ナポレオン戦争 — OpenHistory
1792年に開始されたフランス革命戦争 から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて大フランス戦争 (だいフランスせんそう、Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは対仏大同盟戦争 (たいふつだいどうめいせんそう、Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを解放戦争 とも呼ぶ。大同盟戦争 以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を第二次百年戦争 とみる見方もある。
フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについては、1803年5月のアミアンの和約 の破棄を境界とする見方が一般的ではあるが、他にも1796年3月のナポレオンによる第一次イタリア遠征 の開始を境界とする見方、1799年11月のブリュメールのクーデター を境界とする見方などがある。本項目では革命戦争の途中である1796年3月以降の戦役について述べる。
参戦国 全てのヨーロッパ の国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスが一貫して対立関係にあったことを除き、参戦国は途中で入れ替わりがある。フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もある。
軍事的側面
動員・編成 ナポレオン戦争以前のヨーロッパの絶対主義 諸国は、傭兵 を主体とした軍隊を有していた。フランス革命を経たフランス軍は、革命の成果たる共和国を防衛しようという意識に燃えた一般国民からなる国民軍 へと変質していった。フランスは18世紀末の時点でヨーロッパではロシアに次ぐ大きさの人口ブロックであったため、徴兵制度 の実施において有利であった。だがナポレオン戦争の過程でドイツをはじめとする各国にも国家主義 の運動が高まり、戦争後期には各国軍とも国民軍の性格を強めた。
国民軍となったことで軍隊の規模は拡大した。直前の七年戦争 において、20万人を超える軍隊を有した国はわずかであった。一方、フランス革命戦争中の最大時におけるフランス軍の人員数は150万人に達し、ナポレオン戦争期間中のフランスの総動員兵力は300万人と推定される。こうした動員制度を整備したのはラザール・カルノー であった。さらに、産業革命 の初期段階にあったことで、兵器の大量生産が巨大な軍隊の装備を可能にした。戦争期間中、イギリスは最大の武器生産国となり、同盟諸国への武器供与を実施した。フランスは第2位の武器生産国であった。
国民軍の兵士たちは強い愛国心を持ち、また団結力を有していた。彼らは逃亡のおそれが低いため、散兵 戦術のような兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることができた。巨大化した軍隊には師団 と呼ばれる1万人程度の独立行動可能な作戦単位の編成が導入され、大部隊の柔軟な運用が可能となった。こうした軍制改革でもフランスは他のヨーロッパ諸国に先行した。イギリス の歴史家 であるアラン・ブロック に拠れば、軍隊内部の各所に政治将校を置き、お目付け役として、逐次ナポレオンに報告する制度を敷いた。旧ソ連時代の政治将校制度は、このナポレオンの制度をレフ・トロツキー がレーニンに進言して、取り入れさせたとされている。
軍事技術 歩兵 の主力兵器はフリントロック式 前装銃であった。ライフル も使用されていたが、当時は装填に時間がかかり、弾丸を生産する工業技術も低かったため一般的ではなく、後方支援に多少使用される程度だった。歩兵部隊は精密な狙いを定めずに敵に向けて弾幕射撃を行った。砲兵 は、それまでは歩兵の掩護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。ナポレオンは砲弾 のサイズを標準化し、砲兵部隊間での融通を容易にした。
兵站 は、いまだ鉄道 が未発達であったため、各国軍とも現地調達によるしかなかった。フランス軍は人口密度の高い中部ヨーロッパでは円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアやイベリア半島 では機動力が鈍った。遠距離間の通信には腕木通信 が導入され、戦争期間を通して使用された。また、熱気球 による空中偵察が、1794年6月26日のフルリュスの戦い において初めて実用化された。
ナポレオンの戦術 ナポレオンは巧みな戦略的機動によって有利な状況を作り出すことを得意とした。「最良の兵隊とは戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉や、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」という大陸軍 の兵士たちの言葉にこの思想が現れている。カスティリオーネの戦い では分散して進撃する2倍のオーストリア軍に対して機先を制して機動し、各個に撃破した。ウルムの戦い では敵主力の側面から背後を大回りに移動し、オーストリア軍主力を包囲して降伏に追い込んだ。会戦 においては、ナポレオンは自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意とした。アウステルリッツの戦い やフリートラントの戦い はこの成功例の最たるものと言える。
経過
第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)
エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)
帝政の成立(第二次対仏大同盟) 1798年1月より、スウェーデンの調停のもと、フランス革命戦争の終結を目指したラシュタット会議 が開かれるも、オーストリアは会議を引き延ばし、対仏大同盟の再建という時間稼ぎに成功する。1798年12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟 が結成され、1799年にはオーストリアが北イタリアを奪回する。再びフランスは危機に陥り、国民の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていった。
1801年2月9日、オーストリアはリュネヴィルの和約 に応じ、カンポ・フォルミオの和約の内容を再確認した。オーストリアは1798年に第二次対仏大同盟を結成し、北イタリアやライン方面に侵攻していたが、その講和によって第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスのみがフランスとの戦争を続けた。7月にフランスはローマ教皇 ピウス7世 との間にコンコルダート を結び、フランス革命以来の対立関係を解消した。イギリスのみは戦争を続けていたが、1802年3月25日にはフランスとアミアンの和約 を結び講和した。
この後国際平和が1年余り続いた。しかし、フランスによるヨーロッパ市場からのイギリス製品の駆逐や和約違反行為などにより、再び英仏間の対立が強まり、1803年5月16日、イギリスはアミアンの和約を破棄し宣戦布告 した。戦争の目的は、フランスの旧状回復から、ナポレオンの打倒へと変わっていく。また3月21日にナポレオンに対するクーデター計画に参画したとして、フランス王族のアンギャン公 が処刑された事も欧州諸国の非難を浴び、再戦に拍車をかけた。1804年5月28日、ナポレオンは帝政 の開始を宣言。12月2日に戴冠式を行い、フランス皇帝ナポレオン1世となった。
陸戦と海戦(第三次対仏大同盟) 1805年、ナポレオンはイギリス 上陸を計画し、ドーバー海峡 に面したブローニュ に18万の兵力を集結させる。これに対してイギリスは、オーストリア・ハプスブルク、ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟 を結成した。戦いはレイベリヒ 率いるオーストリア軍7万のバイエルン への侵攻によって開始された。フランス軍は8月下旬にブローニュを進発。9月25日から10月20日におよぶウルム戦役 においてオーストリア軍を包囲し降伏させた。ナポレオンはウィーン に入城するが、ロシア皇帝アレクサンドル1世 とクトゥーゾフ の率いるロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑む。ナポレオンの即位1周年にあたる12月2日、アウステルリッツの戦い において5 、ナポレオンは優勢な敵に対し、後に芸術と評される采配を振り完勝した。
その一方で海戦はフランスの敗北に終わっていた。ヴィルヌーヴ 率いるフランス・スペイン連合艦隊は、ネルソン 率いるイギリス艦隊に捕捉され、10月21日、トラファルガーの海戦 で壊滅した。だがこの海戦は、直ちには大陸におけるナポレオンの覇権に影響を与えなかった。12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約 を締結してフランスへ屈服する。
ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟) 11月21日、ナポレオンはベルリンにおいて大陸封鎖令 (ベルリン勅令)を発布する。これは、工業化 が進んでいたイギリスとヨーロッパ大陸諸国との貿易を禁止して、イギリスを経済的孤立に追い込むことが狙いであった。だが、逆に交易相手を喪失した大陸諸国の方が疲弊するという結果になる。フランス軍はプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 を追跡して東プロイセン へと向かい、プロイセンの救援に来たロシア軍とアイラウの戦い (1807年2月7日-8日)に突入したが、吹雪の中の戦いは両軍ともおびただしい死傷者を出し、決着はつかなかった。その後フランス軍は体勢を立てなおし、フリートラントの戦い (6月14日)でロシア軍を捕捉し撃滅した。
1807年10月、ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世 はエアフルト で会談し、スウェーデンを大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることが確認された。これにより第二次ロシア・スウェーデン戦争 (1808年-1809年)が勃発し、敗れたスウェーデンはフィンランド をロシアへ割譲するとともに大陸封鎖令に参加した(パリ条約 )。その後、スウェーデン国王カール13世 はナポレオン麾下のベルナドット を養子に迎え入れた。ナポレオンは北欧 に信頼できる同盟国を得たかに思われたが、ベルナドットは後に離反し、スウェーデンを対仏大同盟に戻らせた。
泥沼の戦い(スペイン独立戦争) 11月、ナポレオンは自ら20万の大軍を率いてスペインへ侵攻、1809年1月までにイギリス軍を駆逐し、後事をスルト に託して帰還した。だがその後もスペイン側はゲリラ 戦とイギリスの支援により根強い抵抗を続けた。このスペイン独立戦争 (1808年-1814年)は泥沼の戦争となり、フランスは大軍を貼り付けにした挙句、最終的には敗退する。
帝政の絶頂(第五次対仏大同盟) 5月20日-21日、フランス軍はウィーン近郊でドナウ川を渡河しようとするが、オーストリア軍の妨害によって仮橋がたびたび破壊され、半渡のところで攻撃を受ける。このアスペルン・エスリンクの戦い は、ナポレオン自身の指揮による初めての敗北となった。しかしその後、フランス軍はヴァグラムの戦い (7月5日-6日)でオーストリア軍に勝利。10月14日、オーストリアはフランスとシェーンブルンの和約 を結び、領土割譲と巨額の賠償金を課せられた。
ロシア遠征(1812年ロシア戦役) 大陸封鎖令 を出した事で、イギリスの物産を受け取れなくなったヨーロッパ大陸諸国は経済的に困窮した。1810年、ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。1812年6月23日、27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍 が国境のネマン川 を渡った。ロシア遠征 の始まりであった。
ロシア軍の戦略は、退却によってフランス軍をロシア領の奥深く引きずり込み、焦土戦術 によって食糧の補給を断つことであった。8月17日にはスモレンスク が陥落 するが、町は焼失させられていた。9月7日、モスクワ西方のボロジノ で、クトゥーゾフ 率いるロシア軍はフランス軍との決戦を試みる。このボロジノの戦い はフランス軍の辛勝に終わり、結局ロシア軍は焦土戦術を強化した。
9月14日、ナポレオンはモスクワ に入城した。市民の大部分は町を脱出した後であった。14日の夜からモスクワの大火が起き、モスクワの町は4日間にわたって燃え続け、4分の3が焼失した。これによって、フランス軍は住居も食糧も失ってしまう。ナポレオンはアレクサンドル1世 との和平交渉を試みるが返事はなく、冬が近づいていた。10月19日、ナポレオンはモスクワからの撤退を決意した。
撤退するフランス軍に対して、ロシア軍のコサック 騎兵や農民のゲリラ が襲い掛かり、さらには11月に入ると冬将軍 が到来し、飢えと寒さで死亡する者が続出した。10月23日にはパリでマレー によるクーデター未遂事件が起きる始末であった。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。12月10日にネマン川を越えて帰還したのはわずか5,000であった。だがこの戦いでロシア軍も40万を失ったのだった。
諸国民の戦い(第六次対仏大同盟) ナポレオンへ皇后マリー・ルイーズを嫁がせていたオーストリアは停戦を仲介するが、和平交渉は決裂。イギリス 、オーストリア 、ロシア 、プロイセン 、スウェーデン による第六次対仏大同盟 が成立し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦した。10月16日-19日のライプツィヒの戦い (諸国民の戦い)はナポレオン戦争における最大の戦闘となった。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃をかけ、フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。
1814年、戦場はフランス国内に移った。東からは連合軍が殺到し、南からはスペインを制圧したイギリス軍が侵入した。ナポレオンは局地的な戦闘でたびたび勝利を収めるが、大局的な劣勢は覆しようもなかった。同年3月31日に連合軍はパリ に入城。パリが外国軍の手に落ちるのは百年戦争 の際にイギリス軍 に占領されて以来2回目の出来事6 。同年4月6日、ナポレオンは退位し、エルバ島 の小領主として追放された。
百日天下(第七次対仏大同盟) ナポレオンの退位後、9月1日からウィーン会議 が開催され、戦後体制について話し合われていたが、各国の利害が絡んで遅々として進展しなかった。フランスではルイ18世 が即位して王政復古 がなされたが、その政治は国民の不満を買っていた。こうした状況の隙を突いて、1815年2月26日にナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへ上陸する。国民もこれを歓迎し、ルイ18世は逃亡。3月20日、ナポレオンはパリに入城して再び帝位に就いた。
6月18日、ワーテルローの戦い が開始された。フランス軍とイギリス・オランダ連合軍が激戦を繰り広げている最中、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が続々と戦場へ到着し、フランス軍の側面に猛攻を掛けた。これが決定的な打撃となり、フランス軍は潰走した。プロイセン軍は夜通しの追撃を行い、フランス軍は完全に崩壊した。
海外での戦闘
アジア・アフリカ
アメリカ
日本 1808年に長崎 で起きたフェートン号事件 は、ナポレオン戦争の余波が日本にまでおよんだものといえる。10月4日(文化5年8月15日)、イギリス船フェートン号が、当時フランスの支配下にあったオランダの船舶の拿捕を目的として長崎に侵入し、オランダ人を人質として薪水や食料の提供を要求した。長崎奉行 の松平康英 はフェートン号を撃退する戦力を有しておらず、この要求を受け入れた。後に松平康英は事件の責任を取って切腹 し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩 家老 等数人も責任を取って切腹した。
影響
ヨーロッパ 各国の利害が錯綜して進展の遅れていたウィーン会議 は、ナポレオンがエルバ島を脱出すると各国の妥協が成立し、1815年6月にウィーン議定書 が合意された。ナポレオンの完全失脚後、主要戦勝国によって神聖同盟 が結ばれ、ヨーロッパは復古主義・正統主義 を原理とするウィーン体制 下に置かれることとなった。
だがナポレオン戦争の過程で、民主主義 、近代法、特権階級の廃止などのフランス革命思想が、ヨーロッパ各地やラテンアメリカ など一部の植民地へ伝播した。ナポレオン法典 を基礎とした諸法典は、旧体制の復活の後も各国に残された。革命思想は1848年革命 の思想的基盤となってゆく。同時に、ナポレオン戦争は民族主義 が広まる契機となった。民族主義はヨーロッパの歴史を大きく変え、その後100年間に、ヨーロッパ諸国は封建領主の領土を単位とした領域から国民国家 へと変貌した。一方で、ナポレオンが意図したヨーロッパ統一国家の構想は瓦解した。ヨーロッパ統一の機運が再び高まるのは第二次世界大戦 後のことになる。
フランス
イギリス イギリスはケープ植民地 をはじめとする海外領土を獲得した。さらに、フランス、スペイン、オランダ、デンマークなどの海軍を打倒したことでイギリス海軍 が世界の海における制海権 を確立し、大陸封鎖令 とそれに対抗する海上封鎖というフランスとの経済戦争にも勝利して、植民地貿易における支配力を強め、イギリス産業が興隆した。19世紀におけるイギリスの覇権国としての地位は揺るぎないものとなった。
ドイツ ドイツではナポレオンの侵略に屈したことで民族主義運動が高まり、ドイツ連邦 が結成されドイツ統一 運動へと発展していった。その中でプロイセン王国 がラインラント をはじめとする領域を獲得し大国として台頭し、ドイツ統一を主導した。オーストリア帝国 も軍制改革を達成してナポレオンの攻撃に耐え抜き、戦後は北イタリア を獲得して大国としての地位を維持したが、次第にプロイセンとの対立が深まっていった。
ロシア ロシアはナポレオン戦争においてその強力な陸軍をイタリアやフランスにまで派兵し、戦後は神聖同盟 を提唱して自由主義運動を封じ込め、ヨーロッパの旧体制の中核として国際的地位を高めた。しかし農奴制 を色濃く残す国内経済は西欧諸国と比べて立ち遅れた。ロシアの遅れが明白になるのはクリミア戦争 でのことになる。
主要な戦役・戦闘
主要な条約・協定
逸話
ナポレオン戦争中イギリス 北部の町、ハートルプール に住んでいるイギリス人の住民たちは海岸で転覆したフランスの船 を目撃した。彼らは船員はみな死亡していると思っていたが、船にあるゴミに掴まっていてフランス軍の軍服を着ていたフランス人だけは生きていた。しかし、その"フランス人"は毛がふさふさの小さなサル であった。住民たちはフランス軍によるプロパガンダ だと思い込み、そのサルを尋問し裁判にかけた。当然サルは何も話さず、うんざりした住民たちは簡易絞首台を作りそのサルを処刑した7 。
参考文献
チャンドラー, デイヴィッド・ジェフリ 『ナポレオン戦争 欧州大戦と近代の原点(全5巻)』君塚直隆 、糸多郁子、竹村厚士、竹本知行訳、信山社 〈SBC学術文庫 102, 104-107〉。 NCID BA60156293 。 第1巻:2002年12月、ISBN 4-86075-022-5、第2巻:2003年1月、ISBN 4-86075-025-X、第3巻:2003年6月、ISBN 4-86075-026-8、第4巻:2003年6月、ISBN 4-86075-027-6、第5巻:2003年12月、ISBN 4-86075-028-4。
上記の原著:David G. Chandler, Campaigns of Napoleon: The Mind and Method of History's Greatest Soldier , 1973, ISBN 0025236601
松村劭 『ナポレオン戦争全史』原書房 、2006年1月。ISBN 4-562-03953-1。
ブカーリ, エミール『ナポレオンの元帥たち フランス帝国の群雄伝』小牧大介訳、新紀元社 〈オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ〉、2001年7月。ISBN 4-88317-886-2。
ケネディ, ポール 『大国の興亡 - 1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』 上巻、鈴木主税 訳(決定版)、草思社 、1993年3月。ISBN 4-7942-0491-4。
ケネディ, ポール『大国の興亡 - 1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』 下巻、鈴木主税訳(決定版)、草思社、1993年3月。ISBN 4-7942-0492-2。
本池立『ナポレオン 革命と戦争』世界書院 、1992年12月。ISBN 4-7927-2111-3。
ヴィゴ・ルシヨン, フランソワ『ナポレオン戦線従軍記』瀧川好庸訳、中央公論社 〈中公文庫 〉、1988年4月。ISBN 4-12-001089-9。
関連書籍
『クラウゼヴィッツと「戦争論」』清水多吉 ・石津朋之 編、彩流社 、2008年10月。ISBN 978-4-7791-1365-9。
ナポレオン戦争を題材とした作品 →「Category:ナポレオン戦争を題材とした作品」も参照
映画
テレビドラマ
シミュレーションゲーム
漫画
小説
脚注
3.5.
ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟)
1792年に開始されたフランス革命戦争 から断続的に戦争状態が続いていたため、一連の戦争を合わせて大フランス戦争 (だいフランスせんそう、Great French War)とも呼ぶ。ドイツでは対仏大同盟戦争 (たいふつだいどうめいせんそう、Koalitionskriege)、1813年以降のドイツ解放の戦いを解放戦争 とも呼ぶ。大同盟戦争 以来100年以上にわたって続いた英仏間の対立関係を第二次百年戦争 とみる見方もある。
フランス革命戦争とナポレオン戦争との間をどこで区切るかについては、1803年5月のアミアンの和約 の破棄を境界とする見方が一般的ではあるが、他にも1796年3月のナポレオンによる第一次イタリア遠征 の開始を境界とする見方、1799年11月のブリュメールのクーデター を境界とする見方などがある。本項目では革命戦争の途中である1796年3月以降の戦役について述べる。
参戦国 全てのヨーロッパ の国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスが一貫して対立関係にあったことを除き、参戦国は途中で入れ替わりがある。フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もある。
軍事的側面
動員・編成 ナポレオン戦争以前のヨーロッパの絶対主義 諸国は、傭兵 を主体とした軍隊を有していた。フランス革命を経たフランス軍は、革命の成果たる共和国を防衛しようという意識に燃えた一般国民からなる国民軍 へと変質していった。フランスは18世紀末の時点でヨーロッパではロシアに次ぐ大きさの人口ブロックであったため、徴兵制度 の実施において有利であった。だがナポレオン戦争の過程でドイツをはじめとする各国にも国家主義 の運動が高まり、戦争後期には各国軍とも国民軍の性格を強めた。
国民軍となったことで軍隊の規模は拡大した。直前の七年戦争 において、20万人を超える軍隊を有した国はわずかであった。一方、フランス革命戦争中の最大時におけるフランス軍の人員数は150万人に達し、ナポレオン戦争期間中のフランスの総動員兵力は300万人と推定される。こうした動員制度を整備したのはラザール・カルノー であった。さらに、産業革命 の初期段階にあったことで、兵器の大量生産が巨大な軍隊の装備を可能にした。戦争期間中、イギリスは最大の武器生産国となり、同盟諸国への武器供与を実施した。フランスは第2位の武器生産国であった。
国民軍の兵士たちは強い愛国心を持ち、また団結力を有していた。彼らは逃亡のおそれが低いため、散兵 戦術のような兵士の自律的判断に依存する戦術を用いることができた。巨大化した軍隊には師団 と呼ばれる1万人程度の独立行動可能な作戦単位の編成が導入され、大部隊の柔軟な運用が可能となった。こうした軍制改革でもフランスは他のヨーロッパ諸国に先行した。イギリス の歴史家 であるアラン・ブロック に拠れば、軍隊内部の各所に政治将校を置き、お目付け役として、逐次ナポレオンに報告する制度を敷いた。旧ソ連時代の政治将校制度は、このナポレオンの制度をレフ・トロツキー がレーニンに進言して、取り入れさせたとされている。
軍事技術 歩兵 の主力兵器はフリントロック式 前装銃であった。ライフル も使用されていたが、当時は装填に時間がかかり、弾丸を生産する工業技術も低かったため一般的ではなく、後方支援に多少使用される程度だった。歩兵部隊は精密な狙いを定めずに敵に向けて弾幕射撃を行った。砲兵 は、それまでは歩兵の掩護のもとに行動する機動性の低い部隊であったが、フランス軍では機動性を高めた独立した部隊として編成された。ナポレオンは砲弾 のサイズを標準化し、砲兵部隊間での融通を容易にした。
兵站 は、いまだ鉄道 が未発達であったため、各国軍とも現地調達によるしかなかった。フランス軍は人口密度の高い中部ヨーロッパでは円滑な調達により高い機動性を発揮したが、人口希薄なロシアやイベリア半島 では機動力が鈍った。遠距離間の通信には腕木通信 が導入され、戦争期間を通して使用された。また、熱気球 による空中偵察が、1794年6月26日のフルリュスの戦い において初めて実用化された。
ナポレオンの戦術 ナポレオンは巧みな戦略的機動によって有利な状況を作り出すことを得意とした。「最良の兵隊とは戦う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である」というナポレオンの言葉や、「皇帝は我々の足で勝利を稼いだ」という大陸軍 の兵士たちの言葉にこの思想が現れている。カスティリオーネの戦い では分散して進撃する2倍のオーストリア軍に対して機先を制して機動し、各個に撃破した。ウルムの戦い では敵主力の側面から背後を大回りに移動し、オーストリア軍主力を包囲して降伏に追い込んだ。会戦 においては、ナポレオンは自軍の一部をもって敵主力の攻撃をひきつけ、その間に主力をもって敵の弱点を衝く作戦を得意とした。アウステルリッツの戦い やフリートラントの戦い はこの成功例の最たるものと言える。
経過
第一次イタリア遠征(第一次対仏大同盟)
エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)
帝政の成立(第二次対仏大同盟) 1798年1月より、スウェーデンの調停のもと、フランス革命戦争の終結を目指したラシュタット会議 が開かれるも、オーストリアは会議を引き延ばし、対仏大同盟の再建という時間稼ぎに成功する。1798年12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟 が結成され、1799年にはオーストリアが北イタリアを奪回する。再びフランスは危機に陥り、国民の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていった。
1801年2月9日、オーストリアはリュネヴィルの和約 に応じ、カンポ・フォルミオの和約の内容を再確認した。オーストリアは1798年に第二次対仏大同盟を結成し、北イタリアやライン方面に侵攻していたが、その講和によって第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスのみがフランスとの戦争を続けた。7月にフランスはローマ教皇 ピウス7世 との間にコンコルダート を結び、フランス革命以来の対立関係を解消した。イギリスのみは戦争を続けていたが、1802年3月25日にはフランスとアミアンの和約 を結び講和した。
この後国際平和が1年余り続いた。しかし、フランスによるヨーロッパ市場からのイギリス製品の駆逐や和約違反行為などにより、再び英仏間の対立が強まり、1803年5月16日、イギリスはアミアンの和約を破棄し宣戦布告 した。戦争の目的は、フランスの旧状回復から、ナポレオンの打倒へと変わっていく。また3月21日にナポレオンに対するクーデター計画に参画したとして、フランス王族のアンギャン公 が処刑された事も欧州諸国の非難を浴び、再戦に拍車をかけた。1804年5月28日、ナポレオンは帝政 の開始を宣言。12月2日に戴冠式を行い、フランス皇帝ナポレオン1世となった。
陸戦と海戦(第三次対仏大同盟) 1805年、ナポレオンはイギリス 上陸を計画し、ドーバー海峡 に面したブローニュ に18万の兵力を集結させる。これに対してイギリスは、オーストリア・ハプスブルク、ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟 を結成した。戦いはレイベリヒ 率いるオーストリア軍7万のバイエルン への侵攻によって開始された。フランス軍は8月下旬にブローニュを進発。9月25日から10月20日におよぶウルム戦役 においてオーストリア軍を包囲し降伏させた。ナポレオンはウィーン に入城するが、ロシア皇帝アレクサンドル1世 とクトゥーゾフ の率いるロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑む。ナポレオンの即位1周年にあたる12月2日、アウステルリッツの戦い において5 、ナポレオンは優勢な敵に対し、後に芸術と評される采配を振り完勝した。
その一方で海戦はフランスの敗北に終わっていた。ヴィルヌーヴ 率いるフランス・スペイン連合艦隊は、ネルソン 率いるイギリス艦隊に捕捉され、10月21日、トラファルガーの海戦 で壊滅した。だがこの海戦は、直ちには大陸におけるナポレオンの覇権に影響を与えなかった。12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約 を締結してフランスへ屈服する。
ドイツ諸邦の制圧(第四次対仏大同盟) 11月21日、ナポレオンはベルリンにおいて大陸封鎖令 (ベルリン勅令)を発布する。これは、工業化 が進んでいたイギリスとヨーロッパ大陸諸国との貿易を禁止して、イギリスを経済的孤立に追い込むことが狙いであった。だが、逆に交易相手を喪失した大陸諸国の方が疲弊するという結果になる。フランス軍はプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 を追跡して東プロイセン へと向かい、プロイセンの救援に来たロシア軍とアイラウの戦い (1807年2月7日-8日)に突入したが、吹雪の中の戦いは両軍ともおびただしい死傷者を出し、決着はつかなかった。その後フランス軍は体勢を立てなおし、フリートラントの戦い (6月14日)でロシア軍を捕捉し撃滅した。
1807年10月、ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世 はエアフルト で会談し、スウェーデンを大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることが確認された。これにより第二次ロシア・スウェーデン戦争 (1808年-1809年)が勃発し、敗れたスウェーデンはフィンランド をロシアへ割譲するとともに大陸封鎖令に参加した(パリ条約 )。その後、スウェーデン国王カール13世 はナポレオン麾下のベルナドット を養子に迎え入れた。ナポレオンは北欧 に信頼できる同盟国を得たかに思われたが、ベルナドットは後に離反し、スウェーデンを対仏大同盟に戻らせた。
泥沼の戦い(スペイン独立戦争) 11月、ナポレオンは自ら20万の大軍を率いてスペインへ侵攻、1809年1月までにイギリス軍を駆逐し、後事をスルト に託して帰還した。だがその後もスペイン側はゲリラ 戦とイギリスの支援により根強い抵抗を続けた。このスペイン独立戦争 (1808年-1814年)は泥沼の戦争となり、フランスは大軍を貼り付けにした挙句、最終的には敗退する。
帝政の絶頂(第五次対仏大同盟) 5月20日-21日、フランス軍はウィーン近郊でドナウ川を渡河しようとするが、オーストリア軍の妨害によって仮橋がたびたび破壊され、半渡のところで攻撃を受ける。このアスペルン・エスリンクの戦い は、ナポレオン自身の指揮による初めての敗北となった。しかしその後、フランス軍はヴァグラムの戦い (7月5日-6日)でオーストリア軍に勝利。10月14日、オーストリアはフランスとシェーンブルンの和約 を結び、領土割譲と巨額の賠償金を課せられた。
ロシア遠征(1812年ロシア戦役) 大陸封鎖令 を出した事で、イギリスの物産を受け取れなくなったヨーロッパ大陸諸国は経済的に困窮した。1810年、ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。1812年6月23日、27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍 が国境のネマン川 を渡った。ロシア遠征 の始まりであった。
ロシア軍の戦略は、退却によってフランス軍をロシア領の奥深く引きずり込み、焦土戦術 によって食糧の補給を断つことであった。8月17日にはスモレンスク が陥落 するが、町は焼失させられていた。9月7日、モスクワ西方のボロジノ で、クトゥーゾフ 率いるロシア軍はフランス軍との決戦を試みる。このボロジノの戦い はフランス軍の辛勝に終わり、結局ロシア軍は焦土戦術を強化した。
9月14日、ナポレオンはモスクワ に入城した。市民の大部分は町を脱出した後であった。14日の夜からモスクワの大火が起き、モスクワの町は4日間にわたって燃え続け、4分の3が焼失した。これによって、フランス軍は住居も食糧も失ってしまう。ナポレオンはアレクサンドル1世 との和平交渉を試みるが返事はなく、冬が近づいていた。10月19日、ナポレオンはモスクワからの撤退を決意した。
撤退するフランス軍に対して、ロシア軍のコサック 騎兵や農民のゲリラ が襲い掛かり、さらには11月に入ると冬将軍 が到来し、飢えと寒さで死亡する者が続出した。10月23日にはパリでマレー によるクーデター未遂事件が起きる始末であった。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。12月10日にネマン川を越えて帰還したのはわずか5,000であった。だがこの戦いでロシア軍も40万を失ったのだった。
諸国民の戦い(第六次対仏大同盟) ナポレオンへ皇后マリー・ルイーズを嫁がせていたオーストリアは停戦を仲介するが、和平交渉は決裂。イギリス 、オーストリア 、ロシア 、プロイセン 、スウェーデン による第六次対仏大同盟 が成立し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦した。10月16日-19日のライプツィヒの戦い (諸国民の戦い)はナポレオン戦争における最大の戦闘となった。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃をかけ、フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。
1814年、戦場はフランス国内に移った。東からは連合軍が殺到し、南からはスペインを制圧したイギリス軍が侵入した。ナポレオンは局地的な戦闘でたびたび勝利を収めるが、大局的な劣勢は覆しようもなかった。同年3月31日に連合軍はパリ に入城。パリが外国軍の手に落ちるのは百年戦争 の際にイギリス軍 に占領されて以来2回目の出来事6 。同年4月6日、ナポレオンは退位し、エルバ島 の小領主として追放された。
百日天下(第七次対仏大同盟) ナポレオンの退位後、9月1日からウィーン会議 が開催され、戦後体制について話し合われていたが、各国の利害が絡んで遅々として進展しなかった。フランスではルイ18世 が即位して王政復古 がなされたが、その政治は国民の不満を買っていた。こうした状況の隙を突いて、1815年2月26日にナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへ上陸する。国民もこれを歓迎し、ルイ18世は逃亡。3月20日、ナポレオンはパリに入城して再び帝位に就いた。
6月18日、ワーテルローの戦い が開始された。フランス軍とイギリス・オランダ連合軍が激戦を繰り広げている最中、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が続々と戦場へ到着し、フランス軍の側面に猛攻を掛けた。これが決定的な打撃となり、フランス軍は潰走した。プロイセン軍は夜通しの追撃を行い、フランス軍は完全に崩壊した。
海外での戦闘
アジア・アフリカ
アメリカ
日本 1808年に長崎 で起きたフェートン号事件 は、ナポレオン戦争の余波が日本にまでおよんだものといえる。10月4日(文化5年8月15日)、イギリス船フェートン号が、当時フランスの支配下にあったオランダの船舶の拿捕を目的として長崎に侵入し、オランダ人を人質として薪水や食料の提供を要求した。長崎奉行 の松平康英 はフェートン号を撃退する戦力を有しておらず、この要求を受け入れた。後に松平康英は事件の責任を取って切腹 し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩 家老 等数人も責任を取って切腹した。
影響
ヨーロッパ 各国の利害が錯綜して進展の遅れていたウィーン会議 は、ナポレオンがエルバ島を脱出すると各国の妥協が成立し、1815年6月にウィーン議定書 が合意された。ナポレオンの完全失脚後、主要戦勝国によって神聖同盟 が結ばれ、ヨーロッパは復古主義・正統主義 を原理とするウィーン体制 下に置かれることとなった。
だがナポレオン戦争の過程で、民主主義 、近代法、特権階級の廃止などのフランス革命思想が、ヨーロッパ各地やラテンアメリカ など一部の植民地へ伝播した。ナポレオン法典 を基礎とした諸法典は、旧体制の復活の後も各国に残された。革命思想は1848年革命 の思想的基盤となってゆく。同時に、ナポレオン戦争は民族主義 が広まる契機となった。民族主義はヨーロッパの歴史を大きく変え、その後100年間に、ヨーロッパ諸国は封建領主の領土を単位とした領域から国民国家 へと変貌した。一方で、ナポレオンが意図したヨーロッパ統一国家の構想は瓦解した。ヨーロッパ統一の機運が再び高まるのは第二次世界大戦 後のことになる。
フランス
イギリス イギリスはケープ植民地 をはじめとする海外領土を獲得した。さらに、フランス、スペイン、オランダ、デンマークなどの海軍を打倒したことでイギリス海軍 が世界の海における制海権 を確立し、大陸封鎖令 とそれに対抗する海上封鎖というフランスとの経済戦争にも勝利して、植民地貿易における支配力を強め、イギリス産業が興隆した。19世紀におけるイギリスの覇権国としての地位は揺るぎないものとなった。
ドイツ ドイツではナポレオンの侵略に屈したことで民族主義運動が高まり、ドイツ連邦 が結成されドイツ統一 運動へと発展していった。その中でプロイセン王国 がラインラント をはじめとする領域を獲得し大国として台頭し、ドイツ統一を主導した。オーストリア帝国 も軍制改革を達成してナポレオンの攻撃に耐え抜き、戦後は北イタリア を獲得して大国としての地位を維持したが、次第にプロイセンとの対立が深まっていった。
ロシア ロシアはナポレオン戦争においてその強力な陸軍をイタリアやフランスにまで派兵し、戦後は神聖同盟 を提唱して自由主義運動を封じ込め、ヨーロッパの旧体制の中核として国際的地位を高めた。しかし農奴制 を色濃く残す国内経済は西欧諸国と比べて立ち遅れた。ロシアの遅れが明白になるのはクリミア戦争 でのことになる。
主要な戦役・戦闘
主要な条約・協定
逸話
ナポレオン戦争中イギリス 北部の町、ハートルプール に住んでいるイギリス人の住民たちは海岸で転覆したフランスの船 を目撃した。彼らは船員はみな死亡していると思っていたが、船にあるゴミに掴まっていてフランス軍の軍服を着ていたフランス人だけは生きていた。しかし、その"フランス人"は毛がふさふさの小さなサル であった。住民たちはフランス軍によるプロパガンダ だと思い込み、そのサルを尋問し裁判にかけた。当然サルは何も話さず、うんざりした住民たちは簡易絞首台を作りそのサルを処刑した7 。
参考文献
チャンドラー, デイヴィッド・ジェフリ 『ナポレオン戦争 欧州大戦と近代の原点(全5巻)』君塚直隆 、糸多郁子、竹村厚士、竹本知行訳、信山社 〈SBC学術文庫 102, 104-107〉。 NCID BA60156293 。 第1巻:2002年12月、ISBN 4-86075-022-5、第2巻:2003年1月、ISBN 4-86075-025-X、第3巻:2003年6月、ISBN 4-86075-026-8、第4巻:2003年6月、ISBN 4-86075-027-6、第5巻:2003年12月、ISBN 4-86075-028-4。
上記の原著:David G. Chandler, Campaigns of Napoleon: The Mind and Method of History's Greatest Soldier , 1973, ISBN 0025236601
松村劭 『ナポレオン戦争全史』原書房 、2006年1月。ISBN 4-562-03953-1。
ブカーリ, エミール『ナポレオンの元帥たち フランス帝国の群雄伝』小牧大介訳、新紀元社 〈オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ〉、2001年7月。ISBN 4-88317-886-2。
ケネディ, ポール 『大国の興亡 - 1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』 上巻、鈴木主税 訳(決定版)、草思社 、1993年3月。ISBN 4-7942-0491-4。
ケネディ, ポール『大国の興亡 - 1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』 下巻、鈴木主税訳(決定版)、草思社、1993年3月。ISBN 4-7942-0492-2。
本池立『ナポレオン 革命と戦争』世界書院 、1992年12月。ISBN 4-7927-2111-3。
ヴィゴ・ルシヨン, フランソワ『ナポレオン戦線従軍記』瀧川好庸訳、中央公論社 〈中公文庫 〉、1988年4月。ISBN 4-12-001089-9。
関連書籍
『クラウゼヴィッツと「戦争論」』清水多吉 ・石津朋之 編、彩流社 、2008年10月。ISBN 978-4-7791-1365-9。
ナポレオン戦争を題材とした作品 →「Category:ナポレオン戦争を題材とした作品」も参照
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