ドイツ帝国 — OpenHistoryドイツ帝国
1850年以降、ドイツの各領邦国家は急速に工業化され、特に石炭、鉄(後に鋼鉄)、化学薬品、鉄道が強みとなり、1871年には約4100万人であった人口は1913年には約6800万人までに増加した。
建国からドイツ革命によるヴァイマル共和政移行までの47年の間に、ドイツの産業、技術、科学は世界でもトップクラスとなり、当時世界で最も多くのノーベル賞を獲得し、ドイツは世界第二位の経済を築き上げた。
国号
正式な国名は、ドイツ革命などによる国制の変化にかかわらず一貫して**Deutsches Reich(ドイチェス・ライヒ)であった。これは後のヴァイマル共和政(1918年 - 1933年)、ナチス・ドイツ(1933年 - 1945年)の時代を通じて同じであった。そのため、この時代だけを区別する場合は、皇帝を意味するKaiser(カイザー)をつけてDeutsches Kaiserreich**(ドイチェス・カイザーライヒ)と表記されることも多い。本項ではヴァイマル共和政およびナチス・ドイツと区別をつけるため「ドイツ帝国」と表記している。
歴史
成立前
→ドイツの統一までの経緯については「ドイツ統一」を参照
なお戴冠の「1月18日」は、当時から170年前のプロイセン王国成立(1701年)と同日である。
また、この1871年にはドイツ=オーストリア電信連合が停止した。後継の万国電信連合は同年に企業の無制限参加を認めている。独仏両国とも、戦争を経て企業の意見を無視できなくなっていた。
同盟関係の完成
ビスマルクは、普仏戦争に敗れたフランスの対独復讐を封じるために、列強と複雑な同盟関係を築き上げてフランスを孤立化させる外交政策を取った。これをビスマルク体制と呼ぶ。
世界政策
1888年に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクと対立し、1890年にビスマルクを更迭した。ヴィルヘルム2世は親政により帝国主義政策を実行した。まず建艦し太平洋へ進出した。さらに債権国としてオスマン債務管理局をめぐり英仏と対立した。
この1903年、(アリアンツなどの)ドイツ企業が米国企業の再保険を引受けるようになった2。まだ合衆国には代理店を出せず、取引を再保険に限り、ヨーロッパ企業を通して受注していた2。必ずしも不便に甘んじたわけではなく、元受と同一条件で引き受けていた2。この再保険は保険会社同士の互助ではなく、ドイツの新規開拓事業であった2。そのドイツ保険会社は合衆国の再保専門会社等に継承された2。同年、AEGがゼネラル・エレクトリックからウニオン社を吸収合併する合意をとりつけた。
一方、アメリカ資本の激動が三国協商の完成期としては奇妙な現象を引き起こした。
ドイツの金貨が1907年恐慌でイングランド銀行へ輸出され、その額は1907年10月22日から12月31日までに383.8万ポンドに及んだ。イギリスからはドイツの金貨が輸出された形跡はない。英米間ではイングランド銀行からのドル金貨が439.3万ポンド、イングランド銀行へのドル金貨が322.6万ポンド、純輸出が106.7万ポンドである。金塊での純輸出は554.9万ポンドである(698.1-143.2)。3ドイツの金貨はイングランド経由でアメリカへ渡ったものとされている。ライヒスバンクの1912年12月末の貸借対照表によれば、外国為替手形保有高は200万ポンド以上であり、その半分近くがイギリスに投資されていた4。
第一次世界大戦
ドイツのケーブルは大戦で切断、鹵獲された。ボルクム島=アゾレス諸島間のケーブルは、ペンザンス=アゾレス間ケーブルとして流用された。ドイツ=ニューヨーク間はイギリス=ハリファックス間ケーブルとなった。これはイギリス政府の所有する最初の大西洋横断ケーブルとなった。他にもう一つの大西洋ケーブルをドイツはもっていたが、やはり切断され、ブレスト (フランス)=コニーアイランド間ケーブルに転用された。ヤップ島=上海間は沖縄=上海間に、青島市=上海間は上海=佐世保間に利用された。これらの損害は帝国通信網の88%に相当した1。
政治
ドイツ帝国(ライヒ)の政治体制は、1871年4月に発布されたビスマルク憲法(ドイツ国憲法)に規定されている。君主制のもと、22邦国と3自由市によって構成される連邦国家と位置づけられた。憲法上、帝国宰相だけが唯一の「大臣」とされ、通常の内閣は存在しなかった。各邦国の政府には大臣が置かれたが、ライヒ全体の中央官庁の省にあたる各行政部門の大臣はなく5、それぞれの「行政長官」又は、「次官」が任命されるのみだった。例えば陸軍行政においては、帝国中央政府の陸軍行政長官はプロイセン陸軍大臣が兼任していたことになる。議会は帝国議会と連邦参議院による二院制である。帝国議会では男子普通選挙により議員が選出されたが、帝国議会の議案・議決は連邦参議院の同意が必ず求められていた。
その連邦参議院は各邦国からの代表により構成されているため、普通選挙といっても外見的な性格が強かった。憲法改正にあたっては、連邦参議院における14票以上の反対で憲法改正を阻止することができ同議会ではプロイセンが17票を有しているため、プロイセンの合意なしに改正を行うことはできない(=憲法改正についてはプロイセンが事実上の拒否権を有する)仕組みになっていた。また、ドイツ皇帝の地位はプロイセン王に属するものとされ、そのドイツ皇帝が戦争・議会・帝国宰相の人事など広範な権力を有していた。そのため、連邦制を採用しつつも、プロイセンのライヒ内における主導権は揺るぎないものであった。
皇帝
構成国
ドイツ帝国はプロイセン王国を中心とした連邦国家であった。以下は構成国(Bundesstaat)のリストである。このうち、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッハ大公国は、1903年以降、公文書上「ザクセン大公国」(Großherzogtum Sachsen)と表記されるようになった。
表中の「議席」とは連邦参議院における各構成国の議席数(1918年時点)を指す。なお、フランスから割譲されたライヒ直轄州エルザス=ロートリンゲンは1911年まで議席が割り当てられなかった。
版図
軍隊
領土の変化
ドイツ帝国の領土は現在のドイツ連邦共和国領の他に、ポーランド、フランス、デンマーク等にもまたがっていた。
経済
フリードリヒ大王が創設した王立銀行は、1847年にプロイセン銀行に改組された。資本金内訳は、プロイセン政府資本が120万ライヒスターラーと、プロイセン/非プロイセンの個人銀行資本が1000万ライヒスターラーであった。これは1876年に中央銀行となりドイツ帝国銀行と称した。帝政ドイツの成立後、関税・通商・通貨・度量衡・郵便制度などの統一が進められた。銀貨鋳造は1872年に終わり、1873年に金本位制を立法した。翌年に銀が回収されはじめ、ロンドン市場で売られた。銀が世界で売られる中、ドイツ帝国銀行は生まれた。
帝政ドイツ成立直後の1871年から1873年までは、19世紀半ばからの経済成長に普仏戦争による50億フランの賠償金も加わり、会社設立のブームが起こった。しかし、1873年にウィーン証券取引所の大混乱などを受けて「大不況」に突入し、多くの新設会社が倒産した。一時の好況はあったものの1895年頃までは経済的停滞が続いた。19世紀末ころには石炭・鋼鉄・ガラスなどの業界でカルテルが結成され、企業の独占が進んだ。金融面でも独占が進み、その頭文字から「4D」と称されるドイツ銀行、ディスコント・ゲゼルシャフト、ドレスデン銀行、ダルムシュタット銀行が預金高の40%以上をおさえており、各産業カルテルとの結びつきを強めていった。なお、1889年の独亜銀行創立にはビスマルクの督促があったとされている。
1873年の混乱以降、ドイツ西部では石炭鉄鋼業のカルテルが複数形成された。1850年代をピークにオランダ資本を中心としてルール地方に注入されてきた外資は混乱を経て還流するようになった。1880-90年代に銀行とカルテルは結束した。カルテルの領域はルクセンブルクに及んだ6。東部ドイツのシレジアでは、フリードリヒ大王の頃から王立製鉄所が作られるなど国営の、1860年代にはそれらが払い下げられた貴族経営の、製鉄所があった。この頃すでに、東部ドイツに対する大銀行と技術革新の進出を阻む「鉄のカーテン」が存在した。もっとも、ディスコント・ゲゼルシャフトがビスマルク製鉄所に資金を出すなどの例があった。
電気工業において、まずはジーメンス・ウント・ハルスケの元であるジーメンス・ハルスケ商会が1847年にベルリンで発足した。これが1858年にロンドン支店を出して、イギリスの海底ケーブル敷設事業に進出している。1870年までには英国植民地とロシア・バルカン半島の陸上電信網の相当割合を施工していた。ジーメンスの技術革新は発電機である。これが、1880年代の照明器具と1890年以降の電気鉄道インフラにおける生産体制を支えた。1903年にAEG と合弁会社テレフンケンを設立した。
統一当初、帝政ドイツは農業国としての性格が強かった。ザクセンからメリノ種羊毛の生産シェアをプロイセンが奪った名残であった。しかし20世紀初頭の世界政策でアメリカ資本が押し寄せ工業化し、かつて稼ぎ頭であった繊維業は再生産できなくなった。
脚注
軍隊
ドイツ帝国
1850年以降、ドイツの各領邦国家は急速に工業化され、特に石炭、鉄(後に鋼鉄)、化学薬品、鉄道が強みとなり、1871年には約4100万人であった人口は1913年には約6800万人までに増加した。
建国からドイツ革命によるヴァイマル共和政移行までの47年の間に、ドイツの産業、技術、科学は世界でもトップクラスとなり、当時世界で最も多くのノーベル賞を獲得し、ドイツは世界第二位の経済を築き上げた。
国号
正式な国名は、ドイツ革命などによる国制の変化にかかわらず一貫して**Deutsches Reich(ドイチェス・ライヒ)であった。これは後のヴァイマル共和政(1918年 - 1933年)、ナチス・ドイツ(1933年 - 1945年)の時代を通じて同じであった。そのため、この時代だけを区別する場合は、皇帝を意味するKaiser(カイザー)をつけてDeutsches Kaiserreich**(ドイチェス・カイザーライヒ)と表記されることも多い。本項ではヴァイマル共和政およびナチス・ドイツと区別をつけるため「ドイツ帝国」と表記している。
歴史
成立前
→ドイツの統一までの経緯については「ドイツ統一」を参照
なお戴冠の「1月18日」は、当時から170年前のプロイセン王国成立(1701年)と同日である。
また、この1871年にはドイツ=オーストリア電信連合が停止した。後継の万国電信連合は同年に企業の無制限参加を認めている。独仏両国とも、戦争を経て企業の意見を無視できなくなっていた。
同盟関係の完成
ビスマルクは、普仏戦争に敗れたフランスの対独復讐を封じるために、列強と複雑な同盟関係を築き上げてフランスを孤立化させる外交政策を取った。これをビスマルク体制と呼ぶ。
世界政策
1888年に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクと対立し、1890年にビスマルクを更迭した。ヴィルヘルム2世は親政により帝国主義政策を実行した。まず建艦し太平洋へ進出した。さらに債権国としてオスマン債務管理局をめぐり英仏と対立した。
この1903年、(アリアンツなどの)ドイツ企業が米国企業の再保険を引受けるようになった2。まだ合衆国には代理店を出せず、取引を再保険に限り、ヨーロッパ企業を通して受注していた2。必ずしも不便に甘んじたわけではなく、元受と同一条件で引き受けていた2。この再保険は保険会社同士の互助ではなく、ドイツの新規開拓事業であった2。そのドイツ保険会社は合衆国の再保専門会社等に継承された2。同年、AEGがゼネラル・エレクトリックからウニオン社を吸収合併する合意をとりつけた。
一方、アメリカ資本の激動が三国協商の完成期としては奇妙な現象を引き起こした。
ドイツの金貨が1907年恐慌でイングランド銀行へ輸出され、その額は1907年10月22日から12月31日までに383.8万ポンドに及んだ。イギリスからはドイツの金貨が輸出された形跡はない。英米間ではイングランド銀行からのドル金貨が439.3万ポンド、イングランド銀行へのドル金貨が322.6万ポンド、純輸出が106.7万ポンドである。金塊での純輸出は554.9万ポンドである(698.1-143.2)。3ドイツの金貨はイングランド経由でアメリカへ渡ったものとされている。ライヒスバンクの1912年12月末の貸借対照表によれば、外国為替手形保有高は200万ポンド以上であり、その半分近くがイギリスに投資されていた4。
第一次世界大戦
ドイツのケーブルは大戦で切断、鹵獲された。ボルクム島=アゾレス諸島間のケーブルは、ペンザンス=アゾレス間ケーブルとして流用された。ドイツ=ニューヨーク間はイギリス=ハリファックス間ケーブルとなった。これはイギリス政府の所有する最初の大西洋横断ケーブルとなった。他にもう一つの大西洋ケーブルをドイツはもっていたが、やはり切断され、ブレスト (フランス)=コニーアイランド間ケーブルに転用された。ヤップ島=上海間は沖縄=上海間に、青島市=上海間は上海=佐世保間に利用された。これらの損害は帝国通信網の88%に相当した1。
政治
ドイツ帝国(ライヒ)の政治体制は、1871年4月に発布されたビスマルク憲法(ドイツ国憲法)に規定されている。君主制のもと、22邦国と3自由市によって構成される連邦国家と位置づけられた。憲法上、帝国宰相だけが唯一の「大臣」とされ、通常の内閣は存在しなかった。各邦国の政府には大臣が置かれたが、ライヒ全体の中央官庁の省にあたる各行政部門の大臣はなく5、それぞれの「行政長官」又は、「次官」が任命されるのみだった。例えば陸軍行政においては、帝国中央政府の陸軍行政長官はプロイセン陸軍大臣が兼任していたことになる。議会は帝国議会と連邦参議院による二院制である。帝国議会では男子普通選挙により議員が選出されたが、帝国議会の議案・議決は連邦参議院の同意が必ず求められていた。
その連邦参議院は各邦国からの代表により構成されているため、普通選挙といっても外見的な性格が強かった。憲法改正にあたっては、連邦参議院における14票以上の反対で憲法改正を阻止することができ同議会ではプロイセンが17票を有しているため、プロイセンの合意なしに改正を行うことはできない(=憲法改正についてはプロイセンが事実上の拒否権を有する)仕組みになっていた。また、ドイツ皇帝の地位はプロイセン王に属するものとされ、そのドイツ皇帝が戦争・議会・帝国宰相の人事など広範な権力を有していた。そのため、連邦制を採用しつつも、プロイセンのライヒ内における主導権は揺るぎないものであった。
皇帝
構成国
ドイツ帝国はプロイセン王国を中心とした連邦国家であった。以下は構成国(Bundesstaat)のリストである。このうち、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッハ大公国は、1903年以降、公文書上「ザクセン大公国」(Großherzogtum Sachsen)と表記されるようになった。
表中の「議席」とは連邦参議院における各構成国の議席数(1918年時点)を指す。なお、フランスから割譲されたライヒ直轄州エルザス=ロートリンゲンは1911年まで議席が割り当てられなかった。
版図
軍隊
領土の変化
ドイツ帝国の領土は現在のドイツ連邦共和国領の他に、ポーランド、フランス、デンマーク等にもまたがっていた。
経済
フリードリヒ大王が創設した王立銀行は、1847年にプロイセン銀行に改組された。資本金内訳は、プロイセン政府資本が120万ライヒスターラーと、プロイセン/非プロイセンの個人銀行資本が1000万ライヒスターラーであった。これは1876年に中央銀行となりドイツ帝国銀行と称した。帝政ドイツの成立後、関税・通商・通貨・度量衡・郵便制度などの統一が進められた。銀貨鋳造は1872年に終わり、1873年に金本位制を立法した。翌年に銀が回収されはじめ、ロンドン市場で売られた。銀が世界で売られる中、ドイツ帝国銀行は生まれた。
帝政ドイツ成立直後の1871年から1873年までは、19世紀半ばからの経済成長に普仏戦争による50億フランの賠償金も加わり、会社設立のブームが起こった。しかし、1873年にウィーン証券取引所の大混乱などを受けて「大不況」に突入し、多くの新設会社が倒産した。一時の好況はあったものの1895年頃までは経済的停滞が続いた。19世紀末ころには石炭・鋼鉄・ガラスなどの業界でカルテルが結成され、企業の独占が進んだ。金融面でも独占が進み、その頭文字から「4D」と称されるドイツ銀行、ディスコント・ゲゼルシャフト、ドレスデン銀行、ダルムシュタット銀行が預金高の40%以上をおさえており、各産業カルテルとの結びつきを強めていった。なお、1889年の独亜銀行創立にはビスマルクの督促があったとされている。
1873年の混乱以降、ドイツ西部では石炭鉄鋼業のカルテルが複数形成された。1850年代をピークにオランダ資本を中心としてルール地方に注入されてきた外資は混乱を経て還流するようになった。1880-90年代に銀行とカルテルは結束した。カルテルの領域はルクセンブルクに及んだ6。東部ドイツのシレジアでは、フリードリヒ大王の頃から王立製鉄所が作られるなど国営の、1860年代にはそれらが払い下げられた貴族経営の、製鉄所があった。この頃すでに、東部ドイツに対する大銀行と技術革新の進出を阻む「鉄のカーテン」が存在した。もっとも、ディスコント・ゲゼルシャフトがビスマルク製鉄所に資金を出すなどの例があった。
電気工業において、まずはジーメンス・ウント・ハルスケの元であるジーメンス・ハルスケ商会が1847年にベルリンで発足した。これが1858年にロンドン支店を出して、イギリスの海底ケーブル敷設事業に進出している。1870年までには英国植民地とロシア・バルカン半島の陸上電信網の相当割合を施工していた。ジーメンスの技術革新は発電機である。これが、1880年代の照明器具と1890年以降の電気鉄道インフラにおける生産体制を支えた。1903年にAEG と合弁会社テレフンケンを設立した。
統一当初、帝政ドイツは農業国としての性格が強かった。ザクセンからメリノ種羊毛の生産シェアをプロイセンが奪った名残であった。しかし20世紀初頭の世界政策でアメリカ資本が押し寄せ工業化し、かつて稼ぎ頭であった繊維業は再生産できなくなった。
脚注
過去30日の閲覧 0回
下位記事
この記事に属する個別の出来事や下位の話題を、別の記事として作成できます。
+ 下位記事を作成