カール1世 (オーストリア皇帝) — OpenHistory列福
生涯
幼少期
カール生誕時のオーストリア皇位継承順位(灰色は故人)
1889年1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公のどちらかが後継者だと目された。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、依然としてオットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。
少年期
一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツや父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった3。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。
皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールはローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった4。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。
ある日、ライヒェナウ・アン・デア・ラクスの領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した4。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという4。
1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年に貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。
パルマ公女ツィタとの結婚
1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された9。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた9。1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた10。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した10。
1911年6月24日、ローマ教皇ピウス10世はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った11。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという11。同年10月21日、シュヴァルツアウの城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。
第一次世界大戦、勃発
1914年6月28日、サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た12。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという12。
やがてカールのもとには時のローマ教皇ピウス10世からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが13、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。セルビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった14。カールは新たな皇位継承者になったにもかかわらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した14。
フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後しばらくしてカール一家はシェーンブルン宮殿で皇帝と同居するようになった15。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評価を受けている。「私はカールを非常に高く評価している。カールは私に明確に意見を表明する。しかし私が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない15。」
参謀本部長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった16。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、1915年7月にようやく皇帝の側近に任命され、決裁の済んだ報告書を見せられるようになった16。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった17。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである17。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった17。
イタリア戦線においてカールは、イゾンツォの戦いの際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた13。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという13。
即位
1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった18。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながら「私は多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」と語ったとされる18。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。
新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた19。ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした19。侍従武官アルベルト・フォン・マルグッティはカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている20。
先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった20。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった20。
1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位することとなった21。聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にもかかわらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で挙行された21。この即位式においてカールは「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と宣誓した22。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった22。
ジクストゥス事件
カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており24、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという24。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある25。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らにこの時渡した手紙はかえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる26。
手紙は上記のような内容で、さらに次のように明記してあった。
フランス政府は、パルマ公子を仲介役としてのオーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた27。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった27。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した27。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。
しかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった23。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し28、次にその手紙の存在を認めつつ「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言った28。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し29、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった29。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。
大戦に参戦した国家の責任者の中で、オーストリアのカール皇帝だけが品位のある人物であったが、誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。彼は心から平和を願っていたが、そのためにみんなから軽蔑されたのだ。こうして唯一無二のチャンスは失われてしまった25。 — 批評家アナトール・フランス
帝国諸民族の離反
1918年、同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキア、ポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カールは帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。
10月12日、帝室の保養地バーデンにすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかしチェコ人と南スラヴ人からは「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と返答された30。ボヘミア、クロアチア、ガリツィアなどで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した31。
オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。
カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けてハンガリー王国議会では、1867年のアウスグライヒの前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された32。
「国事不関与」の宣言
今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。**朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。**国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう34。 — 11月11日午後3時、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」においてカールが署名した声明文。
これはハインリッヒ・ラマシュ首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか! 朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した35。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した35。続いてこの最終的草稿文を見せられた皇后ツィタも同様に「これは退位以外の何物でもありません」と激怒したが、この際にも退位宣言ではないことが起草者によって保証された36。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた34。
2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した37。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が王権神授説にもとづいていることを述べ、王位から退くことは明確に否定した37。
オーストリアからの脱出
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルツアウ宮殿に移った。
1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルツアウ城のカールのもとを訪れた38。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた38。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった38。実際、2月にはエッカルツアウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった39。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。
近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにもかかわらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった39。イギリスから派遣されてきたエドワード・ライル・ストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した39。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた40。これにレンナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった40。
ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。 — 3月24日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅での声明文41
この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文はローマ教皇やオーストリア首相の手元のみに送付された41。3月27日、レンナーは国民議会に「ハプスブルク家は永久に統治権およびすべての特権を失効する」という法案を提出した42。この法案は4月3日に可決され、さらに王冠に基づいた財産のみならずハプスブルク家の私的財産のほとんどが共和国に没収された43。わずかに残された財産も、財産税課税のために差し押さえられてしまった43。(ハプスブルク法を参照)
ハンガリー国王への復帰運動
皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴りをひそめた42。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようになり、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた42。
エッカルツアウ宮殿で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王「カーロイ4世」であったため、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした45。ハンガリーでは、「カーロイ4世」の復位を望む者、「カーロイ4世」以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した45。
1921年3月、カールがハンガリーに入国すると、王党派の政府高官レハール・アンタルなどが駆けつけてきた46。馳せ参じたハンガリー首相テレキ・パールは、カールに向かってこう述べた46。「陛下、二つの選択肢があります!このままスイスへ戻るか、ブダペストへ進軍するかのいずれかです!」カールはブダペストを選択した。当時の元首摂政ホルティ・ミクローシュは「カーロイ4世」の帰国を当初は歓迎したもののこの動きを警戒した周辺国のチェコスロバキアとユーゴスラビアが動員をかけたため「カーロイ4世」の国外退去か戦争かの二択を迫られることとなった。王党派であったホルティは悩んだすえに国民を守るためハンガリー議会満場一致のもとカールに国外退去を求めることとした。この結果として最初のカール1世の試みは挫折した。
半年後、テレキに代わって首相となったベトレン・イシュトヴァーンと執政ホルティは、ハンガリーで穏健的独裁統治を行っていた47。国王支持者の計画的な追放が進められており、以前からホルティを危険人物と考えていた国王軍はカールのブダペスト入りを切望していた47。こうした情勢を受けてカールは再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタとともに飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから連れ出すことを外務大臣ジョージ・カーゾン卿に迫り、ちょうど黒海を航行中のイギリス軍艦で移送することが決定された。
マデイラ島への配流、崩御
11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた48。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた49。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという49。
やがてバターも買えず、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いになるほど皇帝一家は困窮した50。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している50。
電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。
3月9日、四男カール・ルートヴィヒの4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた51。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された51。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。カールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しまなければならない」とツィタに語ったといわれる52。
カールはツィタに「これからはスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言し53、1922年4月1日12時23分に崩御した54。享年34。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている53。葬儀には3万人が参列したという。
カールの死から60年以上が経った1989年3月14日、ツィタは96歳で死去した。4月1日にシュテファン大聖堂で葬儀が営まれたが、この日程はマデイラ島でカールが死去した1922年4月1日に合わせてのものだった55。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、ムーリ修道院に安置されている55。心臓以外のカールの遺骸は、いまだマデイラ島フンシャルにある54。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。
列福・列聖調査
カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、神への信仰心がきわめて篤く、また徳の高い人物であったと評価される。アンドリュー・ウィートクロフツは、『皇帝讃歌』の中で「われらが良き皇帝フランツ」と謳われる先祖のオーストリア皇帝フランツ1世よりも「善良帝」の名に値する君主であったと評価している52。
ちょうど没後50周年にあたる1972年4月1日、マデイラ島に安置されている棺が開かれた。カール1世の遺体は、ごく簡単な防腐処理しかされていなかったうえ、棺が激しく傷んでいたので湿気の多いマデイラ島の空気に晒されていたが、非常によく保存されていた。遺体はその後、新しい服を着せられて新しい棺に入れ替えられ、再び密封された。
1994年、全2巻、2650ページ以上にわたる詳細な報告書がバチカンに提出された。
列福
2003年12月20日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はカール1世の仲介に帰せられる治癒を「奇跡」と認定する文書に署名した4。この時に認められた「奇跡」とは、1960年に両足の潰瘍に苦しんでいたポーランドの修道女が、カール1世に代願を行ったところ、たちどころに治癒したとされる出来事である456。
2004年10月3日、サン・ピエトロ広場にて列福式が執り行われ、20世紀の国家元首としては初めての福者となった。ポーランドの修道女に関する「奇跡」のみならず、社会政策や戦傷者保護、平和回復の努力も評価され、ヨハネ・パウロ2世に「模範的なキリスト教徒、夫、家父、統治者」と称賛された56。このことは、21世紀に入ってもなおハプスブルク家が神権的君主理念(「ピエタース・アウストリアカ57」)の影響下にあることを示すものとなった56。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代、「神に選ばれし一族」としてより神聖なる家門たらんとするハプスブルク家は、歴史上の聖人や、正式な列聖はされずとも聖なる存在とされる人物を、系図の改竄によって次々と自家の歴史に取り込んでいった58。その結果、トロイアの王子ヘクトールやノアまでもが系譜に連なるとされた58。それほどまでに聖なる血統との繋がりを欲したものの、本物のハプスブルク一族として聖性を認められた者は、カール1世の他には尊者マグダレーナがせいぜいであった。
なお、ヨハネ・パウロ2世の父親カロル・ヴォイティワは、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍歩兵第12連隊に所属する軍人だった5960。教皇の本名「カロル」は、かつての主君カール1世にあやかって命名されたものとされる5960。ヨハネ・パウロ2世は、皇后ツィタと会った際に「父の后妃に挨拶いたします」と言ったこともある60。
一般的に聖人・福者はその命日が記念日として設定されるが、カール1世の場合はツィタとの結婚記念日である10月21日とされた61。このことが示唆しているように、いずれツィタもカールのようにカトリック教会の祭壇に加えられる可能性が高いといわれている62(ツィタは2018年現在、神の僕)。
なお、宗教的に超保守派だったカール1世の列福は、宗教的保守派に箔付けしたいヨハネ・パウロ2世の政治的意向によるものだとみなす否定的意見もある63。否定派の間では、ユダヤ人を「犬」と呼んだ反動的な教皇ピウス9世の列福と同類視されている63。
列聖調査
福者から聖人への昇格には、福者に認定された時のものを含めて二つ以上の「奇跡」の認定が必要とされる。カール1世にまつわる奇跡はポーランドの修道女の事例のほかにも複数あり、それらの調査は現在も行われている64。
とある末期癌の患者がカール1世の仲介により完治した事例があるが、当該者は4年後に別の死因で世を去った65。バチカンは奇跡の後に5年間生き延びることを望んでいるため、これは正式な奇跡には数えられなかった65。
アメリカ・フロリダ州では、バプテスト教会信徒の少年が、カール1世の仲介による奇跡を体験して、家族とともにカトリック教会に改宗したという62。なおアメリカにおいてカール1世は、(第一次世界大戦における敵国の元首、しかも幼少期から軽蔑の対象と刷り込まれる君主という職業にもかかわらず)国外の聖人候補として比較的大きな支持者がいる五人のうちの一人に数えられるという62。
家族
皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
参考文献
脚注
2.10.
ハンガリー国王への復帰運動
生涯
幼少期
カール生誕時のオーストリア皇位継承順位(灰色は故人)
1889年1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公のどちらかが後継者だと目された。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、依然としてオットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。
少年期
一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツや父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった3。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。
皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールはローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった4。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。
ある日、ライヒェナウ・アン・デア・ラクスの領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した4。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという4。
1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年に貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。
パルマ公女ツィタとの結婚
1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された9。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた9。1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた10。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した10。
1911年6月24日、ローマ教皇ピウス10世はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った11。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという11。同年10月21日、シュヴァルツアウの城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。
第一次世界大戦、勃発
1914年6月28日、サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た12。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという12。
やがてカールのもとには時のローマ教皇ピウス10世からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが13、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。セルビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった14。カールは新たな皇位継承者になったにもかかわらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した14。
フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後しばらくしてカール一家はシェーンブルン宮殿で皇帝と同居するようになった15。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評価を受けている。「私はカールを非常に高く評価している。カールは私に明確に意見を表明する。しかし私が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない15。」
参謀本部長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった16。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、1915年7月にようやく皇帝の側近に任命され、決裁の済んだ報告書を見せられるようになった16。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった17。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである17。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった17。
イタリア戦線においてカールは、イゾンツォの戦いの際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた13。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという13。
即位
1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった18。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながら「私は多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」と語ったとされる18。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。
新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた19。ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした19。侍従武官アルベルト・フォン・マルグッティはカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている20。
先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった20。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった20。
1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位することとなった21。聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にもかかわらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で挙行された21。この即位式においてカールは「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と宣誓した22。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった22。
ジクストゥス事件
カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており24、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという24。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある25。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らにこの時渡した手紙はかえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる26。
手紙は上記のような内容で、さらに次のように明記してあった。
フランス政府は、パルマ公子を仲介役としてのオーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた27。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった27。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した27。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。
しかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった23。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し28、次にその手紙の存在を認めつつ「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言った28。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し29、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった29。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。
大戦に参戦した国家の責任者の中で、オーストリアのカール皇帝だけが品位のある人物であったが、誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。彼は心から平和を願っていたが、そのためにみんなから軽蔑されたのだ。こうして唯一無二のチャンスは失われてしまった25。 — 批評家アナトール・フランス
帝国諸民族の離反
1918年、同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキア、ポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カールは帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。
10月12日、帝室の保養地バーデンにすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかしチェコ人と南スラヴ人からは「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と返答された30。ボヘミア、クロアチア、ガリツィアなどで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した31。
オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。
カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けてハンガリー王国議会では、1867年のアウスグライヒの前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された32。
「国事不関与」の宣言
今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。**朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。**国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう34。 — 11月11日午後3時、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」においてカールが署名した声明文。
これはハインリッヒ・ラマシュ首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか! 朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した35。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した35。続いてこの最終的草稿文を見せられた皇后ツィタも同様に「これは退位以外の何物でもありません」と激怒したが、この際にも退位宣言ではないことが起草者によって保証された36。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた34。
2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した37。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が王権神授説にもとづいていることを述べ、王位から退くことは明確に否定した37。
オーストリアからの脱出
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルツアウ宮殿に移った。
1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルツアウ城のカールのもとを訪れた38。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた38。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった38。実際、2月にはエッカルツアウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった39。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。
近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにもかかわらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった39。イギリスから派遣されてきたエドワード・ライル・ストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した39。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた40。これにレンナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった40。
ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。 — 3月24日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅での声明文41
この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文はローマ教皇やオーストリア首相の手元のみに送付された41。3月27日、レンナーは国民議会に「ハプスブルク家は永久に統治権およびすべての特権を失効する」という法案を提出した42。この法案は4月3日に可決され、さらに王冠に基づいた財産のみならずハプスブルク家の私的財産のほとんどが共和国に没収された43。わずかに残された財産も、財産税課税のために差し押さえられてしまった43。(ハプスブルク法を参照)
ハンガリー国王への復帰運動
皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴りをひそめた42。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようになり、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた42。
エッカルツアウ宮殿で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王「カーロイ4世」であったため、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした45。ハンガリーでは、「カーロイ4世」の復位を望む者、「カーロイ4世」以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した45。
1921年3月、カールがハンガリーに入国すると、王党派の政府高官レハール・アンタルなどが駆けつけてきた46。馳せ参じたハンガリー首相テレキ・パールは、カールに向かってこう述べた46。「陛下、二つの選択肢があります!このままスイスへ戻るか、ブダペストへ進軍するかのいずれかです!」カールはブダペストを選択した。当時の元首摂政ホルティ・ミクローシュは「カーロイ4世」の帰国を当初は歓迎したもののこの動きを警戒した周辺国のチェコスロバキアとユーゴスラビアが動員をかけたため「カーロイ4世」の国外退去か戦争かの二択を迫られることとなった。王党派であったホルティは悩んだすえに国民を守るためハンガリー議会満場一致のもとカールに国外退去を求めることとした。この結果として最初のカール1世の試みは挫折した。
半年後、テレキに代わって首相となったベトレン・イシュトヴァーンと執政ホルティは、ハンガリーで穏健的独裁統治を行っていた47。国王支持者の計画的な追放が進められており、以前からホルティを危険人物と考えていた国王軍はカールのブダペスト入りを切望していた47。こうした情勢を受けてカールは再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタとともに飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから連れ出すことを外務大臣ジョージ・カーゾン卿に迫り、ちょうど黒海を航行中のイギリス軍艦で移送することが決定された。
マデイラ島への配流、崩御
11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた48。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた49。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという49。
やがてバターも買えず、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いになるほど皇帝一家は困窮した50。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している50。
電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。
3月9日、四男カール・ルートヴィヒの4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた51。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された51。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。カールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しまなければならない」とツィタに語ったといわれる52。
カールはツィタに「これからはスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言し53、1922年4月1日12時23分に崩御した54。享年34。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている53。葬儀には3万人が参列したという。
カールの死から60年以上が経った1989年3月14日、ツィタは96歳で死去した。4月1日にシュテファン大聖堂で葬儀が営まれたが、この日程はマデイラ島でカールが死去した1922年4月1日に合わせてのものだった55。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、ムーリ修道院に安置されている55。心臓以外のカールの遺骸は、いまだマデイラ島フンシャルにある54。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。
列福・列聖調査
カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、神への信仰心がきわめて篤く、また徳の高い人物であったと評価される。アンドリュー・ウィートクロフツは、『皇帝讃歌』の中で「われらが良き皇帝フランツ」と謳われる先祖のオーストリア皇帝フランツ1世よりも「善良帝」の名に値する君主であったと評価している52。
ちょうど没後50周年にあたる1972年4月1日、マデイラ島に安置されている棺が開かれた。カール1世の遺体は、ごく簡単な防腐処理しかされていなかったうえ、棺が激しく傷んでいたので湿気の多いマデイラ島の空気に晒されていたが、非常によく保存されていた。遺体はその後、新しい服を着せられて新しい棺に入れ替えられ、再び密封された。
1994年、全2巻、2650ページ以上にわたる詳細な報告書がバチカンに提出された。
列福
2003年12月20日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はカール1世の仲介に帰せられる治癒を「奇跡」と認定する文書に署名した4。この時に認められた「奇跡」とは、1960年に両足の潰瘍に苦しんでいたポーランドの修道女が、カール1世に代願を行ったところ、たちどころに治癒したとされる出来事である456。
2004年10月3日、サン・ピエトロ広場にて列福式が執り行われ、20世紀の国家元首としては初めての福者となった。ポーランドの修道女に関する「奇跡」のみならず、社会政策や戦傷者保護、平和回復の努力も評価され、ヨハネ・パウロ2世に「模範的なキリスト教徒、夫、家父、統治者」と称賛された56。このことは、21世紀に入ってもなおハプスブルク家が神権的君主理念(「ピエタース・アウストリアカ57」)の影響下にあることを示すものとなった56。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代、「神に選ばれし一族」としてより神聖なる家門たらんとするハプスブルク家は、歴史上の聖人や、正式な列聖はされずとも聖なる存在とされる人物を、系図の改竄によって次々と自家の歴史に取り込んでいった58。その結果、トロイアの王子ヘクトールやノアまでもが系譜に連なるとされた58。それほどまでに聖なる血統との繋がりを欲したものの、本物のハプスブルク一族として聖性を認められた者は、カール1世の他には尊者マグダレーナがせいぜいであった。
なお、ヨハネ・パウロ2世の父親カロル・ヴォイティワは、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍歩兵第12連隊に所属する軍人だった5960。教皇の本名「カロル」は、かつての主君カール1世にあやかって命名されたものとされる5960。ヨハネ・パウロ2世は、皇后ツィタと会った際に「父の后妃に挨拶いたします」と言ったこともある60。
一般的に聖人・福者はその命日が記念日として設定されるが、カール1世の場合はツィタとの結婚記念日である10月21日とされた61。このことが示唆しているように、いずれツィタもカールのようにカトリック教会の祭壇に加えられる可能性が高いといわれている62(ツィタは2018年現在、神の僕)。
なお、宗教的に超保守派だったカール1世の列福は、宗教的保守派に箔付けしたいヨハネ・パウロ2世の政治的意向によるものだとみなす否定的意見もある63。否定派の間では、ユダヤ人を「犬」と呼んだ反動的な教皇ピウス9世の列福と同類視されている63。
列聖調査
福者から聖人への昇格には、福者に認定された時のものを含めて二つ以上の「奇跡」の認定が必要とされる。カール1世にまつわる奇跡はポーランドの修道女の事例のほかにも複数あり、それらの調査は現在も行われている64。
とある末期癌の患者がカール1世の仲介により完治した事例があるが、当該者は4年後に別の死因で世を去った65。バチカンは奇跡の後に5年間生き延びることを望んでいるため、これは正式な奇跡には数えられなかった65。
アメリカ・フロリダ州では、バプテスト教会信徒の少年が、カール1世の仲介による奇跡を体験して、家族とともにカトリック教会に改宗したという62。なおアメリカにおいてカール1世は、(第一次世界大戦における敵国の元首、しかも幼少期から軽蔑の対象と刷り込まれる君主という職業にもかかわらず)国外の聖人候補として比較的大きな支持者がいる五人のうちの一人に数えられるという62。
家族
皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
参考文献
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