キューバ — OpenHistory
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人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチ は、政府が反対意見を抑圧するため、日常的に批評家や活動家、抗議者などを恣意的に拘禁していることを指摘している7 。
経済面はサトウキビ 栽培を中心とする農業国であり、製糖業が行われ、輸出の半分以上を砂糖が占めているが、輸出入の60%以上を頼っていたソ連が1990年に崩壊したことで経済的苦境に立ち、在外キューバ人の送金などが経済を支えている3 。アメリカとの国交回復で在米キューバ人のドル送金の大幅緩和を受けることに成功し、またソ連崩壊以来疎遠になっていたロシア や中国 との結びつきも強め、巨額の経済援助を受けている8 。
軍事面では徴兵制 が採用されており、4万9000人の兵力を持つ。軍事予算額は不明11 。
人口は国連 によれば約1125.6万人(2022年7月現在)。先住民のインディオ はスペイン統治時代の初期のうちにほぼ絶滅し、代わりの労働力として導入されたアフリカ 黒人奴隷 の子孫が混血も含めて今日のキューバ住民の約30%を占め、残りは大部分がスペイン系白人である。他に中国人 を中心としたアジア系住民も少数暮らしている12 。公用語はスペイン語 3 。宗教 はカトリック が大半を占める。教会 は「反革命活動」をしないことを条件に存続が許されている状況にある8 。
国名 公式の英語 表記はRepublic of Cuba。通称Cuba(キューバ)。[\ˈkjuːbə](/ja/w/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7) ( 音声ファイル)
日本語 の表記は、キューバ共和国 。通称、キューバ 。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字 は、玖馬 、玖瑪 、久場 、古巴 など。中華人民共和国 においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。
国名は、カリブ海 最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオ (タイノ族 )の言葉であるクバナカン 13 が由来であるとされている。
歴史
スペイン植民地時代 また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス 領サン=ドマング がハイチとして独立 したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ 支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。
その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人 農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーション が発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻 の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国 編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドル やドミニカ共和国 にもあった)。
独立戦争(1868年 - 1902年) 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデス により1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争 として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラート のアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを止めることはできなかった。
1892年、ホセ・マルティ をはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨーク を拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争 が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦 メイン号 がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争 が勃発すると、アメリカ軍 は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。
旧共和政時代(1902年 - 1959年) 1898年に締結されたパリ条約 によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン 、グアム 、プエルトリコ は割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。
1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法 の制定に際して、アメリカ合衆国議会 はプラット修正条項(Platt Amendment) を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉 権を認め、グァンタナモ とバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国 となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾 を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍 の基地 を置き続けている。
「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。キューバではクーデター の発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。
不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラート のフルヘンシオ・バティスタ (Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合 設立(1945年)や米州機構 設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ 問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。
1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで2度目のバティスタ政権を開始した。この政権でバディスタは、亡命時代に関係を築いたマフィア のキューバ国内における利権の保護と引き換えに私欲を満たすようになる。さらにキューバの産業にアメリカ資本が流れ込み、アメリカ企業による搾取、支配が行われた。これにより、バディスタ政権はアメリカによる事実上の傀儡政権となった。
1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ 率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営 襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動 (M26)」を結成、同志とともにメキシコ に亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。
キューバ革命(1959年 - 80年代) 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革 法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化 して、農業の集団化を実施するなど社会主義国 の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命 した。
バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦 による米ソ対立を背景にソビエト連邦 と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。
これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。
1961年1月3日、アメリカ政府は無報酬で企業財産を接収するキューバ政府に業を煮やして外交関係を断絶14 。対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件 またはプラヤ・ヒロン侵攻事件 )。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義 化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国 との結びつきを強めるようになった。
1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ 大統領 はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖 を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル 基地の建設とミサイル の搬入が明らかとなり、核戦争 の危機となった。アメリカは、海上封鎖で対抗した。ソビエト連邦 やキューバ は反発した。ソビエト連邦側からの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意し、この危機は回避された15 16 。核戦争は回避したが、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。
1973年、CIA によって画策されたチリ・クーデター でアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画 や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国 として独立したアフリカの旧ポルトガル 植民地や、社会主義化したエチオピア の戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラ に対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦 が勃発すると、内戦に介入した南アフリカ のアパルトヘイト 政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。
1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争 とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビア の独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダ に軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻 )。
冷戦終結以降(1991年 - 現在) 冷戦 が終結し、1991年にソ連が崩壊 すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油 をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏 (バルサ)で米国フロリダ州 を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドル の所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。
深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業 の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党 による一党制 体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由 などを認める各種の自由化 が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。
アメリカ合衆国下院 は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ 大統領の所属する共和党 主導で行われた17 。11月6日、アメリカ合衆国上院 はさらに外交委員会 で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権 発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。
国際連合総会 では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交 断絶と経済制裁 を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエル が反対、パラオ 、ミクロネシア 、マーシャル諸島 は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた18 19 20 。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋 の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。
2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン 外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義 を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。
2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話 所持やホテル 宿泊、家電製品 購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ中央銀行 が日本の化学品商社・明和産業 への輸入代金の支払に発行した信用状 (L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行 )。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険 が一部焦付額に保険を適用すると発表した21 。なお、日本貿易保険はキューバ中央銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている22 。
アメリカのバラク・オバマ 政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復 され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。
その後、2017年のドナルド・トランプ 大統領就任以降、アメリカはキューバに再び厳しい姿勢を示している。
略年表
1492年 クリストバル・コロン 、キューバ島に到着(12月27日)
1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル 、キューバ総督に任命
1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始
1895年 ホセ・マルティ 、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日)
1898年 米西戦争(2月)
1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)
1903年 アメリカ、グァンタナモ湾 を租借
1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)
1953年 モンカダ兵営 襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)
1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命
1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動 、活動開始
1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)
1958年 反乱軍の最終攻勢始まる
1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)
2月17日 フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命 )
4月15日 フィデル・カストロ、ニューヨーク へアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はアイゼンハウアー 大統領がゴルフ に出かけたとの理由で首脳会談を拒否
5月17日 農地改革法公布
1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表
1961年 アメリカと国交断絶(1月3日)
4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃
4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言
4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件)
4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表
1962年 キューバ危機 (10月15日)、ケネディ 米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日)
10月27日 オリエンテ州北部でU-2機 撃墜
10月28日 フルシチョフ ・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ
1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問
1965年 キューバ共産党 結成
1967年 フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ のボリビア での死亡を発表
1975年 第一回共産党大会、アンゴラ 派兵本格化
1976年
1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺
1983年 アメリカのグレナダ侵攻 に抗議して派兵
1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法23 成立、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が署名
1993年 ドル所有の合法化
12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命
1995年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意24
1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法25 成立、クリントン大統領が署名
1998年 ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 のキューバ訪問
1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁 の一部緩和措置発表、エリアン少年事件
2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
2001年 アメリカからへの食糧購入開始
2002年 ジミー・カーター 元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正
2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス 、キューバを北朝鮮 やイラン と並ぶ「圧制の拠点 」と発言し、打倒すべき独裁政権のひとつにあげた。キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラ へ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミ で逮捕される
2008年
2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表
2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出
2009年
6月 米州機構 総会においてキューバの復帰が認められる。しかしキューバは復帰を拒否
2011年 部分的に市場経済 が導入される
2014年
12月18日 アメリカとの国交正常化交渉を開始すると発表
2015年
4月11日 59年ぶりのアメリカ・キューバ首脳会談が行われる
7月20日 アメリカと国交回復
2016年
9月、国営企業で働く約100万人を対象に10月から課税すると発表。約半世紀ぶりに国営企業従業員への課税となる
11月25日、フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去26
2018年
4月19日、ミゲル・ディアス=カネルが国家評議会議長に就任
2019年
新憲法(現行憲法)制定。国家元首の役職が43年ぶりに「大統領」となる
2021年
4月19日、共産党第8回党大会にて引退を表明したラウル・カストロに代わる第一書記にミゲル・ディアス=カネルを選出27
政治
政体 :社会主義 ・共和制
憲法 :2019年に現行憲法を制定・施行した。私有財産を認める一方、「共産党」の統治や「社会主義」体制は堅持する28 29 。1976年に制定された旧憲法は、1992年、2002年に一部修正。1992年の憲法修正で、キューバを「社会主義」国家 と定義(第1条)。2002年の修正で、「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項を追加した。
最高指導者:キューバ共産党第一書記 。現任はミゲル・ディアス=カネル (2021年 - )。
元首:元首職 はキューバ共和国大統領。現任はミゲル・ディアス=カネル (2018年 - )。
議会:立法権行使機関として、一院制 の人民権力全国会議 (1976年発足)が存在。当初は、代議員を人民権力地方会(地方自治体)の中から選出する間接選挙 制を採用していたが、1992年から国民が代議員を直接選出する直接選挙 制度に移行した。総数589議席、任期5年。毎年2回定期的に開催され、議員中から31名の国家評議会議員を選出する。国家評議会は人民権力全国会議の閉会中に、立法機能を代行する。国家評議会議長はかつて国家元首を務めていた。
内閣:2019年の改憲で専任の首相職が43年ぶりに復活した。任期は5年。初代は元観光相のマヌエル・マレロ・クルス (2019年 - )。
内閣に相当する行政機関として、閣僚評議会が存在した。閣僚評議会議長・第一副議長・副議長8名・各国家委員会議長11名および各部長官23名によって構成される。首相 (政府首班)に相当する閣僚評議会議長は、国家評議会議長が兼任。
政党 :合法政党は「キューバ共産党 (PCC)」のみの一党制 。憲法第5条でPCCは「社会と国家の最高の指導役 」とされている。党の有力下部組織として「青年共産主義者同盟」を有する。
司法:司法権行使機関は、最高裁判所として人民最高裁判所が存在する。最高裁判事は、人民権力全国会議が選出する。法律の規定により、下級裁判所は州および自治体ごとに置かれているほか、特別裁判所として、国家に対する犯罪を扱う革命裁判所が存在する。
地方自治体 :地方自治を行う人民権力地方会として、人民権力行政区会議と人民権力州会議が存在する。詳細は地方行政区分 を参照。
反政府組織 :主要勢力として、キューバ系アメリカ人財団 (CANF)がアメリカ のフロリダ に存在する。
対外関係:非同盟 諸国との連帯、反帝国主義 および民族解放運動支援が、フィデル・カストロ政権時代の伝統的な対外政策の最優先課題である。1960年の対ソ連 接近にともない、アメリカとは1961年1月3日に国交 を断絶した。以後、米国から禁輸措置 を受けるが、アメリカ・キューバ両国は2014年12月に国交正常化交渉を開始すると発表し、2015年7月に国交を再開。近年ではラテンアメリカ 諸国の「左派 」政権との間で外交活動を活発に展開、キューバ人医師の派遣や医学 を志す留学生 の受け入れ(条件つきながら無料で学べる)など、医療支援も活発に行われている。
国際関係
アメリカとの関係 アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻 させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連 に支援を求めた。1962年10月にキューバ危機 が発生し、米ソ核戦争 の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル 基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺 を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある30 。
1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家 に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置 も参照)。
しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダ やローマ教皇 フランシスコ の仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ 大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した31 32 。以後、
2015年4月11日 - パナマ で行われた米州首脳会議 の会場でオバマ大統領とラウル・カストロ議長による59年ぶりの米・キューバ首脳会談が行われ、国交正常化に向けて話し合われた33 。
2015年5月30日 - アメリカがキューバのテロ支援国家指定を解除34 。
2015年7月1日 - 両国が相互に大使館を設置することで合意35 。
2015年7月20日 - 両国の利益代表部が大使館に格上げされ、国交回復36 。
と、2015年に入ってから具体的な国交正常化への歩みを進めた。
その後、米ドナルド・トランプ 政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した37 。
ラテンアメリカ諸国との関係
カナダとの関係 キューバとカナダ は友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。
ソビエト連邦及びロシアとの関係 ロシア とはキューバ革命 以後、ソ連 時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル 配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機 (1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。
1990年代初めのソビエト連邦の崩壊 による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシアの国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチ がキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ 」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道 によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている38 。
日本との関係 日本 とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争 の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約 締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人 移民 がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人 は800人である39 。
北朝鮮との関係 キューバ革命 以後、反米 政策を共通とする北朝鮮 とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、長らく韓国 と国交を結んでいなかったが、2024年2月14日に韓国と国交樹立40 。
中国との関係
軍事 キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国 の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵 組織などもある。
最高司令官は大統領が兼任。徴兵制度 が存在し、17 - 45歳の男子 が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル (2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍 兵力3万8,000人、海軍 兵力3,000人、空軍 兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連 製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵 が存在する(数値はすべて2007年のもの)。
情報機関 情報局 (DI)が主体となっている。DIは内務省 が管轄している。
他には同国共産党 中央委員会アメリカ部(Departamento America,DA)や外務省 、国家保安省 (DSE)や特殊作戦総局(DOE)、軍事情報部(DIM)、軍事保安・防諜部(DCI)が存在している。
嘗ては、国家保安機関 が防諜を担っていたが、これは1959年1月1日にフィデル・カストロが権力を掌握した後、国内における一連の情報機関および防諜部門に付けられた総称でもあった為、範囲が幅広かったとされている。
地理 キューバの国土は長さ1,250キロで、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島 )、および1,600あまりの小島と多島海からなる広大な群島によって構成されている。
キューバ島 キューバの本島であるキューバ島 44 は、西インド諸島 に属するカリブ海で最大の島 である。コロンブス の同島「発見 」時にはスペイン王国 の王族にちなんでフアナ島 45 と命名されたが、のちにキューバの呼び名が一般化し現在にいたっている(キューバの由来は国名 参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島 」が浮かんでいる。
キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1,225キロ、南北の距離は最大250キロから最小35キロで平均値は80キロと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳 地帯となっているが、山地 が島の全域に散在していることから、島に山塊 はない。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914メートル)、中央部にトリニダー山脈(標高1,200メートル)、南東部にマエストラ山脈 という3つの異なる山系がある。
東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250キロに及んで連なっている。ほかの山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高 2,005メートルのトゥルキーノ山 は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、北方海岸につながる山地との間にはカウト川 流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、銅 ・マンガン ・ニッケル ・クロム ・鉄鉱石 ・タングステン など、地下資源 が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形 で、険しい石灰岩 の山地・洞窟 などが多く、ハバナ 付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンサス土壌46 で覆われており、肥沃で排水がよく栽植農業地として的合である。
東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200メートル以下のなだらかな起伏の丘陵地 や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流をなす小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240キロ)であり、マエストラ山脈 を水源とし、グァンタナモ湾 に流れ込む。この川はキューバでもっとも長い川であり、下流の約100キロは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電 にも利用されている。
島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は全長3,735キロにもなる。海岸には約7万km²の大陸棚 があり、海岸線には入江 、湾、砂州 やマングローブ林 、サンゴ礁 、湿地、大小の岬、半島 が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。またグァンタナモ湾 は、1903年以降現在にいたるまでアメリカのグァンタナモ米軍基地 (南方軍 管轄)が存在することで知られている。
気候 キューバの気候 は亜熱帯 気候かつ海洋性気候 で、ケッペンの気候区分 では典型的な熱帯 性サバナ気候 に属する。年間の平均気温 は摂氏 25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風 、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温 のみならず、湿度 も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風 が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。
気温の較差がわずかなため、季節 的な気候変化はおもに降水量 によって左右される。乾期 は11月から4月、雨期 は5月から10月である。年平均降水量は約1,400ミリだが、トリニダー山地から「青年の島 」にかけての地域では2,000ミリに上り、マエストラ山脈 以東の地域では1,000ミリを下回り、グアンタナモ が一番少ない。雨季と同じ時期である6月から10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーン が襲来し、おもに北西部地域に風水害を与える。
環境
生態系 キューバでは外国人による調査活動が許可されにくく、固有種の生態調査が進んでいなかったが、近年では個人が橋渡し役となることで外国との合同研究が許可されるようになっている47 。
天然資源 とりわけ、海底油田 は北西部地域に未発見の原油 ガスが埋蔵されているとされ、これまで中国を含む諸外国による探査掘削作業がたびたび行われてきた。なお、地下資源はすべて政府の所有物とされている。キューバにおけるラテライト 、鉄鉱石 の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。
地方行政区分 歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州48 と「青年の島 」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分はキューバの独立戦争期にスペイン軍 が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。
キューバは中央集権 的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。
2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。
主要都市 2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市 部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾 を有する首都 のハバナ 49 で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。
その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業 中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ (40万4,100人)、キューバ島内陸の交通 要所および商業 中心地であるカマグエイ (29万4,000人)、豊かな農業 地域であるオルギン (24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ (20万8,000人)、サンタ・クララ (20万5,900人)、バヤモ (13万7,660人)、シエンフエーゴス (13万2,200人)、ピナール・デル・リオ 、12万8,800人)、ラス・トゥナス 、12万6,900人)、マタンサス 、12万3,890人)がある。
経済 キューバの伝統的な主要産物は、砂糖 、ニッケル 、海産物 である。キューバ革命 以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、サトウキビ の単一栽培(モノカルチャー )など、植民地 的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、国民総生産 の約25%、総輸出 額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の4分の3がアメリカに輸出されていた。ほかにも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。
革命以後、フィデル・カストロ は農地改革 と土地国有化を断行して計画経済 を推進した。計画では、特に行政・サービス 部門の増大が図られ、あわせて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培農業 の脆弱性を克服し、工業化 を進めるために経済開発計画を推進した。そして1970年代に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970年 - 1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対ソ連 依存度の増大などにより、経済成長 は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万トンに及ぶソ連の原油 供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法 (1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。
この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より外貨 所持と使用の解禁、独立採算制 の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した企業 の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4か所に自由貿易地帯を創設し、2001年にはカリブ海 沿岸国と自由貿易協定 を締結した。ほかにも、観光 ・資源 部門での外資誘致を積極化し、農業 分野においてはモノカルチャー の砂糖生産依存から脱皮を図るべく、オルガノポニコ と呼ばれる有機農業 へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。しかし、2000年代前半に生じた原油価格 高騰や、アメリカ同時多発テロ 等の影響、さらには2002年に生じた砂糖 価格暴落とベネズエラの政変 による石油 供給中断などにより、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行(デフォルト )が発生したことが明らかとなった。
現在でもキューバ経済の中心は砂糖 で、基本的には砂糖のモノカルチャー 経済 から脱却することができていない。ただし、有機農業 50 の増大によって、最近では日本 の生協 などとの農産物取り引きも行われるようになっている。タイマイ を食用として捕獲していることから、1990年代後半には副産物である鼈甲 を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、ワシントン条約 の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品としてニッケル があり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている51 。また医薬品系(B型肝炎 ワクチン など)の輸出も10%強をしめている。また、近年では観光業 に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の外貨 獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億米ドル に達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。
2011年4月において危機的状態が続く経済を再建するため、市場経済が部分的に導入されることが決まった52 。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認めるなど、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂はすべて閉鎖された。同年9月にはタバコ の配給 が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され53 、住宅の売買も11月に解禁された54 。人件費支払いが困難なため、2012年3月までに公務員の50万人のレイオフも行われる。失業者の受け皿として自営業の免許を25万人分発行することが決まった。現在の労働者は公務員約470万人、民間労働者約60万人(大半が農家)である。
経済活性化のため、2008年には自営業を許可する業種を拡大。レストランや民泊などの開業が相次ぎ、自営業者は2008年の約14万人から2017年には約58万人へと増えた。開業には納税のほか政府への登録料支払いが必要で、負担を嫌って無許可で開業する国民もいる55 。自営業で成功した富裕層や、富裕層向け店舗・サービス業 (美容室やエステ 、ペットショップなど)も出現している37 。
キューバに経済制裁を科しているアメリカを除いて、外国人観光客や外国資本の進出も増えている。ハバナ旧市街や海浜リゾート地には大型ホテルが建設された37 。ハバナ近郊には100%外資の操業を認めるマリエル特別開発区 (ZEDM)が整備されている56 。
厳しいながらも1990年代末からプラス成長 を維持してきたキューバ経済は2016年、それまで最大の貿易相手国であったベネズエラの政治・経済混乱で、23年ぶりのマイナス成長となった。国際連合 ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の推計・予測では、2017年は0.5%のプラス成長に戻し、2018年も1%の経済成長率が見込まれている。アメリカのトランプ政権 が再びキューバに対して厳しい姿勢を示しているものの、ヨーロッパ諸国からの進出企業や観光客が増えているほか、中国との貿易が拡大しているためである。外国からの渡航者は2016年に前年比14%増え、初めて400万人台(うち米国からは28万人)に乗せた57 。外国人観光客の来訪には空路のほか、ハバナ港に寄港するクルーズ客船 も利用されている。
アメリカ政府の発表によればキューバ国民1人あたりの月収は15ドルほどである58 。
通貨 1994年以降2種類の法定通貨が存在したが、2021年1月1日よりキューバ・ペソ (ペソ・クバーノ)へ一本化された59 。レートは1米ドル=24ペソに固定されている。
1994年から2020年12月1日までは外貨兌換券 である兌換ペソ も法定通貨のひとつとして、主に外国人や観光業で使用されていた。兌換ペソは米ドルと等価とされ、政府公式のレートでは兌換ペソとキューバ・ペソも等価とされていた。しかし民間のレートは1兌換ペソ=24キューバ・ペソであり、持つ「ペソ」の違いで経済格差ができていた60 。
交通 キューバでは、鉄道 が砂糖 輸送の重要な交通 手段として使われているほか、国土の中央を東西に貫通する高速道路 が建設されている。
科学技術 なお、キューバ科学アカデミーは嘗てヨーロッパ以外で活動している世界最古の科学アカデミーとして国際的に認知されていた。
国民 キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によってインディオ が絶滅したため、現在は白人 系市民と黒人 系市民および少数のアジア系移民で成り立っている。住民の人種 構成は、ムラート が37%、欧州 系白人 が51%(おもにスペイン 系)、黒人が11%、中国 系が1%であると推定され、他にもメスティーソ 、レバノン 人がおり、中国人やレバノン人、東インド諸島 の植民者のコミュニティ がある。キューバ政府は、「人種別の統計は、人種差別 につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。
言語
宗教 宗教 の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者 が人口の55%にまで達している。キューバでもっとも重要な宗教はカトリック であり、キューバ革命 以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないとみなされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。
日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しくSGI のキューバ支部(キューバ創価学会 )が存在している62 。
教育 キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。その結果、教育の無料化と非識字 率の大幅な低下といった成果を上げた。
おもな高等教育機関としてはハバナ大学 (1728年創立)などが挙げられる。高等教育 は、19万1,262人(2001-2002年度)の学生が受けている。
キューバの学校教育においてはスポーツ にも力を入れており、特に野球 は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバではもっともポピュラーなスポーツとなっている。
保健
医療 キューバの医療制度はプライマリ・ケア を重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。世界保健機関が発行するWorld Health Statistics 2014年度版によると、医療費の公費負担率は2000年度は90.8%、2011年度は94.7%である64 。2022年時点ですべての医療・教育費は子供から大人まで無償となった。人口1万人中の医師 数が67.2人と世界でもっとも多いグループに属する65 。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。被災地への医師の海外派遣 も積極的に行っている66 。これらは、マイケル・ムーア 監督の映画『シッコ 』で紹介された。キューバの所得水準は世界銀行の定義ではUpper Middle Income Countryに分類され、世界保健機関の年次報告書であるWorld health Statistics 2014年度版によると、世界保健機関が指標として定める妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率、乳幼児死亡率、成人死亡率は、Upper Middle Income Countriesの平均値よりは低いが、High Income Countriesの平均値よりは高く、平均寿命、平均健康寿命はUpper Middle Income Countriesの平均値よりは高いが、High Income Countriesの平均値よりは低い67 。
社会
生活 キューバ国民は全員が配給手帳を所持しており、毎日配給を受ける。ただし配給といっても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売である。配給所は街の随所にある。
キューバ国民が海外に出国する方法は大きくわけて四種類あり、
外国人からの推薦の発行
外国人との結婚
海外に住む家族による招待状の発行
国家による(留学目的などでの)海外派遣
亡命
なお、2.以降は取得が困難であるためキューバ人の多くは外国人観光客らと親しくなり、招待状を入手しようとしている。
施策
政府が監督下する文化的施策
図書館 :キューバ最大の図書館はハバナの国立図書館(蔵書数約220万冊)である。ハバナをはじめ主要都市には市立図書館が設置されている。
博物館 :ハバナの国立博物館は、古典 から現代に至る芸術作品、および先住民 ・文化 の遺物を収集している。
補足 :一部自治体は、演劇 や舞踊 などの文化活動を支援している。
反乱 同国では嘗てのカストロ政権から、政府を民主的な立ち位置へ変換することを目標とした組織的な活動が顕著に現れている一面がある。
治安 日中は観光客の多いハバナ旧市街周辺(特にモロ要塞やカバーニャ要塞周辺で被害が多発)、セントロハバナ周辺等の観光名所で外国人観光客を狙ったスリや置き引き等が発生しており、夜間にはハバナ中心部の比較的人通りの少ない暗い道でひったくりや強盗及び殺人 事件が発生しているため、治安の低さによる危険性が今後も高くなりつつあることを留意しなければならない68 。
治安維持
警察
人権 現地の人権状況はあまり宜しくないとされている節が強い。近年においては、2010年に「政治囚の刑務所環境が劣悪」だとして囚人がハンガーストライキ を起こすといった騒動が発生している。
マスコミ
通信とメディア インターネット への接続自体は2009年の解禁以降、環境が徐々に整備されてきた。公園など全国約500か所で公衆無線LAN (規格はWi-Fi )で有料接続でき、2017年10月には国営通信会社エテクサが一般家庭向け接続サービスの開始を発表した。国際電気通信連合 (ITU)の統計によると、2017年時点でキューバ国民のネット利用率は38%。
米Google の協力で首都ハバナに2016年開設された唯一のインターネット無料利用センターが接続できなくなっているなど(2018年2月時点)、低所得層を中心にネット利用には依然制約が多い。アメリカ政府はキューバの民主化 を促す手段としてインターネットを重視しており、オバマ政権時代にネット関連機器の輸出規制を緩和した。トランプ政権は2018年1月、国務省 にキューバでのネット普及を支援する特別部署を設置した70 。
テレビ 1940年代、ラジオ局のCM-21P とRHC-Cadena Azul が近々、テレビ放送を開始すると発表したがテレビ局の設立と放送網の構築するにあたって莫大な費用で複雑であったことから予想より大幅に時間がかかった。 1946年12月、ラテンアメリカで初めて、CM-21P が試験的にマルチポイントでの放送を行った。 1950年10月、ユニオンラジオが開局した後、次々と開局し同月25日に商業用としてテレビが導入されたことによってカリブ海地域 では初めて、ラテンアメリカでは2番目に放送を開始した国となった。同年、12月18日にCMQ-TVがチャンネル6で放送を開始。(正式にCMQとしては翌年3月11日。)また、ユニオンテレビが10月下旬にキューバリーグ冬季野球大会の第一試合を生中継したことにより野球がキューバの国民的娯楽として確立するきっかけとなった。この頃は、報道・料理・コメディと多様な番組がありテレビは16インチ350ドルから30インチ2000ドルと高価なものであったが、1952年までに10万台以上が輸入され普及した。 1952年3月10日、フルヘンシオ・バティスタ によるクーデター成功によって検閲が行われた。同年、フィデル・カストロによるモンカダ兵営に対して攻撃が行われた ため検閲が強化され1953年10月24日まで続いた。再び始まったのはキューバ革命 終結後の1959年である。政府は放送網を整備を始めカマグエイ に地方局チャンネル11を開局させ翌年、CMQチャンネル6から「CMQ」の名を外した。1961年にはチャンネル6と民間放送のチャンネル4とチャンネル2の広告を終了させた。 1958年3月19日、チャンネル12の「TELECOLOR SA」が16時間に亘るカラー放送を開始したことにより、アメリカに次いで世界で2番目にカラー放送を開始した国となった。 2022年の時点で国営が5局、デジタル放送専門が2局、HDデジタル放送が4局がある他、多数の地方局がある。
新聞
インターネット 1994年6月、アメリカのスプリント との64KBit/s通信を確立したものの、インターネットの拡大は頓挫した。要因としてソ連崩壊 によるキューバ経済の低迷や米国の対キューバ禁輸措置 による海底ケーブルの敷設の遅滞、コンピュータとその周辺機器の価格高騰により入手が困難となったことが考えられる。
2009年、オバマ大統領がアメリカ企業がキューバに対してのインターネットサービスの提供を許可することを発表したのち、通信を促進するため規制を修正する動きがあったが、キューバ政府はベネズエラ政府との協力を望み拒否した。同年、テレキューバにフロリダ州 キーウェスト とハバナの海底ケーブルを敷設の認可が下りていたが、双方の政治的配慮により事業が滞った。 2008年までパソコンや携帯電話の個人所有は政府の許可が必要であったが、合法化されたことで63万台以上が利用可能となった。ただし帯域幅が限られているために企業・学校・研究所など集団で使用される施設を優先とした。その後のネット利用者の推移は2012年に総人口の約30%、2016年7月には38.8%(433万4022人)、2022年時点で総人口の68%が利用している。 ベネズエラとの通信は2011年に光ファイバーが敷設され2013年1月に一般利用者への利用が可能となった。 2015年、政府は国内35ヶ所にWi-Fiスポットを開設し、2018年3月にほとんどの主要都市に拡大し全国約500ヶ所となった。 2018年、年末までにモバイルでのインターネットサービスを提供する計画を掲げ、12月に計画を始動させ2019年に限られた地域で4G通信が始まった。 2019年7月29日、条件付きで家庭や企業でのプライベートのWi-Fiが合法化された。
文化 キューバ国民の大半がスペイン かアフリカ からの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ (現在のナイジェリア )の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画 鑑賞が盛んな国でもある。
食文化 キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、米 、豆 、豚肉 を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、ラム酒 とコーヒー が広く飲まれている。
文学
音楽 キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースにいろいろな要素が混じり合って生まれており、ラテン音楽 の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国のジャズ などとともに20世紀の大衆音楽 に大きな影響を与えた。
19世紀にフランスのジョルジュ・ビゼー がハバネラ のリズムを取り入れたときからキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、1930年代以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼ばれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。
1950年代には、マンボ やチャチャチャ が世界的に流行したが、1959年のキューバ革命 後はアメリカとの国交 が途絶え、また経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こったヌエバ・トローバ が、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。
また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連とのつながりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバ 、チューチョ・バルデース (イラケレ のリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。
さらに21世紀に入って、中南米スペイン語圏およびアメリカのプエルトリコ系で一大ムーブメントとなったレゲトン (Reggaeton) がキューバにも本格的に到来、レゲエ とヒップホップ 、そしてキューバ音楽が融合したクバトン(en:Cubaton )が誕生し、キューバの若い世代に強く支持されている。
美術
映画 キューバは、ラテンアメリカの映画 大国であるブラジル 、アルゼンチン 、メキシコ には及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国のひとつである。革命前のキューバの映画産業 は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年にハバナ国際映画テレビ学校 (EICTV)が設立されてからはガルシア・マルケス を筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。
建築 キューバにおける建築は折衷的かつ多様な建築で有名となっている。
カーニバル
世界遺産
祝祭日
スポーツ さらにキューバでは「オリンピックスポーツ選手」が「スポーツ選手」のステータスであり、野球代表等はその下に位置する。なお、すべてのスポーツ選手はアマチュア の国家公務員 (いわゆるステート・アマ )であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また亡命 に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。
著名な出身者
象徴 キューバの国の象徴には、嘗ての宗主国であったスペインの文化に由来するものが含まれている。
参考文献
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文献あり、並列タイトル:La musica en Cuba
八木啓代 、吉田憲司 『キューバ音楽 増補新版』青土社 、2009年8月。ISBN 978-4791764976。
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吉田太郎『200万都市が有機野菜で自給できるわけ──都市農業大国キューバ・リポート』、築地書館 、2002年8月。ISBN 4806712493。
吉田太郎『有機農業が国を変えた──小さなキューバの大きな実験』コモンズ 、2002年8月。ISBN 4906640540。
吉田太郎『1000万人が反グローバリズムで自給・自立できるわけ──スローライフ大国キューバ・リポート』築地書館 、2004年1月。ISBN 4806712779。
吉田太郎『世界がキューバ医療を手本にするわけ』築地書館 、2007年8月。ISBN 4806713511。
脚注
5.1.
アメリカとの関係
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人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチ は、政府が反対意見を抑圧するため、日常的に批評家や活動家、抗議者などを恣意的に拘禁していることを指摘している7 。
経済面はサトウキビ 栽培を中心とする農業国であり、製糖業が行われ、輸出の半分以上を砂糖が占めているが、輸出入の60%以上を頼っていたソ連が1990年に崩壊したことで経済的苦境に立ち、在外キューバ人の送金などが経済を支えている3 。アメリカとの国交回復で在米キューバ人のドル送金の大幅緩和を受けることに成功し、またソ連崩壊以来疎遠になっていたロシア や中国 との結びつきも強め、巨額の経済援助を受けている8 。
軍事面では徴兵制 が採用されており、4万9000人の兵力を持つ。軍事予算額は不明11 。
人口は国連 によれば約1125.6万人(2022年7月現在)。先住民のインディオ はスペイン統治時代の初期のうちにほぼ絶滅し、代わりの労働力として導入されたアフリカ 黒人奴隷 の子孫が混血も含めて今日のキューバ住民の約30%を占め、残りは大部分がスペイン系白人である。他に中国人 を中心としたアジア系住民も少数暮らしている12 。公用語はスペイン語 3 。宗教 はカトリック が大半を占める。教会 は「反革命活動」をしないことを条件に存続が許されている状況にある8 。
国名 公式の英語 表記はRepublic of Cuba。通称Cuba(キューバ)。[\ˈkjuːbə](/ja/w/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7) ( 音声ファイル)
日本語 の表記は、キューバ共和国 。通称、キューバ 。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字 は、玖馬 、玖瑪 、久場 、古巴 など。中華人民共和国 においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。
国名は、カリブ海 最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオ (タイノ族 )の言葉であるクバナカン 13 が由来であるとされている。
歴史
スペイン植民地時代 また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス 領サン=ドマング がハイチとして独立 したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ 支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。
その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人 農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーション が発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻 の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国 編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドル やドミニカ共和国 にもあった)。
独立戦争(1868年 - 1902年) 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデス により1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争 として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラート のアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを止めることはできなかった。
1892年、ホセ・マルティ をはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨーク を拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争 が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦 メイン号 がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争 が勃発すると、アメリカ軍 は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。
旧共和政時代(1902年 - 1959年) 1898年に締結されたパリ条約 によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン 、グアム 、プエルトリコ は割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。
1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法 の制定に際して、アメリカ合衆国議会 はプラット修正条項(Platt Amendment) を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉 権を認め、グァンタナモ とバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国 となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾 を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍 の基地 を置き続けている。
「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。キューバではクーデター の発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。
不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラート のフルヘンシオ・バティスタ (Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合 設立(1945年)や米州機構 設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ 問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。
1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで2度目のバティスタ政権を開始した。この政権でバディスタは、亡命時代に関係を築いたマフィア のキューバ国内における利権の保護と引き換えに私欲を満たすようになる。さらにキューバの産業にアメリカ資本が流れ込み、アメリカ企業による搾取、支配が行われた。これにより、バディスタ政権はアメリカによる事実上の傀儡政権となった。
1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ 率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営 襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動 (M26)」を結成、同志とともにメキシコ に亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。
キューバ革命(1959年 - 80年代) 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革 法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化 して、農業の集団化を実施するなど社会主義国 の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命 した。
バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦 による米ソ対立を背景にソビエト連邦 と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。
これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。
1961年1月3日、アメリカ政府は無報酬で企業財産を接収するキューバ政府に業を煮やして外交関係を断絶14 。対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件 またはプラヤ・ヒロン侵攻事件 )。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義 化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国 との結びつきを強めるようになった。
1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ 大統領 はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖 を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル 基地の建設とミサイル の搬入が明らかとなり、核戦争 の危機となった。アメリカは、海上封鎖で対抗した。ソビエト連邦 やキューバ は反発した。ソビエト連邦側からの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意し、この危機は回避された15 16 。核戦争は回避したが、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。
1973年、CIA によって画策されたチリ・クーデター でアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画 や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国 として独立したアフリカの旧ポルトガル 植民地や、社会主義化したエチオピア の戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラ に対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦 が勃発すると、内戦に介入した南アフリカ のアパルトヘイト 政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。
1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争 とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビア の独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダ に軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻 )。
冷戦終結以降(1991年 - 現在) 冷戦 が終結し、1991年にソ連が崩壊 すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油 をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏 (バルサ)で米国フロリダ州 を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドル の所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。
深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業 の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党 による一党制 体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由 などを認める各種の自由化 が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。
アメリカ合衆国下院 は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ 大統領の所属する共和党 主導で行われた17 。11月6日、アメリカ合衆国上院 はさらに外交委員会 で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権 発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。
国際連合総会 では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交 断絶と経済制裁 を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエル が反対、パラオ 、ミクロネシア 、マーシャル諸島 は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた18 19 20 。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋 の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。
2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン 外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義 を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。
2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話 所持やホテル 宿泊、家電製品 購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ中央銀行 が日本の化学品商社・明和産業 への輸入代金の支払に発行した信用状 (L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行 )。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険 が一部焦付額に保険を適用すると発表した21 。なお、日本貿易保険はキューバ中央銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている22 。
アメリカのバラク・オバマ 政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復 され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。
その後、2017年のドナルド・トランプ 大統領就任以降、アメリカはキューバに再び厳しい姿勢を示している。
略年表
1492年 クリストバル・コロン 、キューバ島に到着(12月27日)
1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル 、キューバ総督に任命
1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始
1895年 ホセ・マルティ 、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日)
1898年 米西戦争(2月)
1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)
1903年 アメリカ、グァンタナモ湾 を租借
1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)
1953年 モンカダ兵営 襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)
1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命
1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動 、活動開始
1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)
1958年 反乱軍の最終攻勢始まる
1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)
2月17日 フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命 )
4月15日 フィデル・カストロ、ニューヨーク へアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はアイゼンハウアー 大統領がゴルフ に出かけたとの理由で首脳会談を拒否
5月17日 農地改革法公布
1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表
1961年 アメリカと国交断絶(1月3日)
4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃
4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言
4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件)
4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表
1962年 キューバ危機 (10月15日)、ケネディ 米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日)
10月27日 オリエンテ州北部でU-2機 撃墜
10月28日 フルシチョフ ・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ
1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問
1965年 キューバ共産党 結成
1967年 フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ のボリビア での死亡を発表
1975年 第一回共産党大会、アンゴラ 派兵本格化
1976年
1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺
1983年 アメリカのグレナダ侵攻 に抗議して派兵
1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法23 成立、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が署名
1993年 ドル所有の合法化
12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命
1995年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意24
1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法25 成立、クリントン大統領が署名
1998年 ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 のキューバ訪問
1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁 の一部緩和措置発表、エリアン少年事件
2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
2001年 アメリカからへの食糧購入開始
2002年 ジミー・カーター 元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正
2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス 、キューバを北朝鮮 やイラン と並ぶ「圧制の拠点 」と発言し、打倒すべき独裁政権のひとつにあげた。キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラ へ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミ で逮捕される
2008年
2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表
2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出
2009年
6月 米州機構 総会においてキューバの復帰が認められる。しかしキューバは復帰を拒否
2011年 部分的に市場経済 が導入される
2014年
12月18日 アメリカとの国交正常化交渉を開始すると発表
2015年
4月11日 59年ぶりのアメリカ・キューバ首脳会談が行われる
7月20日 アメリカと国交回復
2016年
9月、国営企業で働く約100万人を対象に10月から課税すると発表。約半世紀ぶりに国営企業従業員への課税となる
11月25日、フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去26
2018年
4月19日、ミゲル・ディアス=カネルが国家評議会議長に就任
2019年
新憲法(現行憲法)制定。国家元首の役職が43年ぶりに「大統領」となる
2021年
4月19日、共産党第8回党大会にて引退を表明したラウル・カストロに代わる第一書記にミゲル・ディアス=カネルを選出27
政治
政体 :社会主義 ・共和制
憲法 :2019年に現行憲法を制定・施行した。私有財産を認める一方、「共産党」の統治や「社会主義」体制は堅持する28 29 。1976年に制定された旧憲法は、1992年、2002年に一部修正。1992年の憲法修正で、キューバを「社会主義」国家 と定義(第1条)。2002年の修正で、「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項を追加した。
最高指導者:キューバ共産党第一書記 。現任はミゲル・ディアス=カネル (2021年 - )。
元首:元首職 はキューバ共和国大統領。現任はミゲル・ディアス=カネル (2018年 - )。
議会:立法権行使機関として、一院制 の人民権力全国会議 (1976年発足)が存在。当初は、代議員を人民権力地方会(地方自治体)の中から選出する間接選挙 制を採用していたが、1992年から国民が代議員を直接選出する直接選挙 制度に移行した。総数589議席、任期5年。毎年2回定期的に開催され、議員中から31名の国家評議会議員を選出する。国家評議会は人民権力全国会議の閉会中に、立法機能を代行する。国家評議会議長はかつて国家元首を務めていた。
内閣:2019年の改憲で専任の首相職が43年ぶりに復活した。任期は5年。初代は元観光相のマヌエル・マレロ・クルス (2019年 - )。
内閣に相当する行政機関として、閣僚評議会が存在した。閣僚評議会議長・第一副議長・副議長8名・各国家委員会議長11名および各部長官23名によって構成される。首相 (政府首班)に相当する閣僚評議会議長は、国家評議会議長が兼任。
政党 :合法政党は「キューバ共産党 (PCC)」のみの一党制 。憲法第5条でPCCは「社会と国家の最高の指導役 」とされている。党の有力下部組織として「青年共産主義者同盟」を有する。
司法:司法権行使機関は、最高裁判所として人民最高裁判所が存在する。最高裁判事は、人民権力全国会議が選出する。法律の規定により、下級裁判所は州および自治体ごとに置かれているほか、特別裁判所として、国家に対する犯罪を扱う革命裁判所が存在する。
地方自治体 :地方自治を行う人民権力地方会として、人民権力行政区会議と人民権力州会議が存在する。詳細は地方行政区分 を参照。
反政府組織 :主要勢力として、キューバ系アメリカ人財団 (CANF)がアメリカ のフロリダ に存在する。
対外関係:非同盟 諸国との連帯、反帝国主義 および民族解放運動支援が、フィデル・カストロ政権時代の伝統的な対外政策の最優先課題である。1960年の対ソ連 接近にともない、アメリカとは1961年1月3日に国交 を断絶した。以後、米国から禁輸措置 を受けるが、アメリカ・キューバ両国は2014年12月に国交正常化交渉を開始すると発表し、2015年7月に国交を再開。近年ではラテンアメリカ 諸国の「左派 」政権との間で外交活動を活発に展開、キューバ人医師の派遣や医学 を志す留学生 の受け入れ(条件つきながら無料で学べる)など、医療支援も活発に行われている。
国際関係
アメリカとの関係 アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻 させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連 に支援を求めた。1962年10月にキューバ危機 が発生し、米ソ核戦争 の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル 基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺 を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある30 。
1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家 に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置 も参照)。
しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダ やローマ教皇 フランシスコ の仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ 大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した31 32 。以後、
2015年4月11日 - パナマ で行われた米州首脳会議 の会場でオバマ大統領とラウル・カストロ議長による59年ぶりの米・キューバ首脳会談が行われ、国交正常化に向けて話し合われた33 。
2015年5月30日 - アメリカがキューバのテロ支援国家指定を解除34 。
2015年7月1日 - 両国が相互に大使館を設置することで合意35 。
2015年7月20日 - 両国の利益代表部が大使館に格上げされ、国交回復36 。
と、2015年に入ってから具体的な国交正常化への歩みを進めた。
その後、米ドナルド・トランプ 政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した37 。
ラテンアメリカ諸国との関係
カナダとの関係 キューバとカナダ は友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。
ソビエト連邦及びロシアとの関係 ロシア とはキューバ革命 以後、ソ連 時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル 配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機 (1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。
1990年代初めのソビエト連邦の崩壊 による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシアの国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチ がキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ 」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道 によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている38 。
日本との関係 日本 とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争 の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約 締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人 移民 がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人 は800人である39 。
北朝鮮との関係 キューバ革命 以後、反米 政策を共通とする北朝鮮 とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、長らく韓国 と国交を結んでいなかったが、2024年2月14日に韓国と国交樹立40 。
中国との関係
軍事 キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国 の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵 組織などもある。
最高司令官は大統領が兼任。徴兵制度 が存在し、17 - 45歳の男子 が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル (2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍 兵力3万8,000人、海軍 兵力3,000人、空軍 兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連 製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵 が存在する(数値はすべて2007年のもの)。
情報機関 情報局 (DI)が主体となっている。DIは内務省 が管轄している。
他には同国共産党 中央委員会アメリカ部(Departamento America,DA)や外務省 、国家保安省 (DSE)や特殊作戦総局(DOE)、軍事情報部(DIM)、軍事保安・防諜部(DCI)が存在している。
嘗ては、国家保安機関 が防諜を担っていたが、これは1959年1月1日にフィデル・カストロが権力を掌握した後、国内における一連の情報機関および防諜部門に付けられた総称でもあった為、範囲が幅広かったとされている。
地理 キューバの国土は長さ1,250キロで、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島 )、および1,600あまりの小島と多島海からなる広大な群島によって構成されている。
キューバ島 キューバの本島であるキューバ島 44 は、西インド諸島 に属するカリブ海で最大の島 である。コロンブス の同島「発見 」時にはスペイン王国 の王族にちなんでフアナ島 45 と命名されたが、のちにキューバの呼び名が一般化し現在にいたっている(キューバの由来は国名 参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島 」が浮かんでいる。
キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1,225キロ、南北の距離は最大250キロから最小35キロで平均値は80キロと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳 地帯となっているが、山地 が島の全域に散在していることから、島に山塊 はない。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914メートル)、中央部にトリニダー山脈(標高1,200メートル)、南東部にマエストラ山脈 という3つの異なる山系がある。
東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250キロに及んで連なっている。ほかの山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高 2,005メートルのトゥルキーノ山 は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、北方海岸につながる山地との間にはカウト川 流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、銅 ・マンガン ・ニッケル ・クロム ・鉄鉱石 ・タングステン など、地下資源 が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形 で、険しい石灰岩 の山地・洞窟 などが多く、ハバナ 付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンサス土壌46 で覆われており、肥沃で排水がよく栽植農業地として的合である。
東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200メートル以下のなだらかな起伏の丘陵地 や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流をなす小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240キロ)であり、マエストラ山脈 を水源とし、グァンタナモ湾 に流れ込む。この川はキューバでもっとも長い川であり、下流の約100キロは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電 にも利用されている。
島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は全長3,735キロにもなる。海岸には約7万km²の大陸棚 があり、海岸線には入江 、湾、砂州 やマングローブ林 、サンゴ礁 、湿地、大小の岬、半島 が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。またグァンタナモ湾 は、1903年以降現在にいたるまでアメリカのグァンタナモ米軍基地 (南方軍 管轄)が存在することで知られている。
気候 キューバの気候 は亜熱帯 気候かつ海洋性気候 で、ケッペンの気候区分 では典型的な熱帯 性サバナ気候 に属する。年間の平均気温 は摂氏 25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風 、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温 のみならず、湿度 も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風 が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。
気温の較差がわずかなため、季節 的な気候変化はおもに降水量 によって左右される。乾期 は11月から4月、雨期 は5月から10月である。年平均降水量は約1,400ミリだが、トリニダー山地から「青年の島 」にかけての地域では2,000ミリに上り、マエストラ山脈 以東の地域では1,000ミリを下回り、グアンタナモ が一番少ない。雨季と同じ時期である6月から10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーン が襲来し、おもに北西部地域に風水害を与える。
環境
生態系 キューバでは外国人による調査活動が許可されにくく、固有種の生態調査が進んでいなかったが、近年では個人が橋渡し役となることで外国との合同研究が許可されるようになっている47 。
天然資源 とりわけ、海底油田 は北西部地域に未発見の原油 ガスが埋蔵されているとされ、これまで中国を含む諸外国による探査掘削作業がたびたび行われてきた。なお、地下資源はすべて政府の所有物とされている。キューバにおけるラテライト 、鉄鉱石 の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。
地方行政区分 歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州48 と「青年の島 」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分はキューバの独立戦争期にスペイン軍 が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。
キューバは中央集権 的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。
2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。
主要都市 2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市 部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾 を有する首都 のハバナ 49 で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。
その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業 中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ (40万4,100人)、キューバ島内陸の交通 要所および商業 中心地であるカマグエイ (29万4,000人)、豊かな農業 地域であるオルギン (24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ (20万8,000人)、サンタ・クララ (20万5,900人)、バヤモ (13万7,660人)、シエンフエーゴス (13万2,200人)、ピナール・デル・リオ 、12万8,800人)、ラス・トゥナス 、12万6,900人)、マタンサス 、12万3,890人)がある。
経済 キューバの伝統的な主要産物は、砂糖 、ニッケル 、海産物 である。キューバ革命 以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、サトウキビ の単一栽培(モノカルチャー )など、植民地 的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、国民総生産 の約25%、総輸出 額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の4分の3がアメリカに輸出されていた。ほかにも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。
革命以後、フィデル・カストロ は農地改革 と土地国有化を断行して計画経済 を推進した。計画では、特に行政・サービス 部門の増大が図られ、あわせて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培農業 の脆弱性を克服し、工業化 を進めるために経済開発計画を推進した。そして1970年代に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970年 - 1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対ソ連 依存度の増大などにより、経済成長 は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万トンに及ぶソ連の原油 供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法 (1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。
この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より外貨 所持と使用の解禁、独立採算制 の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した企業 の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4か所に自由貿易地帯を創設し、2001年にはカリブ海 沿岸国と自由貿易協定 を締結した。ほかにも、観光 ・資源 部門での外資誘致を積極化し、農業 分野においてはモノカルチャー の砂糖生産依存から脱皮を図るべく、オルガノポニコ と呼ばれる有機農業 へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。しかし、2000年代前半に生じた原油価格 高騰や、アメリカ同時多発テロ 等の影響、さらには2002年に生じた砂糖 価格暴落とベネズエラの政変 による石油 供給中断などにより、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行(デフォルト )が発生したことが明らかとなった。
現在でもキューバ経済の中心は砂糖 で、基本的には砂糖のモノカルチャー 経済 から脱却することができていない。ただし、有機農業 50 の増大によって、最近では日本 の生協 などとの農産物取り引きも行われるようになっている。タイマイ を食用として捕獲していることから、1990年代後半には副産物である鼈甲 を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、ワシントン条約 の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品としてニッケル があり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている51 。また医薬品系(B型肝炎 ワクチン など)の輸出も10%強をしめている。また、近年では観光業 に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の外貨 獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億米ドル に達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。
2011年4月において危機的状態が続く経済を再建するため、市場経済が部分的に導入されることが決まった52 。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認めるなど、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂はすべて閉鎖された。同年9月にはタバコ の配給 が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され53 、住宅の売買も11月に解禁された54 。人件費支払いが困難なため、2012年3月までに公務員の50万人のレイオフも行われる。失業者の受け皿として自営業の免許を25万人分発行することが決まった。現在の労働者は公務員約470万人、民間労働者約60万人(大半が農家)である。
経済活性化のため、2008年には自営業を許可する業種を拡大。レストランや民泊などの開業が相次ぎ、自営業者は2008年の約14万人から2017年には約58万人へと増えた。開業には納税のほか政府への登録料支払いが必要で、負担を嫌って無許可で開業する国民もいる55 。自営業で成功した富裕層や、富裕層向け店舗・サービス業 (美容室やエステ 、ペットショップなど)も出現している37 。
キューバに経済制裁を科しているアメリカを除いて、外国人観光客や外国資本の進出も増えている。ハバナ旧市街や海浜リゾート地には大型ホテルが建設された37 。ハバナ近郊には100%外資の操業を認めるマリエル特別開発区 (ZEDM)が整備されている56 。
厳しいながらも1990年代末からプラス成長 を維持してきたキューバ経済は2016年、それまで最大の貿易相手国であったベネズエラの政治・経済混乱で、23年ぶりのマイナス成長となった。国際連合 ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の推計・予測では、2017年は0.5%のプラス成長に戻し、2018年も1%の経済成長率が見込まれている。アメリカのトランプ政権 が再びキューバに対して厳しい姿勢を示しているものの、ヨーロッパ諸国からの進出企業や観光客が増えているほか、中国との貿易が拡大しているためである。外国からの渡航者は2016年に前年比14%増え、初めて400万人台(うち米国からは28万人)に乗せた57 。外国人観光客の来訪には空路のほか、ハバナ港に寄港するクルーズ客船 も利用されている。
アメリカ政府の発表によればキューバ国民1人あたりの月収は15ドルほどである58 。
通貨 1994年以降2種類の法定通貨が存在したが、2021年1月1日よりキューバ・ペソ (ペソ・クバーノ)へ一本化された59 。レートは1米ドル=24ペソに固定されている。
1994年から2020年12月1日までは外貨兌換券 である兌換ペソ も法定通貨のひとつとして、主に外国人や観光業で使用されていた。兌換ペソは米ドルと等価とされ、政府公式のレートでは兌換ペソとキューバ・ペソも等価とされていた。しかし民間のレートは1兌換ペソ=24キューバ・ペソであり、持つ「ペソ」の違いで経済格差ができていた60 。
交通 キューバでは、鉄道 が砂糖 輸送の重要な交通 手段として使われているほか、国土の中央を東西に貫通する高速道路 が建設されている。
科学技術 なお、キューバ科学アカデミーは嘗てヨーロッパ以外で活動している世界最古の科学アカデミーとして国際的に認知されていた。
国民 キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によってインディオ が絶滅したため、現在は白人 系市民と黒人 系市民および少数のアジア系移民で成り立っている。住民の人種 構成は、ムラート が37%、欧州 系白人 が51%(おもにスペイン 系)、黒人が11%、中国 系が1%であると推定され、他にもメスティーソ 、レバノン 人がおり、中国人やレバノン人、東インド諸島 の植民者のコミュニティ がある。キューバ政府は、「人種別の統計は、人種差別 につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。
言語
宗教 宗教 の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者 が人口の55%にまで達している。キューバでもっとも重要な宗教はカトリック であり、キューバ革命 以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないとみなされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。
日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しくSGI のキューバ支部(キューバ創価学会 )が存在している62 。
教育 キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。その結果、教育の無料化と非識字 率の大幅な低下といった成果を上げた。
おもな高等教育機関としてはハバナ大学 (1728年創立)などが挙げられる。高等教育 は、19万1,262人(2001-2002年度)の学生が受けている。
キューバの学校教育においてはスポーツ にも力を入れており、特に野球 は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバではもっともポピュラーなスポーツとなっている。
保健
医療 キューバの医療制度はプライマリ・ケア を重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。世界保健機関が発行するWorld Health Statistics 2014年度版によると、医療費の公費負担率は2000年度は90.8%、2011年度は94.7%である64 。2022年時点ですべての医療・教育費は子供から大人まで無償となった。人口1万人中の医師 数が67.2人と世界でもっとも多いグループに属する65 。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。被災地への医師の海外派遣 も積極的に行っている66 。これらは、マイケル・ムーア 監督の映画『シッコ 』で紹介された。キューバの所得水準は世界銀行の定義ではUpper Middle Income Countryに分類され、世界保健機関の年次報告書であるWorld health Statistics 2014年度版によると、世界保健機関が指標として定める妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率、乳幼児死亡率、成人死亡率は、Upper Middle Income Countriesの平均値よりは低いが、High Income Countriesの平均値よりは高く、平均寿命、平均健康寿命はUpper Middle Income Countriesの平均値よりは高いが、High Income Countriesの平均値よりは低い67 。
社会
生活 キューバ国民は全員が配給手帳を所持しており、毎日配給を受ける。ただし配給といっても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売である。配給所は街の随所にある。
キューバ国民が海外に出国する方法は大きくわけて四種類あり、
外国人からの推薦の発行
外国人との結婚
海外に住む家族による招待状の発行
国家による(留学目的などでの)海外派遣
亡命
なお、2.以降は取得が困難であるためキューバ人の多くは外国人観光客らと親しくなり、招待状を入手しようとしている。
施策
政府が監督下する文化的施策
図書館 :キューバ最大の図書館はハバナの国立図書館(蔵書数約220万冊)である。ハバナをはじめ主要都市には市立図書館が設置されている。
博物館 :ハバナの国立博物館は、古典 から現代に至る芸術作品、および先住民 ・文化 の遺物を収集している。
補足 :一部自治体は、演劇 や舞踊 などの文化活動を支援している。
反乱 同国では嘗てのカストロ政権から、政府を民主的な立ち位置へ変換することを目標とした組織的な活動が顕著に現れている一面がある。
治安 日中は観光客の多いハバナ旧市街周辺(特にモロ要塞やカバーニャ要塞周辺で被害が多発)、セントロハバナ周辺等の観光名所で外国人観光客を狙ったスリや置き引き等が発生しており、夜間にはハバナ中心部の比較的人通りの少ない暗い道でひったくりや強盗及び殺人 事件が発生しているため、治安の低さによる危険性が今後も高くなりつつあることを留意しなければならない68 。
治安維持
警察
人権 現地の人権状況はあまり宜しくないとされている節が強い。近年においては、2010年に「政治囚の刑務所環境が劣悪」だとして囚人がハンガーストライキ を起こすといった騒動が発生している。
マスコミ
通信とメディア インターネット への接続自体は2009年の解禁以降、環境が徐々に整備されてきた。公園など全国約500か所で公衆無線LAN (規格はWi-Fi )で有料接続でき、2017年10月には国営通信会社エテクサが一般家庭向け接続サービスの開始を発表した。国際電気通信連合 (ITU)の統計によると、2017年時点でキューバ国民のネット利用率は38%。
米Google の協力で首都ハバナに2016年開設された唯一のインターネット無料利用センターが接続できなくなっているなど(2018年2月時点)、低所得層を中心にネット利用には依然制約が多い。アメリカ政府はキューバの民主化 を促す手段としてインターネットを重視しており、オバマ政権時代にネット関連機器の輸出規制を緩和した。トランプ政権は2018年1月、国務省 にキューバでのネット普及を支援する特別部署を設置した70 。
テレビ 1940年代、ラジオ局のCM-21P とRHC-Cadena Azul が近々、テレビ放送を開始すると発表したがテレビ局の設立と放送網の構築するにあたって莫大な費用で複雑であったことから予想より大幅に時間がかかった。 1946年12月、ラテンアメリカで初めて、CM-21P が試験的にマルチポイントでの放送を行った。 1950年10月、ユニオンラジオが開局した後、次々と開局し同月25日に商業用としてテレビが導入されたことによってカリブ海地域 では初めて、ラテンアメリカでは2番目に放送を開始した国となった。同年、12月18日にCMQ-TVがチャンネル6で放送を開始。(正式にCMQとしては翌年3月11日。)また、ユニオンテレビが10月下旬にキューバリーグ冬季野球大会の第一試合を生中継したことにより野球がキューバの国民的娯楽として確立するきっかけとなった。この頃は、報道・料理・コメディと多様な番組がありテレビは16インチ350ドルから30インチ2000ドルと高価なものであったが、1952年までに10万台以上が輸入され普及した。 1952年3月10日、フルヘンシオ・バティスタ によるクーデター成功によって検閲が行われた。同年、フィデル・カストロによるモンカダ兵営に対して攻撃が行われた ため検閲が強化され1953年10月24日まで続いた。再び始まったのはキューバ革命 終結後の1959年である。政府は放送網を整備を始めカマグエイ に地方局チャンネル11を開局させ翌年、CMQチャンネル6から「CMQ」の名を外した。1961年にはチャンネル6と民間放送のチャンネル4とチャンネル2の広告を終了させた。 1958年3月19日、チャンネル12の「TELECOLOR SA」が16時間に亘るカラー放送を開始したことにより、アメリカに次いで世界で2番目にカラー放送を開始した国となった。 2022年の時点で国営が5局、デジタル放送専門が2局、HDデジタル放送が4局がある他、多数の地方局がある。
新聞
インターネット 1994年6月、アメリカのスプリント との64KBit/s通信を確立したものの、インターネットの拡大は頓挫した。要因としてソ連崩壊 によるキューバ経済の低迷や米国の対キューバ禁輸措置 による海底ケーブルの敷設の遅滞、コンピュータとその周辺機器の価格高騰により入手が困難となったことが考えられる。
2009年、オバマ大統領がアメリカ企業がキューバに対してのインターネットサービスの提供を許可することを発表したのち、通信を促進するため規制を修正する動きがあったが、キューバ政府はベネズエラ政府との協力を望み拒否した。同年、テレキューバにフロリダ州 キーウェスト とハバナの海底ケーブルを敷設の認可が下りていたが、双方の政治的配慮により事業が滞った。 2008年までパソコンや携帯電話の個人所有は政府の許可が必要であったが、合法化されたことで63万台以上が利用可能となった。ただし帯域幅が限られているために企業・学校・研究所など集団で使用される施設を優先とした。その後のネット利用者の推移は2012年に総人口の約30%、2016年7月には38.8%(433万4022人)、2022年時点で総人口の68%が利用している。 ベネズエラとの通信は2011年に光ファイバーが敷設され2013年1月に一般利用者への利用が可能となった。 2015年、政府は国内35ヶ所にWi-Fiスポットを開設し、2018年3月にほとんどの主要都市に拡大し全国約500ヶ所となった。 2018年、年末までにモバイルでのインターネットサービスを提供する計画を掲げ、12月に計画を始動させ2019年に限られた地域で4G通信が始まった。 2019年7月29日、条件付きで家庭や企業でのプライベートのWi-Fiが合法化された。
文化 キューバ国民の大半がスペイン かアフリカ からの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ (現在のナイジェリア )の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画 鑑賞が盛んな国でもある。
食文化 キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、米 、豆 、豚肉 を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、ラム酒 とコーヒー が広く飲まれている。
文学
音楽 キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースにいろいろな要素が混じり合って生まれており、ラテン音楽 の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国のジャズ などとともに20世紀の大衆音楽 に大きな影響を与えた。
19世紀にフランスのジョルジュ・ビゼー がハバネラ のリズムを取り入れたときからキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、1930年代以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼ばれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。
1950年代には、マンボ やチャチャチャ が世界的に流行したが、1959年のキューバ革命 後はアメリカとの国交 が途絶え、また経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こったヌエバ・トローバ が、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。
また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連とのつながりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバ 、チューチョ・バルデース (イラケレ のリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。
さらに21世紀に入って、中南米スペイン語圏およびアメリカのプエルトリコ系で一大ムーブメントとなったレゲトン (Reggaeton) がキューバにも本格的に到来、レゲエ とヒップホップ 、そしてキューバ音楽が融合したクバトン(en:Cubaton )が誕生し、キューバの若い世代に強く支持されている。
美術
映画 キューバは、ラテンアメリカの映画 大国であるブラジル 、アルゼンチン 、メキシコ には及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国のひとつである。革命前のキューバの映画産業 は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年にハバナ国際映画テレビ学校 (EICTV)が設立されてからはガルシア・マルケス を筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。
建築 キューバにおける建築は折衷的かつ多様な建築で有名となっている。
カーニバル
世界遺産
祝祭日
スポーツ さらにキューバでは「オリンピックスポーツ選手」が「スポーツ選手」のステータスであり、野球代表等はその下に位置する。なお、すべてのスポーツ選手はアマチュア の国家公務員 (いわゆるステート・アマ )であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また亡命 に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。
著名な出身者
象徴 キューバの国の象徴には、嘗ての宗主国であったスペインの文化に由来するものが含まれている。
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脚注