意を取り付けた12 。10月27日には講和に反対するエーリヒ・ルーデンドルフ 参謀次長が解任され、10月28日には首相の権限が強化された憲法改正が行われ、専制色が薄められた13 。
共和国政府 を率いることになったエーベルトの臨時政府は休戦交渉を引き継ぐこととなり、エルツベルガーらに交渉の継続を命令した。交渉の末、11月11日に休戦協定が結ばれた。この休戦協定は占領地やアルザス=ロレーヌ からの即時撤退を含む、抗戦継続を不可能にする大変厳しいものであったが12 、「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「民族自決 ・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた15 。
休戦期間は1か月とされており、ドイツ側の状況によっては期限満了後に更新されないことになっていた。
講和条件に対するドイツ側の想定
エルザス(アルザス)地方 や、東部国境については住民投票で帰属を決定する。またポーランドの海への出口は保障する。ただしザール地方 などのフランスの要求には応じられないしドイツ系オーストリアのドイツへの合併は認められなければならない。
ベルギーと北フランスの損害再建費用として10億金マルク 程度。さらに無制限潜水艦作戦 の損害賠償で380億マルクを要求される可能性があるが、200億マルク以上の支払い能力はドイツにはない。
その後、講和会議の間までドイツ国内の政治家は「公正な講和」を求める主張をたびたび行っていた。またこの間、クルト・アイスナー らのバイエルン自由国 政府が独自に連合国と講和する動きを見せたが、他のドイツ諸邦や連合国の支持は得られなかった17 。
条約策定 講和会議の協議ではドイツに大きな負担を負わせ、自国の安全保障を図ろうとするクレマンソーの主張と19 、行き過ぎた懲罰に反対し、自らの「公正な講和」概念を貫こうとするウィルソンの二つの路線が対立した20 。またロイド・ジョージはヨーロッパの勢力均衡をとろうとする意図からフランスほど強硬ではなかったが、多くの戦費や債務をドイツ賠償で補おうとする点では変わらなかった21 。さらに連合国が支払った膨大な戦費や損害、そのためにアメリカから借り入れた債務、そして賠償とドイツに対する懲罰を要求する英仏両国の世論 も会議に影響を与えた22 23 。条約は秘密の中で作成され、4月後半にはドイツへの提示案が完成したが、これを事前に公表すればドイツが応じることはなく、また過激派の力が増大することが危惧されていた。協議の結果、ドイツ提示後に概略を公表することとなった24 。
ドイツに対する提示と交渉 4月18日、ドイツに対して代表団派遣が招請され、ブロックドルフ=ランツァウを首席とするドイツ代表団は4月29日にパリに到着した。5月7日午後、外務省付近のトリアノンホテルで条約案を提示された。ドイツ側には文書による意見を述べる14日間の回答期限が設定されていた。口頭での交渉は許されていなかったが、ブロックドルフ=ランツァウはその場で着席したまま戦争責任条項に対する抗議を行い、ロシアの動員こそが世界大戦 に至る原因であったと主張した。しかし、この態度は連合国首脳によい印象を与えなかった25 。
条約案を受け取ったドイツでは激しい反発が起こった。5月12日にはシャイデマン首相が、18日にはエーベルト臨時大統領が受け入れられないと声明した26 。代表団も次々と覚書を連合国に送付したが、5月10日に連合国は基本的方針を堅持すると伝達した27 。ブロックドルフ=ランツァウが特に問題としたのは戦争責任を定めた231条 (戦争責任条項、英 : War Guilt Clause)であり、交渉決裂も辞さない構えであったが、エルツベルガーら一部の閣僚は交渉決裂は戦争につながると危惧していた28 。ドイツ側は反対提案をまとめ、5月29日に提出したが、その内容は以下のようなものであった。
賠償金上限を無利子1000億金マルク 、1926年5月1日までに200億金マルク支払う
ただし賠償支払いは1914年時点でのドイツ領土維持を条件とする
エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)の支配権は放棄するが、帰属先を決める住民投票を要求する
ポーゼン州のうち、明らかなポーランド人の居住地域については割譲する。ポーランドの「海への出口」はヴィスワ川 の自由通航と、メーメル・ケーニヒスベルク ・ダンツィヒを自由港とすること等で達成させる
フランスの炭鉱が復旧するまで石炭を提供する
シュレースヴィヒについては住民投票で帰属を決定する
オーストリアおよびベーメン(ボヘミア 、特にいわゆるズデーテン地方 )のドイツ人についても民族自決権が適用されることを期待する
(手交された講和条約案に)従いながら、経済を再建することなど不可能である。「かくて国民全体が自らの死刑判決に署名しなければならないのである」
三首脳やフォッシュ元帥はドイツ側が条約を拒否すれば、最終目標をベルリンとする戦争を再開する構えであった24 。ドイツ側の反発だけではなく、イギリス・アメリカのマスコミ等も過酷であると批判した。しかしウィルソンやクレマンソーはドイツ側の意見に対してもなんら考慮する姿勢を見せなかった30 。一方でロイド・ジョージはイギリス帝国内部の首脳31 やイギリス世論が条約への反発を強めたことと、ドイツ側が拒否する公算が高まってきたことから、譲歩に傾き始めた。6月1日にイギリス帝国戦時内閣の緊急閣議が開かれ、ドイツ側に譲歩する必要があるかを協議した。南アフリカ外相のヤン・スマッツ ら閣僚はドイツに譲歩するべきであると主張し、東部国境・占領期間・ドイツの国際連盟 への加入・賠償の一定額固定への変更の4点について、ドイツ側に譲歩する提案を四人会議で交渉する権限がロイド・ジョージに与えられた32 。6月2日の四人会議でロイド・ジョージは譲歩を主張したが、原則主義者であるウィルソンとクレマンソーはロイド・ジョージの変節に怒り、協議は難航した33 34 35 。6月14日に四人会議の議論は決着し、ザールやオーバーシュレージエン (上シレジア )の譲渡が住民投票に変更される等の細部の譲歩が行われることとなった36 。
6月16日、ドイツ側の所見に対する回答が行われたが、この日に三首脳はドイツが条約締結を拒否すればベルリンまで攻撃するという案の確認を行った。ところがフォッシュは現状では三首脳が期待するような攻勢の準備は出来ないと発言したため、三首脳はフォッシュの責任を激しく追及した37 。
条約受諾 6月18日、政府はヴァイマル で与党であるヴァイマル連合 (ドイツ社会民主党 、中央党 、ドイツ民主党 )に条約受諾 の賛否を問うた。社会民主党は75対35で抗議つきの調印を支持し、中央党は231条と戦犯引渡しを拒否するという条件で調印を承認したが、民主党会派では反対が上回った。しかし、軍 のグレーナーが軍事的抵抗は不可能であるとの認識を示したことが決定打となり、方針が受諾へと傾いた38 39 。グレーナーは当初拒否の方針であったが、受諾拒否がかえって共和制やドイツ国家の解体につながることを懸念して条約受諾に方針転換した40 。6月19日の閣議ではグレーナーと国防相グスタフ・ノスケ が国民議会各派や閣僚を説得し、最終的に受諾方針が固まった。シャイデマンは内閣の総辞職を宣言してグスタフ・バウアー が首相となった。さらに民主党の意見により条約改正 を求めた電報が送られることになったが、効果なしと見た社会民主党の反対により、この電報は署名なしで送られている41 。
6月22日、バウアー首相は戦争責任について認めず、皇帝への有罪判決や戦犯処罰は受け入れられないと条件をつけた上で、議会で条約受諾を声明した。国民議会は237対128で賛成し、政府は条件付で条約を受け入れる旨を連合国に申し送った42 43 。しかし連合国は無条件での受諾を求め、国民議会は6月23日に講和には反対するが、講和を受諾したものが愛国的な動議に基づくものであると認めるという付帯決議をつけた上で、政府の条約調印権限を承認した。ここに至って政府は条約の受諾を声明した44 。
条約調印 条約調印式は1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた。鏡の間は「平和の間」と「戦争の間」を繋ぐ回廊 であり、また、かつて普仏戦争 の仮条約締結と、ドイツ帝国 の成立が宣言された場所でもあった。ドイツ側の代表として条約受諾に反対し辞任したブロックドルフ=ランツァウにかわり、ヘルマン・ミュラー 外相とヨハネス・ベル 運輸相が調印した。中華民国 は山東問題 の解決を不服として署名しなかった。
その後、各国での批准手続きを経て、1920年1月10日に発効した。またアメリカ合衆国においては、ヴェルサイユ条約とその他の講和条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際にアメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという規定が存在し、共和党が優位だったアメリカ合衆国上院 の外交問題委員会は、この条項に留保条件を付けることを主張した。しかし民主党のウィルソン大統領は妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった45 。それでも、アメリカ共和党のハーディング大統領は1921年8月25日に米独平和条約 を、中華民国は1922年5月15日に中独平和回復協定 を締結しドイツとの講和に至った。
内容
国際連盟
ドイツの領土 第二篇(27条から30条)はドイツの境界を規定している。一部の地域に関しては住民投票 による帰属決定が行われることとなった。
ヨーロッパの政治条項 第三篇(31条から117条)ではヨーロッパ各国の政治について定められた。
ドイツの国外財産・植民地 第四篇(118条から158条)は、ドイツの国外権益を定めている。ドイツはヨーロッパや条約締結国における、自国領域外にある権益・特権の一切を放棄する。ただし、膠州湾租借地 と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題 )。また従来の植民地 はすべて放棄する。一環としてドイツ・オリエントバンク がモロッコ銀行株を手放した。
軍備条項 第五篇(159条から213条)はドイツの軍備に厳しい制限を加えるとともに、武装解除 についても規定している。
軍備制限
ドイツの陸軍兵力は、1920年3月31日までに歩兵7個師団と騎兵3個師団以下、将校を含めて10万人以下とする。
本条約締結から3か月以内に20万人規模、歩兵14個師団、騎兵6個師団以下に縮小する。
ドイツの海軍兵力は、本条約締結から2か月以内に1万5000人、うち下士官は1500人規模に縮小する。
参謀本部 、それに類似する機関は禁止する。
国境警備隊は1913年以前より増員してはならない。
一般義務兵役 は廃止し、志願兵制度のみを採用する。
兵の勤続年数は12年を下限とする(短い勤務年限で退役させることで予備兵力を増やせないように)。
下士官 は総兵員定数の5%以下とする。
陸軍大学校等各種軍学校の生徒は兵員に算入する。
ドイツが国際連盟加盟を許されるまでは、兵器に関して以下の制限を設ける。
1920年3月31日までに以下の量まで削減する。
砲弾数制限。口径10cm以下は一門につき1500発、口径10cm以上は一門につき500発まで
補充分として携行火器は25分の1、火砲は50分の1以下を許容範囲とする。
兵器、航空機を含む軍需物資の製造は連合国の許可を必要とする。
軍需材料の輸入禁止。
装甲車 ・戦車 ・潜水艦 ・毒ガス ・化学兵器 の輸入・製造を禁止、毒ガスについては研究も禁止。
兵器の貯蔵量は以下を限度とする
小銃 :84000丁
騎銃 :18000丁
小銃・騎銃の弾薬は一丁あたり400発、合計4080万発。
重機関銃 :792丁
軽機関銃 :合計1134丁
機関銃の弾薬は一丁あたり8000発、合計1540万8000発。
中迫撃砲 :63門、弾薬一門あたり400発、合計2万5200発
軽迫撃砲:189門、弾薬一門あたり800発、合計15万1200発
77ミリ野砲 :204門、弾薬一門あたり1000発、合計20万4000発
105ミリ榴弾砲 :84門、弾薬一門あたり800発、合計6万7200発
ドイツ海軍が保有できる艦艇は下記の制限以下とする。潜水艦はこれに含まれない。
ドイツ港湾にある一切のドイツ国艦艇の所有権を放棄する
ヘルゴラント 、ラインラント 等の戦艦8隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦42隻、新型水雷艇50隻を武装解除して2か月以内に引き渡す。ただし、砲はそのままとする。
潜水艦はすべて連合国に引き渡す。新規の建造は商業目的であっても禁止する。
代艦を建造する場合は、以下の排水量を限度とする
装甲艦:1万トン
軽巡洋艦:6000トン
駆逐艦:800トン
水雷艇:200トン
大戦中、北海 に敷設した機雷 を除去する。
機雷除去任務のため、100機の航空機、1000人以下の兵員を保有できる。それ以外の航空機や部品は連合国に引き渡す。
連合国の航空機は、撤退までの間、ドイツ国内を自由に飛行・着陸できる。
航空機とその部品、航空機用エンジンの製造・輸入は禁止される。
動員 を禁止する。
バルト海 の海路自由通航権を守るため、北緯55度27分から北緯54度、東経9度から16度の間に要塞を設置してはならない。航路図・海図を連合国に提出する。
現在のドイツ海岸線から50km以内の砲台は防御設備と認める。
ベルリン等にある大規模無線電信所は、非政治的な目的に限って使用を許可する。新規に大規模な無線電信所を設置してはならない。
条約に基づく軍の編成
軍団 司令部は2を上限とし、所属する将校数は一司令部につき30名、下士官150名。
軍団司令部の武器は師団割り当ての余剰分を用いる
歩兵師団一個師団には将校410名、下士官10830名が所属可能であるとされた。
歩兵師団 司令部に所属する将校数は一司令部につき25名、下士官70名。
師団指令歩兵部は1、将校は4名、下士官30名。
師団指令砲兵部は1、将校は4名、下士官30名。
歩兵連隊 は一師団に3個連隊。1個連隊は3個歩兵大隊と1個機関銃大隊で構成される。1個連隊につき将校70名、下士官2300名。
迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
野戦砲兵連隊は一師団に1個連隊。1個連隊は3個砲兵大隊で構成される。1個連隊につき将校85名、下士官1300名。
工兵 大隊は一師団に1個大隊。1個大隊は2個工兵中隊、ポンツーン 部隊1、サーチライト 班1で構成される。1個大隊につき将校12名、下士官400名。
通信隊は一師団に1個隊。電話隊、聴取班、軍用鳩班それぞれ1で構成される。1個隊につき将校12名、下士官300名。
師団衛生隊 は一師団に1個隊。1個隊につき将校20名、下士官400名。
諸廠および輜重担当は一師団に将校14名、下士官800名。
以下の火砲配備制限
小銃:一個師団あたり12000丁、合計84000丁
重機関銃:一個師団あたり108丁、合計756丁
軽機関銃:一個師団あたり162丁、合計1134丁
中迫撃砲:一個師団あたり9門、合計63門
軽迫撃砲:一個師団あたり27門、合計189門
77ミリ野砲:一個師団あたり24門、合計168門
105ミリ榴弾砲:一個師団あたり12門、合計84門
騎兵師団一個師団には将校275名、下士官5250名が所属可能であるとされた。
騎兵連隊は一師団に6個連隊。1個連隊は4個騎兵中隊で構成される。1個連隊につき将校40名、下士官800名。
迫撃砲中隊は一師団に3個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
師団騎兵中隊は一師団に1個中隊。1個中隊につき将校6名、下士官150名。
騎砲兵大隊は一師団に1個大隊。1個大隊につき将校20名、下士官400名。
以下の火砲配備制限
騎銃:一個師団あたり6000丁、合計18000丁
重機関銃:一個師団あたり12丁、合計36丁
77ミリ野砲:一個師団あたり12門、合計36門
国際監督委員会 203条から210条では、ドイツの軍備制限や武装解除を監視するための連合国国際監督委員会 の設置が定められた。
捕虜と墳墓 第6篇(214条から226条)では捕虜や抑留者の返還と、大戦中に設営された兵士の墳墓の保存について規定している。
制裁 第7篇(227条から230条)では、「前」ドイツ皇帝への訴追条項および一般戦争犯罪 の裁判について規定している。227条では前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 が「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」としてヴィルヘルム2世を特別法廷で裁くことを規定している46 。戦犯法廷には米英仏伊日五カ国から一名ずつ裁判官を任命するものとされた。さらにドイツ政府は戦時国際法 を犯したものを連合国に引き渡すことも定められた。この戦犯法廷はヴィルヘルム2世がオランダに亡命したため開廷されることはなかった。
賠償 第8篇(231条から247条)ではドイツが連合国等に支払う賠償について記述している。
231条は戦争がドイツとその同盟国の攻撃によって引き起こされ、賠償責任はドイツとその同盟国にあると記述しており、戦争責任条項と呼ばれる。ヴェルサイユ条約の賠償規定では現物、家畜等による莫大な賠償が記述されたが、賠償総額については決定されず、後に設置される賠償委員会で決定されることとなっていた。
財政 第9篇(248条から263条)では、占領に伴う経費等の支払い方法について規定している。
戦勝国は譲り受ける旧ドイツ帝国植民地に関してその植民地が保有していた一切の財産を取得するが、その価格は賠償委員会が査定して取得者たる戦勝国から補償金を受けとりドイツの賠償分に計上するし、この措置は皇帝・王族の財産にも適用される(256条第一段)。ただし、普仏戦争 で敗北し50億フランを負担したフランスは、アルザス ・ロレーヌ を無償で譲り受ける(256条第二段)。この点、ベルギー も同様とする(256条第三段)。第22条により旧ドイツ植民地の統治を委任される国は統治する植民地の公債を負担しないし、統治国の資格で植民地の財物を譲り受けても補償せず皇帝・王族の財産についても同様とする(257条)。
中央同盟国 と連合国 、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコ、加え各国の植民地、およびロシアにおいて、行政庁・国立銀行・代表機関その他国際的な金融・経済機関に対し、ドイツは一切の参加権を放棄する(258条)。ライヒスバンク はトルコ政府紙幣 を初めて発行するときオスマン債務管理局 名義で正金を寄託されたが、それをドイツは条約施行後一月以内に引き渡す(259条1項)。第二回の政府紙幣発行でも、やはりオスマン債務管理局名義で、幾度かドイツ大蔵省証券を寄託しているが、その券面の規定によりドイツは12年間年金を支払う(同条2項)。1915年5月5日の協定によりオスマン債務管理局からトルコ政府に貸し付けた正金の残高で、ライヒスバンクや他の銀行に預けられたものも引き渡す(同条3項)。1919年5月を弁済期とするオスマン内国公債の元利償還を目的として、1918年11月トルコ政府に交付した金銀のドイツ保有分を引き渡す(同条4項)。オーストリア・ハンガリーに対する貸付につきドイツが担保として占有した正金も一月以内に引き渡す(同条5項)。
経済 第10篇(264条から312条)では、ドイツにおける関税、通信(万国郵便連合 ・万国電信連合 関係)、債務・私有財産等の扱いについて規定している。また295条は1912年に調印された万国阿片条約 の批准措置となっている。
航空 第11篇(313条から320条)では、航空の分野において連合国がドイツにおいてドイツ国民と同等の権利を受けることを規定している。
水運・鉄道
国際労働機関 第13篇(387条から427条)は、国際連盟の姉妹機関とされた国際労働機関 の規約となっている。これもサン=ジェルマン条約、ヌイイ条約、トリアノン条約、セーヴル条約と同様の構成である。
保障 第14篇(428条から433条)は、ドイツに対する監視措置を規定している。
428条では、ライン川左岸50km地域を連合軍が15年間占領することが規定され、429条ではドイツの履行状況に応じて部分的に占領を解除することが規定されているが、状況によっては占領期間の延長ができるとしている。430条では賠償が履行されない場合には再占領を行えると規定しており、後のルール占領 の根拠となった。433条ではブレスト=リトフスク条約締結後にドイツが占領したバルト地方からの撤兵と、バルト諸国 に対する干渉禁止について規定している。
雑則
直接の影響
制裁裁判 ヴィルヘルム2世の裁判は亡命先のオランダが引渡しに応じなかったため、実現しなかった。オランダの世論は告発者による裁判所が中立的な法の尊厳を維持できるはずはなく、皇帝の引渡しはオランダ国法および憲法に抵触する可能性があると論じた47 。またフランス政府も裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している48 。さらにドイツ政府が戦犯の引渡しを拒否したため、戦犯裁判は国際裁判ではなく国内裁判で裁かれることになった。1921年5月23日からはライプツィヒ戦争犯罪裁判 が開催され、連合国が指名した、捕虜虐待容疑などの45人の戦犯が裁かれた。有罪となった者の刑期はそれほど長くなく、死刑になった被告は一人も出なかった。
住民投票
シュレースヴィヒ シュレースヴィヒのデンマーク系住民は大戦末期からシュレースヴィヒの帰属を決める住民投票を希望しており49 、1918年11月17日にはデンマーク系住民居住地域の南限である「クラウセンライン」50 を国境とするべきであるという「アペンラーデ決議」を発表した。しかしデンマーク政府はドイツ系の住民が多数を占める中南部の編入を望んでおらず、その点ではドイツ共和政府とも了解が取れていた51 。しかしドイツ系住民の「シュレースヴィヒ公爵領のためのドイツ委員会」はシュレースヴィヒの一体性を主張し、住民投票の際はシュレースヴィヒ一体で行うべきと主張していた52 。ヴェルサイユ条約ではクラウセンラインが採用され、ライン以北を第一地区、以南を第二地区として別個に投票を行うことになった。
シュレースヴィヒの住民投票 は、北部の第一地区では1919年6月28日、第二地区では1920年3月14日に行われた。北部ではデンマーク 所属派が75%と優勢であり53 、中部シュレースヴィヒの投票では80%がドイツを選択する53 などははっきりした傾向が現れた。また南部のドイツ支持が明確な地区では投票自体行われなかった。この結果に不満を持ったデンマークの国家主義者は中部シュレースヴィヒのデンマーク編入を要求し、国王クリスチャン10世 も介入する一大政治問題となった(1920年のイースター危機 )。結局デンマークは住民投票の結果どおり、中部シュレースヴィヒ獲得を断念した。一方ドイツ政府はクラウセンライン以北にあるドイツ住民が優勢な地域を考慮して国境を引きなおす案を提案したが入れられず、国境線はクラウセンラインが採用された。その後、北部シュレースヴィヒは1920年6月15日にデンマークに編入された。
東プロイセン 東プロイセンの住民投票 はポーランド・ソビエト戦争 のさなかの1920年7月11日に行われた。ほとんどの地域でドイツ編入を希望する票が95%を上回り、投票が行われた地域はほとんどドイツ領(東プロイセン領)のままとなった。ただしいくつかの村は住民投票が行われずポーランド領に編入されている。
上シレジア 上シレジアの住民投票 は困難であった。この地域はドイツ系とポーランド系の住民が交錯しており、いずれの帰属となっても混乱は必至であった。1921年3月20日に住民投票が行われたが、ポーランド系の大規模な蜂起が発生した。連合国管理委員会は裁定を断念し、国際連盟に提訴した。結局上シレジアの3分の2がドイツ領となったが、重工業地域などはポーランド領となり、両国間に確執が残ることとなった。
メーメル メーメルとその周辺については、暫定的にイギリス・フランス・イタリア・日本の4カ国で構成される大使会議 の統治下におかれることとなったが、実質的にはフランスの管理下におかれた。1923年1月にリトアニア 政府が軍事侵攻し、メーメルを支配下に置いた(クライペダ蜂起 )。フランスはルール占領 に手を焼いており、これに介入する余裕がなかったため、連合国はリトアニアの支配権を追認することとなった。1924年5月8日のクライペダ条約 によってメーメルはリトアニアの自治地区となった。
植民地 ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する、委任統治 に移行した。
賠償 これ以降連合国側もドイツ経済に配慮するようになり、ドーズ案 によってドイツの賠償支払いは一段落した。しかし1928年頃からはドイツへの資金流入が減少しはじめ、ヤング案 が採択されて支払いはさらに緩和されたものの、1930年代の世界恐慌 と欧州金融恐慌により、賠償の支払いは事実上不可能となった。ドイツは賠償支払いの一時停止を宣言し、1932年6月のローザンヌ会議 で賠償問題は事実上解消された。
武装解除 ドイツ海軍艦艇は連合国に引き渡されることになっていたが、当時イギリスのスカパ・フロー 港に抑留されていたドイツ艦艇は、ルートヴィヒ・フォン・ロイター 提督の命令で1919年6月21日にいっせいに自沈し、艦艇74隻中52隻が沈没した(スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈 )。いくつかの艦は引き上げられず、連合国は引き渡しを受けることができなかった。ドイツ世論ではロイター提督が国民的な英雄であると受け止められた。
当時の評価 条約成立過程はほとんど秘密にされていたため、全容が世界に公表されたのは5月7日のドイツ側への手交以降だった。イギリスでは講和条約が過酷であり、連合国の戦争目的と異なるという批判が労働組織の機関紙を中心に広がった24 。ランシングをはじめとするアメリカの代表団内部でも条約が「十四原則」とかけ離れていると批判する声が高かった30 。また大戦中から和平への努力を行っていた教皇 ベネディクトゥス15世 も公然の批判は行わなかったものの、ヴェルサイユ条約が復讐の産物であるという認識を示していた57 。
ロイド・ジョージもドイツにとって過酷であると考えており、条約公表前の4月5日に「平和条約は、ドイツがヴェルサイユに来た時に、彼らに手渡される。それ以前に条約が公表されたら、ドイツ政府の立場はとてもありえなくされるだろう。この条約は、ドイツを革命に導くかも知れぬ。」24 。また南アフリカ代表のヤン・スマッツ も、軍事占領と産業条項の両立は不可能であり、ドイツを国際連盟に加えることで孤立化を防ぎ、独露提携を回避するべきであると指摘している58 。
一方で対独強硬派であるフェルディナン・フォッシュ らにとってはこの条約があまりにも手ぬるいものであると考えられた。フォッシュは「これは平和ではない。20年間の休戦だ」61 と述べたと伝えられる。
アメリカ代表団の一人であったハーバート・フーヴァー は「もし真に平和を望むのであれば、ドイツをいかなる自力回生も不可能なほどの貧困と無力状態におとしいれるか、自由な政府を持たせて人類家族の平和なメンバーにするか、そのどちらかにすべきであった。」と回想し、フランスの作家ジャック・バンヴィル も『平和の政治的帰結 』において「過酷な点があるにしてはあまりに手ぬるく、手ぬるい点があるにしては過酷に過ぎる」と評し、条約がいずれにしても不徹底であるとした62 。
戦争が終わり冷静さが戻ると、ドイツ軍残虐プロパガンダ の嘘が暴かれた。イギリスの戦争宣伝局 が作成し、アメリカにおける反独感情醸成に貢献した、ドイツ軍がベルギー占領の過程で行ったとされる残虐行為に関するブライス報告 は、イギリスを代表する知性としてアメリカでも高く評価されていたジェームズ・ブライス が責任者であったために、アメリカを席巻したが、ベルギーで行われた検証は、報告中の主たる事例のうち、ただの一つもその存在を示せなかった。当のブライスも、戦争中はどんなことでも生じ得るとだけ言い残し、戦後ほどなく亡くなった63 。ドイツ単独責任論も講和直後から揺らぎ始めた。1920年、アメリカの歴史学者シドニー・フェイ は「世界大戦の起源に新たな光を当てる」という論文を発表し、ドイツ単独責任論に疑問を呈した。さらに1928年、フェイは『世界大戦の起源』において、ドイツとその同盟国だけに大戦の責任があるというベルサイユ条約 の裁断は、歴史として根拠薄弱であり、改めなければならないと結論づけた。この書籍は高く評価され、ドイツはもちろん、イギリス、アメリカにおいても、戦間期にはベルサイユ条約に否定的な修正史観が歴史研究の世界で確固たる位置を占めていた64 。
ドイツへの影響 ドイツ側では講和条約に対する反発が根強く、受諾への動きを見せたエルツベルガーですら、「悪魔の仕業」と呼んでいた65 。ドイツの大半は戦火に巻き込まれなかったため、ドイツ一般市民には敗北感が薄く、さらにヒンデンブルクが議会証言で、革命派による「背後の一突き 」によってドイツが休戦に追い込まれたと主張したことで、「不当な休戦」によってもたらされた「過酷な講和条約」に対する怒りはドイツ国民間に広く浸透した66 。これを好機と見たヴェルサイユ条約の軍備制限に反対するヴァルター・フォン・リュトヴィッツ 元ベルリン防衛軍司令官は、1920年3月13日にヴァイマル共和政打倒のクーデターを敢行するが、市民の支持は集まらず失敗した(カップ一揆 )。
しかし講和条約を受諾した以上、ドイツ政府は講和条約を実行する「履行政策」に勤めざるを得なかった。しかし賠償金支払いは困難を極め、インフレがじわじわと進行した結果に賠償金支払いが滞り、フランスのルール占領 を呼び込むこととなった。ルール占領によってインフレーションは破滅的な規模に拡大し、ミュンヘン一揆 等、左右両翼の暴動・反乱が相次いだ。しかしグスタフ・シュトレーゼマン 内閣以降はドイツ経済と政情も一時的に安定し、ロカルノ条約 の締結と国際連盟加盟実現により、ドイツは事実上国際社会に復帰した。しかし世界恐慌 以降は再び条約に対する不満が惹起され、ナチ党の権力掌握 を招くことになる。
エルツベルガーら休戦協定に署名した人物は、国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党)等右派によって「11月の裏切り者」と非難された。1920年8月26日、エルツベルガーは極右テロ組織コンスル の手によって暗殺された。
武装解除と秘密再武装 ドイツの武装解除と動員解除には、連合国の連合国国際監督委員会による監視措置が執られることとなった。しかし国軍 は連合国の監視を逃れ、兵士を私兵組織(ドイツ義勇軍 、フライコーア)に偽装し、参謀本部を兵務局 と偽装して組織を温存した。またラパッロ条約の締結後は秘密議定書に基づき、ソビエト連邦 の領土内での軍事訓練などを行った(1941年以前の独ソ関係 )。MG13機関銃 やleIG18歩兵砲 など、戦後に開発された兵器には実際よりもさかのぼった年式が与えられ、敗戦以前に開発されたと偽装された。不安定な政治状況を乗り切るため、エーベルトは参謀次長であったヴィルヘルム・グレーナー と電話会談し、政府に軍が協力する見返りとして、軍の機構を維持する密約を結んでおり(エーベルト=グレーナー協定 )、これらの条約逃れは政府も黙認していた。1925年のロカルノ条約 締結により、1927年には連合国国際監督委員会による監視措置は終了した。
連合国への影響 クレマンソーは「この条約は、他の条約同様、完全な履行まで戦闘行動の延長でありかつそうでしかありえない」67 と語ったように、対独強硬路線はフランスの基本路線となり、賠償支払いが停滞したドイツに対するルール占領を引き起こした。しかしこの占領は失敗に終わり、イギリスの仲介もあってフランスも強硬方針を改めざるを得なくなった。1924年には賠償支払い手続きにアメリカを組み込んだドーズ案 が決定され、賠償支払いもようやく円滑となった。
1925年にイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ドイツの集団安全保障を定めたロカルノ条約 の締結によってドイツは国際社会に復帰し、1926年9月には国際連盟にも加盟した。1928年には不戦条約 の締結でロカルノ体制は安泰となったかに思われたが、世界恐慌の発生とそれにともなうヨーロッパの不安定化は、英仏に新たな体制構築をせまることとなった。
アメリカにおいても、ウィルソン大統領 が唱えた「世界をデモクラシー にとって安全な場所にせねばならない」という標語の下に参加した大戦への疑問が国民全体に広がった。1930年代にはナイ委員会 において、戦争の過程でアメリカの銀行と軍需産業が大きな利益を上げたことが取り上げられ、国民の孤立主義 的傾向に拍車がかかり、圧倒的大多数のアメリカ国民が、ヨーロッパ やアジア における戦争にアメリカが関わるべきではないと確信していた68 。
ナチス・ドイツと第二次世界大戦 英仏の対独宥和政策が強まる中、ラインラント占領が1930年6月に終了し、賠償問題もローザンヌ会議 で事実上終結するなど、ヴェルサイユ条約の対独監視措置はヒトラー内閣 成立の1933年以前にほとんど終了した。
反ヴェルサイユ条約を掲げたアドルフ・ヒトラー らナチ党のいわゆるナチス・ドイツ 成立以降は、軍事面での監視措置を次々に破った。1933年にはジュネーブ軍縮会議 から離脱した上で国際連盟から脱退し、1935年3月16日には軍備制限条項の無効を宣言し(ドイツ再軍備宣言 )、1936年にはラインラント進駐 を行い、ヴェルサイユ条約の軍事条項は完全に死文化した。またイギリスも1935年6月18日に英独海軍協定 を締結することでこの状況を容認し、いわゆる宥和政策 が開始された。フランスは小協商 諸国との連携やマジノ線 建築、さらに小協商およびポーランドにソ連をくわえた東方ロカルノ体制案でドイツに抵抗しようとするが、いずれも不十分に終わったため、ドイツを抑制することはできなかった。またザールも1935年にドイツに復帰している。
ヒトラーはヴェルサイユ条約で喪失した領土と、植民地の代替となるヨーロッパ領土、いわゆる東方生存圏 の獲得を狙って第二次世界大戦 の引き金を引くが、結果としてドイツは崩壊し、さらなる領土と人命、財産の喪失と、ドイツの分断を招くこととなった。連合国 の指導者フランクリン・ルーズベルト 大統領は、休戦協定とヴェルサイユ条約が完全なドイツの敗北をドイツ人に認識させなかったことが今次の大戦の原因であると考え69 、枢軸国 に対して完全な「無条件降伏 」を求める方針をとった。またドイツ軍の降伏手続きにおいては「背後の一突き」伝説が発生しないよう、軍の指揮権を持つ者に署名させた。一方でドイツからの賠償については、正貨ではなく捕虜による労務や現物による賠償で代えた。これはヴェルサイユ条約の賠償支払い方式が経済に与えた影響をかんがみたものであったが、強制労働によって多くの捕虜の人命が失われることになった。
現在における影響
条約参加国 前文では特に「アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス国、イタリア国、日本国」を「主たる同盟及び連合国」として他の参加国より先に記述している70 。
調印したが、批准を行わなかった国
講和会議に参加したが調印を行わなかった国
参考文献
尾上一雄「アメリカ金融資本主義と第一次世界大戦」『経済研究』第3巻、成城大学、1955年、105-145頁。
黒川康「ドイツ国防軍と「レーム事件」--第1次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察」『人文科学論集』第5巻、目白大学、1970年、19-31頁、NAID 110007351772 、NII:1514/00000955 。
ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラー 『自由と統一への長い道〈1〉ドイツ近現代史 1789-1933年』後藤俊明、奥田隆男、中谷毅、野田昌吾 訳、昭和堂、2008年7月。ISBN 978-4-81-220833-5。
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