ナミビア — OpenHistory
国名 英語 による正式名称は、Republic of Namibia (リパブリク・オヴ・ナミビア)。通称、Namibia [\nəˈmɪbiə](/ja/w/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7)。
ドイツ による植民地時代はドイツ領南西アフリカ と呼ばれていた。ナミビアという国名は、同国内にある世界最古の砂漠と言われているナミブ砂漠 にちなんでつけられた。「ナミブ」は主要民族であるサン人 の言葉で、「隠れ家」という意味である(Namibia project(1986) p14)。また、ナマ、ダマラ族の言葉では、「広大な場所(vast place)」を意味する(CIA World Factbook)。なお、「何もない」という意味もあるという説もあるが、英語の「vast」の語源から言われるようになったと考えられる。
歴史
古代
バントゥー民族の拡大
植民地時代 1840年にイギリス がケープ植民地 との往来のためにウォルビスベイ 一帯の領有を開始したが、その他の地域には支配は及ばなかった。ケープ植民地からの圧力を受けて、それまで相互に対立していた現在のナミビアに相当する地域に住む諸民族は、ヨンケル・アフリカネル の指導の下で1858年にワハナス平和条約 を結び、共同で外国からの植民地化に立ち向かうことを宣言した。この平和条約の効力は弱かったものの、現在のナミビア民族 (nation)形成の端緒として評価されている1 。
戦後、ドイツ当局は「部族別居留地」制度を敷いて分割統治 策を打ち出し、のちの南アフリカ支配下でのアパルトヘイト 政策の先鞭をつけた4 。1910年には、イギリスがウォルビスベイ一帯をドイツに奪われることを防ぐため成立した南アフリカ連邦 (1961年から南アフリカ共和国 )の一部とした。1914年に第一次世界大戦 が勃発すると、イギリスと交戦状態に入ったドイツはイギリス領ウォルビスベイ一帯を占領した。
南アフリカ委任統治領 第一次世界大戦は継続し、ドイツによるウォルビスベイ占領の翌1915年には、南アフリカ連邦が南西アフリカ全体を再占領した。戦後、1921年に国際連盟 によって南西アフリカは南アフリカ連邦の委任統治領 とされ、このときウォルビスベイも南西アフリカの一部とされた。その後、第二次世界大戦 までは南アの委任統治が行われ、1922年にはコイ人 によるボンデルスワルトの反乱 が、1924年にはカラード による反乱が発生したがともに敗れ、1928年の時点で2万8,000人に達した白人入植者によって、黒人先住民が支配される体制が敷かれ続けた5 。第二次世界大戦 後の1946年に南アは国際連盟 が解散したのに乗じ、委任統治をさせていた国際連盟がなくなったことから、委任統治の終了と併合を宣言した。しかし、国際的には認められず、国際法上不法占領にあたるとみなされた。
1959年12月10日にウィントフック で発生した強制立ち退き反対を訴える黒人のデモに対し、警官隊が発砲し、11人が殺害された事件(ウィントフックの虐殺 )以後、民族解放運動 が高揚した。1960年の国連総会 で、南アの委任統治終了と信託統治領 に移行させるとした決議が可決されるが、南アは決議を拒否し実効支配が継続された。1962年にナミビアの民族解放組織として南西アフリカ人民機構 (SWAPO)が形成され、南アフリカへの圧力となった。
1965年までにナミビア北部を東西に横断する獣医警戒柵(Veterinary Cordon Fence)が設置された。この柵はウシの口蹄疫 対策のために設置されたもので、アンゴラから流入してくる放牧民(ウシ)との接触を防ぐものであった。結果的に柵が設置されて以降、柵から南側の地域で口蹄疫が撲滅され、ウシの輸出が可能となった6 。
ナミビア独立戦争 1988年2月のクイト・クアナヴァレの戦い でアンゴラ=キューバ=SWAPO連合軍に南アフリカ軍の攻勢が阻止されると、南アフリカはアンゴラからの撤退を表明した。南アフリカの撤退とキューバの疲弊は全紛争当事者へのこのリンケージ政策の履行を可能にした。1988年12月22日の三国協定 (通称:ニューヨーク協定)でリンケージ政策は関係各国に承認された。
独立 1989年、国連監視下でナミビアでは選挙が行われSWAPOが過半数を制した。1990年3月に制憲議会で憲法を制定したあと、独立を達成した。初代大統領にはSWAPO議長のサム・ヌジョマ が就任した。独立以後もナミビアは複数政党制民主主義を堅持し、経済も成長している。
1994年には、南アが1977年に併合し南ア領として支配していた港町ウォルビスベイ 一帯も返還された。
2020年代 2024年、過去数十年間で最悪の干ばつ に直面。政府は放牧や水供給への負担を軽減するとともに、干ばつの影響で飢えに直面している人々に食肉を提供する目的で野生動物の駆除に着手。カバ、バッファロー、インパラ、ゾウ、オグロヌー、エランド、シマウマなどが犠牲となった8 。
政治 国家元首 である大統領 は、国民 の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相 と閣僚 は、国民議会議員の中から大統領が任命する。大統領が辞職・死去の場合は、副大統領が大統領選挙まで、職務を代行する。
ナミビア議会 は両院制 で、上院 に相当する国民評議会 と下院 に相当する国民議会 により構成される。国民評議会は定数26議席で、全13州から各2名ずつの州代表が、州議会による間接選挙により選出される。任期は6年。国民議会は定数78議席で、うち72議席は比例代表制 に基づき国民が選出し残りは大統領が任命する。任期は5年。
軍事 総兵力は9,200人。志願制 。陸軍 、海軍 、空軍 からなる。軍事予算は1億6,000万ドル(2005年)。
国際関係
日本との関係
在留日本人数 - 42人(2022年10月現在:外務省)9
在日ナミビア人数 - 37人(2022年12月現在:法務省)9
地理 ナミビアの地形は東西に大きく三分される。もっとも西側の大西洋岸には海岸低地 が広がっているが、幅は約100キロ程度でそれほど広くはない。この海岸低地は付近を流れる寒流のベンゲラ海流の影響によって大気が安定しており降雨がほとんどないため、極度の乾燥地帯となっており、世界でもっとも古いといわれるナミブ砂漠 が広がっている。水源がほとんどないため人口は非常に少ないが、中部には天然の良港であるウォルビスベイ がある。
海岸低地の東には大急崖帯と呼ばれる険しい地形が広がっており、ここで標高は一気に1,000メートルほど上昇する11 。この大急崖帯は西側のみ険しい地形となっており、東側には中央高原と呼ばれるかなり平坦な地形が広がる。この高原は国土の東端まで続くが、東端に近い地域はカラハリ砂漠 に属する。この高原の北部にはアフリカ最大の塩湖 であるエトーシャ塩湖 が広がる。北東部にはナミビア本土から東側に大きく突き出る形で、長さ450キロのカプリビ回廊 がある。この回廊はドイツ植民地時代に、ザンベジ川 へのアクセスを確保する目的でドイツに譲渡されたものである。国土南端にはオレンジ川 があり、ここが南アフリカとの国境となっている。最高地点はナミブ砂漠北部のブランドバーグ山 (標高2,606メートル)である。白亜紀の大陸分裂にともなうマグマ 噴出で出来た花崗岩の貫入山塊である。
ナミビアは年間300日が晴天で、6月から8月の冬期は乾燥し、9月から11月が小雨季、2月から4月が大雨季である。降水量は場所によりさまざまで旱魃も多い。海岸の気候は北上するベンゲラ海流 の影響が大きく、乾燥と低温をもたらし濃霧を発生する。
地方行政区分
主要都市 最大都市は国土の中央部、中央高原に位置する首都のウィントフックである。海岸部には天然の良港であるウォルビスベイ と、ウォルビスベイがかつてイギリス、次いで南アフリカ領だったために代わりの港湾として開発されたスワコプムント がある。ナミビアの人口は北部に集中しているため、北部にはルンドゥやオシャカティなどナミビアでは人口上位となる都市が多く存在する。
経済 ナミビアの経済の柱となっているのは鉱業 であり、2012年のGDPの12%を占める。中でももっとも大きな割合を占めているのはダイヤモンド の採掘である。ナミビアのダイヤモンドは鉱脈となる岩石があるわけではなく、オレンジ川上流の南アフリカ中部にある鉱脈が浸食され、流出したダイヤモンドが堆積した漂砂鉱床 であり、そのためオレンジ川下流および、オレンジ川が大西洋に流れ込みベンゲラ海流によって原石が運ばれたナミブ砂漠南部が鉱床となっている12 。一方、独立後にはウラン の採掘が急速に拡大し、ダイヤモンドに匹敵する鉱業の柱となりつつある。ウランはスワコプムントの東にあるロッシング鉱山などで採掘されている13 。また銅 は白人入植以前から利用されており、現代でも北部のツメブ鉱山 などで採掘されている。
鉱業に次いで大きな割合を占めるのは牧畜 である。ナミビアで飼育される家畜 はウシ が中心であり、輸出も行われている。
ナミビアは南部アフリカ関税同盟 に属していることもあり、経済的には南アフリカ への依存度が高く、多数の南アフリカ系企業が進出している。人口の少なさ、鉱物資源の豊富さ、整備されたインフラによって、アフリカでは比較的豊かな国であるが、貧富の差が世界の中で南アフリカ共和国 に次いで激しい国と言われており、ジニ係数 は59.1 (2015年)であり、かなり高い。これは、先進諸国並みに豊かな白人層と、いまだに貧しい黒人や伝統的な生活を送る農村部の部族との落差が大きいためである。しかし、治安はアフリカ諸国でも有数に良好である。
交通
道路
鉄道
空運 ナミビア航空 が近隣諸国とを結んでいるほか、アフリカ大陸では唯一、旧植民地時代の宗主国であったドイツ のフランクフルト空港 との間を結んでいる。しかし、同社は、2021年2月11日に突如として同日以降の全路線の運行停止を発表した14 。
住民
民族
言語
英語 唯一の公用語 は英語 であるものの、日常生活で使う人の割合はあまり高くない。第一言語 話者は人口の3.4%にすぎず、おもに第二言語 として政府や中等教育 、高等教育 などで使用される。また、共通語として公式の場ではなるべく英語を使うことが奨励される。英語を母語とする人は少ないことに加え、元来、独立前の南西アフリカ時代に英語はあまり使われていなかった言語であるため、国民の英語力はそれほど高くないが、首都のウィントフックを中心に家庭でも使用する人が増加している。
アフリカーンス語とドイツ語 1990年の独立以前までは公用語はアフリカーンス語 とドイツ語 に英語を加えた3言語であったが、独立時に多言語 化による負担を減らすことと植民地支配やアパルトヘイトのイメージを払拭するためにアフリカーンス語とドイツ語が公用語でなくなり、国連 やイギリス ・アメリカ の後押しもあり、イギリス連邦 への加盟などにより英語が唯一の公用語となった。政府は南アフリカ同様にアフリカーンス語を排除し、英語化を推し進めているものの、ナミビアでは、1910年までイギリス領だったウォルビスベイ を除き、イギリス本国による植民地支配を経験しておらず、英語が浸透していなかったことと、1980年代までは中等教育以上ではほぼ全土でアフリカーンス語が教授言語 であった18 ことから、実際に共通語としてアフリカーンス語の地位がすでに確立されていた。そのため、現在でも英語よりもアフリカーンス語の方が日常会話として一般的に広く使用され黒人も含めた各民族間の共通語 となっている。隣国南アフリカに比べると黒人同士の間でも抵抗なく話されており、アフリカーンス語の表記や看板も多く公用語に指定されている南アフリカよりもむしろ公用語になっていないナミビアの方が公用語的な地位を保っているともいえる。
地名や通りの名などはドイツ語やアフリカーンス語由来のものが多くなっている。英語が公用語になる以前は、通りの名前はドイツ語の Str.(-Straße)やアフリカーンス語の straat と表示されていたが、現在では英語の -St(Street)へと変更されている。また、TVや新聞などのメディアにおいてもかつてはアフリカーンス語とドイツ語が優位であったが、一部を除くと現在はほとんどが英語となっている。
全人口の6.4%を占める白人(ヨーロッパ系)の60%がアフリカーンス語を、32%がドイツ語を、7%が英語、1%がポルトガル語 を使用している。ドイツ植民地時代 から90年経った現在でもドイツとの結びつきが強く、ドイツ語は商業言語として大きな地位を占めており、ドイツ系ナミビア人 (約3万人)のためにドイツ語での教育も行われている。
土着言語・その他
保健 HIV が蔓延し国民の健康を脅かす重大な脅威となっている。2019年のHIV感染者は推計で約21万人であり、感染率は12.7%に達した17 。HIV無症候性キャリア はそれ以上と推定されている。2019年のHIV/AIDSによる死亡者は約3000人だった17 。
文化
宗教 キリスト教 が人口の80%から90%を占め、そのうちの50%がルーテル派 である。在来信仰が人口の10%から20%を占める17 。
教育 2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率 は91.5%(男性:91.6%、女性:91.4%)である17 。2014年の教育 支出はGDPの3.1%だった17 。初等教育 では各民族語によりなされるが、初等教育の高学年より、英語が取り入れられ、中等教育 、高等教育 ではほぼすべての授業を英語で行っている。中等教育以上でも独立以前の公用語であったドイツ語やアフリカーンス語での教育も一部認められている。なお、1980年代まではアフリカーンス語が唯一の教授言語であった。
それまで、長年の間共通語として機能してきたアフリカーンス語で行われてきた教授言語 を莫大な予算を投じて、あまり使われていなかった英語に変えたことによる弊害も出てきている。特に、教師の英語力が著しく不足している点が問題となっており、結果として全体の教育レベルの低下を招いているとされ、教授言語の英語化は失敗であったとの指摘もある19 。
婚姻 婚姻時は、夫婦同姓とする、あるいは夫婦別姓 とすることから選択することが可能。子の姓に関しては、両親のいずれかの姓とする。2013年現在、子の姓についてより選択肢を広げる法改正について議論がなされている20 。
スポーツ
著名な出身者
参考文献
星昭 、林晃史 『アフリカ現代史I──総説・南部アフリカ』(初版第三刷)山川出版社 、東京 〈世界現代史13〉、1988年8月20日。ISBN 4-634-42270-0。
ヘニング・メルバー編 著、ナミビア独立支援キャンペーン・京都 訳『わたしたちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会化テキスト』(初版第一刷)現代企画室 、東京 〈PQブックス〉、1990年3月21日。
水野一晴編 『アフリカ自然学』(初版第一刷)古今書院 、東京 、2005年2月10日。ISBN 4-7722-1577-8。
水野一晴・永原陽子編『ナミビアを知るための53章』明石書店、東京、2016年3月20日、初版第一刷。ISBN 978-4-7503-4310-5。
脚注
国際関係
ナミビア共和国
Republic of Namibia (英語)
その他、8の言語による正式名称
Republiek van Namibië (アフリカーンス語 )
Namibiab Republiki dib (ナマ語 )
Republik Namibia (ドイツ語 )
Republika yaNamibia (ヘレロ語 )
Orepublika yaNamibia (クワニャマ語 )
Republika zaNamibia (クワンガリ語)
Repaboleki ya Namibia (ツワナ語 )
Namibia ye Lukuluhile (ロジ語 )
国の標語:Unity, Liberty, Justice
(英語: 統一、自由、正義)
国歌 :Namibia, Land of the Brave (英語)
ナミビア、勇者の地
ナミビア共和国 (ナミビアきょうわこく、英語 : Republic of Namibia)、通称ナミビア は、アフリカ 南西部に位置する共和制 国家 である。北にアンゴラ 、北東にザンビア 、東にボツワナ 、南に南アフリカ共和国 と国境を接し、西は大西洋 に面する。なお、地図を一見すると接しているように見えるジンバブエ とはザンビア、ボツワナを挟んで150メートルほど離れている。首都 は 。 加盟国のひとつである。
国名 英語 による正式名称は、Republic of Namibia (リパブリク・オヴ・ナミビア)。通称、Namibia [\nəˈmɪbiə](/ja/w/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7)。
ドイツ による植民地時代はドイツ領南西アフリカ と呼ばれていた。ナミビアという国名は、同国内にある世界最古の砂漠と言われているナミブ砂漠 にちなんでつけられた。「ナミブ」は主要民族であるサン人 の言葉で、「隠れ家」という意味である(Namibia project(1986) p14)。また、ナマ、ダマラ族の言葉では、「広大な場所(vast place)」を意味する(CIA World Factbook)。なお、「何もない」という意味もあるという説もあるが、英語の「vast」の語源から言われるようになったと考えられる。
歴史
古代
バントゥー民族の拡大
植民地時代 1840年にイギリス がケープ植民地 との往来のためにウォルビスベイ 一帯の領有を開始したが、その他の地域には支配は及ばなかった。ケープ植民地からの圧力を受けて、それまで相互に対立していた現在のナミビアに相当する地域に住む諸民族は、ヨンケル・アフリカネル の指導の下で1858年にワハナス平和条約 を結び、共同で外国からの植民地化に立ち向かうことを宣言した。この平和条約の効力は弱かったものの、現在のナミビア民族 (nation)形成の端緒として評価されている1 。
戦後、ドイツ当局は「部族別居留地」制度を敷いて分割統治 策を打ち出し、のちの南アフリカ支配下でのアパルトヘイト 政策の先鞭をつけた4 。1910年には、イギリスがウォルビスベイ一帯をドイツに奪われることを防ぐため成立した南アフリカ連邦 (1961年から南アフリカ共和国 )の一部とした。1914年に第一次世界大戦 が勃発すると、イギリスと交戦状態に入ったドイツはイギリス領ウォルビスベイ一帯を占領した。
南アフリカ委任統治領 第一次世界大戦は継続し、ドイツによるウォルビスベイ占領の翌1915年には、南アフリカ連邦が南西アフリカ全体を再占領した。戦後、1921年に国際連盟 によって南西アフリカは南アフリカ連邦の委任統治領 とされ、このときウォルビスベイも南西アフリカの一部とされた。その後、第二次世界大戦 までは南アの委任統治が行われ、1922年にはコイ人 によるボンデルスワルトの反乱 が、1924年にはカラード による反乱が発生したがともに敗れ、1928年の時点で2万8,000人に達した白人入植者によって、黒人先住民が支配される体制が敷かれ続けた5 。第二次世界大戦 後の1946年に南アは国際連盟 が解散したのに乗じ、委任統治をさせていた国際連盟がなくなったことから、委任統治の終了と併合を宣言した。しかし、国際的には認められず、国際法上不法占領にあたるとみなされた。
1959年12月10日にウィントフック で発生した強制立ち退き反対を訴える黒人のデモに対し、警官隊が発砲し、11人が殺害された事件(ウィントフックの虐殺 )以後、民族解放運動 が高揚した。1960年の国連総会 で、南アの委任統治終了と信託統治領 に移行させるとした決議が可決されるが、南アは決議を拒否し実効支配が継続された。1962年にナミビアの民族解放組織として南西アフリカ人民機構 (SWAPO)が形成され、南アフリカへの圧力となった。
1965年までにナミビア北部を東西に横断する獣医警戒柵(Veterinary Cordon Fence)が設置された。この柵はウシの口蹄疫 対策のために設置されたもので、アンゴラから流入してくる放牧民(ウシ)との接触を防ぐものであった。結果的に柵が設置されて以降、柵から南側の地域で口蹄疫が撲滅され、ウシの輸出が可能となった6 。
ナミビア独立戦争 1988年2月のクイト・クアナヴァレの戦い でアンゴラ=キューバ=SWAPO連合軍に南アフリカ軍の攻勢が阻止されると、南アフリカはアンゴラからの撤退を表明した。南アフリカの撤退とキューバの疲弊は全紛争当事者へのこのリンケージ政策の履行を可能にした。1988年12月22日の三国協定 (通称:ニューヨーク協定)でリンケージ政策は関係各国に承認された。
独立 1989年、国連監視下でナミビアでは選挙が行われSWAPOが過半数を制した。1990年3月に制憲議会で憲法を制定したあと、独立を達成した。初代大統領にはSWAPO議長のサム・ヌジョマ が就任した。独立以後もナミビアは複数政党制民主主義を堅持し、経済も成長している。
1994年には、南アが1977年に併合し南ア領として支配していた港町ウォルビスベイ 一帯も返還された。
2020年代 2024年、過去数十年間で最悪の干ばつ に直面。政府は放牧や水供給への負担を軽減するとともに、干ばつの影響で飢えに直面している人々に食肉を提供する目的で野生動物の駆除に着手。カバ、バッファロー、インパラ、ゾウ、オグロヌー、エランド、シマウマなどが犠牲となった8 。
政治 国家元首 である大統領 は、国民 の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。首相 と閣僚 は、国民議会議員の中から大統領が任命する。大統領が辞職・死去の場合は、副大統領が大統領選挙まで、職務を代行する。
ナミビア議会 は両院制 で、上院 に相当する国民評議会 と下院 に相当する国民議会 により構成される。国民評議会は定数26議席で、全13州から各2名ずつの州代表が、州議会による間接選挙により選出される。任期は6年。国民議会は定数78議席で、うち72議席は比例代表制 に基づき国民が選出し残りは大統領が任命する。任期は5年。
軍事 総兵力は9,200人。志願制 。陸軍 、海軍 、空軍 からなる。軍事予算は1億6,000万ドル(2005年)。
国際関係
日本との関係
在留日本人数 - 42人(2022年10月現在:外務省)9
在日ナミビア人数 - 37人(2022年12月現在:法務省)9
地理 ナミビアの地形は東西に大きく三分される。もっとも西側の大西洋岸には海岸低地 が広がっているが、幅は約100キロ程度でそれほど広くはない。この海岸低地は付近を流れる寒流のベンゲラ海流の影響によって大気が安定しており降雨がほとんどないため、極度の乾燥地帯となっており、世界でもっとも古いといわれるナミブ砂漠 が広がっている。水源がほとんどないため人口は非常に少ないが、中部には天然の良港であるウォルビスベイ がある。
海岸低地の東には大急崖帯と呼ばれる険しい地形が広がっており、ここで標高は一気に1,000メートルほど上昇する11 。この大急崖帯は西側のみ険しい地形となっており、東側には中央高原と呼ばれるかなり平坦な地形が広がる。この高原は国土の東端まで続くが、東端に近い地域はカラハリ砂漠 に属する。この高原の北部にはアフリカ最大の塩湖 であるエトーシャ塩湖 が広がる。北東部にはナミビア本土から東側に大きく突き出る形で、長さ450キロのカプリビ回廊 がある。この回廊はドイツ植民地時代に、ザンベジ川 へのアクセスを確保する目的でドイツに譲渡されたものである。国土南端にはオレンジ川 があり、ここが南アフリカとの国境となっている。最高地点はナミブ砂漠北部のブランドバーグ山 (標高2,606メートル)である。白亜紀の大陸分裂にともなうマグマ 噴出で出来た花崗岩の貫入山塊である。
ナミビアは年間300日が晴天で、6月から8月の冬期は乾燥し、9月から11月が小雨季、2月から4月が大雨季である。降水量は場所によりさまざまで旱魃も多い。海岸の気候は北上するベンゲラ海流 の影響が大きく、乾燥と低温をもたらし濃霧を発生する。
地方行政区分
主要都市 最大都市は国土の中央部、中央高原に位置する首都のウィントフックである。海岸部には天然の良港であるウォルビスベイ と、ウォルビスベイがかつてイギリス、次いで南アフリカ領だったために代わりの港湾として開発されたスワコプムント がある。ナミビアの人口は北部に集中しているため、北部にはルンドゥやオシャカティなどナミビアでは人口上位となる都市が多く存在する。
経済 ナミビアの経済の柱となっているのは鉱業 であり、2012年のGDPの12%を占める。中でももっとも大きな割合を占めているのはダイヤモンド の採掘である。ナミビアのダイヤモンドは鉱脈となる岩石があるわけではなく、オレンジ川上流の南アフリカ中部にある鉱脈が浸食され、流出したダイヤモンドが堆積した漂砂鉱床 であり、そのためオレンジ川下流および、オレンジ川が大西洋に流れ込みベンゲラ海流によって原石が運ばれたナミブ砂漠南部が鉱床となっている12 。一方、独立後にはウラン の採掘が急速に拡大し、ダイヤモンドに匹敵する鉱業の柱となりつつある。ウランはスワコプムントの東にあるロッシング鉱山などで採掘されている13 。また銅 は白人入植以前から利用されており、現代でも北部のツメブ鉱山 などで採掘されている。
鉱業に次いで大きな割合を占めるのは牧畜 である。ナミビアで飼育される家畜 はウシ が中心であり、輸出も行われている。
ナミビアは南部アフリカ関税同盟 に属していることもあり、経済的には南アフリカ への依存度が高く、多数の南アフリカ系企業が進出している。人口の少なさ、鉱物資源の豊富さ、整備されたインフラによって、アフリカでは比較的豊かな国であるが、貧富の差が世界の中で南アフリカ共和国 に次いで激しい国と言われており、ジニ係数 は59.1 (2015年)であり、かなり高い。これは、先進諸国並みに豊かな白人層と、いまだに貧しい黒人や伝統的な生活を送る農村部の部族との落差が大きいためである。しかし、治安はアフリカ諸国でも有数に良好である。
交通
道路
鉄道
空運 ナミビア航空 が近隣諸国とを結んでいるほか、アフリカ大陸では唯一、旧植民地時代の宗主国であったドイツ のフランクフルト空港 との間を結んでいる。しかし、同社は、2021年2月11日に突如として同日以降の全路線の運行停止を発表した14 。
住民
民族
言語
英語 唯一の公用語 は英語 であるものの、日常生活で使う人の割合はあまり高くない。第一言語 話者は人口の3.4%にすぎず、おもに第二言語 として政府や中等教育 、高等教育 などで使用される。また、共通語として公式の場ではなるべく英語を使うことが奨励される。英語を母語とする人は少ないことに加え、元来、独立前の南西アフリカ時代に英語はあまり使われていなかった言語であるため、国民の英語力はそれほど高くないが、首都のウィントフックを中心に家庭でも使用する人が増加している。
アフリカーンス語とドイツ語 1990年の独立以前までは公用語はアフリカーンス語 とドイツ語 に英語を加えた3言語であったが、独立時に多言語 化による負担を減らすことと植民地支配やアパルトヘイトのイメージを払拭するためにアフリカーンス語とドイツ語が公用語でなくなり、国連 やイギリス ・アメリカ の後押しもあり、イギリス連邦 への加盟などにより英語が唯一の公用語となった。政府は南アフリカ同様にアフリカーンス語を排除し、英語化を推し進めているものの、ナミビアでは、1910年までイギリス領だったウォルビスベイ を除き、イギリス本国による植民地支配を経験しておらず、英語が浸透していなかったことと、1980年代までは中等教育以上ではほぼ全土でアフリカーンス語が教授言語 であった18 ことから、実際に共通語としてアフリカーンス語の地位がすでに確立されていた。そのため、現在でも英語よりもアフリカーンス語の方が日常会話として一般的に広く使用され黒人も含めた各民族間の共通語 となっている。隣国南アフリカに比べると黒人同士の間でも抵抗なく話されており、アフリカーンス語の表記や看板も多く公用語に指定されている南アフリカよりもむしろ公用語になっていないナミビアの方が公用語的な地位を保っているともいえる。
地名や通りの名などはドイツ語やアフリカーンス語由来のものが多くなっている。英語が公用語になる以前は、通りの名前はドイツ語の Str.(-Straße)やアフリカーンス語の straat と表示されていたが、現在では英語の -St(Street)へと変更されている。また、TVや新聞などのメディアにおいてもかつてはアフリカーンス語とドイツ語が優位であったが、一部を除くと現在はほとんどが英語となっている。
全人口の6.4%を占める白人(ヨーロッパ系)の60%がアフリカーンス語を、32%がドイツ語を、7%が英語、1%がポルトガル語 を使用している。ドイツ植民地時代 から90年経った現在でもドイツとの結びつきが強く、ドイツ語は商業言語として大きな地位を占めており、ドイツ系ナミビア人 (約3万人)のためにドイツ語での教育も行われている。
土着言語・その他
保健 HIV が蔓延し国民の健康を脅かす重大な脅威となっている。2019年のHIV感染者は推計で約21万人であり、感染率は12.7%に達した17 。HIV無症候性キャリア はそれ以上と推定されている。2019年のHIV/AIDSによる死亡者は約3000人だった17 。
文化
宗教 キリスト教 が人口の80%から90%を占め、そのうちの50%がルーテル派 である。在来信仰が人口の10%から20%を占める17 。
教育 2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率 は91.5%(男性:91.6%、女性:91.4%)である17 。2014年の教育 支出はGDPの3.1%だった17 。初等教育 では各民族語によりなされるが、初等教育の高学年より、英語が取り入れられ、中等教育 、高等教育 ではほぼすべての授業を英語で行っている。中等教育以上でも独立以前の公用語であったドイツ語やアフリカーンス語での教育も一部認められている。なお、1980年代まではアフリカーンス語が唯一の教授言語であった。
それまで、長年の間共通語として機能してきたアフリカーンス語で行われてきた教授言語 を莫大な予算を投じて、あまり使われていなかった英語に変えたことによる弊害も出てきている。特に、教師の英語力が著しく不足している点が問題となっており、結果として全体の教育レベルの低下を招いているとされ、教授言語の英語化は失敗であったとの指摘もある19 。
婚姻 婚姻時は、夫婦同姓とする、あるいは夫婦別姓 とすることから選択することが可能。子の姓に関しては、両親のいずれかの姓とする。2013年現在、子の姓についてより選択肢を広げる法改正について議論がなされている20 。
スポーツ
著名な出身者
参考文献
星昭 、林晃史 『アフリカ現代史I──総説・南部アフリカ』(初版第三刷)山川出版社 、東京 〈世界現代史13〉、1988年8月20日。ISBN 4-634-42270-0。
ヘニング・メルバー編 著、ナミビア独立支援キャンペーン・京都 訳『わたしたちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会化テキスト』(初版第一刷)現代企画室 、東京 〈PQブックス〉、1990年3月21日。
水野一晴編 『アフリカ自然学』(初版第一刷)古今書院 、東京 、2005年2月10日。ISBN 4-7722-1577-8。
水野一晴・永原陽子編『ナミビアを知るための53章』明石書店、東京、2016年3月20日、初版第一刷。ISBN 978-4-7503-4310-5。
脚注
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