ハプスブルク=ロートリンゲン家 — OpenHistory
脚注
1630年代以降、ロレーヌ公国はたびたびフランス王ルイ14世 の侵略を受け、ロレーヌ公の一族はオーストリアへ亡命してハプスブルク家の皇帝に仕え、以後もハプスブルク家との関係を深めた。14世紀初め、アルブレヒト1世 の娘エリーザベトとロレーヌ公フェリー4世の結婚からハプスブルク家とロレーヌ家の関係は始まっていたものの、それまでロレーヌ家はフランス王家との関係が強かった。シャルル5世 は在位中に公国を統治できず名目のみに終わったロレーヌ公であるが、皇帝フェルディナント3世 の娘エレオノーレ と結婚し、嗣子レオポルト をオーストリア領内でもうけている。レオポルトは1697年のレイスウェイク条約 でロレーヌを一旦返還され、翌1698年にルイ14世の姪エリザベート・シャルロット と結婚した。フランツ・シュテファンは2人の間の息子である。
オーストリア継承戦争
ブルボン家との同盟 ハプスブルク家とフランス王家は長年にわたり敵対関係にあったが、マリア・テレジア の下で「外交革命 」と呼ばれる外交方針の転換がなされ、両者の間に同盟関係が成立した。その一環として、フランツとマリア・テレジアの子女と、フランス・スペイン・イタリアのブルボン家 諸家の間で政略結婚 が頻繁に行われた。ハプスブルク・ブルボンの両家は古くから近親婚 を重ねており、またブルボン家はハプスブルク家ともロレーヌ家とも色濃い血縁関係があったことから、両家の間でさらに近親婚を繰り返したことで早世したり体に障害を持った人物が続出した。
また、ブルボン家との関係の重視は反面でドイツ諸邦との関係の弱体化につながった。ハプスブルク家の皇帝は大国フランスに対抗する存在としてドイツ諸邦(これにはかつてのロレーヌ公国も含まれる)から支持されてきた一面があり、両大国が手を結んだことで諸侯は危機感を募らせた。それはやがてプロイセン に対するドイツ諸侯の支持を相対的に高め、神聖ローマ帝国 の崩壊に始まり、普墺戦争 を経て、ドイツ統一 の主導権をプロイセンに奪われる結果につながった。さらに、南北イタリアのブルボン家との結びつきもハプスブルク家の北イタリア支配の維持にはつながらず、両家はともにサルデーニャ王国 によるイタリア統一 によってその座を追われた。
家系の主な系統 フランツ・シュテファンの弟カール・アレクサンダー 公子はマリア・テレジアの妹マリア・アンナ と結婚している(二重結婚)が、兄姉夫婦の子孫が大いに繁栄したのと対照的に、こちらは子孫を残せなかった。
オーストリア皇帝家 6歳足らずで皇太子の地位を失ったカール1世の長男オットー は、20世紀の終わりにドイツ選出の欧州議会議員 を務めた。オットーは2011年に98歳で死去したが、ハプスブルク=ロートリンゲン家の家長の座は2006年に高齢を理由として長男カール に譲っている。カールも欧州議会議員を務めたが、こちらはオーストリア選出である。
トスカーナ大公家 トスカーナ大公国 は元来メディチ家 が統治していたが、1737年に同家が断絶するとフランツ・シュテファンが大公フランチェスコ2世として継承した。しかしトスカーナはハプスブルク家の本領 とは独立して統治される(本領を治める当主がトスカーナ大公を兼ねない)ことになり、フランツ・シュテファンから次男レオポルト2世 へ、レオポルトが帝位を継いだ後はその次男フェルディナンド3世 へと大公位が継承された。フェルディナンド3世をもってトスカーナ大公家(ハプスブルク=トスカーナ家)の始まりとする。
歴代の大公は良きトスカーナ人たろうと努めたが、それでもリソルジメント の波には勝てず、フェルディナンド4世 が1860年に廃位され、住民投票 の結果、サルデーニャ王国へ併合されて大公国は消滅した。大公国の首都フィレンツェ は統一イタリア政府 の暫定的首都になった。トスカーナ大公家はその後、オーストリアの宗家を頼ってオーストリア貴族として存続し、家系は帝国の滅亡後も現在まで続いている。
歴代君主
モデナ公家 公国を追われたフランチェスコ5世 には嗣子がなく、名目上のものとなったモデナ公位はフランツ・フェルディナント大公 が継承した。ただし、フランツ・フェルディナントはオーストリア=エステ家の血を引いておらず、この継承はそれを根拠としないものだった。フランツ・フェルディナントが暗殺された後は甥カール1世 へ、カールの皇帝即位後は次男ローベルト へと公位は継承された。なお、カール1世は上記のフェルディナント大公とマリーア・ベアトリーチェ夫妻の長女の玄孫にあたるツィタ と結婚したため、ローベルト以降の子孫はオーストリア=エステ家との血統上の繋がりがある。
現在のモデナ公、オーストリア=エステ大公ローレンツ はローベルトの息子であるが、ベルギー 王女アストリッド と結婚して王室の一員となっており、ベルギー王子の称号も有する。
チェシン公家
その他
現代 1736年に結婚したフランツ・シュテファンとマリア・テレジアを始祖とするハプスブルク=ロートリンゲン家は、その後の約300年間で、500人以上に膨れ上がった1 2 3 。一門の約半分はオーストリアに住んでおり、残りは他のヨーロッパ、アメリカ、アフリカに散らばっている3 4 。家督相続方法として準サリカ法 を採用しているが、構成員が数多いうえに全大陸に散在しているため、現実的に男系血統が断絶する可能性は皆無に等しい。
1918年の帝政崩壊後もしばらくは貴賤結婚 を厳格に禁止しており、貴賤結婚をした者には別の家門を興させるなどした(例:クレメンス・サルヴァトール の「アルテンブルク家」)。今日では婚姻基準が大幅に緩和されており、もはや相手は王侯貴族でなくてもよい。当主に事前報告し、カトリック の伝統を守って結婚するだけで基本的にはよいという。
Es geht nicht darum, die Heirat zu bewilligen oder zu verhindern. Aber ich möchte schon vorab informiert sein, wer wen heiratet.
(結婚を承認したり、阻止したりするのではありません。誰が誰と結婚するかを事前に知りたいのです。) — 宗家当主カール・ハプスブルク=ロートリンゲン 、2014年7
貴賤結婚を禁止する規定が事実上撤廃された後、帝政廃止後に貴賤結婚した一族に対して、伯爵位が与えられたり、同等結婚への昇格措置が取られたりしている8 。
系図
フランツ・シュテファンまで
参考文献
脚注
フランツ・シュテファンまで
ハプスブルク=ロートリンゲン家 (ハプスブルク=ロートリンゲンけ、独 : Haus Habsburg-Lothringen)は、ロレーヌ家 出身の神聖ローマ皇帝 兼トスカーナ大公 (元ロレーヌ公 )フランツ・シュテファン(フランツ1世) とハプスブルク家 のオーストリア女大公 兼ハンガリー ・ボヘミア 女王マリア・テレジア 夫妻に始まる家系である。
神聖ローマ皇帝カール6世 は男子に恵まれず、長女マリア・テレジアの婿としてロレーヌ公フランツ・シュテファンを迎えて帝位を継がせた。従ってハプスブルク家はマリア・テレジアの代で男系が絶えており、以後はハプスブルク=ロートリンゲン家が正式名称である。これはハプスブルク家のライオンとともにロレーヌの公章 が描かれた紋章 にも表れている。
現在の家長は、最後のオーストリア皇帝 カール1世 の孫のカール・ハプスブルク=ロートリンゲン 。
概要
ロレーヌ家
→「ロレーヌ家 」、「ロレーヌ公国 」、および「ロレーヌ公 」も参照
ロレーヌ家 は、現在は の との国境地帯である にあった を統治した家系である。ロレーヌは古の に由来し、 期には の心臓部とも言うべき場所であった。従って領域は小さいものの、地理的には非常に重要な位置にあるため、その帰属を巡って紛争が絶えなかった。15世紀には の が自領の間に挟まったロレーヌの併合を企てたが、 に敗れて自身と の破滅を招いた。この戦いで突進公を敗死させたロレーヌ公 は、フランツ・シュテファンの直接の先祖である(ちなみにフランツ・シュテファンはシャルル突進公の血も引いている)。ルネ2世は母方の から公位を継承しているが、父方のヴォーデモン家は母方の祖母 女公まで続いていたロレーヌ家(シャトノワ家)の傍系であり、以後フランツ・シュテファンまでの歴代のロレーヌ公はこの家系から出た。また、ルネ2世の次男 に始まる分枝の は、 後期に で権勢を振るった。
1630年代以降、ロレーヌ公国はたびたびフランス王ルイ14世 の侵略を受け、ロレーヌ公の一族はオーストリアへ亡命してハプスブルク家の皇帝に仕え、以後もハプスブルク家との関係を深めた。14世紀初め、アルブレヒト1世 の娘エリーザベトとロレーヌ公フェリー4世の結婚からハプスブルク家とロレーヌ家の関係は始まっていたものの、それまでロレーヌ家はフランス王家との関係が強かった。シャルル5世 は在位中に公国を統治できず名目のみに終わったロレーヌ公であるが、皇帝フェルディナント3世 の娘エレオノーレ と結婚し、嗣子レオポルト をオーストリア領内でもうけている。レオポルトは1697年のレイスウェイク条約 でロレーヌを一旦返還され、翌1698年にルイ14世の姪エリザベート・シャルロット と結婚した。フランツ・シュテファンは2人の間の息子である。
オーストリア継承戦争
ブルボン家との同盟 ハプスブルク家とフランス王家は長年にわたり敵対関係にあったが、マリア・テレジア の下で「外交革命 」と呼ばれる外交方針の転換がなされ、両者の間に同盟関係が成立した。その一環として、フランツとマリア・テレジアの子女と、フランス・スペイン・イタリアのブルボン家 諸家の間で政略結婚 が頻繁に行われた。ハプスブルク・ブルボンの両家は古くから近親婚 を重ねており、またブルボン家はハプスブルク家ともロレーヌ家とも色濃い血縁関係があったことから、両家の間でさらに近親婚を繰り返したことで早世したり体に障害を持った人物が続出した。
また、ブルボン家との関係の重視は反面でドイツ諸邦との関係の弱体化につながった。ハプスブルク家の皇帝は大国フランスに対抗する存在としてドイツ諸邦(これにはかつてのロレーヌ公国も含まれる)から支持されてきた一面があり、両大国が手を結んだことで諸侯は危機感を募らせた。それはやがてプロイセン に対するドイツ諸侯の支持を相対的に高め、神聖ローマ帝国 の崩壊に始まり、普墺戦争 を経て、ドイツ統一 の主導権をプロイセンに奪われる結果につながった。さらに、南北イタリアのブルボン家との結びつきもハプスブルク家の北イタリア支配の維持にはつながらず、両家はともにサルデーニャ王国 によるイタリア統一 によってその座を追われた。
家系の主な系統 フランツ・シュテファンの弟カール・アレクサンダー 公子はマリア・テレジアの妹マリア・アンナ と結婚している(二重結婚)が、兄姉夫婦の子孫が大いに繁栄したのと対照的に、こちらは子孫を残せなかった。
オーストリア皇帝家 6歳足らずで皇太子の地位を失ったカール1世の長男オットー は、20世紀の終わりにドイツ選出の欧州議会議員 を務めた。オットーは2011年に98歳で死去したが、ハプスブルク=ロートリンゲン家の家長の座は2006年に高齢を理由として長男カール に譲っている。カールも欧州議会議員を務めたが、こちらはオーストリア選出である。
トスカーナ大公家 トスカーナ大公国 は元来メディチ家 が統治していたが、1737年に同家が断絶するとフランツ・シュテファンが大公フランチェスコ2世として継承した。しかしトスカーナはハプスブルク家の本領 とは独立して統治される(本領を治める当主がトスカーナ大公を兼ねない)ことになり、フランツ・シュテファンから次男レオポルト2世 へ、レオポルトが帝位を継いだ後はその次男フェルディナンド3世 へと大公位が継承された。フェルディナンド3世をもってトスカーナ大公家(ハプスブルク=トスカーナ家)の始まりとする。
歴代の大公は良きトスカーナ人たろうと努めたが、それでもリソルジメント の波には勝てず、フェルディナンド4世 が1860年に廃位され、住民投票 の結果、サルデーニャ王国へ併合されて大公国は消滅した。大公国の首都フィレンツェ は統一イタリア政府 の暫定的首都になった。トスカーナ大公家はその後、オーストリアの宗家を頼ってオーストリア貴族として存続し、家系は帝国の滅亡後も現在まで続いている。
歴代君主
モデナ公家 公国を追われたフランチェスコ5世 には嗣子がなく、名目上のものとなったモデナ公位はフランツ・フェルディナント大公 が継承した。ただし、フランツ・フェルディナントはオーストリア=エステ家の血を引いておらず、この継承はそれを根拠としないものだった。フランツ・フェルディナントが暗殺された後は甥カール1世 へ、カールの皇帝即位後は次男ローベルト へと公位は継承された。なお、カール1世は上記のフェルディナント大公とマリーア・ベアトリーチェ夫妻の長女の玄孫にあたるツィタ と結婚したため、ローベルト以降の子孫はオーストリア=エステ家との血統上の繋がりがある。
現在のモデナ公、オーストリア=エステ大公ローレンツ はローベルトの息子であるが、ベルギー 王女アストリッド と結婚して王室の一員となっており、ベルギー王子の称号も有する。
チェシン公家
その他
現代 1736年に結婚したフランツ・シュテファンとマリア・テレジアを始祖とするハプスブルク=ロートリンゲン家は、その後の約300年間で、500人以上に膨れ上がった1 2 3 。一門の約半分はオーストリアに住んでおり、残りは他のヨーロッパ、アメリカ、アフリカに散らばっている3 4 。家督相続方法として準サリカ法 を採用しているが、構成員が数多いうえに全大陸に散在しているため、現実的に男系血統が断絶する可能性は皆無に等しい。
1918年の帝政崩壊後もしばらくは貴賤結婚 を厳格に禁止しており、貴賤結婚をした者には別の家門を興させるなどした(例:クレメンス・サルヴァトール の「アルテンブルク家」)。今日では婚姻基準が大幅に緩和されており、もはや相手は王侯貴族でなくてもよい。当主に事前報告し、カトリック の伝統を守って結婚するだけで基本的にはよいという。
Es geht nicht darum, die Heirat zu bewilligen oder zu verhindern. Aber ich möchte schon vorab informiert sein, wer wen heiratet.
(結婚を承認したり、阻止したりするのではありません。誰が誰と結婚するかを事前に知りたいのです。) — 宗家当主カール・ハプスブルク=ロートリンゲン 、2014年7
貴賤結婚を禁止する規定が事実上撤廃された後、帝政廃止後に貴賤結婚した一族に対して、伯爵位が与えられたり、同等結婚への昇格措置が取られたりしている8 。
系図
フランツ・シュテファンまで
参考文献
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