ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝) — OpenHistory
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ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝) ヴィルヘルム2世は、第9代プロイセン国王・第3代ドイツ皇帝。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン。史上最後のドイツ君主。
生誕~死没 1859年1月27日 ~ 1941年6月4日 最終更新 2026/10/16 15:00
基本情報
生誕 ~ 死没 1859年1月27日 ~ 1941年6月4日
在位 1888年6月15日 - 1918年11月9日
全名 Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen, フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン 死去 (1941-06-04) 1941年6月4日(82歳没), オランダ 、ドールン、ドールン城 埋葬 1941年6月9日, オランダ 、ドールン、ドールン城内霊廟
位置 52.5172, 13.3969 大きな地図で同時代を見る → 目次 1. 概要 2. 生涯 2.1. 生誕 2.2. 幼少期・少年期 2.3. 青年期 2.4. ドイツ皇帝・プロイセン王即位 2.5. 戦前期の治世 2.6. 第一次世界大戦 2.7. 退位後 3. 人物 4. 評価 5. 子女 6. 参考文献 7. 脚注 ヴィルヘルム2世 (Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)は、第9代プロイセン国王 ・第3代ドイツ皇帝 (在位:1888年6月15日 - 1918年11月9日)。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン (Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)。史上最後のドイツ君主。
概要
プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世 )とイギリス王女ヴィクトリア の長男としてベルリン に生まれる。1888年に祖父ヴィルヘルム1世 、父フリードリヒ3世が相次いで崩御したことにより29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。祖父の治世において長きにわたり宰相 を務めたオットー・フォン・ビスマルク 侯爵を辞職させて親政 を開始し、治世前期には労働者保護など社会政策 に力を入れ、社会主義者鎮圧法 も延長させずに廃止した。しかしその後保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件 以降は政治的権力を大きく落とした。
一方外交では一貫して帝国主義 政策を推進し、海軍力 を増強して新たな植民地 の獲得を狙ったが、イギリス やフランス 、ロシア など他の帝国主義国と対立を深め、最終的に第一次世界大戦 を招いた。オーストリア=ハンガリー帝国 、オスマン帝国 、ブルガリア王国 と同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相手に4年以上にわたって ・ で戦うこととなった。1916年に と による軍部独裁体制が成立すると、ほとんど実権を喪失した。大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなくなった国民の間で不満が高まり、 が発生するに至った。革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を行なったが、革命の機運は収まらず、結局 へ亡命して退位することになった。そのままなし崩し的にドイツは共和制( )へ移行し、 はドイツ皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
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ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)
人物 · 政治・外交
生誕 ~ 死没 1859年1月27日 ~ 1941年6月4日
在位 1888年6月15日 - 1918年11月9日
全名 Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen, フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン 死去 (1941-06-04) 1941年6月4日(82歳没), オランダ 、ドールン、ドールン城 埋葬 1941年6月9日, オランダ 、ドールン、ドールン城内霊廟
位置 52.5172, 13.3969 大きな地図で同時代を見る → ヴィルヘルム2世自身は戦後もオランダのドールンで悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支援した。1925年にドイツ大統領となったヒンデンブルクは帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラー による独裁体制が誕生したことにより復位の可能性はなくなった。独ソ戦 を目前にした1941年6月4日にドールンで逝去した。
生涯
生誕 3月5日に洗礼 を受け、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトと名付けられた。フリードリヒやヴィルヘルムはホーエンツォレルン家 の伝統的名前であり、ヴィクトールとアルベルトは祖父母にあたる英女王ヴィクトリア とその王配 アルバート からもらった名前である(ヴィクトールはヴィクトリアの男性形、アルベルトはアルバートのドイツ語読み)。ポツダム の宮殿で育てられることとなった5 。
ヴィルヘルムは「逆子 」であり、難産で生まれた6 7 。後遺症で左半身に障害があり、平衡感覚に難があった6 8 。
幼少期・少年期 幼い頃から負けん気が強かったといい、幼いヴィルヘルムを見たロシア帝国 外相アレクサンドル・ゴルチャコフ は「幼いホーエンツォレルン は、プロイセンの歴代国王の中でも最も異彩を放つであろう。やがてはドイツの中心機関となって、世界にその威を示すに違いない。その時機が到来する時には必ずヨーロッパ を驚かせることをするだろう。」と予言したという4 。また幼い頃から海上に興味を示し、7歳のころには水兵たちから海の伝説について興味深そうに聞いていたという10 。
カルヴァン派 のゲオルク・ヒンツペーター 博士が教育係となり、厳格な教育を受けた11 。しかしインテリ であった母ヴィクトリアはヴィルヘルムに非常に多くのことを要求したため、母からの評価はいつも低かったという7 12 。また彼女はヴィルヘルムが身体障害者であることもひそかに嫌っていたという13 。これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪に繋がったといわれる7 。
1869年1月27日に10歳の誕生日を迎えると第1近衛歩兵連隊 に入隊し、少尉 (Leutnant)に任官した(即位までに少将 まで昇進)5 14 15 。ポツダムの近衛将校団に囲まれてフリードリヒ大王 以来のプロイセン軍国主義 に深く心酔していった16 17 。しばしばイギリスの自由主義的な制度を称えたがる「イギリス女」のヴィクトリアは彼ら近衛将校団の憎悪の対象であった17 。1870年に普仏戦争 が発生するとヴィルヘルムも従軍を希望したが、年少すぎるとして認められず、軍人としての無念さを訴えていたという16 。
普仏戦争中の1871年1月18日、祖父であるプロイセン国王 ヴィルヘルム1世 がドイツ皇帝 (カイザー)に即位し、ドイツ帝国 が成立した。この直後にヴィルヘルムが12歳になると、母同様に自由主義的だった父フリードリヒ皇太子は「私の跡継ぎとして公平無私になることを希望する」としてヴィルヘルムを普通の児童が通う小学校に入学させることを布告した18 。ヴィルヘルムは小学校を卒業後、1874年にカッセル のヴィルヘルムスヘーエ(Wilhelmshöhe)の離宮に移り、同じく普通の子供たちが通う同地のギムナジウム に入学した2 19 。ヴィルヘルムが普通の児童の学校へ通うことになったのはヒンツペーター博士と母ヴィクトリアの相談の結果であるという11 。市民的な教育を与えるためであったが、保守的なヴィルヘルム1世や帝国宰相 オットー・フォン・ビスマルク 侯爵はこれに反対していた16 。
学校での教育の他、ヒンツペーター博士の教育も続けられた。フェンシング 、乗馬 、製図 の訓練もあり、朝5時から夜10時まで続くという過密教育だった11 。学校の成績は上位であり、1877年1月にギムナジウムを卒業した時には第10位の好成績であり、表彰も受けている20 。とりわけ語学 に優れており、英語 とフランス語 を自由に扱えるようになり、ギリシア語 の古典もよく読んでいた21 。
ヴィルヘルムと母ヴィクトリアの関係は、悪化の一途をたどった。ヴィクトリアは息子について「旅行しても博物館には興味を示さず、風景の美しさにも価値を見出さず、まともな本も読まなかった」「ヴィルヘルムには謙虚さ、善意、配慮が欠けており、彼は高慢で、エゴイスト で、心がぞっとするほど冷たい」などと酷評するほどだった11 12 。ビスマルクはヴィルヘルム1世が崩御した場合、自由主義的なフリードリヒ皇太子やヴィクトリアの下で帝国が自由主義化することを懸念していた。そのためビスマルクもこのヴィルヘルムとヴィクトリアの争いを「ドイツの真の継承者」対「イギリス女」として煽り、ヴィルヘルムにイギリスや自由主義への敵意を強めさせることに努めた22 。
祖父ヴィルヘルム1世もプロイセン保守的な人物であったから、自由主義的な息子フリードリヒよりも保守的に育っていく孫ヴィルヘルムに期待しており、ヴィルヘルムは祖父から大変に可愛がられた23 。ヴィルヘルムも父ではなく祖父を模範として育っていった24 。
青年期 この頃、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公女アウグステ・ヴィクトリア との結婚を希望するようになったが、ホルシュタイン家はドイツ帝国建設にあたって排斥を受けた家だったので、反対が根強かった27 。これに対してヴィルヘルムは「この結婚が成立すればホルシュタイン家のホーエンツォレルン家への悪感情も消えるであろう。ドイツ帝国のためこれほど喜ばしい婚姻はないではないか。」と反論し、婚姻を認めさせたという28 。1880年6月3日に婚姻は成立し、1881年1月27日に挙式した28 。二人はポツダムの大理石宮殿 で新婚生活を始めた21 。彼女との間に1882年5月6日に長男ヴィルヘルム (つまり皇曾孫)を儲けた。その後も次々と子をなし、計7人の子に恵まれた2 。
ヴィルヘルムは保守的な近衛将校団に影響を受けながら成長し、また同じような政治傾向を持つフィリップ・ツー・オイレンブルク 伯爵をはじめとするロマンチックな若手グループと親しい付き合いがあった24 。このオイレンブルクとは同性愛の関係であったという29 。皇帝となった後ヴィルヘルム2世はオイレンブルクの爵位を伯爵から侯爵に昇進させ、オイレンブルクの所領リーベンベルク (de )によく足を運び、そこで狩猟と同性愛を楽しんだという。この地は「リーベンベルクの円卓」と呼ばれ、ここから政治決定が行われる場合も多かったという30 。しかし初めのうちオイレンブルクは政治に関わりたがらず、二人の関係にいち早く気づいた「灰色殿下 」の異名を持つ外務省参事官フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン がオイレンブルクを通じてヴィルヘルムに影響を及ぼしていた31 。ホルシュタインはロシアとオーストリア=ハンガリーを同時につなぎとめようとするビスマルク外交を冷やかに見ていた32 。
また後のナチス に酷似した、反ユダヤ主義政党キリスト教社会党 指導者の牧師アドルフ・シュテッカー も宮廷説教師としてヴィルヘルムに影響を与えた。シュテッカーによれば君主には大衆と王権を和解させる社会的使命があり、それはキリスト教と連携を組み、近代資本主義の弊害とその権化であるユダヤ人を排斥することによってのみ達成されるのだという24 。これはすなわち保守派と中央党の連携を訴える主張であり、保守派と自由主義者の連携による「カルテル」政治を行うビスマルクを否定するものであった24 。ヴィルヘルムは友人のアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー 将軍の邸宅で開かれたシュテッカーの集会に参加して話題になった。これに対してビスマルクはヴィルヘルムに「殿下は皇位継承者として早くも世論から特定の党派に属していると看做されないよう注意しなければならない。自由主義の時代もあれば、反動の時代もあり、また武力支配の時代もあるだろう。支配者たる者は、君主制を危機に陥れぬためにそのような事態の移り変わりに備えて行動の自由を残して置かなければならない。」という苦言を呈している33 。
ドイツ皇帝・プロイセン王即位 1888年3月9日に祖父であるドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世 が91歳で崩御 した。父フリードリヒ皇太子がフリードリヒ3世 としてドイツ皇帝・プロイセン王に即位 し、ヴィルヘルムはその皇太子となった。しかしフリードリヒ3世は即位時すでに不治の病にかかっていた。フリードリヒ3世はビスマルクの片腕である保守派の内相ロベルト・フォン・プットカマー を解任し、自由主義者としての矜持を示した後、6月15日に在位99日にして崩御 した2 34 35 36 37 38 。
皇太子ヴィルヘルムがただちに即位 し、ヴィルヘルム2世として第3代ドイツ皇帝・第9代プロイセン王となった。当時29歳であった35 39 。帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政には皇帝の意志が大きく反映された。そのためドイツ皇帝位は「世界で最も力のある玉座」とも評されていた39 40 。
即位したばかりの頃のヴィルヘルム2世は、覇気満々で親政 を決意していた41 。「ホーエンツォレルン家の使命」に背を向けた自由主義者の父が早く亡くなり、自分が若くして皇帝となったことを運命的に捉えていたという42 。
ヴィルヘルム2世は父の崩御を知るとただちにポツダム の父の宮殿に軍隊を派遣して宮殿を包囲し、母ヴィクトリアを一時的に幽閉している11 。これは父フリードリヒ3世がヴィルヘルム2世の政策や性格を批判している日記をつけていたためという。それを知っていたヴィルヘルム2世は母ヴィクトリアがイギリスか市民にその日記を洩らすと疑っていたらしい43 44 。
またヴィルヘルム2世は父に解任されたプットカマーを内相に戻そうと考えていたが、ビスマルクが「若い君主は先代に拒否された者と関わるべきではない」として反対したため沙汰やみとなった45 。
戦前期の治世
内政
宰相ビスマルク時代 1889年5月、ルール地方 炭鉱の労働者が大規模なストライキ を起こした。これに対してビスマルクは、自由主義ブルジョワが社会主義勢力をもっと危険視するよう紛争の解決は当事者に任せようと考え、私有財産保護のために警察と軍隊を投入する以上のことは何もしなかった46 。
ヴィルヘルム2世はストライキと社会主義労働者党との関連性を否定し、またストライキが長引けば石炭 が不足し、安全保障にも影響すると懸念していたが、ビスマルクはこの争いを期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法 更新のための社会主義勢力への攻撃材料にすることにのみ専心していた46 。
ビスマルクは毎年数か月は領地へ帰る癖があったが、この年も6月には領地へ帰り、翌年1月までベルリンを不在にした。この間にヴィルヘルム2世は、対ロシア強硬派のヴァルダーゼー将軍や外務省参事官ホルシュタイン、反ユダヤ主義者のシュテッカーなど反ビスマルク派の影響を強く受けるようになった32 50 51 。またヒンツペーター教授は、社会問題に積極的に取り組むべきだと説いていた50 。ヴィルヘルム2世は、ヒンツペーター教授をはじめとして労働者問題に通じた識者を助言者にして労働者保護勅令の準備を開始した52 。
しかしビスマルクの方向性はそれとは正反対であり、彼は期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法 の無期限延長法案を10月に帝国議会 に提出した。1890年1月24日の御前会議においてヴィルヘルム2世は再び「ドイツ企業家が労働者をレモンのように絞っている」事を批判し、「私は貧者の王たることを欲する」と宣言した53 。ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法について追放条項54 の削除を求めてビスマルクと激しい論争をした。ヴィルヘルム2世はビスマルクが社会主義者鎮圧法否決に乗じて内乱を起こそうとしていると感じ、「我が治世の初期が臣民の血で染まる事を望まない」と釘を刺した55 56 。
1890年2月1日には日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止、労働者保護国際会議のベルリン開催の呼びかけなどの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令 」が発せられた57 。保守的なビスマルクはこの勅令に反発し「社会問題はもはや薔薇香水で解消できない。鉄と血で解決される」などと述べた58 。ビスマルクはこの勅令への副署 を拒否したうえ、ベルリン労働者保護国際会議の開催の妨害工作を行った59 。この件でヴィルヘルム2世はビスマルクに決定的な嫌悪感を持ったという60 。
1890年2月20日の帝国議会選挙はビスマルクを支える「カルテル」3党(保守党 、帝国党 、国民自由党 )の敗北に終わった。ビスマルクは先の帝国議会で否決された社会主義鎮圧法を再度提出し、また否決確実の軍制改革法案も一緒に提出して議会との紛争状態を作ることでクーデタを起こすことを計画した31 57 61 。さらに3月2日の閣議でビスマルクはヴィルヘルム2世を封じ込めようと1852年プロイセン閣議命令62 の遵守を閣僚たちに求めたが、これにヴィルヘルム2世は激怒し、3月5日にブランデンブルク州議会での演説において「私の行く手を遮る者は粉砕する」と宣言した63 64 。
ビスマルクを切る事を決意したヴィルヘルム2世は、ビスマルクに帝国議会との協調のうえでの法案を成立させることを命じることで彼の企むクーデタの道を塞ぎ65 、1890年3月18日にビスマルクを辞任に追いやった57 66 。ここに1862年以来のプロイセン宰相、1871年以来のドイツ帝国宰相 であるビスマルクは退任した57 。
即位前のヴィルヘルム2世はドイツ帝国の建設者であるビスマルクを尊敬していたが、即位後には親政に邪魔な存在となっていた11 。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって社会主義者鎮圧法は延長されないことが最終的に確定されると同時に「世界政策」と呼ばれる帝国主義 的膨張政策が展開されていくことになる67 。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、ロシア帝国 やイギリス帝国 との関係を悪化させることになる。
宰相カプリヴィ時代 ビスマルクの後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相には、海軍大臣レオ・フォン・カプリヴィ が任じられた。彼は普仏戦争 で活躍した軍人であり、政治家経験はなかったが人望が厚く、老皇帝ヴィルヘルム1世もビスマルクが辞職する日が来た時には後任の宰相に、と考えていた人物であった。ビスマルクも辞職の際に、後任の宰相として彼を推挙している68 69 。またカプリヴィはホルシュタインが影響力を持っている人物でもあり、ホルシュタインとビスマルクの妥協の人事であったともいえる70 。
ヴィルヘルム2世とカプリヴィは、ビスマルク時代と方針を転換して、労働者保護政策を推進した。この方針転換は「新航路 (Neue Kurs) 」と呼ばれた(ヴィルヘルム2世は「航路は従来のまま、全速前進」と述べていたが、実際にはビスマルク時代から大きな変更が加えられたことから新聞などによってこう呼ばれるようになった71 72 )。1890年5月に「労働裁判所に関する法律」と「営業条例改正に関する法律」の法案を帝国議会に提出し、1890年6月に「労働裁判所に関する法律」がほぼ修正なしで決議された。これにより労働争議を調停する裁判所が設置されることとなった。この労働裁判所は陪審員 が雇用者と労働者の代表から半々ずつ出され、労働者が労働争議 に際して雇用者と対等の立場で議論できる画期的な制度であった73 。営業条例改正法案の方は1891年に成立し、これは「2月勅令」で予告した日曜労働の禁止、女性の夜勤の禁止、13歳以下の少年の労働の禁止、また16歳以下の男女の労働時間の上限をそれぞれ10時間、11時間に制限し、現物賃金支払いも禁止するものだった68 。
こうした「新航路」政策が行われた背景には、与党「カルテル」3党がぼろぼろになった今、左派自由主義勢力と中央党 を懐柔したいという思惑があった74 。そして労働者をドイツ社会民主党 (SPD) から切り離し、政府を支持させる意図があった75 。
しかし、カプリヴィは1892年初頭に帝国議会第一党であるカトリック 政党中央党に迎合するため、ビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める学校教育法の法案を議会に提出した。これは議会内の自由主義勢力の激しい反発を招き、廃案に追い込まれた76 。ヴィルヘルム2世もカプリヴィの提出したこの法案に対して「絶対反対」の立場を示した77 。これはフィリップ・ツー・オイレンブルク がヴィルヘルム2世に「学校教育法は中道政党と共同して行うべきで自由主義勢力の怒りが帝政に向かってこないようにしなければならない」と手紙で書き送ったためであるらしい77 。この騒ぎで1892年3月にカプリヴィはプロイセン宰相職を辞して、ドイツ帝国宰相職のみに留まることとなった76 。後任のプロイセン宰相には、オイレンブルクの兄であるボート・ツー・オイレンブルク 伯爵が任じられた。ドイツ帝国宰相とプロイセン王国宰相職が分離したことは、カプリヴィの権力を弱めることとなった76 。
カプリヴィは1893年に「小通商条約」を可決させ、1894年にはロシアとの間に通商条約を結ぶなど自由貿易政策を推進したが、農業関税引き下げに激怒した国内農業勢力の激しい反発にあった78 。
「新航路」政策によって労働者が政府支持に転じると思っていたヴィルヘルム2世だったが、彼はその効果をあまりに性急に求めたために効果が薄いと感じるようになり、「新航路」政策に疑問を感じるようになった。そこで再び弾圧法規路線に戻った75 。1894年9月、ヴィルヘルム2世とボート・ツー・オイレンブルクは「転覆政党に対する闘い」と称して「転覆防止法 (Umsturzgesetz) 」という政府への政治的反対行為の処罰を強化する法律を提起した75 。議会の反発を買うことを恐れたカプリヴィがこれに反対し、結局ヴィルヘルム2世は1894年10月26日にカプリヴィもボートもそろって宰相職から罷免した78 。この決定もリーベンベルクにおいて、つまりオイレンブルクとヴィルヘルム2世によって決定されたようである。オイレンブルクは1894年初頭頃からホルシュタインとヴィルヘルム2世の間を仲介しているだけの存在から卒業し、ヴィルヘルム2世に独立して影響力を発揮するようになっていた79 。
カプリヴィ時代が終わると「新航路」も終わりを迎えた78 。
宰相ホーエンローエ時代 しかしすでに弾圧法規思想は後退しており、そうした法案を議会で可決させるのは難しかった。1894年年末に帝国議会に提出された「転覆防止法案」は1895年5月1日に否決されている81 82 。1897年5月には公安を乱す恐れのある集会の解散を命じる権利を警察に認める内容の「結社法改正法案」がプロイセン王国議会下院に提出されたが、やはり否決された。1899年6月に「懲役法案」と呼ばれた「工場労働関係保護法案」(労働者の団結権 を奪い、スト破りを妨害しようとした者は禁固刑か懲役刑に処するという内容)が帝国議会に提出されたが、圧倒的多数でもって否決されている81 。弾圧法規が次々と否決される中、皇帝周辺では議会に対する「クーデタ」の噂が囁かれた。この噂は中央党を与党化するのに大きな効果があった80 83 。中央党の与党化の最初の一歩は艦隊法 であった84 。
1897年6月にドイツ東洋艦隊司令官アルフレート・フォン・ティルピッツ が海軍大臣に任じられ、さらに10月にはオイレンブルクと親しい関係にあるベルンハルト・フォン・ビューロー 伯爵(後に侯爵)が外相に任じられた。これらはヴィルヘルム2世の「世界政策」を推進するためにオイレンブルクが考えた人事であった79 。ティルピッツが中心となり大規模な建艦計画が立てられた。それに基づいて1898年3月28日に第一次艦隊法、1900年6月12日には第二次艦隊法が帝国議会で可決された。第二次艦隊法では現在27隻の戦艦 を38隻に増強することが定められた85 86 。
社民党は艦隊法を大工業の利益に奉仕する物として批判していたが、中央党はじめ多くの政党が賛成したために可決された87 。これは「ドイツ艦隊協会」(海軍省や軍需産業クルップ などの後押しで創設され、約80万人の会員を有する)による大衆的圧力が各党にかけられていたためである87 。また皇帝の議会に対する「クーデタ」の噂を中央党が恐れていた事も背景となっていた84 。
ホーエンローエは1900年10月16日に老齢を理由に宰相を辞することとなったが88 、中央党と政府の協力関係は後任の宰相ビューロー侯爵の政権前半期にも続く89 。
宰相ビューロー時代 1900年10月17日、外相ビューロー侯爵が後任のドイツ・プロイセン宰相に就任した79 88 。ビューローとオイレンブルクは、同性愛関係さえ疑われそうな手紙をやり取りするほど親しい関係にあった90 。ビューローはオイレンブルクに「ビスマルクは権力そのもの、カプリヴィとホーエンローエは閣下の前ではある程度議会や政府の代表者であると自認していました。私は自分を閣下の手足であると思っています。私の代からいい意味において陛下の私的関係による公支配が始まったのではないでしょうか」などと述べている90 。ヴィルヘルム2世もビューローに大いに期待し、ビューローを「私自身のビスマルク」と呼んだという90 。ビューローの栄進の一方、オイレンブルクは次第に政治から遠ざかるようになっていった。1902年にはオーストリア大使の職も辞した。その後は1907年の失脚まで政治にかかわる事はほとんどなくなった91 。
ビューローははじめ帝国議会第一党である中央党 に依存することで帝国議会を安定的に運営していたが92 、ヴィルヘルム2世は政府が中央党に支配されるのを好んでおらず、また中央党内でもマティアス・エルツベルガー ら左派政治家が政府に追従しすぎだとして党執行部への批判を強めていた93 。
政府と中央党の関係が悪化していく中、1904年にドイツ帝国植民地であるドイツ領南西アフリカ でホッテントット族 やヘレロ族 が反乱を起こした。ヴィルヘルム2世とビューローはただちに援軍を派遣して反乱を鎮圧させたが(ヘレロ・ナマクア虐殺 )、1906年秋にその軍の駐留費として帝国議会に提出された追加予算案は社民党と中央党によって否決されたため、政府は12月13日に議会を解散して総選挙に打って出た(「ホッテントット選挙」と呼ばれた)94 95 96 。ビスマルク時代からの与党連合である「カルテル」3党に加えて、左派自由主義3党(自由思想家連合、自由思想家人民党、ドイツ人民党)も対外的問題や植民地政策については政府の方針を支持することを表明した。1907年1月に行われた選挙の結果、この6党は議会の過半数を獲得した97 98 。選挙後に6党は連立するようになり議会内に「ビューロー=ブロック」と称された一応安定した与党連合が形成されるようになった98 99 。とはいえ左派自由主義勢力は対外問題や植民地問題で政府を支持しただけであり、内政問題では政府とは依然大きな隔たりがあった100 。
1906年4月28日、マクシミリアン・ハルデン というユダヤ人 ジャーナリストが「皇帝の側近に同性愛者がいる」という記事を発表した。続く一連の裁判の中でハルデンは「反ユダヤ主義的な国粋主義の同性愛者の一味が皇帝を操っており、強大な大国としての政治を不可能にしている」と主張した101 。ハルデンはビスマルクやホルシュタインの証言をもとにオイレンブルクを男色家として糾弾し、1908年5月8日にオイレンブルクが同性愛の容疑で逮捕されるに至った(ハルデン=オイレンブルク事件 )102 。その後オイレンブルクは病気療養を理由に釈放されたが、この事件により完全に失脚した。ビューローはじめこれまでオイレンブルクの恩恵に浴していた者たちも、一斉にオイレンブルクと距離を取るようになった103 。この一件はヴィルヘルム2世をかなり不安にさせたらしい。ヴィルヘルム2世はビューローに不信感を持つようになり、また皇帝権威を大きく失墜させる事件を起こしてしまう103 。
1908年10月28日、イギリス陸軍大佐エドワード・ジェームズ・モンタギュー=スチュアート=ワートリー とヴィルヘルム2世のドイツの内政と外交について語った対談が、イギリスの新聞『デイリー・テレグラフ 』に掲載された。この対談でのヴィルヘルム2世の「軽口」が国内外で問題視された(デイリー・テレグラフ事件 )。帝国議会から皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになり、宰相ビューローからも擁護してもらえず、窮地に陥ったヴィルヘルム2世はこれを静めるためビューローに対して「今後は憲法にのっとって政治を行う」と約束する羽目となり、帝国議会の威信が強まった100 104 。以降ヴィルヘルム2世の権力は事実上軍事に限定され、宰相の権力基盤は皇帝から帝国議会多数派に移行していった(とはいってもなおも皇帝は最高権威で在り続け、政府高官にとってヴィルヘルム2世から支持を得ることは自らの立場を強化するのに重要なことであったが)105 。この件でヴィルヘルム2世はビューローを完全に「裏切り者」と看做すようになった。ヴィルヘルム2世はビューローを公然と「腐れ肉」などと呼ぶようになった106 。しかしヴィルヘルム2世の「個人的統治」の終焉は、ドイツ帝国に深刻な「指導者不在」の状態を招くこととなる107 。
イギリスとの建艦競争 によって巨額になりはじめた財政赤字が深刻化すると、ビューローは相続税 の対象拡大、消費税 の値上げ、新聞広告税 の導入などによって賄おうとしたが、議会のあらゆる勢力から批判され、「ビューロー=ブロック」は崩壊した。窮地に陥ったビューローだが、ビューローに反感を持っていたヴィルヘルム2世は彼を救おうとはしなかった。ヴィルヘルム2世は1909年7月14日にビューローの辞表を受理した108 。後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相には、テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク が任じられた108 。
宰相ベートマン時代 「ビューローブロック」崩壊後に誕生したベートマン内閣は保守党、帝国党、中央党を政府の支持政党として獲得し、「黒青ブロック」を形成した109 110 。黒はカトリック、青はプロテスタント ・ユンカー を意味している110 。しかし1912年1月の帝国議会選挙で「黒青ブロック」は惨敗し、社民党が躍進して帝国議会第一党に躍り出た110 。
「黒青ブロック」は崩壊し、帝国議会と政府の距離が急速に離れる中の1913年10月、ツァーベルン事件 が発生した111 。軍の横暴として大騒ぎになったが、宰相ベートマンは陸相エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン の圧力を受けて軍の立場を支持したが、これに対して帝国議会は保守党を除く全政党が宰相不信任を決議した112 。だが、ドイツ帝国においては宰相の任免権は皇帝にあり、宰相が議会の不信任決議に従う義務はない。結局ベートマンはヴィルヘルム2世の支持を得て地位を維持し、事件に関係した軍人達も処罰されることはなかった112 。
しかしこの件で政府と議会に大きな亀裂が生じた113 。
外交政策
親英反露 1890年6月17日に切れる独露再保障条約 の更新をロシア帝国は求めていたが(この要請はビスマルク退任前に行われていた)、ヴィルヘルム2世はこれを拒否した。これは彼がロシアとの関係よりオーストリア やルーマニア との関係を重視したためである68 。またロシアと対立するイギリスを取り込む意図もあった114 。これによりロシアとフランスが接近をはじめ、1894年には露仏同盟 が締結されてしまった114 。当時のフランスは普仏戦争 以来、エルザス=ロートリンゲン(フランス名アルザス=ロレーヌ )の奪還を狙って反独姿勢をますます強めていた(反ユダヤ主義 を背景にしたドレフュス事件 の発生にも象徴されるようにフランスでは産業化に伴って排外主義・人種差別主義が高揚していた)115 。露仏同盟はドイツを敵視したものであると同時に、イギリスをも敵視したものであった。フランスはアフリカ において、ロシアはアジア においてイギリスと植民地 争奪戦を繰り広げていたからである116 。
1890年7月1日には、ドイツはイギリスとの間にヘルゴランド=ザンジバル条約 を締結した。これを機にイギリスを三国同盟 側に引き込もうという意図もあったが、それはイギリス側に拒否された114 。とはいえ親英反露はこの後しばらくドイツの外交政策の基本方針となる。英露の対立関係の中でどちらか一方にだけ与しないというビスマルク時代の外交方針はここに破棄されたのである114 。イギリスとドイツの関係は、基本的には1897年頃までは悪くなかった117 。
しかしヴィルヘルム2世は1894年11月にロシア皇帝(ツァーリ )に即位したニコライ2世 とは個人的に親しくしていた。二人は英語 で手紙を送りあう親密な間柄だった118 。
帝国主義とイギリスとの対立 ドイツはビスマルク時代にアフリカや太平洋地域において植民地を獲得していたが(ドイツ植民地帝国 )、イギリス(イギリス帝国 )やフランス(フランス植民地帝国 )に比べると圧倒的に少なかった。そのためヴィルヘルム2世は、より多くの植民地を獲得してドイツを「陽のあたる場所」に導くことを目指した119 。「世界政策」とよばれる膨張政策が開始されることとなった120 。ヴィルヘルム2世が植民地拡大にこだわったのは、覇権主義 より非軍事的要因が大きかった。植民地政策は国民の関心を国内問題から対外問題にそらし、国内世論を統一するうえで最も有効な手段であった120 。またビスマルク時代以降、ドイツは大きな戦争に巻き込まれることも無く、産業化に成功し経済規模は拡大していた。1875年に4200万人だったドイツの人口は、1913年には6800万人に増加していた。この余剰人口を海外へ移住させたいという意図もあった121 。
1890年に外務省内に植民地局を設置させ、1894年からこの局に植民地に関する全権を任せ、植民地を一括管理下においた(同局は1907年に帝国植民地省として独立した省庁になる)122 。1895年にはロシアの求めに応じてフランスと共に日本 に三国干渉 をかけ、遼東半島 を清 に返還させた。三国干渉はドイツにとって極東 進出の足がかりにするとともにロシアに極東の権益に関心を持たせることによってヨーロッパや中近東 における同国の影響力を下げようという意味があった123 。三国干渉後まもなくドイツに極東進出のチャンスがやってきた。1897年11月に山東省 においてドイツ人カトリック宣教師が殺害されたのである(曹州教案 )。この事件を口実に清に遠征を行い、翌1898年に清から山東半島 南部の膠州湾租借地 を獲得した11 119 124 。更にこの直後に南太平洋のカロリン諸島 やマリアナ諸島 も獲得した125 。
とはいえ、それ以外の植民地拡大はなかなか捗らなかった。植民地拡大には、なんといっても巨大な海軍力が不可欠であった。元来ドイツは陸軍大国であり、海軍は陸軍の付属的な存在と看做されて軽視されてきた。ヴィルヘルム2世はアメリカの海軍理論家アルフレッド・セイヤー・マハン の著作に強い影響を受けていたため、世界を制するには海を制する必要があり、それには巨砲を搭載した巨大戦艦が必要であると確信した86 。ヴィルヘルム2世は1896年1月18日の演説で「ドイツ帝国は今や世界帝国となった」、1898年9月23日の演説で「ドイツの将来は海上にあり」と宣言した121 126 。
1897年6月にアルフレート・フォン・ティルピッツ が海軍大臣に就任し86 、彼の下で大規模な建艦計画が始動し、艦隊増強の指針を定めた「艦隊法 」が制定された。これを恐れたイギリスも自国艦隊の増強を開始した。当時のイギリスの海軍力は世界最強であり、ドイツがイギリスに対抗し得る海軍力の到達点は果てしなく、英独両国の建艦競争 は泥沼化することとなった86 。とはいえドイツにとって、艦隊とはあくまでイギリスに「ドイツ艦隊侮りがたし」と思わせることで植民地争奪交渉を有利にするための政治的道具であった。したがって実際にイギリスに追いつく必要はないし、イギリスに危険と認識させられれば十分であった(ティルピッツはこれを「危険艦隊」思想と呼んだ)118 。
1900年以降のヴィルヘルム2世の「世界政策」は、2つの方向性で行われた。一つはアフリカに大植民地を得ること、もう一つはバルカン半島 や中近東など南東にドイツの勢力を拡大していくことであった。後者はドイツ、オーストリア、オスマン帝国 の同盟によって経済的統一体を作ることを目指していた。その象徴がバグダート鉄道 と3B政策 であった127 。ドイツは1888年に、オスマン帝国からアナトリア鉄道 の建設の特許を得ていた。1898年のヴィルヘルム2世のオスマン帝国訪問で、ドイツの中近東への進出政策は加速した。この訪問の際に、ヴィルヘルム2世は「ドイツは全世界3億のイスラム教徒 の友である」と演説したが、これはイスラム教徒を数多く版図におさめるイギリス、フランス、ロシアを刺激した。この演説は、ドイツがイスラム教徒と結託して英仏露のイスラム支配体制を転覆しようと企てている証拠として、英仏露に後々まで引用された128 。1903年からはドイツ資本のバグダード鉄道 が鉄道建設を本格化させた。ベルリン 、ビザンティン 、バグダード を結んでドイツの影響力をペルシャ湾 まで及ぼそうとした(3B政策)。しかし「3B政策」は、ロシアのバルカン・中近東への南下政策やイギリスのカルタッタ 、カイロ 、ケープ を結ぶ「3C政策 」に脅威となるものであった。英仏露が激しく反発し、バグダード鉄道の鉄道建設は大幅に遅れ、最終的に第一次世界大戦のドイツの敗戦によって挫折することとなる129 。
1896年、南アフリカのイギリス植民地ローデシア の南アフリカ会社騎馬警察隊が、ボーア人 国家トランスヴァール共和国 の金鉱を狙って同国に侵入したジェームソン侵入事件 において、ヴィルヘルム2世は鎮圧に成功したトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガー に宛てて祝電を送った。この祝電はジェームソン侵入事件を批判するイギリス以外のヨーロッパ諸国からは称えられたが、イギリスとの関係は悪化した130 。祖母ヴィクトリア女王からも手紙が贈られてきて苦言を呈された131 。これ以降ヴィクトリアは様々な理由を付けてヴィルヘルム2世の訪英を拒否するようになり、再び訪英を許されたのは1899年になってのことだった132 。
ドイツ包囲網 ドイツもイギリスとの関係回復は常に図ろうとしていた。1899年11月にヴィルヘルム2世は訪英を行い、アングロサクソン 族とチュートン族 の大同盟(英米独三国同盟)構想を提唱したが、実現しなかった133 。1899年9月に清で義和団の乱 が発生し、駐清ドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー 男爵が義和団によって殺害されると、ヴィルヘルム2世はただちにアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー 伯爵元帥率いる遠征軍を清に派遣した。ヴァルダーゼーは八カ国連合軍 全体の最高司令官にも就任した134 。八カ国連合軍は北京を占領した。この際にドイツはイギリスとの間に揚子江協定 を締結している。しかしドイツは完全にイギリス側に立ってロシアと対立する意思は無く、満洲の権益問題をこの協定から外している。これは極東の権益問題においてロシアを牽制しておきたいイギリスの希望を満たす物ではなかった133 。1901年にもドイツはイギリスに同盟を提案しているが、この時もドイツはロシアと決定的な対立をしたがらなかったため、同盟は実現しなかった。結局イギリスは「栄光ある孤立 」を放棄する相手としてドイツではなく日本 を選び、1902年に対ロシアを目的とした日英同盟 が締結される133 。
こうした状況の中、ドイツはロシアとイギリスを東アジア植民地化を巡って対立させることでドイツの国際的地位を有利にしようとした133 。またこの頃からヴィルヘルム2世は側近の忠告で台頭する日本に警戒心を持つようになり、黄禍論 を固め、ロシアを助ける必要性を感じるようになっていた135 。一方イギリスはロシアを抑えるため、日本を支援した。またイギリスは日露戦争開戦と共にフランスに接近し、1904年4月8日に英仏協商 を締結している133 。これはフランスがエジプト におけるイギリスの権益を認める代わりに、イギリスはフランスがモロッコ を植民地化することを認めるというものだった136 137 。
これに対抗してヴィルヘルム2世は1905年3月31日に突然モロッコのタンジール を訪問し、フランスに反感を持つスルタン にモロッコ独立を支援することを約束した(第一次モロッコ事件 )。ヴィルヘルム2世のこの行動は長らく彼の好戦的性格の表れとされてきたが、今日ではヴィルヘルム2世はこの訪問に消極的で宰相ビューローと外務省高官ホルシュタインがヴィルヘルム2世に強要してやらせたものであることが判明している138 。ドイツはフランスに対してモロッコ問題の国際会議を求めた。フランス首相モーリス・ルーヴィエ が対独強硬派のフランス外相テオフィル・デルカッセ を辞職させた結果139 、1906年1月から4月にかけてアルヘシラス会議 が開催された。宰相ビューローは同盟国のイタリア、オーストリア=ハンガリー、そして門戸開放 を国是にするアメリカがドイツの立場を支持するだろうと思っていたが、実際にはまったくそうならなかった139 。アメリカもイタリアも英仏を支持し、同盟国オーストリアさえも消極的にドイツを支持するに留まり、結局ドイツはアフリカのフランス領の一部で何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなった。ドイツの孤立が深まっただけの結果となった136 。
1905年7月24日にヴィルヘルム2世はロシア皇帝ニコライ2世とフィンランド 湾のビヨルケ水道で会見し、「ビヨルケの密約」を結んで「独露のどちらかが第三国から攻撃を受けた場合、他方はヨーロッパにおいて軍事的支援を行う」ことを約束した。しかしロシア側はフランスとの同盟を理由にあくまでこれを密約とし、さらにロシア外相セルゲイ・ヴィッテ がロシアに何の得もない約束であるとニコライ2世に上奏したこともあり、最終的にこの密約はロシア側によって葬られた118 136 140 。
日露戦争は結局ロシアの敗北に終わる。イギリスはもはや東アジアの権益問題においてロシアは脅威とはならないと判断し、むしろ中近東権益問題や建艦競争の相手であるドイツを危険視するようになる。イギリスはロシアとの接近を開始し、1907年に英露協商 が成立した136 141 142 。日本も同盟国イギリスに倣い、日仏協約 、ついで日露協約 を締結した143 。着実と進むドイツ包囲網にヴィルヘルム2世は焦っていた143 。
日露戦争後、中国分割 ・門戸開放政策 をめぐって日米の対立は深まった。この状況を見て、ドイツはアメリカ・清と反日同盟を結ぼうとした143 。反日・反英の清はこれに乗り気だったが、アメリカにはイギリスと対立する意思はなかった。日本外相小村寿太郎 もこの動きを警戒して先手を打ち、1908年に日米協商 を締結している。最終的に1910年から1911年にかけてアメリカはドイツと距離をとってイギリスに接近するようになり、これを受けてイギリスもこれまでの反米姿勢を修正して1911年に更新された日英同盟から日米戦争発生時の日本援助義務条項を削除した144 。こうしてドイツに好意的な国は貧弱な清とオスマンだけという厳しい状態となった145 。
前述したが、1908年10月28日にイギリスの新聞「デイリー・テレグラフ 」にイギリス軍大佐とヴィルヘルム2世の対談が掲載された(デイリー・テレグラフ事件 )100 。その対談でヴィルヘルム2世は自分は親英論者であること、そのために自分はドイツ国内で孤立していること、またボーア戦争 の際に露仏両国から対英大陸同盟の働きかけがあったが、自分はそれに乗らなかったこと、ボーア戦争においてイギリスが勝利できたのは自分の案のおかげであること、ドイツ艦隊の増強はイギリスをターゲットにしたものではないことなどを主張した。ヴィルヘルム2世としては英国の反独感情を和らげようとして行った対談だったのだが、「ドイツ皇帝の不遜な態度」にかえってイギリス世論が反発し、露仏も激しく反発してドイツはますます孤立してしまった100 。
モロッコで起こった反フランス暴動を鎮圧すべく出動したフランス軍に対抗して、ドイツ外相キダーレンの主導でドイツ政府は1911年7月1日にアガディール に艦隊を派遣し、モロッコの領土保全と門戸開放 を訴え、フランスのモロッコ権益を侵そうとして対立を深めた(第二次モロッコ事件 )。ドイツはモロッコ問題から手を引く条件としてフランス領コンゴ のドイツへの譲渡を要求し、中央アフリカへの進出を狙ったが、イギリスがフランス断固支持を表明したため、結局ドイツが新たに獲得した植民地はたいして価値のないドイツ領カメルーン の領土拡大だけだった146 147 。
1912年春にイギリスは陸軍大臣ホールデン子爵 を団長とする「ホールデン使節 」をドイツに派遣し、英独の交渉が行われたが、どちらも目標を達することはできなかった。ドイツが求めた大陸戦争が発生した場合のイギリスの中立の保証はイギリスによって拒否され、イギリスが求めた建艦競争の休戦の提案はドイツ側が拒否した。宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク は海軍の軍備増強に制限をかけることに前向きだったのが、海軍大臣ティルピッツがこれに強硬に反対した。ヴィルヘルム2世もティルピッツを支持したため、最終的に拒否することとなったのであった148 。
大元帥としての軍務 しかしヴァルダーゼーは伝統的なプロイセン軍人らしく陸軍増強論者であったため、植民地拡大のために海軍を増強したがっていたヴィルヘルム2世と意見対立を深めた152 。ヴィルヘルム2世はヴァルダーゼーを更迭し、1891年1月31日にアルフレート・フォン・シュリーフェン 伯爵を参謀総長に任じた153 。ヴィルヘルム2世は「参謀総長は一種の書記官として余の側におればよい。従って余にはもっと若い参謀総長が必要である」と述べた154 。
シュリーフェンは決戦兵器がすでに騎兵から速射兵器に移っている事を強く認識し、騎兵は遠方偵察用と割り切るなど軍の近代化を進めた155 。当たり前のことのようであるが、当時のプロイセン軍はいまだ騎兵信仰などの保守主義が蔓延していた。普仏戦争では気球も機関銃もないプロイセン軍が勝利したという成功例もそれを後押ししていた156 。ただしシュリーフェンはヴィルヘルム2世の機嫌を損ねることは決してしなかった。ヴィルヘルム2世は騎兵突撃を愛していたので御前演習では常にクライマックスに騎兵突撃が行われたが、シュリーフェンはこれに抗議をする事はなかった155 。陸軍増強のための予算が海軍の建艦費に流用されても抗議することは無かった155 。
露仏の同盟関係が強化されていく中で、シュリーフェンはロシア・フランスと戦争になった場合、対ロシアの東部戦線 は最低限の兵力で以って対処し、対フランスの西部戦線 の右翼に戦力を集中させ、ベルギーの中立を犯して通過し、北フランスへなだれ込み、南下してパリの背後に出てそこからスイス国境まで北進するというシュリーフェン・プラン を1897年から1905年にかけて策定した157 158 159 。この案によればロシア軍が東プロイセンに侵攻してこようが、イギリス軍がデンマークに上陸してこようがすべて無視し、対フランス戦に集中してフランスを6週間で片づけ、しかる後にそれらの敵と対峙することになる159 。
1903年末にヴィルヘルム2世は参謀総長シュリーフェンに近衛第一歩兵師団長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ (小モルトケ)中将を参謀次長に任じる旨を告げた160 。小モルトケは大モルトケの甥にあたり、かつて伯父の副官としてよく宮廷に出入りし、ヴィルヘルム2世から「ユリウス」というあだ名で呼ばれるほど皇帝と親しい間柄だった161 162 。この任命に軍事的意味はほとんどなく、ヴィルヘルム2世は「モルトケ」の「ブランド名」に惹かれていただけであるという163 。シュリーフェンは小モルトケを評価していなかったが、シュリーフェンは古風な上流階級出身者だったから皇帝の意向には黙って従った161 。
1906年には小モルトケを参謀総長に任じた。小モルトケはシュリーフェン・プランの修正を開始した。折しもドイツ軍はフランス軍の第17号計画 を掴んでいた。それによるとフランス軍はロートリンゲン(左翼)に攻撃をかけてくるつもりであった。そこで左翼軍であるロートリンゲンの第6軍、アルザスの第7軍からも攻勢を開始させることとした。これにより右翼軍は若干規模を縮小されることとなった164 。
第一次世界大戦
開戦 ヨーロッパ列強諸国間の対立は強まり、1910年以降にはヨーロッパ各国で近い将来の軍事衝突は不可避との認識が共有されるようになり、各国は軍拡に力を入れる165 。
1914年6月28日にドイツの同盟国オーストリア=ハンガリー帝国 皇太子フランツ・フェルディナント 大公 夫妻がボスニア (1908年にオーストリアが併合した)のサラエボ を訪問した際にセルビア人 民族主義団体に所属するセルビア人学生により暗殺された(サラエボ事件 )166 167 。同地はセルビア人が多数であったため、隣接するセルビア王国 にアイデンティティを感じてオーストリアの支配に反発する者が多かったのである166 。オーストリア政府は暗殺の背後にセルビア王国がいると主張し、セルビアに対して戦争も辞さない態度で臨んだ。しかしセルビアのバックにはロシア帝国がおり、戦争となればロシアからセルビアへの軍事援助が予想されたのでオーストリアとしてはドイツの支持を取り付ける必要があった167 。
1914年7月5日にヴィルヘルム2世はオーストリア大使に対してロシアが介入した場合はドイツがオーストリアを援助することを約束し、セルビアとの戦争を決意しているなら今が最も有利な状況であると述べた167 168 。翌7月6日には宰相ベートマンもオーストリアに支援を約束する「白紙委任状」を与えた169 。ドイツの支持を取り付けたオーストリアはセルビアに最後通牒を送る。7月25日にオーストリアはセルビア政府の回答を不服としてセルビアとの国交を断絶。7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し170 、セルビア首都ベオグラード への砲撃を開始し、第一次世界大戦 が勃発した171 。
7月31日にロシアが動員令を発令するとドイツも8月1日に総動員令を布告し、ロシアに対して宣戦を布告した。同日ヴィルヘルム2世は国民に向けて「余はいかなる党派の存在も知らぬ。あるのはただドイツ人のみである」と演説し、挙国一致を求めた172 173 。8月3日にはロシアの同盟国であるフランスにも宣戦を布告した171 。イギリスはドイツに対してベルギー の中立を守るよう要請したが、「シュリーフェン・プラン 」にしがみついていたドイツ軍部としてはベルギーへ侵攻しないわけにはいかなかった174 。ドイツは8月4日にベルギー領へ侵攻を開始したが、これを不服として同日イギリスはドイツに宣戦を布告した170 。
ヴィルヘルム2世らドイツ指導部が開戦を焦るかのような行動をとったのには幾つか理由がある。まずオーストリアはドイツに残された最後の同盟国であり、オーストリアの動揺はドイツにとって死活問題であった165 。オーストリアは確実にドイツ側に繋ぎとめておかなければならないし、ロシアが3B政策の妨害をしてこないよう抑えつけておきたかった165 175 。またイギリスは歴史的に東ヨーロッパ にほとんど関心が無かったので、少なくともイギリスは即座には介入してこないだろうと考えられたことがある169 。さらに「ヨーロッパの反動の砦」であるロシア帝国との戦争ならば帝国議会第一党であるドイツ社会民主党 (SPD)から戦争支持を期待することができた(挙国一致体制で戦争に突入できる)175 。そしてもう一つ大きな理由にドイツ軍部が1916年か1917年にはドイツ軍のロシア軍に対する軍事的優位が消滅すると考えていたことがある。参謀総長の小モルトケは1914年6月に「戦争は早ければ早いほどドイツに有利である」と述べている。こうした軍部の焦燥がヴィルヘルム2世はじめ政治指導者にも伝染していた167 。
大戦前期 ヴィルヘルム2世は小モルトケを更迭し、代わって1914年11月3日付けでプロイセン陸相エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン を参謀総長に任じた179 。ファルケンハインはさしあたってドイツ軍をヴェルダン ・リーム ・ノヨン の線まで後退させた。ファルケンハインは宰相ベートマンに対して「この戦争が望ましい結果に終わる事は疑いないが、それがいつ、どこで、どんな形で達成されるかは現状全く予想できない」と述べている180 。
1914年クリスマス までには西部戦線は膠着状態となった181 。当時の兵器水準では防御のほうが攻撃に勝ったため、大量の戦死者が発生する塹壕戦 などの消耗戦 になった182 。戦線がなかなか動かなかったため、ベルギーの大部分と北フランスの主要な工業地帯は大戦中ドイツ軍が占領し続けた181 。
ヒンデンブルクとルーデンドルフの指揮する東部戦線も苦戦していた。オーストリア軍がレンベルクの戦い (de )でロシア軍に敗れてガリツィア 方面は危機に陥った。ポーランドでもロシア軍と中央同盟国 (ドイツ・オーストリア)の一進一退の膠着状態が続いた181 。ヒンデンブルクやルーデンドルフは東部戦線の増強を求めたが、参謀総長ファルケンハインはなおもシュリーフェン・プランの伸翼作戦を実行すれば西部戦線を打開できると信じていたので応じなかった183 。ヴィルヘルム2世は東部戦線増強派と西部戦線増強派の論争を見守るだけだったが184 、1915年7月2日のポーゼン での御前会議ではファルケンハインを支持して東部戦線での大作戦に反対した185 。
開戦後イギリスはドイツ経済を締め上げるために海上封鎖を開始した。戦争1年目はドイツが物資の面で十分に準備していた事もあって大きな食糧困難は発生しなかったが、年を経るごとにドイツの食糧事情が悪化することは明らかだった182 。ドイツはイギリスの食糧事情も悪化させようとイギリス周辺海域の船を全て潜水艦Uボート によって沈めるという「無制限潜水艦作戦 」を開始した186 187 。しかしこれはアメリカ国民やアメリカ船籍が巻き添えを食うとして中立国アメリカ合衆国 の反発を招いた。アメリカの抗議に応じてドイツ政府は1915年8月に今後は無警告で客船を撃沈しないことを約束した。ついで9月にはアメリカ船舶が攻撃を受ける可能性を減少させるために英仏海峡 やその西側からUボートを引き上げた186 。無制限潜水艦作戦は特に宰相ベートマンが反対していた。ベートマンはアメリカを強国と認識し、アメリカ参戦だけは回避せねばならないと考えていた。対して軍部はアメリカを軍事小国と過小評価していた188 。海軍大臣ティルピッツはなおも無制限潜水艦作戦が勝利の切り札であると主張し続けたため、ヴィルヘルム2世は宰相ベートマンの進言を受け入れて1916年3月にティルピッツを解任した189 190 。
3B政策やドイツ人軍事顧問採用などかねてから親独的だったオスマン帝国 は1914年10月29日にロシア軍に攻撃を開始し中央同盟国側(ドイツ側)で参戦した。これは戦争前期のドイツ外交の成功の一つであった191 。オスマンの参戦でブルガリア王国 の重要性が増し、連合国陣営と中央同盟国陣営はそろってブルガリアを自陣営に引きこもうと必死になったが、結局ブルガリアは1915年9月にドイツと同盟して中央同盟国側で参戦した192 。
1915年4月末にイープル においてドイツ軍が初めて新兵器毒ガス (塩素ガス )を戦場で大量使用した。連合軍も直ちに塩素ガスを毒ガス兵器として使用するようになった。以降両陣営での毒ガス兵器の使用が恒常化し、ホスゲンガス 、ジホスゲンガス 、そしてついには無色無臭のマスタードガス が開発されて戦場は地獄と化した。一次大戦において両陣営が使用した砲弾の4分の1は毒ガスを詰めた化学砲弾であったといわれている189 193 。
1915年末からファルケンハインは本格的に西部戦線に重点を移し、1916年2月にヴェルダンの戦い を開始した189 。
大戦後期「ルーデンドルフ独裁」 ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍のブルシーロフ攻勢 など一連の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。ファルケンハイン解任を求める声が各方面から強まり、ヴィルヘルム2世も無視できなくなった194 。1916年8月27日、ルーマニア が連合国側で参戦したのを機にファルケンハインは更迭されることとなった195 。
ヴィルヘルム2世は後任の参謀総長に国民人気の高いヒンデンブルクを任じた。参謀次長には彼の参謀長であるルーデンドルフを任じた195 。これは文官政府の力だけでは国内の政治状態を収めるのは難しくなってきたと判断した宰相ベートマンの推薦によるものだった107 。しかしヴィルヘルム2世自身はヒンデンブルクとルーデンドルフが好きではなかったという196 。
これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。彼はヴィルヘルム2世やベートマン、帝国議会など政治指導者に干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった197 198 。依然としてヴィルヘルム2世は軍の大元帥・最高司令官ではあったが、開戦以来薄かったその存在感がますます薄くなり、もはや陸軍最高司令部と帝国議会多数派(社民党・中央党など)の間をうろうろするだけの周辺的存在に過ぎなくなってしまった199 200 201 。
戦争開始からはじめの2年ほどは宰相ベートマンの指導の下に「城内平和体制」と称する全政党・労働組合に政府への協力を求める挙国一致体制が構築され、戦争目的論争は締め出されていた172 202 。ところが戦時国債 発行のたびに宰相ベートマンが戦争の見通しを帝国議会で説明せねばならず、そうした中で1916年以降になると帝国議会内でも戦争目的をめぐって二つの党派が出現した。「勝利の平和」(敵領土の併合、敵植民地の獲得、敵から賠償金取り立て)を主張する右派勢力と「和解の平和」(無併合、無賠償でよいので早期に敵と平和条約を締結)を主張する左派勢力である。「勝利の平和」はドイツの戦況を考えるとあまりに現実離れしており、「和解の平和」の立場が強まっていった。「和解の平和」を最初に唱えたのは社民党であった。1917年になると社民党のみならず中央党や進歩人民党 (略称FVP、自由主義左派勢力の合同政党)(de )なども「和解の平和」を支持するようになった203 。
1917年3月にはロシア革命 により300年続いたロマノフ朝 のロシア帝政が崩壊した。ドイツ国民の間にも講和を期待する声が高まり、反戦運動や政府に改革を求める運動が活発になった。3月末には帝国議会内に内政改革を求める憲法委員会が創設された。こうした動きに対応してヴィルヘルム2世は4月7日に発表した復活祭 勅書の中で「戦時中にプロイセン選挙法改革の準備に着手して戦後に実施する」と約束した204 。4月ストライキを経て社民党や中央党など帝国議会多数派の動きは更に活発化した。宰相ベートマンは「和解の平和」論には乗らなかったが、選挙権問題など内政問題で帝国議会多数派に譲歩を決めた。ベートマンの求めに応じてヴィルヘルム2世は7月11日にプロイセン王国政府に対して三等級選挙権 制度(de )を改めて平等選挙 を旨とする選挙法改正を命じる勅書を出した205 。だが帝国議会多数派はベートマンの努力を評価することは無く、彼を批判し続けた206 。
1917年2月にドイツ外相アルトゥール・ツィンメルマン がメキシコ に送った「アメリカ参戦の場合、ドイツはメキシコと同盟を結ぶ用意があり、テキサス州 、アリゾナ州 、ニューメキシコ州 の中の旧メキシコ領を取り戻すのを援助してもよい。ドイツには日本と単独講和の準備があり、その後日独墨で反米同盟を締結したい」という電報 がイギリス軍に傍受され、イギリスはこれをアメリカに通達した。激怒したウッドロウ・ウィルソン 大統領は電報を国民に公表し、アメリカの反独感情が強まった207 208 。さらに1917年2月からドイツ海軍はイギリスに対する無制限潜水艦作戦 を再開した。かねてからドイツの潜水艦作戦に迷惑していたアメリカはついに1917年4月6日にドイツに宣戦を布告した。宰相ベートマンはアメリカの参戦を防ごうと無制限潜水艦作戦再開に反対していたが、ルーデンドルフら軍部は相変わらずアメリカを過小評価し、またアメリカはすでに実質的に参戦しているも同じと主張して強行したのであった209 210 。
選挙法の問題や無制限潜水艦作戦を巡る問題でのベートマンの「弱腰」は帝国議会少数派の保守派やルーデンドルフら陸軍最高司令部から批判に晒された。また帝国議会多数派もベートマンを「平和的でない」と看做していたため陸軍最高司令部によるベートマン排斥の動きに協力した211 。ヒンデンブルクとルーデンドルフは辞職をちらつかせて、7月13日にヴィルヘルム2世にベートマンを罷免させた212 213 。帝国議会多数派は後継の宰相を推すことができなかった205 。一方ルーデンドルフは後任に元宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー 侯爵か元海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツ を考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局先日陸軍最高司令部に来てルーデンドルフらの覚えが良かった戦時食糧管理庁次官ゲオルク・ミヒャエリス が就任することとなった213 214 。全くの無名の人物であり、ヴィルヘルム2世は「まだ見たこともない人物だが」と呟いたという210 。
ミヒャエリスは陸軍最高司令部の忠実な代弁者として行動し、陸軍最高司令部の軍事独裁体制が完成した。帝国議会多数派も敗戦を避けるためには陸軍最高司令部に協力するしかない面があった205 。議会外に「勝利の平和」を主張する超党派組織としてティルピッツを議長とする祖国党が結成され、125万人の会員を有するに至った。この組織の活動はファシズムの先駆けとも言うべきものであり213 、プロイセン選挙法改正の審議にも影響を与え、結局敗戦までプロイセン議会が選挙法改正を認めることは無かった215 。しかし1917年夏に最初の水兵の反乱があり、更に軍需工場でのストライキはどんどん革命的になってきた。こうした情勢の中ミヒャエリスは帝国議会と対立を深めて不信任を突き付けられた215 。これを受けてヴィルヘルム2世は陸軍最高司令部からの抗議を無視してミヒャエリスを解任した216 。
一方戦局は悪化が続いていた。ドイツ軍は連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線 (de:Siegfriedstellung )」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御を固めた。1917年4月のアラス会戦 (de )では連合国が初めて戦車を投入してきた。1917年11月末のカンブレーの戦い (de )では400両も投入してきた。対するドイツは不可欠兵器である飛行機や輸送車両の生産だけで手いっぱいで戦車まで余力が回らなかった215 221 。第二次大戦では「戦車大国」として知られたドイツだが、第一次大戦では「戦車小国」であった222 。
ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」(1918年春季攻勢 )作戦を行った。ドイツ軍は8月初めにはパリ まで80キロまで迫ったが、第二次マルヌ会戦 でフランス軍、アメリカ軍の反撃にあい、ドイツ軍はマルヌ川 の向こうに押し戻された。以降戦いの主導権は連合軍に奪われた225 226 。1918年8月8日、アミアンの戦い (de )でオーストラリア軍 にドイツ軍の戦線が破られた。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した227 228 229 。以降戦況の主導権は完全に連合軍が握り、アメリカ軍が中心となってドイツ軍陣地が次々と落とされ、ドイツ軍は後退を重ねることとなった228 。
大戦末期「ドイツ革命」 ドイツの敗戦が近づく中、同盟国は次々とドイツから離れようとした。1918年9月14日にはオーストリア=ハンガリー帝国が、9月25日にはブルガリア王国が連合国に休戦を懇願した230 。1918年8月末以降ドイツ軍部にも兵士の大量投降や戦意喪失の報告が次々と入ってきていた231 。
ルーデンドルフは戦況を絶望視するようになった。ここにきてヒンデンブルクとルーデンドルフは9月28日に政府に対して一刻も早くウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則 」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府を改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒を送った218 230 232 。外相ヒンツェもこの見解を支持し、敗戦による「下からの革命」を防ぐため、今のうちに「上からの革命」を推し進めねばならぬと主張した230 。ヴィルヘルム2世はこの時まで戦況悪化を認識していなかったので軍部の提案に驚いたが、結局は軍部や外相の言い分を認めた233 。議会政治に反対していたヘルトリングは宰相を辞することとなった230 233 。
10月3日、後任のドイツ・プロイセン宰相に自由主義者として帝国議会から評価が高かったバーデン大公子 マクシミリアン が任じられた。マクシミリアン自身は政党人ではなかったが、社民党、中央党、進歩人民党の三党がマクシミリアンを支持して与党を構成していたため、ドイツで初めての政党内閣となった234 。敗戦が確実になった今、ルーデンドルフは自分の権力をできるだけ他の者に引き渡して敗戦責任を分担させたがっていたのでマクシミリアンが権力を握るのに苦労はなかった。軍部独裁は終焉し、ドイツ史上初の政党政治が始まった230 234 235 。
マクシミリアンはアメリカ大統領 ウィルソンと電報をやり取りして休戦交渉を要請したが、ウィルソンからは10月23日の回答で「軍国主義と王朝的専制主義の除去」を求められた236 。ドイツ国民の間ではヴィルヘルム2世の退位を求める声が強まった236 。マクシミリアンは休戦協定反対派に転じたルーデンドルフの罷免をヴィルヘルム2世に要請し、これを受けてヴィルヘルム2世は10月26日にルーデンドルフを解任した237 238 。後任の参謀次長にはヴィルヘルム・グレーナー が就任した236 239 。しかし、退位はする理由がないと拒否した。
10月28日に憲法改正が告示され、議会主義に基づく立憲君主制が導入された。しかし皇帝大権に関する規定が曖昧になっていたことなどから皇帝権力を温存し「偽装議会主義」に後退させる可能性を留保しているとして批判を集めた240 。結果憲法改正はドイツ国民の印象にほとんど残らず、革命を求める機運は収まらなかった236 240 。退位したくないヴィルヘルム2世は、10月29日、戦況を確認するという名目で不穏な空気に包まれるベルリンを離れてベルギーのスパ に置かれている大本営に移動した241 。時間がたてば状況が変わるかもしれないと何の根拠もなく浅はかにも期待したのである。しかし、当然ながらこれによってベルリン市民の民心はますます皇帝から離反した242 243 。 10月末にウィルヘルムスハーフェン において無謀な作戦への動員を命じられた水兵たちが反乱を起こした。続いて11月4日にキール 市でも水兵が反乱を起こし、労働者がこれに合流してキールは「労兵協議会」によって実効支配された。同様の運動が凄まじい勢いでドイツ全土に広がり、ドイツの主要都市は全て「労兵協議会」によって支配された244 245 。11月7日にはバイエルン王国 においてクルト・アイスナー が中心となって王政打倒の革命が発生し、長き歴史を誇るヴィッテルスバッハ王家 が滅亡した246 。これがきっかけとなって他のドイツ帝国諸邦でも王政打倒の革命が続々と勃発し、ドイツ帝国諸邦の全君主が退位を余儀なくされた246 247 。
ベルリンでも革命熱が収まらなくなり、11月7日に社民党は宰相マクシミリアンに対して皇帝と皇太子の退位を要求し、それが実現できぬ場合は政権から離脱すると通達した248 249 。ただし社民党のこの要求は決して皇室廃止を求める物ではなかった。皇太子ヴィルヘルム の長男ヴィルヘルム への皇位継承についてはこの時点では極左の独立社会民主党 と極右の国家保守党 を除いて全政党に受け入れられていたのである250 。しかしこの期に及んでもヴィルヘルム2世はベルリンにいるマクシミリアンから電話で受けた退位要請を拒否した241 。大本営では前線部隊を率いて国内の革命運動を鎮圧しようなどという現実離れした議論さえ行われる始末だった249 251 。こういう封建的な空気の大本営にいたヴィルヘルム2世は戦争の勃発には自分に責任がないのだから退位せねばならない如何なる理由もないと本気で妄執していた250 。結果なし崩し的に皇室廃止に向かうことになってしまったのである。
進退きわまったマクシミリアンは11月9日午前中に独断でヴィルヘルム2世がドイツ皇帝位・プロイセン王位から退位 したと宣言した252 。皇帝位からは退位したとしてもプロイセン王位からは絶対に退位しないと決めていたヴィルヘルム2世はこれに激怒し248 253 、電話でマクシミリアンを悪漢と罵った。しかしグレーナーから革命運動の鎮圧は不可能であることを告げられた。さらにヒンデンブルクがヴィルヘルム2世に「私は陛下がベルリンの革命政府に捕まるような責任を負うことはできません。オランダへお逃げになるしかありません」と進言した254 。4か月前のニコライ2世の殺害の二の舞は避けなければならなかったのである。ヴィルヘルム2世は怒りに震え、部屋を歩き回っていたが、やがて全てを諦め、静かな調子で外相ヒンツェに亡命の準備をするよう命じた254 。同日に皇妃へ宛てた手紙では、マクシミリアンとシャイデマンの「共謀」を非難し、今やベルリンはボリシェビキの手中にある、と嘆いている。翌11月10日早朝に特別列車でスパの大本営をたってオランダへ亡命 した255 。ホーエンツォレルン家の財産を何両もの貨車に満載して去っていった。似たような境遇に遭ったヨーロッパの王侯達の中でヴィルヘルム2世のように多額の財産を確保して国外退去した者は稀であった256 。亡命前、部下たちと別れる際にグレーナーとは握手を拒んだという。
オランダへ亡命したヴィルヘルム2世ははじめ公式な退位宣言をしないと決め、二人の皇太子にも同様の態度を取らせていた258 。しかし結局1918年11月28日に退位宣言に正式に署名した2 。
退位後 オランダ政府は政治活動の停止を条件にヴィルヘルム2世の受け入れを承諾した。連合国はヴェルサイユ条約 第227条で「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前皇帝としてのヴィルヘルム2世の訴追を決めた259 。この手続きは成文法の違反ではない新しい法概念に基づくものであり、後の「平和に対する罪 」の萌芽的前例となった260 。イギリス政府は講和会議以前からオランダ政府に対してヴィルヘルム2世の身柄引き渡しを要求し続けていたが、オランダ政府はヴィルヘルム2世を拘束しておらず、また彼が引き渡しに関するオランダ国内法に違反していないため引き渡しはできないとして、1920年1月21日に正式に拒否通告を行った261 。連合国は重ねて引き渡し要求を行わず、欠席裁判を行うこともなかった261 。
以降ヴィルヘルム2世はその死までの23年間をオランダで過ごすこととなった。少数の近臣を従えながらユトレヒト州 ドールン の城館で貴族として安楽な余生を送り、かつての臣下を罵りながら趣味として木を伐って過ごした。またこの間に二冊の回顧録を著している15 。ヴィルヘルム2世は過去を顧みて「自分の退位についてはマクシミリアンとヒンデンブルクに連帯責任があるが、亡命の責任は完全にヒンデンブルクにある」と確信するようになった255 。1921年のヒンデンブルクとの書簡のやり取りでヒンデンブルク本人に自らの責任を認めさせている262 。一方でヒンデンブルクは大統領になった後に保守政党国家人民党 にヴィルヘルム2世の退位について追及されるたびに「それはグレーナーに言うべきである」と言って自らの責任を否定している263 。
ヴィルヘルム2世はオランダ亡命中も常に復位の希望を抱いており、戦後もドイツの王党派 や右翼 勢力に対して一定の政治的影響力を保っていた。ドールンを訪れた喜劇作家に贈呈した写真には「朕ここに汝ら臣民が今日までに決定した全てのことを無効とする。ヴィルヘルム」と冗談か本気か分からない文句を書き添えた265 。一方で駐オランダ・ドイツ大使は1926年1月にグスタフ・シュトレーゼマン 外相に送った報告書の中で「皇帝は政治について様々な意見を述べながらも現在の生活状態を改善したいという希望は持っておられません。皇帝の現状は極めて快適であり、心身ともに平穏でおられます。」と書いている266 。
ドイツ旧王侯たちはドイツ帝国時代に自分の統治下にあった州に対して土地や財産の返還請求を求めていたが、ヴィルヘルム2世もプロイセン州 政府に対して同様の交渉を行っていた267 。1926年、ドイツ社会民主党 は長期化する王侯たちとの裁判に疲れ、穏健な法的解決を図ろうとした。それに乗じてドイツ共産党 が強硬な法的解決、すなわち王侯財産没収法案を国会に提出した267 。ヒンデンブルク大統領はホーエンツォレルン家の財産を守るべく「私有財産に対して法的解決を行うのは憲法違反」として反対した。結局この件は国民投票にかけられることとなり、君主派と共和派の激しい争いが繰り広げられた。ちなみにナチ党内でもこの件については意見が分かれた。ナチス左派 のグレゴール・シュトラッサー は王侯財産没収に賛成したが、一方アドルフ・ヒトラー は王侯財産没収を「ユダヤ人のペテン」として批判し、王侯よりユダヤ人から財産を没収せよと主張してシュトラッサーの意見を退けた268 。結局国家人民党や鉄兜団 など保守勢力の大反対運動により王侯財産没収法案は退けられたが、賛成票が1450万票も入ったことについてヴィルヘルム2世は「ドイツには1400万人もの不道徳漢がいる」と不満を述べた268 。
ヒンデンブルクは帝政復古 論者で、ヴィルヘルム2世の復位を主張していた。一方、ブリューニング 首相は本人ではなく、孫を帰国させて帝政復古する案を持っていたが、ヒンデンブルク大統領はヴィルヘルム2世への忠誠にこだわった。1934年に死去したヒンデンブルクは遺言で、ヴィルヘルム2世の孫であるルイ・フェルディナント を迎えた帝政復古を言い渡したが、首相となっていたヒトラー はこの遺言を握り潰したという。
一方で第二次世界大戦のナチス・ドイツ の戦争遂行に全面的に賛同していた。ポーランド侵攻 についてヴィルヘルム2世は「今度の戦役は驚嘆すべきあり、伝統的プロイセン精神によって遂行された」と称賛した122 。1940年5月、自身の亡命先であるオランダにドイツ軍が侵攻した際には、イギリスのチャーチル からヴィルヘルム2世に対してイギリスへの亡命の勧めがあったにもかかわらず、これを拒絶してオランダに残り、ドイツ軍の保護を受けている。さらに同年、かつて彼のドイツ軍が成し遂げることができなかったパリ 陥落をヒトラーのドイツ軍が達成したのを見ると、ヒトラーに対して祝電を打った2 122 253 。1940年秋の手紙の中では「今活躍しているドイツ軍の将軍たちはかつて私の教え子だった者たちである。ある者は少尉として、ある者は大尉として、ある者は少佐として私のもとで世界大戦を戦ったのだ」と誇らしげに語っている15 。
独ソ戦 がはじまる直前の1941年6月4日、ヴィルヘルム2世は肺塞栓 のためドールン で崩じた 15 269 。ヒトラーの命によりドイツ軍による葬儀が行われた2 。ヴィルヘルム2世はまずドールン市門の近くにある礼拝堂に葬られ、その後遺言に従って、死後ドールンの館の庭園に建設された霊廟に改葬された。自身の案になる墓碑にはこう刻まれている。
人物 ヴィルヘルム2世の時代は進取の気性と保守性とが混在した過渡期だったが、それには皇帝個人の嗜好も大きく影響している。芸術的には保守的で、ゲアハルト・ハウプトマン の作品のような自然主義文学を「排水溝文学」と呼んで否定しているが、技術的な進歩には非常な興味を示し、学術団体カイザー=ヴィルヘルム協会 を設立して科学者を援助した。しかし、自らは自動車や船に乗ることを恐れていたといわれている。
ヴィルヘルム2世の独特な口髭は「カイゼル髭」として有名である。御用理髪師に髭の方向を整えさせていたのが大流行したものであるという。当時日本でもかなり流行したという271 。
日常的に大酒飲みだったわけではないが、必要に応じて酒は嗜んだ。しかしフランス嫌いからかシャンパン は嫌っていたという272 。またヴィルヘルム2世はヘビースモーカー であり、若い頃には特注で作らせていた強い煙草を朝から晩まで吸っていたという。しかし後年には健康を害する危険から控えるようになったという273 。ヴィルヘルム2世の勅令には「ジャガイモは皮をつけたまま食べよ。しかし、どうしても皮をむく必要があるなら、決して生のうちにむくな。必ず蒸すか、煮た上でむくようにせよ」とあった。そして、勅令の後には内務大臣の次のような注釈が添えられていた。「ジャガイモを生のままで皮をむくと、皮に中身が11%も着いて捨てられる。蒸すか煮るかしてから皮をむくと、容易に薄い皮だけをむくことができる」と。
同じヨーロッパ諸国では非常なフランス嫌いで知られた他、イギリスについては「ドイツはキリスト教国であるが、イギリスは反キリスト教的な自由主義 の国」と酷評している。また、イギリスがフリーメイソン とユダヤ人 に経済的に支配されていると信じており、2度の世界大戦も彼らが引き起したと主張していた。バルカン諸国を下に見ており、モンテネグロ王国について「取るに足らない小国」でモンテネグロ王ニコラ1世 を指して「バルカンの牛泥棒」と言って憚らなかった。またそのニコラ1世の5女を王妃に迎えたイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 についても、背丈が低い事を揶揄して北欧神話の精霊ドワーフ に例えていた。
他に当時のドイツ・エリート同様に反ユダヤ主義 的な考えも持ってはいたが、1938年に起きた水晶の夜 事件について、「初めてドイツ人であることを恥じた」との表現で、ナチスによるユダヤ人迫害の行き過ぎを憂慮する手紙を娘のヴィクトリア・ルイーゼ に宛てている。
評価 ヴィルヘルム2世は一般に第一次世界大戦の元凶とされている。しかしそれは多分に連合国(戦勝国)史観であり、注意を要する。第一次世界大戦の客観的な研究が進み、ヴィルヘルム2世の仕業とされてきたことが実はそうでなかったことが判明しつつある。その最たるものはかつて開戦原因とされてきた1914年にヴィルヘルム2世が開いたというポツダム御前会議なるものが実は不存在だったこと、またフランスとの緊張を高めた1905年のヴィルヘルム2世のタンジールの訪問も実はヴィルヘルム2世自身はモロッコ問題不干渉の立場だったことなどである。フリッツ・フィッシャー の研究をめぐる論争以降、ヴィルヘルム2世だけではなくドイツ国家指導層が全体で世界大戦へ向かっていったことが歴史学の共通認識になりつつあり、そのため現在ではヴィルヘルム2世一人だけに世界大戦の責任を負わせる議論は過去の物となっている143 。
子女
参考文献
脚注
子女
ヴィルヘルム2世 (Wilhelm II., 1859年1月27日 - 1941年6月4日)は、第9代プロイセン国王 ・第3代ドイツ皇帝 (在位:1888年6月15日 - 1918年11月9日)。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン (Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)。史上最後のドイツ君主。
概要
プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世 )とイギリス王女ヴィクトリア の長男としてベルリン に生まれる。1888年に祖父ヴィルヘルム1世 、父フリードリヒ3世が相次いで崩御したことにより29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。祖父の治世において長きにわたり宰相 を務めたオットー・フォン・ビスマルク 侯爵を辞職させて親政 を開始し、治世前期には労働者保護など社会政策 に力を入れ、社会主義者鎮圧法 も延長させずに廃止した。しかしその後保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件 以降は政治的権力を大きく落とした。
一方外交では一貫して帝国主義 政策を推進し、海軍力 を増強して新たな植民地 の獲得を狙ったが、イギリス やフランス 、ロシア など他の帝国主義国と対立を深め、最終的に第一次世界大戦 を招いた。オーストリア=ハンガリー帝国 、 、 と同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相手に4年以上にわたって ・ で戦うこととなった。1916年に と による軍部独裁体制が成立すると、ほとんど実権を喪失した。大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなくなった国民の間で不満が高まり、 が発生するに至った。革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を行なったが、革命の機運は収まらず、結局 へ亡命して退位することになった。そのままなし崩し的にドイツは共和制( )へ移行し、 はドイツ皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
ヴィルヘルム2世自身は戦後もオランダのドールンで悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支援した。1925年にドイツ大統領となったヒンデンブルクは帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラー による独裁体制が誕生したことにより復位の可能性はなくなった。独ソ戦 を目前にした1941年6月4日にドールンで逝去した。
生涯
生誕 3月5日に洗礼 を受け、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトと名付けられた。フリードリヒやヴィルヘルムはホーエンツォレルン家 の伝統的名前であり、ヴィクトールとアルベルトは祖父母にあたる英女王ヴィクトリア とその王配 アルバート からもらった名前である(ヴィクトールはヴィクトリアの男性形、アルベルトはアルバートのドイツ語読み)。ポツダム の宮殿で育てられることとなった5 。
ヴィルヘルムは「逆子 」であり、難産で生まれた6 7 。後遺症で左半身に障害があり、平衡感覚に難があった6 8 。
幼少期・少年期 幼い頃から負けん気が強かったといい、幼いヴィルヘルムを見たロシア帝国 外相アレクサンドル・ゴルチャコフ は「幼いホーエンツォレルン は、プロイセンの歴代国王の中でも最も異彩を放つであろう。やがてはドイツの中心機関となって、世界にその威を示すに違いない。その時機が到来する時には必ずヨーロッパ を驚かせることをするだろう。」と予言したという4 。また幼い頃から海上に興味を示し、7歳のころには水兵たちから海の伝説について興味深そうに聞いていたという10 。
カルヴァン派 のゲオルク・ヒンツペーター 博士が教育係となり、厳格な教育を受けた11 。しかしインテリ であった母ヴィクトリアはヴィルヘルムに非常に多くのことを要求したため、母からの評価はいつも低かったという7 12 。また彼女はヴィルヘルムが身体障害者であることもひそかに嫌っていたという13 。これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪に繋がったといわれる7 。
1869年1月27日に10歳の誕生日を迎えると第1近衛歩兵連隊 に入隊し、少尉 (Leutnant)に任官した(即位までに少将 まで昇進)5 14 15 。ポツダムの近衛将校団に囲まれてフリードリヒ大王 以来のプロイセン軍国主義 に深く心酔していった16 17 。しばしばイギリスの自由主義的な制度を称えたがる「イギリス女」のヴィクトリアは彼ら近衛将校団の憎悪の対象であった17 。1870年に普仏戦争 が発生するとヴィルヘルムも従軍を希望したが、年少すぎるとして認められず、軍人としての無念さを訴えていたという16 。
普仏戦争中の1871年1月18日、祖父であるプロイセン国王 ヴィルヘルム1世 がドイツ皇帝 (カイザー)に即位し、ドイツ帝国 が成立した。この直後にヴィルヘルムが12歳になると、母同様に自由主義的だった父フリードリヒ皇太子は「私の跡継ぎとして公平無私になることを希望する」としてヴィルヘルムを普通の児童が通う小学校に入学させることを布告した18 。ヴィルヘルムは小学校を卒業後、1874年にカッセル のヴィルヘルムスヘーエ(Wilhelmshöhe)の離宮に移り、同じく普通の子供たちが通う同地のギムナジウム に入学した2 19 。ヴィルヘルムが普通の児童の学校へ通うことになったのはヒンツペーター博士と母ヴィクトリアの相談の結果であるという11 。市民的な教育を与えるためであったが、保守的なヴィルヘルム1世や帝国宰相 オットー・フォン・ビスマルク 侯爵はこれに反対していた16 。
学校での教育の他、ヒンツペーター博士の教育も続けられた。フェンシング 、乗馬 、製図 の訓練もあり、朝5時から夜10時まで続くという過密教育だった11 。学校の成績は上位であり、1877年1月にギムナジウムを卒業した時には第10位の好成績であり、表彰も受けている20 。とりわけ語学 に優れており、英語 とフランス語 を自由に扱えるようになり、ギリシア語 の古典もよく読んでいた21 。
ヴィルヘルムと母ヴィクトリアの関係は、悪化の一途をたどった。ヴィクトリアは息子について「旅行しても博物館には興味を示さず、風景の美しさにも価値を見出さず、まともな本も読まなかった」「ヴィルヘルムには謙虚さ、善意、配慮が欠けており、彼は高慢で、エゴイスト で、心がぞっとするほど冷たい」などと酷評するほどだった11 12 。ビスマルクはヴィルヘルム1世が崩御した場合、自由主義的なフリードリヒ皇太子やヴィクトリアの下で帝国が自由主義化することを懸念していた。そのためビスマルクもこのヴィルヘルムとヴィクトリアの争いを「ドイツの真の継承者」対「イギリス女」として煽り、ヴィルヘルムにイギリスや自由主義への敵意を強めさせることに努めた22 。
祖父ヴィルヘルム1世もプロイセン保守的な人物であったから、自由主義的な息子フリードリヒよりも保守的に育っていく孫ヴィルヘルムに期待しており、ヴィルヘルムは祖父から大変に可愛がられた23 。ヴィルヘルムも父ではなく祖父を模範として育っていった24 。
青年期 この頃、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公女アウグステ・ヴィクトリア との結婚を希望するようになったが、ホルシュタイン家はドイツ帝国建設にあたって排斥を受けた家だったので、反対が根強かった27 。これに対してヴィルヘルムは「この結婚が成立すればホルシュタイン家のホーエンツォレルン家への悪感情も消えるであろう。ドイツ帝国のためこれほど喜ばしい婚姻はないではないか。」と反論し、婚姻を認めさせたという28 。1880年6月3日に婚姻は成立し、1881年1月27日に挙式した28 。二人はポツダムの大理石宮殿 で新婚生活を始めた21 。彼女との間に1882年5月6日に長男ヴィルヘルム (つまり皇曾孫)を儲けた。その後も次々と子をなし、計7人の子に恵まれた2 。
ヴィルヘルムは保守的な近衛将校団に影響を受けながら成長し、また同じような政治傾向を持つフィリップ・ツー・オイレンブルク 伯爵をはじめとするロマンチックな若手グループと親しい付き合いがあった24 。このオイレンブルクとは同性愛の関係であったという29 。皇帝となった後ヴィルヘルム2世はオイレンブルクの爵位を伯爵から侯爵に昇進させ、オイレンブルクの所領リーベンベルク (de )によく足を運び、そこで狩猟と同性愛を楽しんだという。この地は「リーベンベルクの円卓」と呼ばれ、ここから政治決定が行われる場合も多かったという30 。しかし初めのうちオイレンブルクは政治に関わりたがらず、二人の関係にいち早く気づいた「灰色殿下 」の異名を持つ外務省参事官フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン がオイレンブルクを通じてヴィルヘルムに影響を及ぼしていた31 。ホルシュタインはロシアとオーストリア=ハンガリーを同時につなぎとめようとするビスマルク外交を冷やかに見ていた32 。
また後のナチス に酷似した、反ユダヤ主義政党キリスト教社会党 指導者の牧師アドルフ・シュテッカー も宮廷説教師としてヴィルヘルムに影響を与えた。シュテッカーによれば君主には大衆と王権を和解させる社会的使命があり、それはキリスト教と連携を組み、近代資本主義の弊害とその権化であるユダヤ人を排斥することによってのみ達成されるのだという24 。これはすなわち保守派と中央党の連携を訴える主張であり、保守派と自由主義者の連携による「カルテル」政治を行うビスマルクを否定するものであった24 。ヴィルヘルムは友人のアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー 将軍の邸宅で開かれたシュテッカーの集会に参加して話題になった。これに対してビスマルクはヴィルヘルムに「殿下は皇位継承者として早くも世論から特定の党派に属していると看做されないよう注意しなければならない。自由主義の時代もあれば、反動の時代もあり、また武力支配の時代もあるだろう。支配者たる者は、君主制を危機に陥れぬためにそのような事態の移り変わりに備えて行動の自由を残して置かなければならない。」という苦言を呈している33 。
ドイツ皇帝・プロイセン王即位 1888年3月9日に祖父であるドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世 が91歳で崩御 した。父フリードリヒ皇太子がフリードリヒ3世 としてドイツ皇帝・プロイセン王に即位 し、ヴィルヘルムはその皇太子となった。しかしフリードリヒ3世は即位時すでに不治の病にかかっていた。フリードリヒ3世はビスマルクの片腕である保守派の内相ロベルト・フォン・プットカマー を解任し、自由主義者としての矜持を示した後、6月15日に在位99日にして崩御 した2 34 35 36 37 38 。
皇太子ヴィルヘルムがただちに即位 し、ヴィルヘルム2世として第3代ドイツ皇帝・第9代プロイセン王となった。当時29歳であった35 39 。帝政ドイツでは議会に比べて皇帝に大きな権力があったため、国政には皇帝の意志が大きく反映された。そのためドイツ皇帝位は「世界で最も力のある玉座」とも評されていた39 40 。
即位したばかりの頃のヴィルヘルム2世は、覇気満々で親政 を決意していた41 。「ホーエンツォレルン家の使命」に背を向けた自由主義者の父が早く亡くなり、自分が若くして皇帝となったことを運命的に捉えていたという42 。
ヴィルヘルム2世は父の崩御を知るとただちにポツダム の父の宮殿に軍隊を派遣して宮殿を包囲し、母ヴィクトリアを一時的に幽閉している11 。これは父フリードリヒ3世がヴィルヘルム2世の政策や性格を批判している日記をつけていたためという。それを知っていたヴィルヘルム2世は母ヴィクトリアがイギリスか市民にその日記を洩らすと疑っていたらしい43 44 。
またヴィルヘルム2世は父に解任されたプットカマーを内相に戻そうと考えていたが、ビスマルクが「若い君主は先代に拒否された者と関わるべきではない」として反対したため沙汰やみとなった45 。
戦前期の治世
内政
宰相ビスマルク時代 1889年5月、ルール地方 炭鉱の労働者が大規模なストライキ を起こした。これに対してビスマルクは、自由主義ブルジョワが社会主義勢力をもっと危険視するよう紛争の解決は当事者に任せようと考え、私有財産保護のために警察と軍隊を投入する以上のことは何もしなかった46 。
ヴィルヘルム2世はストライキと社会主義労働者党との関連性を否定し、またストライキが長引けば石炭 が不足し、安全保障にも影響すると懸念していたが、ビスマルクはこの争いを期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法 更新のための社会主義勢力への攻撃材料にすることにのみ専心していた46 。
ビスマルクは毎年数か月は領地へ帰る癖があったが、この年も6月には領地へ帰り、翌年1月までベルリンを不在にした。この間にヴィルヘルム2世は、対ロシア強硬派のヴァルダーゼー将軍や外務省参事官ホルシュタイン、反ユダヤ主義者のシュテッカーなど反ビスマルク派の影響を強く受けるようになった32 50 51 。またヒンツペーター教授は、社会問題に積極的に取り組むべきだと説いていた50 。ヴィルヘルム2世は、ヒンツペーター教授をはじめとして労働者問題に通じた識者を助言者にして労働者保護勅令の準備を開始した52 。
しかしビスマルクの方向性はそれとは正反対であり、彼は期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法 の無期限延長法案を10月に帝国議会 に提出した。1890年1月24日の御前会議においてヴィルヘルム2世は再び「ドイツ企業家が労働者をレモンのように絞っている」事を批判し、「私は貧者の王たることを欲する」と宣言した53 。ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法について追放条項54 の削除を求めてビスマルクと激しい論争をした。ヴィルヘルム2世はビスマルクが社会主義者鎮圧法否決に乗じて内乱を起こそうとしていると感じ、「我が治世の初期が臣民の血で染まる事を望まない」と釘を刺した55 56 。
1890年2月1日には日曜日労働の禁止、女性や少年の夜間労働・地下労働の禁止、労働者保護国際会議のベルリン開催の呼びかけなどの条項を含む労働者保護勅令の「二月勅令 」が発せられた57 。保守的なビスマルクはこの勅令に反発し「社会問題はもはや薔薇香水で解消できない。鉄と血で解決される」などと述べた58 。ビスマルクはこの勅令への副署 を拒否したうえ、ベルリン労働者保護国際会議の開催の妨害工作を行った59 。この件でヴィルヘルム2世はビスマルクに決定的な嫌悪感を持ったという60 。
1890年2月20日の帝国議会選挙はビスマルクを支える「カルテル」3党(保守党 、帝国党 、国民自由党 )の敗北に終わった。ビスマルクは先の帝国議会で否決された社会主義鎮圧法を再度提出し、また否決確実の軍制改革法案も一緒に提出して議会との紛争状態を作ることでクーデタを起こすことを計画した31 57 61 。さらに3月2日の閣議でビスマルクはヴィルヘルム2世を封じ込めようと1852年プロイセン閣議命令62 の遵守を閣僚たちに求めたが、これにヴィルヘルム2世は激怒し、3月5日にブランデンブルク州議会での演説において「私の行く手を遮る者は粉砕する」と宣言した63 64 。
ビスマルクを切る事を決意したヴィルヘルム2世は、ビスマルクに帝国議会との協調のうえでの法案を成立させることを命じることで彼の企むクーデタの道を塞ぎ65 、1890年3月18日にビスマルクを辞任に追いやった57 66 。ここに1862年以来のプロイセン宰相、1871年以来のドイツ帝国宰相 であるビスマルクは退任した57 。
即位前のヴィルヘルム2世はドイツ帝国の建設者であるビスマルクを尊敬していたが、即位後には親政に邪魔な存在となっていた11 。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって社会主義者鎮圧法は延長されないことが最終的に確定されると同時に「世界政策」と呼ばれる帝国主義 的膨張政策が展開されていくことになる67 。しかし列強の既得権とぶつかるこれらの政策は、軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、ロシア帝国 やイギリス帝国 との関係を悪化させることになる。
宰相カプリヴィ時代 ビスマルクの後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相には、海軍大臣レオ・フォン・カプリヴィ が任じられた。彼は普仏戦争 で活躍した軍人であり、政治家経験はなかったが人望が厚く、老皇帝ヴィルヘルム1世もビスマルクが辞職する日が来た時には後任の宰相に、と考えていた人物であった。ビスマルクも辞職の際に、後任の宰相として彼を推挙している68 69 。またカプリヴィはホルシュタインが影響力を持っている人物でもあり、ホルシュタインとビスマルクの妥協の人事であったともいえる70 。
ヴィルヘルム2世とカプリヴィは、ビスマルク時代と方針を転換して、労働者保護政策を推進した。この方針転換は「新航路 (Neue Kurs) 」と呼ばれた(ヴィルヘルム2世は「航路は従来のまま、全速前進」と述べていたが、実際にはビスマルク時代から大きな変更が加えられたことから新聞などによってこう呼ばれるようになった71 72 )。1890年5月に「労働裁判所に関する法律」と「営業条例改正に関する法律」の法案を帝国議会に提出し、1890年6月に「労働裁判所に関する法律」がほぼ修正なしで決議された。これにより労働争議を調停する裁判所が設置されることとなった。この労働裁判所は陪審員 が雇用者と労働者の代表から半々ずつ出され、労働者が労働争議 に際して雇用者と対等の立場で議論できる画期的な制度であった73 。営業条例改正法案の方は1891年に成立し、これは「2月勅令」で予告した日曜労働の禁止、女性の夜勤の禁止、13歳以下の少年の労働の禁止、また16歳以下の男女の労働時間の上限をそれぞれ10時間、11時間に制限し、現物賃金支払いも禁止するものだった68 。
こうした「新航路」政策が行われた背景には、与党「カルテル」3党がぼろぼろになった今、左派自由主義勢力と中央党 を懐柔したいという思惑があった74 。そして労働者をドイツ社会民主党 (SPD) から切り離し、政府を支持させる意図があった75 。
しかし、カプリヴィは1892年初頭に帝国議会第一党であるカトリック 政党中央党に迎合するため、ビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める学校教育法の法案を議会に提出した。これは議会内の自由主義勢力の激しい反発を招き、廃案に追い込まれた76 。ヴィルヘルム2世もカプリヴィの提出したこの法案に対して「絶対反対」の立場を示した77 。これはフィリップ・ツー・オイレンブルク がヴィルヘルム2世に「学校教育法は中道政党と共同して行うべきで自由主義勢力の怒りが帝政に向かってこないようにしなければならない」と手紙で書き送ったためであるらしい77 。この騒ぎで1892年3月にカプリヴィはプロイセン宰相職を辞して、ドイツ帝国宰相職のみに留まることとなった76 。後任のプロイセン宰相には、オイレンブルクの兄であるボート・ツー・オイレンブルク 伯爵が任じられた。ドイツ帝国宰相とプロイセン王国宰相職が分離したことは、カプリヴィの権力を弱めることとなった76 。
カプリヴィは1893年に「小通商条約」を可決させ、1894年にはロシアとの間に通商条約を結ぶなど自由貿易政策を推進したが、農業関税引き下げに激怒した国内農業勢力の激しい反発にあった78 。
「新航路」政策によって労働者が政府支持に転じると思っていたヴィルヘルム2世だったが、彼はその効果をあまりに性急に求めたために効果が薄いと感じるようになり、「新航路」政策に疑問を感じるようになった。そこで再び弾圧法規路線に戻った75 。1894年9月、ヴィルヘルム2世とボート・ツー・オイレンブルクは「転覆政党に対する闘い」と称して「転覆防止法 (Umsturzgesetz) 」という政府への政治的反対行為の処罰を強化する法律を提起した75 。議会の反発を買うことを恐れたカプリヴィがこれに反対し、結局ヴィルヘルム2世は1894年10月26日にカプリヴィもボートもそろって宰相職から罷免した78 。この決定もリーベンベルクにおいて、つまりオイレンブルクとヴィルヘルム2世によって決定されたようである。オイレンブルクは1894年初頭頃からホルシュタインとヴィルヘルム2世の間を仲介しているだけの存在から卒業し、ヴィルヘルム2世に独立して影響力を発揮するようになっていた79 。
カプリヴィ時代が終わると「新航路」も終わりを迎えた78 。
宰相ホーエンローエ時代 しかしすでに弾圧法規思想は後退しており、そうした法案を議会で可決させるのは難しかった。1894年年末に帝国議会に提出された「転覆防止法案」は1895年5月1日に否決されている81 82 。1897年5月には公安を乱す恐れのある集会の解散を命じる権利を警察に認める内容の「結社法改正法案」がプロイセン王国議会下院に提出されたが、やはり否決された。1899年6月に「懲役法案」と呼ばれた「工場労働関係保護法案」(労働者の団結権 を奪い、スト破りを妨害しようとした者は禁固刑か懲役刑に処するという内容)が帝国議会に提出されたが、圧倒的多数でもって否決されている81 。弾圧法規が次々と否決される中、皇帝周辺では議会に対する「クーデタ」の噂が囁かれた。この噂は中央党を与党化するのに大きな効果があった80 83 。中央党の与党化の最初の一歩は艦隊法 であった84 。
1897年6月にドイツ東洋艦隊司令官アルフレート・フォン・ティルピッツ が海軍大臣に任じられ、さらに10月にはオイレンブルクと親しい関係にあるベルンハルト・フォン・ビューロー 伯爵(後に侯爵)が外相に任じられた。これらはヴィルヘルム2世の「世界政策」を推進するためにオイレンブルクが考えた人事であった79 。ティルピッツが中心となり大規模な建艦計画が立てられた。それに基づいて1898年3月28日に第一次艦隊法、1900年6月12日には第二次艦隊法が帝国議会で可決された。第二次艦隊法では現在27隻の戦艦 を38隻に増強することが定められた85 86 。
社民党は艦隊法を大工業の利益に奉仕する物として批判していたが、中央党はじめ多くの政党が賛成したために可決された87 。これは「ドイツ艦隊協会」(海軍省や軍需産業クルップ などの後押しで創設され、約80万人の会員を有する)による大衆的圧力が各党にかけられていたためである87 。また皇帝の議会に対する「クーデタ」の噂を中央党が恐れていた事も背景となっていた84 。
ホーエンローエは1900年10月16日に老齢を理由に宰相を辞することとなったが88 、中央党と政府の協力関係は後任の宰相ビューロー侯爵の政権前半期にも続く89 。
宰相ビューロー時代 1900年10月17日、外相ビューロー侯爵が後任のドイツ・プロイセン宰相に就任した79 88 。ビューローとオイレンブルクは、同性愛関係さえ疑われそうな手紙をやり取りするほど親しい関係にあった90 。ビューローはオイレンブルクに「ビスマルクは権力そのもの、カプリヴィとホーエンローエは閣下の前ではある程度議会や政府の代表者であると自認していました。私は自分を閣下の手足であると思っています。私の代からいい意味において陛下の私的関係による公支配が始まったのではないでしょうか」などと述べている90 。ヴィルヘルム2世もビューローに大いに期待し、ビューローを「私自身のビスマルク」と呼んだという90 。ビューローの栄進の一方、オイレンブルクは次第に政治から遠ざかるようになっていった。1902年にはオーストリア大使の職も辞した。その後は1907年の失脚まで政治にかかわる事はほとんどなくなった91 。
ビューローははじめ帝国議会第一党である中央党 に依存することで帝国議会を安定的に運営していたが92 、ヴィルヘルム2世は政府が中央党に支配されるのを好んでおらず、また中央党内でもマティアス・エルツベルガー ら左派政治家が政府に追従しすぎだとして党執行部への批判を強めていた93 。
政府と中央党の関係が悪化していく中、1904年にドイツ帝国植民地であるドイツ領南西アフリカ でホッテントット族 やヘレロ族 が反乱を起こした。ヴィルヘルム2世とビューローはただちに援軍を派遣して反乱を鎮圧させたが(ヘレロ・ナマクア虐殺 )、1906年秋にその軍の駐留費として帝国議会に提出された追加予算案は社民党と中央党によって否決されたため、政府は12月13日に議会を解散して総選挙に打って出た(「ホッテントット選挙」と呼ばれた)94 95 96 。ビスマルク時代からの与党連合である「カルテル」3党に加えて、左派自由主義3党(自由思想家連合、自由思想家人民党、ドイツ人民党)も対外的問題や植民地政策については政府の方針を支持することを表明した。1907年1月に行われた選挙の結果、この6党は議会の過半数を獲得した97 98 。選挙後に6党は連立するようになり議会内に「ビューロー=ブロック」と称された一応安定した与党連合が形成されるようになった98 99 。とはいえ左派自由主義勢力は対外問題や植民地問題で政府を支持しただけであり、内政問題では政府とは依然大きな隔たりがあった100 。
1906年4月28日、マクシミリアン・ハルデン というユダヤ人 ジャーナリストが「皇帝の側近に同性愛者がいる」という記事を発表した。続く一連の裁判の中でハルデンは「反ユダヤ主義的な国粋主義の同性愛者の一味が皇帝を操っており、強大な大国としての政治を不可能にしている」と主張した101 。ハルデンはビスマルクやホルシュタインの証言をもとにオイレンブルクを男色家として糾弾し、1908年5月8日にオイレンブルクが同性愛の容疑で逮捕されるに至った(ハルデン=オイレンブルク事件 )102 。その後オイレンブルクは病気療養を理由に釈放されたが、この事件により完全に失脚した。ビューローはじめこれまでオイレンブルクの恩恵に浴していた者たちも、一斉にオイレンブルクと距離を取るようになった103 。この一件はヴィルヘルム2世をかなり不安にさせたらしい。ヴィルヘルム2世はビューローに不信感を持つようになり、また皇帝権威を大きく失墜させる事件を起こしてしまう103 。
1908年10月28日、イギリス陸軍大佐エドワード・ジェームズ・モンタギュー=スチュアート=ワートリー とヴィルヘルム2世のドイツの内政と外交について語った対談が、イギリスの新聞『デイリー・テレグラフ 』に掲載された。この対談でのヴィルヘルム2世の「軽口」が国内外で問題視された(デイリー・テレグラフ事件 )。帝国議会から皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになり、宰相ビューローからも擁護してもらえず、窮地に陥ったヴィルヘルム2世はこれを静めるためビューローに対して「今後は憲法にのっとって政治を行う」と約束する羽目となり、帝国議会の威信が強まった100 104 。以降ヴィルヘルム2世の権力は事実上軍事に限定され、宰相の権力基盤は皇帝から帝国議会多数派に移行していった(とはいってもなおも皇帝は最高権威で在り続け、政府高官にとってヴィルヘルム2世から支持を得ることは自らの立場を強化するのに重要なことであったが)105 。この件でヴィルヘルム2世はビューローを完全に「裏切り者」と看做すようになった。ヴィルヘルム2世はビューローを公然と「腐れ肉」などと呼ぶようになった106 。しかしヴィルヘルム2世の「個人的統治」の終焉は、ドイツ帝国に深刻な「指導者不在」の状態を招くこととなる107 。
イギリスとの建艦競争 によって巨額になりはじめた財政赤字が深刻化すると、ビューローは相続税 の対象拡大、消費税 の値上げ、新聞広告税 の導入などによって賄おうとしたが、議会のあらゆる勢力から批判され、「ビューロー=ブロック」は崩壊した。窮地に陥ったビューローだが、ビューローに反感を持っていたヴィルヘルム2世は彼を救おうとはしなかった。ヴィルヘルム2世は1909年7月14日にビューローの辞表を受理した108 。後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相には、テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク が任じられた108 。
宰相ベートマン時代 「ビューローブロック」崩壊後に誕生したベートマン内閣は保守党、帝国党、中央党を政府の支持政党として獲得し、「黒青ブロック」を形成した109 110 。黒はカトリック、青はプロテスタント ・ユンカー を意味している110 。しかし1912年1月の帝国議会選挙で「黒青ブロック」は惨敗し、社民党が躍進して帝国議会第一党に躍り出た110 。
「黒青ブロック」は崩壊し、帝国議会と政府の距離が急速に離れる中の1913年10月、ツァーベルン事件 が発生した111 。軍の横暴として大騒ぎになったが、宰相ベートマンは陸相エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン の圧力を受けて軍の立場を支持したが、これに対して帝国議会は保守党を除く全政党が宰相不信任を決議した112 。だが、ドイツ帝国においては宰相の任免権は皇帝にあり、宰相が議会の不信任決議に従う義務はない。結局ベートマンはヴィルヘルム2世の支持を得て地位を維持し、事件に関係した軍人達も処罰されることはなかった112 。
しかしこの件で政府と議会に大きな亀裂が生じた113 。
外交政策
親英反露 1890年6月17日に切れる独露再保障条約 の更新をロシア帝国は求めていたが(この要請はビスマルク退任前に行われていた)、ヴィルヘルム2世はこれを拒否した。これは彼がロシアとの関係よりオーストリア やルーマニア との関係を重視したためである68 。またロシアと対立するイギリスを取り込む意図もあった114 。これによりロシアとフランスが接近をはじめ、1894年には露仏同盟 が締結されてしまった114 。当時のフランスは普仏戦争 以来、エルザス=ロートリンゲン(フランス名アルザス=ロレーヌ )の奪還を狙って反独姿勢をますます強めていた(反ユダヤ主義 を背景にしたドレフュス事件 の発生にも象徴されるようにフランスでは産業化に伴って排外主義・人種差別主義が高揚していた)115 。露仏同盟はドイツを敵視したものであると同時に、イギリスをも敵視したものであった。フランスはアフリカ において、ロシアはアジア においてイギリスと植民地 争奪戦を繰り広げていたからである116 。
1890年7月1日には、ドイツはイギリスとの間にヘルゴランド=ザンジバル条約 を締結した。これを機にイギリスを三国同盟 側に引き込もうという意図もあったが、それはイギリス側に拒否された114 。とはいえ親英反露はこの後しばらくドイツの外交政策の基本方針となる。英露の対立関係の中でどちらか一方にだけ与しないというビスマルク時代の外交方針はここに破棄されたのである114 。イギリスとドイツの関係は、基本的には1897年頃までは悪くなかった117 。
しかしヴィルヘルム2世は1894年11月にロシア皇帝(ツァーリ )に即位したニコライ2世 とは個人的に親しくしていた。二人は英語 で手紙を送りあう親密な間柄だった118 。
帝国主義とイギリスとの対立 ドイツはビスマルク時代にアフリカや太平洋地域において植民地を獲得していたが(ドイツ植民地帝国 )、イギリス(イギリス帝国 )やフランス(フランス植民地帝国 )に比べると圧倒的に少なかった。そのためヴィルヘルム2世は、より多くの植民地を獲得してドイツを「陽のあたる場所」に導くことを目指した119 。「世界政策」とよばれる膨張政策が開始されることとなった120 。ヴィルヘルム2世が植民地拡大にこだわったのは、覇権主義 より非軍事的要因が大きかった。植民地政策は国民の関心を国内問題から対外問題にそらし、国内世論を統一するうえで最も有効な手段であった120 。またビスマルク時代以降、ドイツは大きな戦争に巻き込まれることも無く、産業化に成功し経済規模は拡大していた。1875年に4200万人だったドイツの人口は、1913年には6800万人に増加していた。この余剰人口を海外へ移住させたいという意図もあった121 。
1890年に外務省内に植民地局を設置させ、1894年からこの局に植民地に関する全権を任せ、植民地を一括管理下においた(同局は1907年に帝国植民地省として独立した省庁になる)122 。1895年にはロシアの求めに応じてフランスと共に日本 に三国干渉 をかけ、遼東半島 を清 に返還させた。三国干渉はドイツにとって極東 進出の足がかりにするとともにロシアに極東の権益に関心を持たせることによってヨーロッパや中近東 における同国の影響力を下げようという意味があった123 。三国干渉後まもなくドイツに極東進出のチャンスがやってきた。1897年11月に山東省 においてドイツ人カトリック宣教師が殺害されたのである(曹州教案 )。この事件を口実に清に遠征を行い、翌1898年に清から山東半島 南部の膠州湾租借地 を獲得した11 119 124 。更にこの直後に南太平洋のカロリン諸島 やマリアナ諸島 も獲得した125 。
とはいえ、それ以外の植民地拡大はなかなか捗らなかった。植民地拡大には、なんといっても巨大な海軍力が不可欠であった。元来ドイツは陸軍大国であり、海軍は陸軍の付属的な存在と看做されて軽視されてきた。ヴィルヘルム2世はアメリカの海軍理論家アルフレッド・セイヤー・マハン の著作に強い影響を受けていたため、世界を制するには海を制する必要があり、それには巨砲を搭載した巨大戦艦が必要であると確信した86 。ヴィルヘルム2世は1896年1月18日の演説で「ドイツ帝国は今や世界帝国となった」、1898年9月23日の演説で「ドイツの将来は海上にあり」と宣言した121 126 。
1897年6月にアルフレート・フォン・ティルピッツ が海軍大臣に就任し86 、彼の下で大規模な建艦計画が始動し、艦隊増強の指針を定めた「艦隊法 」が制定された。これを恐れたイギリスも自国艦隊の増強を開始した。当時のイギリスの海軍力は世界最強であり、ドイツがイギリスに対抗し得る海軍力の到達点は果てしなく、英独両国の建艦競争 は泥沼化することとなった86 。とはいえドイツにとって、艦隊とはあくまでイギリスに「ドイツ艦隊侮りがたし」と思わせることで植民地争奪交渉を有利にするための政治的道具であった。したがって実際にイギリスに追いつく必要はないし、イギリスに危険と認識させられれば十分であった(ティルピッツはこれを「危険艦隊」思想と呼んだ)118 。
1900年以降のヴィルヘルム2世の「世界政策」は、2つの方向性で行われた。一つはアフリカに大植民地を得ること、もう一つはバルカン半島 や中近東など南東にドイツの勢力を拡大していくことであった。後者はドイツ、オーストリア、オスマン帝国 の同盟によって経済的統一体を作ることを目指していた。その象徴がバグダート鉄道 と3B政策 であった127 。ドイツは1888年に、オスマン帝国からアナトリア鉄道 の建設の特許を得ていた。1898年のヴィルヘルム2世のオスマン帝国訪問で、ドイツの中近東への進出政策は加速した。この訪問の際に、ヴィルヘルム2世は「ドイツは全世界3億のイスラム教徒 の友である」と演説したが、これはイスラム教徒を数多く版図におさめるイギリス、フランス、ロシアを刺激した。この演説は、ドイツがイスラム教徒と結託して英仏露のイスラム支配体制を転覆しようと企てている証拠として、英仏露に後々まで引用された128 。1903年からはドイツ資本のバグダード鉄道 が鉄道建設を本格化させた。ベルリン 、ビザンティン 、バグダード を結んでドイツの影響力をペルシャ湾 まで及ぼそうとした(3B政策)。しかし「3B政策」は、ロシアのバルカン・中近東への南下政策やイギリスのカルタッタ 、カイロ 、ケープ を結ぶ「3C政策 」に脅威となるものであった。英仏露が激しく反発し、バグダード鉄道の鉄道建設は大幅に遅れ、最終的に第一次世界大戦のドイツの敗戦によって挫折することとなる129 。
1896年、南アフリカのイギリス植民地ローデシア の南アフリカ会社騎馬警察隊が、ボーア人 国家トランスヴァール共和国 の金鉱を狙って同国に侵入したジェームソン侵入事件 において、ヴィルヘルム2世は鎮圧に成功したトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガー に宛てて祝電を送った。この祝電はジェームソン侵入事件を批判するイギリス以外のヨーロッパ諸国からは称えられたが、イギリスとの関係は悪化した130 。祖母ヴィクトリア女王からも手紙が贈られてきて苦言を呈された131 。これ以降ヴィクトリアは様々な理由を付けてヴィルヘルム2世の訪英を拒否するようになり、再び訪英を許されたのは1899年になってのことだった132 。
ドイツ包囲網 ドイツもイギリスとの関係回復は常に図ろうとしていた。1899年11月にヴィルヘルム2世は訪英を行い、アングロサクソン 族とチュートン族 の大同盟(英米独三国同盟)構想を提唱したが、実現しなかった133 。1899年9月に清で義和団の乱 が発生し、駐清ドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー 男爵が義和団によって殺害されると、ヴィルヘルム2世はただちにアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー 伯爵元帥率いる遠征軍を清に派遣した。ヴァルダーゼーは八カ国連合軍 全体の最高司令官にも就任した134 。八カ国連合軍は北京を占領した。この際にドイツはイギリスとの間に揚子江協定 を締結している。しかしドイツは完全にイギリス側に立ってロシアと対立する意思は無く、満洲の権益問題をこの協定から外している。これは極東の権益問題においてロシアを牽制しておきたいイギリスの希望を満たす物ではなかった133 。1901年にもドイツはイギリスに同盟を提案しているが、この時もドイツはロシアと決定的な対立をしたがらなかったため、同盟は実現しなかった。結局イギリスは「栄光ある孤立 」を放棄する相手としてドイツではなく日本 を選び、1902年に対ロシアを目的とした日英同盟 が締結される133 。
こうした状況の中、ドイツはロシアとイギリスを東アジア植民地化を巡って対立させることでドイツの国際的地位を有利にしようとした133 。またこの頃からヴィルヘルム2世は側近の忠告で台頭する日本に警戒心を持つようになり、黄禍論 を固め、ロシアを助ける必要性を感じるようになっていた135 。一方イギリスはロシアを抑えるため、日本を支援した。またイギリスは日露戦争開戦と共にフランスに接近し、1904年4月8日に英仏協商 を締結している133 。これはフランスがエジプト におけるイギリスの権益を認める代わりに、イギリスはフランスがモロッコ を植民地化することを認めるというものだった136 137 。
これに対抗してヴィルヘルム2世は1905年3月31日に突然モロッコのタンジール を訪問し、フランスに反感を持つスルタン にモロッコ独立を支援することを約束した(第一次モロッコ事件 )。ヴィルヘルム2世のこの行動は長らく彼の好戦的性格の表れとされてきたが、今日ではヴィルヘルム2世はこの訪問に消極的で宰相ビューローと外務省高官ホルシュタインがヴィルヘルム2世に強要してやらせたものであることが判明している138 。ドイツはフランスに対してモロッコ問題の国際会議を求めた。フランス首相モーリス・ルーヴィエ が対独強硬派のフランス外相テオフィル・デルカッセ を辞職させた結果139 、1906年1月から4月にかけてアルヘシラス会議 が開催された。宰相ビューローは同盟国のイタリア、オーストリア=ハンガリー、そして門戸開放 を国是にするアメリカがドイツの立場を支持するだろうと思っていたが、実際にはまったくそうならなかった139 。アメリカもイタリアも英仏を支持し、同盟国オーストリアさえも消極的にドイツを支持するに留まり、結局ドイツはアフリカのフランス領の一部で何も資源のない領域のドイツへの割譲だけで譲歩せざるを得なくなった。ドイツの孤立が深まっただけの結果となった136 。
1905年7月24日にヴィルヘルム2世はロシア皇帝ニコライ2世とフィンランド 湾のビヨルケ水道で会見し、「ビヨルケの密約」を結んで「独露のどちらかが第三国から攻撃を受けた場合、他方はヨーロッパにおいて軍事的支援を行う」ことを約束した。しかしロシア側はフランスとの同盟を理由にあくまでこれを密約とし、さらにロシア外相セルゲイ・ヴィッテ がロシアに何の得もない約束であるとニコライ2世に上奏したこともあり、最終的にこの密約はロシア側によって葬られた118 136 140 。
日露戦争は結局ロシアの敗北に終わる。イギリスはもはや東アジアの権益問題においてロシアは脅威とはならないと判断し、むしろ中近東権益問題や建艦競争の相手であるドイツを危険視するようになる。イギリスはロシアとの接近を開始し、1907年に英露協商 が成立した136 141 142 。日本も同盟国イギリスに倣い、日仏協約 、ついで日露協約 を締結した143 。着実と進むドイツ包囲網にヴィルヘルム2世は焦っていた143 。
日露戦争後、中国分割 ・門戸開放政策 をめぐって日米の対立は深まった。この状況を見て、ドイツはアメリカ・清と反日同盟を結ぼうとした143 。反日・反英の清はこれに乗り気だったが、アメリカにはイギリスと対立する意思はなかった。日本外相小村寿太郎 もこの動きを警戒して先手を打ち、1908年に日米協商 を締結している。最終的に1910年から1911年にかけてアメリカはドイツと距離をとってイギリスに接近するようになり、これを受けてイギリスもこれまでの反米姿勢を修正して1911年に更新された日英同盟から日米戦争発生時の日本援助義務条項を削除した144 。こうしてドイツに好意的な国は貧弱な清とオスマンだけという厳しい状態となった145 。
前述したが、1908年10月28日にイギリスの新聞「デイリー・テレグラフ 」にイギリス軍大佐とヴィルヘルム2世の対談が掲載された(デイリー・テレグラフ事件 )100 。その対談でヴィルヘルム2世は自分は親英論者であること、そのために自分はドイツ国内で孤立していること、またボーア戦争 の際に露仏両国から対英大陸同盟の働きかけがあったが、自分はそれに乗らなかったこと、ボーア戦争においてイギリスが勝利できたのは自分の案のおかげであること、ドイツ艦隊の増強はイギリスをターゲットにしたものではないことなどを主張した。ヴィルヘルム2世としては英国の反独感情を和らげようとして行った対談だったのだが、「ドイツ皇帝の不遜な態度」にかえってイギリス世論が反発し、露仏も激しく反発してドイツはますます孤立してしまった100 。
モロッコで起こった反フランス暴動を鎮圧すべく出動したフランス軍に対抗して、ドイツ外相キダーレンの主導でドイツ政府は1911年7月1日にアガディール に艦隊を派遣し、モロッコの領土保全と門戸開放 を訴え、フランスのモロッコ権益を侵そうとして対立を深めた(第二次モロッコ事件 )。ドイツはモロッコ問題から手を引く条件としてフランス領コンゴ のドイツへの譲渡を要求し、中央アフリカへの進出を狙ったが、イギリスがフランス断固支持を表明したため、結局ドイツが新たに獲得した植民地はたいして価値のないドイツ領カメルーン の領土拡大だけだった146 147 。
1912年春にイギリスは陸軍大臣ホールデン子爵 を団長とする「ホールデン使節 」をドイツに派遣し、英独の交渉が行われたが、どちらも目標を達することはできなかった。ドイツが求めた大陸戦争が発生した場合のイギリスの中立の保証はイギリスによって拒否され、イギリスが求めた建艦競争の休戦の提案はドイツ側が拒否した。宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク は海軍の軍備増強に制限をかけることに前向きだったのが、海軍大臣ティルピッツがこれに強硬に反対した。ヴィルヘルム2世もティルピッツを支持したため、最終的に拒否することとなったのであった148 。
大元帥としての軍務 しかしヴァルダーゼーは伝統的なプロイセン軍人らしく陸軍増強論者であったため、植民地拡大のために海軍を増強したがっていたヴィルヘルム2世と意見対立を深めた152 。ヴィルヘルム2世はヴァルダーゼーを更迭し、1891年1月31日にアルフレート・フォン・シュリーフェン 伯爵を参謀総長に任じた153 。ヴィルヘルム2世は「参謀総長は一種の書記官として余の側におればよい。従って余にはもっと若い参謀総長が必要である」と述べた154 。
シュリーフェンは決戦兵器がすでに騎兵から速射兵器に移っている事を強く認識し、騎兵は遠方偵察用と割り切るなど軍の近代化を進めた155 。当たり前のことのようであるが、当時のプロイセン軍はいまだ騎兵信仰などの保守主義が蔓延していた。普仏戦争では気球も機関銃もないプロイセン軍が勝利したという成功例もそれを後押ししていた156 。ただしシュリーフェンはヴィルヘルム2世の機嫌を損ねることは決してしなかった。ヴィルヘルム2世は騎兵突撃を愛していたので御前演習では常にクライマックスに騎兵突撃が行われたが、シュリーフェンはこれに抗議をする事はなかった155 。陸軍増強のための予算が海軍の建艦費に流用されても抗議することは無かった155 。
露仏の同盟関係が強化されていく中で、シュリーフェンはロシア・フランスと戦争になった場合、対ロシアの東部戦線 は最低限の兵力で以って対処し、対フランスの西部戦線 の右翼に戦力を集中させ、ベルギーの中立を犯して通過し、北フランスへなだれ込み、南下してパリの背後に出てそこからスイス国境まで北進するというシュリーフェン・プラン を1897年から1905年にかけて策定した157 158 159 。この案によればロシア軍が東プロイセンに侵攻してこようが、イギリス軍がデンマークに上陸してこようがすべて無視し、対フランス戦に集中してフランスを6週間で片づけ、しかる後にそれらの敵と対峙することになる159 。
1903年末にヴィルヘルム2世は参謀総長シュリーフェンに近衛第一歩兵師団長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ (小モルトケ)中将を参謀次長に任じる旨を告げた160 。小モルトケは大モルトケの甥にあたり、かつて伯父の副官としてよく宮廷に出入りし、ヴィルヘルム2世から「ユリウス」というあだ名で呼ばれるほど皇帝と親しい間柄だった161 162 。この任命に軍事的意味はほとんどなく、ヴィルヘルム2世は「モルトケ」の「ブランド名」に惹かれていただけであるという163 。シュリーフェンは小モルトケを評価していなかったが、シュリーフェンは古風な上流階級出身者だったから皇帝の意向には黙って従った161 。
1906年には小モルトケを参謀総長に任じた。小モルトケはシュリーフェン・プランの修正を開始した。折しもドイツ軍はフランス軍の第17号計画 を掴んでいた。それによるとフランス軍はロートリンゲン(左翼)に攻撃をかけてくるつもりであった。そこで左翼軍であるロートリンゲンの第6軍、アルザスの第7軍からも攻勢を開始させることとした。これにより右翼軍は若干規模を縮小されることとなった164 。
第一次世界大戦
開戦 ヨーロッパ列強諸国間の対立は強まり、1910年以降にはヨーロッパ各国で近い将来の軍事衝突は不可避との認識が共有されるようになり、各国は軍拡に力を入れる165 。
1914年6月28日にドイツの同盟国オーストリア=ハンガリー帝国 皇太子フランツ・フェルディナント 大公 夫妻がボスニア (1908年にオーストリアが併合した)のサラエボ を訪問した際にセルビア人 民族主義団体に所属するセルビア人学生により暗殺された(サラエボ事件 )166 167 。同地はセルビア人が多数であったため、隣接するセルビア王国 にアイデンティティを感じてオーストリアの支配に反発する者が多かったのである166 。オーストリア政府は暗殺の背後にセルビア王国がいると主張し、セルビアに対して戦争も辞さない態度で臨んだ。しかしセルビアのバックにはロシア帝国がおり、戦争となればロシアからセルビアへの軍事援助が予想されたのでオーストリアとしてはドイツの支持を取り付ける必要があった167 。
1914年7月5日にヴィルヘルム2世はオーストリア大使に対してロシアが介入した場合はドイツがオーストリアを援助することを約束し、セルビアとの戦争を決意しているなら今が最も有利な状況であると述べた167 168 。翌7月6日には宰相ベートマンもオーストリアに支援を約束する「白紙委任状」を与えた169 。ドイツの支持を取り付けたオーストリアはセルビアに最後通牒を送る。7月25日にオーストリアはセルビア政府の回答を不服としてセルビアとの国交を断絶。7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し170 、セルビア首都ベオグラード への砲撃を開始し、第一次世界大戦 が勃発した171 。
7月31日にロシアが動員令を発令するとドイツも8月1日に総動員令を布告し、ロシアに対して宣戦を布告した。同日ヴィルヘルム2世は国民に向けて「余はいかなる党派の存在も知らぬ。あるのはただドイツ人のみである」と演説し、挙国一致を求めた172 173 。8月3日にはロシアの同盟国であるフランスにも宣戦を布告した171 。イギリスはドイツに対してベルギー の中立を守るよう要請したが、「シュリーフェン・プラン 」にしがみついていたドイツ軍部としてはベルギーへ侵攻しないわけにはいかなかった174 。ドイツは8月4日にベルギー領へ侵攻を開始したが、これを不服として同日イギリスはドイツに宣戦を布告した170 。
ヴィルヘルム2世らドイツ指導部が開戦を焦るかのような行動をとったのには幾つか理由がある。まずオーストリアはドイツに残された最後の同盟国であり、オーストリアの動揺はドイツにとって死活問題であった165 。オーストリアは確実にドイツ側に繋ぎとめておかなければならないし、ロシアが3B政策の妨害をしてこないよう抑えつけておきたかった165 175 。またイギリスは歴史的に東ヨーロッパ にほとんど関心が無かったので、少なくともイギリスは即座には介入してこないだろうと考えられたことがある169 。さらに「ヨーロッパの反動の砦」であるロシア帝国との戦争ならば帝国議会第一党であるドイツ社会民主党 (SPD)から戦争支持を期待することができた(挙国一致体制で戦争に突入できる)175 。そしてもう一つ大きな理由にドイツ軍部が1916年か1917年にはドイツ軍のロシア軍に対する軍事的優位が消滅すると考えていたことがある。参謀総長の小モルトケは1914年6月に「戦争は早ければ早いほどドイツに有利である」と述べている。こうした軍部の焦燥がヴィルヘルム2世はじめ政治指導者にも伝染していた167 。
大戦前期 ヴィルヘルム2世は小モルトケを更迭し、代わって1914年11月3日付けでプロイセン陸相エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン を参謀総長に任じた179 。ファルケンハインはさしあたってドイツ軍をヴェルダン ・リーム ・ノヨン の線まで後退させた。ファルケンハインは宰相ベートマンに対して「この戦争が望ましい結果に終わる事は疑いないが、それがいつ、どこで、どんな形で達成されるかは現状全く予想できない」と述べている180 。
1914年クリスマス までには西部戦線は膠着状態となった181 。当時の兵器水準では防御のほうが攻撃に勝ったため、大量の戦死者が発生する塹壕戦 などの消耗戦 になった182 。戦線がなかなか動かなかったため、ベルギーの大部分と北フランスの主要な工業地帯は大戦中ドイツ軍が占領し続けた181 。
ヒンデンブルクとルーデンドルフの指揮する東部戦線も苦戦していた。オーストリア軍がレンベルクの戦い (de )でロシア軍に敗れてガリツィア 方面は危機に陥った。ポーランドでもロシア軍と中央同盟国 (ドイツ・オーストリア)の一進一退の膠着状態が続いた181 。ヒンデンブルクやルーデンドルフは東部戦線の増強を求めたが、参謀総長ファルケンハインはなおもシュリーフェン・プランの伸翼作戦を実行すれば西部戦線を打開できると信じていたので応じなかった183 。ヴィルヘルム2世は東部戦線増強派と西部戦線増強派の論争を見守るだけだったが184 、1915年7月2日のポーゼン での御前会議ではファルケンハインを支持して東部戦線での大作戦に反対した185 。
開戦後イギリスはドイツ経済を締め上げるために海上封鎖を開始した。戦争1年目はドイツが物資の面で十分に準備していた事もあって大きな食糧困難は発生しなかったが、年を経るごとにドイツの食糧事情が悪化することは明らかだった182 。ドイツはイギリスの食糧事情も悪化させようとイギリス周辺海域の船を全て潜水艦Uボート によって沈めるという「無制限潜水艦作戦 」を開始した186 187 。しかしこれはアメリカ国民やアメリカ船籍が巻き添えを食うとして中立国アメリカ合衆国 の反発を招いた。アメリカの抗議に応じてドイツ政府は1915年8月に今後は無警告で客船を撃沈しないことを約束した。ついで9月にはアメリカ船舶が攻撃を受ける可能性を減少させるために英仏海峡 やその西側からUボートを引き上げた186 。無制限潜水艦作戦は特に宰相ベートマンが反対していた。ベートマンはアメリカを強国と認識し、アメリカ参戦だけは回避せねばならないと考えていた。対して軍部はアメリカを軍事小国と過小評価していた188 。海軍大臣ティルピッツはなおも無制限潜水艦作戦が勝利の切り札であると主張し続けたため、ヴィルヘルム2世は宰相ベートマンの進言を受け入れて1916年3月にティルピッツを解任した189 190 。
3B政策やドイツ人軍事顧問採用などかねてから親独的だったオスマン帝国 は1914年10月29日にロシア軍に攻撃を開始し中央同盟国側(ドイツ側)で参戦した。これは戦争前期のドイツ外交の成功の一つであった191 。オスマンの参戦でブルガリア王国 の重要性が増し、連合国陣営と中央同盟国陣営はそろってブルガリアを自陣営に引きこもうと必死になったが、結局ブルガリアは1915年9月にドイツと同盟して中央同盟国側で参戦した192 。
1915年4月末にイープル においてドイツ軍が初めて新兵器毒ガス (塩素ガス )を戦場で大量使用した。連合軍も直ちに塩素ガスを毒ガス兵器として使用するようになった。以降両陣営での毒ガス兵器の使用が恒常化し、ホスゲンガス 、ジホスゲンガス 、そしてついには無色無臭のマスタードガス が開発されて戦場は地獄と化した。一次大戦において両陣営が使用した砲弾の4分の1は毒ガスを詰めた化学砲弾であったといわれている189 193 。
1915年末からファルケンハインは本格的に西部戦線に重点を移し、1916年2月にヴェルダンの戦い を開始した189 。
大戦後期「ルーデンドルフ独裁」 ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍のブルシーロフ攻勢 など一連の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。ファルケンハイン解任を求める声が各方面から強まり、ヴィルヘルム2世も無視できなくなった194 。1916年8月27日、ルーマニア が連合国側で参戦したのを機にファルケンハインは更迭されることとなった195 。
ヴィルヘルム2世は後任の参謀総長に国民人気の高いヒンデンブルクを任じた。参謀次長には彼の参謀長であるルーデンドルフを任じた195 。これは文官政府の力だけでは国内の政治状態を収めるのは難しくなってきたと判断した宰相ベートマンの推薦によるものだった107 。しかしヴィルヘルム2世自身はヒンデンブルクとルーデンドルフが好きではなかったという196 。
これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。彼はヴィルヘルム2世やベートマン、帝国議会など政治指導者に干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった197 198 。依然としてヴィルヘルム2世は軍の大元帥・最高司令官ではあったが、開戦以来薄かったその存在感がますます薄くなり、もはや陸軍最高司令部と帝国議会多数派(社民党・中央党など)の間をうろうろするだけの周辺的存在に過ぎなくなってしまった199 200 201 。
戦争開始からはじめの2年ほどは宰相ベートマンの指導の下に「城内平和体制」と称する全政党・労働組合に政府への協力を求める挙国一致体制が構築され、戦争目的論争は締め出されていた172 202 。ところが戦時国債 発行のたびに宰相ベートマンが戦争の見通しを帝国議会で説明せねばならず、そうした中で1916年以降になると帝国議会内でも戦争目的をめぐって二つの党派が出現した。「勝利の平和」(敵領土の併合、敵植民地の獲得、敵から賠償金取り立て)を主張する右派勢力と「和解の平和」(無併合、無賠償でよいので早期に敵と平和条約を締結)を主張する左派勢力である。「勝利の平和」はドイツの戦況を考えるとあまりに現実離れしており、「和解の平和」の立場が強まっていった。「和解の平和」を最初に唱えたのは社民党であった。1917年になると社民党のみならず中央党や進歩人民党 (略称FVP、自由主義左派勢力の合同政党)(de )なども「和解の平和」を支持するようになった203 。
1917年3月にはロシア革命 により300年続いたロマノフ朝 のロシア帝政が崩壊した。ドイツ国民の間にも講和を期待する声が高まり、反戦運動や政府に改革を求める運動が活発になった。3月末には帝国議会内に内政改革を求める憲法委員会が創設された。こうした動きに対応してヴィルヘルム2世は4月7日に発表した復活祭 勅書の中で「戦時中にプロイセン選挙法改革の準備に着手して戦後に実施する」と約束した204 。4月ストライキを経て社民党や中央党など帝国議会多数派の動きは更に活発化した。宰相ベートマンは「和解の平和」論には乗らなかったが、選挙権問題など内政問題で帝国議会多数派に譲歩を決めた。ベートマンの求めに応じてヴィルヘルム2世は7月11日にプロイセン王国政府に対して三等級選挙権 制度(de )を改めて平等選挙 を旨とする選挙法改正を命じる勅書を出した205 。だが帝国議会多数派はベートマンの努力を評価することは無く、彼を批判し続けた206 。
1917年2月にドイツ外相アルトゥール・ツィンメルマン がメキシコ に送った「アメリカ参戦の場合、ドイツはメキシコと同盟を結ぶ用意があり、テキサス州 、アリゾナ州 、ニューメキシコ州 の中の旧メキシコ領を取り戻すのを援助してもよい。ドイツには日本と単独講和の準備があり、その後日独墨で反米同盟を締結したい」という電報 がイギリス軍に傍受され、イギリスはこれをアメリカに通達した。激怒したウッドロウ・ウィルソン 大統領は電報を国民に公表し、アメリカの反独感情が強まった207 208 。さらに1917年2月からドイツ海軍はイギリスに対する無制限潜水艦作戦 を再開した。かねてからドイツの潜水艦作戦に迷惑していたアメリカはついに1917年4月6日にドイツに宣戦を布告した。宰相ベートマンはアメリカの参戦を防ごうと無制限潜水艦作戦再開に反対していたが、ルーデンドルフら軍部は相変わらずアメリカを過小評価し、またアメリカはすでに実質的に参戦しているも同じと主張して強行したのであった209 210 。
選挙法の問題や無制限潜水艦作戦を巡る問題でのベートマンの「弱腰」は帝国議会少数派の保守派やルーデンドルフら陸軍最高司令部から批判に晒された。また帝国議会多数派もベートマンを「平和的でない」と看做していたため陸軍最高司令部によるベートマン排斥の動きに協力した211 。ヒンデンブルクとルーデンドルフは辞職をちらつかせて、7月13日にヴィルヘルム2世にベートマンを罷免させた212 213 。帝国議会多数派は後継の宰相を推すことができなかった205 。一方ルーデンドルフは後任に元宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー 侯爵か元海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツ を考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局先日陸軍最高司令部に来てルーデンドルフらの覚えが良かった戦時食糧管理庁次官ゲオルク・ミヒャエリス が就任することとなった213 214 。全くの無名の人物であり、ヴィルヘルム2世は「まだ見たこともない人物だが」と呟いたという210 。
ミヒャエリスは陸軍最高司令部の忠実な代弁者として行動し、陸軍最高司令部の軍事独裁体制が完成した。帝国議会多数派も敗戦を避けるためには陸軍最高司令部に協力するしかない面があった205 。議会外に「勝利の平和」を主張する超党派組織としてティルピッツを議長とする祖国党が結成され、125万人の会員を有するに至った。この組織の活動はファシズムの先駆けとも言うべきものであり213 、プロイセン選挙法改正の審議にも影響を与え、結局敗戦までプロイセン議会が選挙法改正を認めることは無かった215 。しかし1917年夏に最初の水兵の反乱があり、更に軍需工場でのストライキはどんどん革命的になってきた。こうした情勢の中ミヒャエリスは帝国議会と対立を深めて不信任を突き付けられた215 。これを受けてヴィルヘルム2世は陸軍最高司令部からの抗議を無視してミヒャエリスを解任した216 。
一方戦局は悪化が続いていた。ドイツ軍は連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線 (de:Siegfriedstellung )」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御を固めた。1917年4月のアラス会戦 (de )では連合国が初めて戦車を投入してきた。1917年11月末のカンブレーの戦い (de )では400両も投入してきた。対するドイツは不可欠兵器である飛行機や輸送車両の生産だけで手いっぱいで戦車まで余力が回らなかった215 221 。第二次大戦では「戦車大国」として知られたドイツだが、第一次大戦では「戦車小国」であった222 。
ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」(1918年春季攻勢 )作戦を行った。ドイツ軍は8月初めにはパリ まで80キロまで迫ったが、第二次マルヌ会戦 でフランス軍、アメリカ軍の反撃にあい、ドイツ軍はマルヌ川 の向こうに押し戻された。以降戦いの主導権は連合軍に奪われた225 226 。1918年8月8日、アミアンの戦い (de )でオーストラリア軍 にドイツ軍の戦線が破られた。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した227 228 229 。以降戦況の主導権は完全に連合軍が握り、アメリカ軍が中心となってドイツ軍陣地が次々と落とされ、ドイツ軍は後退を重ねることとなった228 。
大戦末期「ドイツ革命」 ドイツの敗戦が近づく中、同盟国は次々とドイツから離れようとした。1918年9月14日にはオーストリア=ハンガリー帝国が、9月25日にはブルガリア王国が連合国に休戦を懇願した230 。1918年8月末以降ドイツ軍部にも兵士の大量投降や戦意喪失の報告が次々と入ってきていた231 。
ルーデンドルフは戦況を絶望視するようになった。ここにきてヒンデンブルクとルーデンドルフは9月28日に政府に対して一刻も早くウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則 」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府を改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒を送った218 230 232 。外相ヒンツェもこの見解を支持し、敗戦による「下からの革命」を防ぐため、今のうちに「上からの革命」を推し進めねばならぬと主張した230 。ヴィルヘルム2世はこの時まで戦況悪化を認識していなかったので軍部の提案に驚いたが、結局は軍部や外相の言い分を認めた233 。議会政治に反対していたヘルトリングは宰相を辞することとなった230 233 。
10月3日、後任のドイツ・プロイセン宰相に自由主義者として帝国議会から評価が高かったバーデン大公子 マクシミリアン が任じられた。マクシミリアン自身は政党人ではなかったが、社民党、中央党、進歩人民党の三党がマクシミリアンを支持して与党を構成していたため、ドイツで初めての政党内閣となった234 。敗戦が確実になった今、ルーデンドルフは自分の権力をできるだけ他の者に引き渡して敗戦責任を分担させたがっていたのでマクシミリアンが権力を握るのに苦労はなかった。軍部独裁は終焉し、ドイツ史上初の政党政治が始まった230 234 235 。
マクシミリアンはアメリカ大統領 ウィルソンと電報をやり取りして休戦交渉を要請したが、ウィルソンからは10月23日の回答で「軍国主義と王朝的専制主義の除去」を求められた236 。ドイツ国民の間ではヴィルヘルム2世の退位を求める声が強まった236 。マクシミリアンは休戦協定反対派に転じたルーデンドルフの罷免をヴィルヘルム2世に要請し、これを受けてヴィルヘルム2世は10月26日にルーデンドルフを解任した237 238 。後任の参謀次長にはヴィルヘルム・グレーナー が就任した236 239 。しかし、退位はする理由がないと拒否した。
10月28日に憲法改正が告示され、議会主義に基づく立憲君主制が導入された。しかし皇帝大権に関する規定が曖昧になっていたことなどから皇帝権力を温存し「偽装議会主義」に後退させる可能性を留保しているとして批判を集めた240 。結果憲法改正はドイツ国民の印象にほとんど残らず、革命を求める機運は収まらなかった236 240 。退位したくないヴィルヘルム2世は、10月29日、戦況を確認するという名目で不穏な空気に包まれるベルリンを離れてベルギーのスパ に置かれている大本営に移動した241 。時間がたてば状況が変わるかもしれないと何の根拠もなく浅はかにも期待したのである。しかし、当然ながらこれによってベルリン市民の民心はますます皇帝から離反した242 243 。 10月末にウィルヘルムスハーフェン において無謀な作戦への動員を命じられた水兵たちが反乱を起こした。続いて11月4日にキール 市でも水兵が反乱を起こし、労働者がこれに合流してキールは「労兵協議会」によって実効支配された。同様の運動が凄まじい勢いでドイツ全土に広がり、ドイツの主要都市は全て「労兵協議会」によって支配された244 245 。11月7日にはバイエルン王国 においてクルト・アイスナー が中心となって王政打倒の革命が発生し、長き歴史を誇るヴィッテルスバッハ王家 が滅亡した246 。これがきっかけとなって他のドイツ帝国諸邦でも王政打倒の革命が続々と勃発し、ドイツ帝国諸邦の全君主が退位を余儀なくされた246 247 。
ベルリンでも革命熱が収まらなくなり、11月7日に社民党は宰相マクシミリアンに対して皇帝と皇太子の退位を要求し、それが実現できぬ場合は政権から離脱すると通達した248 249 。ただし社民党のこの要求は決して皇室廃止を求める物ではなかった。皇太子ヴィルヘルム の長男ヴィルヘルム への皇位継承についてはこの時点では極左の独立社会民主党 と極右の国家保守党 を除いて全政党に受け入れられていたのである250 。しかしこの期に及んでもヴィルヘルム2世はベルリンにいるマクシミリアンから電話で受けた退位要請を拒否した241 。大本営では前線部隊を率いて国内の革命運動を鎮圧しようなどという現実離れした議論さえ行われる始末だった249 251 。こういう封建的な空気の大本営にいたヴィルヘルム2世は戦争の勃発には自分に責任がないのだから退位せねばならない如何なる理由もないと本気で妄執していた250 。結果なし崩し的に皇室廃止に向かうことになってしまったのである。
進退きわまったマクシミリアンは11月9日午前中に独断でヴィルヘルム2世がドイツ皇帝位・プロイセン王位から退位 したと宣言した252 。皇帝位からは退位したとしてもプロイセン王位からは絶対に退位しないと決めていたヴィルヘルム2世はこれに激怒し248 253 、電話でマクシミリアンを悪漢と罵った。しかしグレーナーから革命運動の鎮圧は不可能であることを告げられた。さらにヒンデンブルクがヴィルヘルム2世に「私は陛下がベルリンの革命政府に捕まるような責任を負うことはできません。オランダへお逃げになるしかありません」と進言した254 。4か月前のニコライ2世の殺害の二の舞は避けなければならなかったのである。ヴィルヘルム2世は怒りに震え、部屋を歩き回っていたが、やがて全てを諦め、静かな調子で外相ヒンツェに亡命の準備をするよう命じた254 。同日に皇妃へ宛てた手紙では、マクシミリアンとシャイデマンの「共謀」を非難し、今やベルリンはボリシェビキの手中にある、と嘆いている。翌11月10日早朝に特別列車でスパの大本営をたってオランダへ亡命 した255 。ホーエンツォレルン家の財産を何両もの貨車に満載して去っていった。似たような境遇に遭ったヨーロッパの王侯達の中でヴィルヘルム2世のように多額の財産を確保して国外退去した者は稀であった256 。亡命前、部下たちと別れる際にグレーナーとは握手を拒んだという。
オランダへ亡命したヴィルヘルム2世ははじめ公式な退位宣言をしないと決め、二人の皇太子にも同様の態度を取らせていた258 。しかし結局1918年11月28日に退位宣言に正式に署名した2 。
退位後 オランダ政府は政治活動の停止を条件にヴィルヘルム2世の受け入れを承諾した。連合国はヴェルサイユ条約 第227条で「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前皇帝としてのヴィルヘルム2世の訴追を決めた259 。この手続きは成文法の違反ではない新しい法概念に基づくものであり、後の「平和に対する罪 」の萌芽的前例となった260 。イギリス政府は講和会議以前からオランダ政府に対してヴィルヘルム2世の身柄引き渡しを要求し続けていたが、オランダ政府はヴィルヘルム2世を拘束しておらず、また彼が引き渡しに関するオランダ国内法に違反していないため引き渡しはできないとして、1920年1月21日に正式に拒否通告を行った261 。連合国は重ねて引き渡し要求を行わず、欠席裁判を行うこともなかった261 。
以降ヴィルヘルム2世はその死までの23年間をオランダで過ごすこととなった。少数の近臣を従えながらユトレヒト州 ドールン の城館で貴族として安楽な余生を送り、かつての臣下を罵りながら趣味として木を伐って過ごした。またこの間に二冊の回顧録を著している15 。ヴィルヘルム2世は過去を顧みて「自分の退位についてはマクシミリアンとヒンデンブルクに連帯責任があるが、亡命の責任は完全にヒンデンブルクにある」と確信するようになった255 。1921年のヒンデンブルクとの書簡のやり取りでヒンデンブルク本人に自らの責任を認めさせている262 。一方でヒンデンブルクは大統領になった後に保守政党国家人民党 にヴィルヘルム2世の退位について追及されるたびに「それはグレーナーに言うべきである」と言って自らの責任を否定している263 。
ヴィルヘルム2世はオランダ亡命中も常に復位の希望を抱いており、戦後もドイツの王党派 や右翼 勢力に対して一定の政治的影響力を保っていた。ドールンを訪れた喜劇作家に贈呈した写真には「朕ここに汝ら臣民が今日までに決定した全てのことを無効とする。ヴィルヘルム」と冗談か本気か分からない文句を書き添えた265 。一方で駐オランダ・ドイツ大使は1926年1月にグスタフ・シュトレーゼマン 外相に送った報告書の中で「皇帝は政治について様々な意見を述べながらも現在の生活状態を改善したいという希望は持っておられません。皇帝の現状は極めて快適であり、心身ともに平穏でおられます。」と書いている266 。
ドイツ旧王侯たちはドイツ帝国時代に自分の統治下にあった州に対して土地や財産の返還請求を求めていたが、ヴィルヘルム2世もプロイセン州 政府に対して同様の交渉を行っていた267 。1926年、ドイツ社会民主党 は長期化する王侯たちとの裁判に疲れ、穏健な法的解決を図ろうとした。それに乗じてドイツ共産党 が強硬な法的解決、すなわち王侯財産没収法案を国会に提出した267 。ヒンデンブルク大統領はホーエンツォレルン家の財産を守るべく「私有財産に対して法的解決を行うのは憲法違反」として反対した。結局この件は国民投票にかけられることとなり、君主派と共和派の激しい争いが繰り広げられた。ちなみにナチ党内でもこの件については意見が分かれた。ナチス左派 のグレゴール・シュトラッサー は王侯財産没収に賛成したが、一方アドルフ・ヒトラー は王侯財産没収を「ユダヤ人のペテン」として批判し、王侯よりユダヤ人から財産を没収せよと主張してシュトラッサーの意見を退けた268 。結局国家人民党や鉄兜団 など保守勢力の大反対運動により王侯財産没収法案は退けられたが、賛成票が1450万票も入ったことについてヴィルヘルム2世は「ドイツには1400万人もの不道徳漢がいる」と不満を述べた268 。
ヒンデンブルクは帝政復古 論者で、ヴィルヘルム2世の復位を主張していた。一方、ブリューニング 首相は本人ではなく、孫を帰国させて帝政復古する案を持っていたが、ヒンデンブルク大統領はヴィルヘルム2世への忠誠にこだわった。1934年に死去したヒンデンブルクは遺言で、ヴィルヘルム2世の孫であるルイ・フェルディナント を迎えた帝政復古を言い渡したが、首相となっていたヒトラー はこの遺言を握り潰したという。
一方で第二次世界大戦のナチス・ドイツ の戦争遂行に全面的に賛同していた。ポーランド侵攻 についてヴィルヘルム2世は「今度の戦役は驚嘆すべきあり、伝統的プロイセン精神によって遂行された」と称賛した122 。1940年5月、自身の亡命先であるオランダにドイツ軍が侵攻した際には、イギリスのチャーチル からヴィルヘルム2世に対してイギリスへの亡命の勧めがあったにもかかわらず、これを拒絶してオランダに残り、ドイツ軍の保護を受けている。さらに同年、かつて彼のドイツ軍が成し遂げることができなかったパリ 陥落をヒトラーのドイツ軍が達成したのを見ると、ヒトラーに対して祝電を打った2 122 253 。1940年秋の手紙の中では「今活躍しているドイツ軍の将軍たちはかつて私の教え子だった者たちである。ある者は少尉として、ある者は大尉として、ある者は少佐として私のもとで世界大戦を戦ったのだ」と誇らしげに語っている15 。
独ソ戦 がはじまる直前の1941年6月4日、ヴィルヘルム2世は肺塞栓 のためドールン で崩じた 15 269 。ヒトラーの命によりドイツ軍による葬儀が行われた2 。ヴィルヘルム2世はまずドールン市門の近くにある礼拝堂に葬られ、その後遺言に従って、死後ドールンの館の庭園に建設された霊廟に改葬された。自身の案になる墓碑にはこう刻まれている。
人物 ヴィルヘルム2世の時代は進取の気性と保守性とが混在した過渡期だったが、それには皇帝個人の嗜好も大きく影響している。芸術的には保守的で、ゲアハルト・ハウプトマン の作品のような自然主義文学を「排水溝文学」と呼んで否定しているが、技術的な進歩には非常な興味を示し、学術団体カイザー=ヴィルヘルム協会 を設立して科学者を援助した。しかし、自らは自動車や船に乗ることを恐れていたといわれている。
ヴィルヘルム2世の独特な口髭は「カイゼル髭」として有名である。御用理髪師に髭の方向を整えさせていたのが大流行したものであるという。当時日本でもかなり流行したという271 。
日常的に大酒飲みだったわけではないが、必要に応じて酒は嗜んだ。しかしフランス嫌いからかシャンパン は嫌っていたという272 。またヴィルヘルム2世はヘビースモーカー であり、若い頃には特注で作らせていた強い煙草を朝から晩まで吸っていたという。しかし後年には健康を害する危険から控えるようになったという273 。ヴィルヘルム2世の勅令には「ジャガイモは皮をつけたまま食べよ。しかし、どうしても皮をむく必要があるなら、決して生のうちにむくな。必ず蒸すか、煮た上でむくようにせよ」とあった。そして、勅令の後には内務大臣の次のような注釈が添えられていた。「ジャガイモを生のままで皮をむくと、皮に中身が11%も着いて捨てられる。蒸すか煮るかしてから皮をむくと、容易に薄い皮だけをむくことができる」と。
同じヨーロッパ諸国では非常なフランス嫌いで知られた他、イギリスについては「ドイツはキリスト教国であるが、イギリスは反キリスト教的な自由主義 の国」と酷評している。また、イギリスがフリーメイソン とユダヤ人 に経済的に支配されていると信じており、2度の世界大戦も彼らが引き起したと主張していた。バルカン諸国を下に見ており、モンテネグロ王国について「取るに足らない小国」でモンテネグロ王ニコラ1世 を指して「バルカンの牛泥棒」と言って憚らなかった。またそのニコラ1世の5女を王妃に迎えたイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 についても、背丈が低い事を揶揄して北欧神話の精霊ドワーフ に例えていた。
他に当時のドイツ・エリート同様に反ユダヤ主義 的な考えも持ってはいたが、1938年に起きた水晶の夜 事件について、「初めてドイツ人であることを恥じた」との表現で、ナチスによるユダヤ人迫害の行き過ぎを憂慮する手紙を娘のヴィクトリア・ルイーゼ に宛てている。
評価 ヴィルヘルム2世は一般に第一次世界大戦の元凶とされている。しかしそれは多分に連合国(戦勝国)史観であり、注意を要する。第一次世界大戦の客観的な研究が進み、ヴィルヘルム2世の仕業とされてきたことが実はそうでなかったことが判明しつつある。その最たるものはかつて開戦原因とされてきた1914年にヴィルヘルム2世が開いたというポツダム御前会議なるものが実は不存在だったこと、またフランスとの緊張を高めた1905年のヴィルヘルム2世のタンジールの訪問も実はヴィルヘルム2世自身はモロッコ問題不干渉の立場だったことなどである。フリッツ・フィッシャー の研究をめぐる論争以降、ヴィルヘルム2世だけではなくドイツ国家指導層が全体で世界大戦へ向かっていったことが歴史学の共通認識になりつつあり、そのため現在ではヴィルヘルム2世一人だけに世界大戦の責任を負わせる議論は過去の物となっている143 。
子女
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