マクシミリアン (メキシコ皇帝) — OpenHistory
記事 編集 履歴 議論 人物 政治・外交
マクシミリアン (メキシコ皇帝) マクシミリアーノ1世は、ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のメキシコ皇帝。全名は、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン、フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ=ロレーナ。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。妻はベルギー国王レオポルド1世の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン。 優れた海軍の軍歴ののち、1864年4月10日、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位した。アメリカ合衆国を含む多くの国々は彼の帝国を承認しなかった。これはベニート・フアレス率いる共和派軍の優
生誕~死没 1832年7月6日 ~ 1867年6月19日 最終更新 2026/10/16 14:59
基本情報
生誕 ~ 死没 1832年7月6日 ~ 1867年6月19日
在位 1864年4月10日 - 1867年5月15日
戴冠式 1864年4月10日
全名 Fernando Maximiliano José María, フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア, Ferdinand Maximilian Joseph Maria, フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア 死去 (1867-06-19) 1867年6月19日(34歳没), メキシコ 、ケレタロ州 セロ・デ・ラス・カンパナス
位置 48.1848, 16.3123 大きな地図で同時代を見る → 目次 1. 生い立ち 1.1. 誕生 1.2. 教育 2. オーストリア海軍での軍歴 2.1. ロンバルディア・ヴェネツィア副王 3. メキシコ皇帝 3.1. メキシコ帝冠受諾 3.2. メキシコ皇帝としての治世 3.3. 陥落 4. 埋葬 5. 遺産 6. 称号と紋章 6.1. 称号 6.2. 皇帝としての称号 6.3. マクシミリアーノ1世 (西 : Maximiliano I、1832年7月6日 - 1867年6月19日)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家 出身のメキシコ 皇帝 (在位:1864年 - 1867年)。全名は、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン (独 : Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Habsburg-Lothringen)、フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ=ロレーナ (西 : Fernando Maximiliano José María de Habsburgo-Lorena)。オーストリア皇帝 フランツ・ヨーゼフ1世 の弟。妻はベルギー国王 レオポルド1世 の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン 。
優れた海軍 の軍歴ののち、1864年4月10日、フランス のナポレオン3世 と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位した。アメリカ合衆国 を含む多くの国々は彼の帝国を承認しなかった。これはベニート・フアレス 率いる共和派軍の優位を確かなものにし、1867年に捕虜となり処刑された。
生い立ち
誕生
1832年7月6日、オーストリア帝国 の首都ウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれた1 2 。誕生ののちに洗礼を受け、「 」と命名された。ファーストネームは父方の伯父で後の皇帝となる代父 に、セカンドネームは母方の祖父で にそれぞれ由来する 。
最終更新 2026/10/16 14:59 · r268070 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。
マクシミリアン (メキシコ皇帝)
人物 · 政治・外交
生誕 ~ 死没 1832年7月6日 ~ 1867年6月19日
在位 1864年4月10日 - 1867年5月15日
戴冠式 1864年4月10日
全名 Fernando Maximiliano José María, フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア, Ferdinand Maximilian Joseph Maria, フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア 死去 (1867-06-19) 1867年6月19日(34歳没), メキシコ 、ケレタロ州 セロ・デ・ラス・カンパナス
位置 48.1848, 16.3123 大きな地図で同時代を見る → 栄典
フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ
父のフランツ・カール 大公は神聖ローマ皇帝フランツ2世 (後のオーストリア皇帝フランツ1世)の成年を迎えた二人の息子の一人であり、父方ではハプスブルク=ロートリンゲン家であり、母・ゾフィー はヴィッテルスバッハ家 のバイエルン王女であった6 7 。知性と野心と強い意志のあるゾフィーは夫とはまったく共通するところはなかった。歴史家のリチャード・オコナー(Richard O'Conner)はフランツ・カール大公を「人生の最大の主要な関心事は肉汁たっぷりのミートボール を平らげることだという鈍重な肥った男」と表現している8 。そのような人柄の違いにもかかわらず、この結婚は実りの多いものとなり、4度の流産の後、マクシミリアンを含めて4人の子供が生まれ育った9 。
教育 幼いうちから、マクシミリアンは彼がより良く適任で二番目以上の価値のあるものすべてを証明しようと試み、兄のフランツ・ヨーゼフをあらゆる面でしのいでいた。オーストリア宮廷のたいへん堅苦しい環境はマクシミリアンの社交的な性格には耐えられなかった。マクシミリアンは陽気で、大変カリスマがあり、周囲の人を魅了することができた。また、魅力的な少年だったにもかかわらず、彼はまた奔放であった15 。彼は教師をバカにしたり、しばしば、いたずらの扇動者となった。そのいたずらの被害者にはひ弱な伯父フェルディナント1世 も含まれた16 。それにもかかわらずマクシミリアンは大変人気者であった。フランツ・ヨーゼフより優る試みと魅了する能力は、物静かで内向的な兄とは大きな隔たりがあった。それは年を経るごとに広がり、子供のころには親友だった兄弟はやがては名ばかりのものとなった17 。
1848年に革命 が起きた。抗議と反乱に直面した皇帝フェルディナント1世は退位し、マクシミリアンの兄フランツ・ヨーゼフが次の皇帝に選ばれ、フランツ・ヨーゼフ1世となった18 19 。マクシミリアンは兄の遠征に同行し、帝国一円の反乱を鎮圧した20 19 。1849年のみ、オーストリアでは革命は数百人の反乱者の処刑と数千人の投獄とともに鎮圧された。マクシミリアンは無慈悲と感じたものに恐怖し、それについて広く不平を言った。彼は後に「私たちは、自分たちの生きている時代を啓蒙時代と呼ぶ、しかし未来に向かって人々が司法上の不正義にたいする恐怖と驚きのうちに振り返る光景が、いまのヨーロッパにある。それは、復讐の精神で法の上の政府に代わり恣意的な統治をする政府に異議を唱えた者たちを罪に問い、死刑を言い渡す光景である」と指摘している21 22 。
オーストリア海軍での軍歴 フェルディナント・マクシミリアンは特に利発な少年であった。芸術の分野ではかなりの教養を現し、科学においてとくに植物学 には幼いうちから興味を示した。軍に入隊すると、オーストリア海軍で訓練を受けた。彼は海軍に身を投じると情熱を注ぎ、急速に昇進した。
マクシミリアンは18歳で中尉になり、1854年には司令官としてコルベット「ミネルヴァ(Minerva )」の帆走を指揮し、この航海ではアルバニア とダルマチア 沿岸を探検した。22歳で、オーストリア海軍の少将 に就任した。彼以前のフリードリヒ大公(1821年–1847年) のように彼は戦艦 に鋭い興味をしめし、海軍は彼によって皇帝家からの影響力の支援を獲得した。外交において海軍力を重視していなかったオーストリアにとってこれは画期的であった。
ロンバルディア・ヴェネツィア副王 フェルディナント・マクシミリアンは政治的には、当時流行していた進歩思想の影響を受けていた。彼は自由主義 の意見の持ち主であり、これによって1857年2月にロンバルド=ヴェネト王国 の副王 に任命された。
二人は、ミラノに総督としてあるいはロンバルディア・ヴェネトの副王として1857年から1859年にフランツ・ヨーゼフ1世が彼を副王から解任するまでの間ミラノ に暮らした。
皇帝はイタリアでの弟による自由主義政策の実行に怒った。彼の解任からほどなく、オーストリアはイタリア地域のほとんどでの統治の影響力を失った。マクシミリアンはトリエステで隠遁した。彼はトリエステ近郊にミラマール城 を築いた。
メキシコ皇帝
メキシコ帝冠受諾 1859年、フェルディナント・マクシミリアンはメキシコ貴族 からなるメキシコ王党派との最初の接触をもった。王党派は地方貴族ホセ・パブロ・マルチネス・デ・リオ に率いられ、彼らはメキシコ皇帝になるよう申し出た。1861年10月20日のパリでは、マクシミリアンはグティエレス・デ・エストラから、メキシコの皇位を受けるようにとの手紙を受け取った。
当初マクシミリアンは受け入れなかったが、シャルロッテ妃の説得によってこれを受ける決意を固め、1861年からその翌年にかけて兄のフランツ・ヨーゼフ1世と協議した23 。マクシミリアンは、ブラジルの熱帯雨林 での植物学の調査が伴った探検で彼の止むことのない欲望を満たそうとした。
しかしフランスのメキシコ出兵の後、ナポレオン3世の圧力の下、エリー・フレデリック・フォレー 将軍のメキシコシティ攻略と帝国設立の布告を確認する国民投票(この投票は「フランス軍が占領している地域のほとんど」で行われたが、マクシミリアンには投票の胡散臭さは伝えなかった)の後、1863年10月に彼はメキシコ帝冠を受諾した。
兄フランツ・ヨーゼフ1世はマクシミリアンの決意に迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことをしばしば言い含めていたにもかかわらず23 、頑強とはいえない皇太子ルドルフ に万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることを指摘して慰留した24 。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、オーストリア皇位継承権を放棄することを署名した24 。この決定により、マクシミリアンは皇位継承権のみならずオーストリア皇族としての権利も喪失したが、これは彼がヨーロッパを離れる直前まで知らされなかった。シャルロッテ大公妃はこの後、「カルロータ皇后陛下」として知られるようになった。
メキシコ皇帝としての治世 1864年4月、フェルディナント・マクシミリアン大公はオーストリア海軍少将の職を辞した。彼はトリエステからノヴァラ 号に乗船し、フリゲート艦「ベローナ号」(オーストリア)と 「テミス号(Themis )」(フランス)とを従えて皇帝のヨット「ファンタジー号(Phantasie )」はこれらを導きミラマール宮殿を出港した25 。彼らは教皇ピウス9世の祝福を受け、ヴィクトリア女王はジブラルタル海峡 を通過するマクシミリアンを乗せた艦隊に祝砲を打つように命令した。
新皇帝は群衆からの手荒な祝意の中ベラクルス に同年5月21日に上陸した。彼はメキシコの保守派とナポレオン3世の支援があったが、フアレス率いる自由主義軍からは彼の帝国を拒否されて以来、一連の困難に巻き込まれた。フランス軍と共和派の間の連続的な戦闘があった。
皇帝夫妻はメキシコシティ を帝都に選んだ。皇帝夫妻はチャプルテペク城 を居城にした。この城はかつてのメキシコシティの郊外の丘の上にあり、アステカ皇帝の離宮であった。 マクシミリアーノ1世はチャプルテペク からメキシコシティ中心部へと通り抜ける道路の建設を命じた。もともと「皇后通り」と呼ばれたこの通りは今日ではメキシコシティの目抜き通り「レフォルマ通り 」として知られる。
彼はまたクエルナバカ に離宮を求めた。皇帝夫妻はメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂 での戴冠式を計画したが、政情不安のせいで、挙行されることはなかった。マクシミリアーノ1世は貧民の生活環境と上流階級の壮大なアシエンダの格差に衝撃を受けた。皇后カルロータは貧しい人々のために富裕層から金を集めるためのパーティを主催した。マクシミリアーノ1世の皇帝としての最初の法律のひとつは、労働時間の制限と児童の労働の禁止である。彼は、10ペソ 以上の農民の借金を全て帳消しにする「徳政令」を出したほか、公共財産を回復させ、いかなる体罰も禁止した。彼はまた、アシエンダ の独占を廃し、今後は貧民が借金のかたに人身売買されないようにした。
保守派同盟の狼狽に対して、マクシミリアーノ1世はフアレス政府によって提案されている自由主義 政策のいくつかを支持した-農地改革 、信仰の自由、投票権の大土地所有者以外への拡大などである。はじめ、マクシミリアーノ1世はフアレスに帝国に忠誠を誓うなら恩赦し、首相に任命すると提案したがフアレスは拒絶した。のちに、マクシミリアーノ1世は捕えたフアレス支持者を射殺するよう命令を出し、その報復として共和派は帝国の支持者をすべて処刑した。結局、これは彼の政権をかえって悪化させる戦略的誤りになることが証明された。
南北戦争終結後、アメリカ合衆国はナポレオン3世にマクシミリアーノ1世へのフランスの支援をやめ、メキシコから撤退するように外交的な説得の圧力を増してきた。ワシントンはフアレスのパルチザンの供給を開始し、彼の同盟者ポルフィリオ・ディアス は「敗北したことで」彼らのための兵站基地をメキシコ国境のエルパソ・デル・ノルテ を構えた。
フアレスを復帰させるアメリカの侵攻の見通しは、大義を捨て、首都を離れる多数の皇帝信奉者を生み出した27 。
その間、マクシミリアーノ1世は元南軍をメキシコの一連の植民地、「シャルロッテ植民地」とニュー・ヴァージニア植民地 ほか検討されていた12近くの植民地に移住するように招いた。この構想は国際的なアメリカ合衆国海軍の海洋学者で発明家のマシュー・フォンテーン・モーリー による。マクシミリアーノ1世はまたどの植民地にもオーストリア他ドイツ諸国の植民者を招いた28 。
それにもかかわらず、マクシミリアーノ1世の退位の緊急性はメキシコ国外において誰の目にも明らかなものとなっていた。この年、ナポレオン3世はメキシコのレジスタンスとモンロー主義のもと反対するアメリカ合衆国軍と対峙しているフランス軍を撤退させた。時折しもナポレオン3世とその軍は本国で、これまで増強されてきたプロイセン軍と宰相オットー・フォン・ビスマルク に直面していた。
カルロータは夫の帝国への支援を求めてパリ、ウィーンとヨーロッパを旅し、ローマでは教皇ピウス9世との謁見に成功したが、彼女の努力は失敗に終わり、結果彼女は深刻な情緒の崩壊を起こし、2度とメキシコに帰ることはなかった。彼女の夫が処刑されたのち、彼女は隠遁生活を送り、決して夫の死を認めなかった。隠遁の場はイタリア、トリエステのミラマール城 、次にベルギーのメイゼ のボウハウト城 であった 29 。そこで1927年1月19日彼女は死んだ30 。
陥落 しかし、メキシコ国民からの支持が得られなかったこと、南北戦争を終えた合衆国がモンロー主義 に基づきマクシミリアーノ1世の即位に反対したこと、マクシミリアーノ1世自体が自由主義的思想を有しており、メキシコの保守派とも良好な関係を築けなかったことなどから、彼の地位は当初より非常に脆いものであった。さらに、ヨーロッパ本国でプロイセン が急速に強大化したため、フランスはメキシコ問題に拘泥することを望まなかった。そのため、メキシコの自由主義勢力が勢力を挽回させて保守派を破ると、ナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまった。
ナポレオン3世によってメキシコの放棄が要求され、メキシコからフランス軍が引き上げることになったのはメキシコ皇帝の正統性にとって大きな打撃であったけれども、マクシミリアーノ1世は彼に従うものを見捨てるのを拒んだ。彼は自身に従うものに退位するか否かを決定することを許可した。ミゲル・ミラモン 、レオナルド・マルケス とトマス・メヒア のような忠実な将軍らは共和派に挑戦するべく挙兵することを誓った。マクシミリアーノ1世は10,000人のメキシコ人帝国軍と共に戦った。1867年2月ケレタロ に撤退し、彼はそこで何週間も包囲を受けたが、5月11日に敵の戦線からの脱出を試みた。この脱出計画は、門を開いて軍を引き入れるという協定を共和派と交わしていた、ミゲル・アンヘル・ロペス大佐によって妨害された。ロペスは皇帝が助命・解放されるものと考えていたようである31 。
1867年5月15日にケレタロは陥落し、翌朝マクシミリアーノ1世は捕えられた。フェリックス・ザルム=ザルム 率いる王党派の軽騎兵 旅団 による脱出の試みが失敗した後、軍事裁判 にかけられ、彼は死刑を言い渡された。ザルム=ザルムの妻アグネス・ザルム=ザルム やマクシミリアンの弁護人を擁立したメキシコシティ駐普大使 アントン・フォン・マグヌス などはフアレスに直接面会して皇帝の助命を嘆願したほか、ほかの多くのヨーロッパの元首とほかの著名人(著名な自由主義者であるヴィクトル・ユーゴー とジュゼッペ・ガリバルディ が含まれる)が電信と手紙をメキシコに送り、皇帝の助命を嘆願した。 フアレスは個人的にはマクシミリアーノ1世が好きだったが32 、彼は、大勢のメキシコ人がマクシミリアーノ1世に対する戦いで戦死した観点から、刑の減軽を拒んだ。彼は、メキシコは外国勢力によって介入したいかなる政権に対して、断固たる態度をとるというメッセージを発信する必要があると信じていた。
刑は1867年6月9日に「鐘の丘 (Cerro de las Campanas)」で執行された。このときマクシミリアーノ1世はミラモンとメヒアとともに兵士によって銃殺された。
彼はスペイン語で話し、死刑執行者に、母が自分の死に顔を見られるように頭は撃たないようにひと瓶の金貨を与えた33 。
最期の言葉は「私は全ての人を許そう!お願いだ、みなも私を許してくれたまえ!いま流される血が、この国の幸福につながらんことを望む!メキシコ万歳!独立万歳!34 35 」。 また、2人のメキシコ人の将軍は「皇帝万歳!」と叫んで射殺された。
埋葬
遺産 兄のフランツ・ヨーゼフ1世とは仲が良く、弟の死を知って兄は悲しんだ。また、妻のシャルロッテは精神の錯乱を引き起こし、死ぬまで夫の死を認めなかった。ナポレオン3世 はこの失政でフランス国民の信頼を失い、帝政 が崩壊する遠因となった。エドゥアール・マネ は『皇帝マキシミリアンの処刑 』でフランスの軍服を着た銃殺隊による処刑場面を描き、マクシミリアーノ1世を見殺しにしたナポレオン3世を批判した。
マクシミリアーノ1世は、自由主義的な改革、メキシコの人々を助けようとする稀有な希望、忠実につき従うものを見捨てることを拒絶したこと、ケレタロ包囲戦での個人的な勇敢さでいくらかの歴史家によって称賛されてきた。しかし、他の研究者はマクシミリアーノ1世は短期間の政治的軍事的問題、第2次メキシコ帝国の急速な崩壊の間のメキシコでの民主主義の復活の障害であったと考える。
称号と紋章
称号
1832年7月6日 – 1864年4月10日:オーストリア大公 並びにオーストリアの皇子、ハンガリー並びにボヘミアの王子、ロートリンゲン の公子にしてハプスブルク家 の子息ほか…高貴なる大公にして君侯、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ殿下
1864年4月10日 – 1867年6月19日:皇帝陛下
皇帝としての称号 神の恩寵と人民の意志によるメキシコ皇帝 ドン・ マクシミリアーノ1世陛下
栄典
外国からの栄典
系譜
参考文献
Corti, Egon Caesar Count (1929). Maximilian and Charlotte of Mexico . 1–2 . New York and London: Alfred A. Knopf
Hall, Frederick (1868). Invasion of Mexico by the French; and the reign of Maximilian I., with a sketch of the Empress Carlota . New York: James Miller
Haslip, Joan (1972). The Crown of Mexico: Maximilian and His Empress Carlota . New York: Holt, Rinehart and Winston. ISBN 0-03-086572-7
Hyde, H. Montgomery (1946). Mexican Empire: the history of Maximilian and Carlota of Mexico . London: Macmillan & Co.
Kératry, Émile (1868). The rise and fall of the Emperor Maximilian. A narrative of the Mexican Empire, 1861-7, with the imperial correspondence . London: Sampson Low, Son, and Marston
O'Connor, Richard (1971). The Cactus Throne: the tragedy of Maximilian and Carlotta . New York: G. P. Putnam's Sons
Palmer, Alan (1994). Twilight of the Habsburgs: The Life and Times of Emperor Francis Joseph . New York: Atlantic Monthly Press. ISBN 0-87113-665-1
Ridley, Jasper (2001). Maximilian & Juarez . London: Phoenix Press. ISBN 1-84212-150-2
イカロスの失墜 悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン一世伝 菊池良生 新人物往来社, 1994.9.
江村洋 『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍 、1994(平成6)年9月20日。ISBN 4-487-79143-X。
リチャード・リケット 著、青山孝徳 訳『オーストリアの歴史』成文社 、1995年(平成7年)。ISBN 4404021305。
アンドリュー・ウィートクロフツ 著、瀬原義生 訳『ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者』文理閣 、2009(平成21)年7月15日。ISBN 978-4-89259-591-2。
脚注
称号と紋章
マクシミリアーノ1世 (西 : Maximiliano I、1832年7月6日 - 1867年6月19日)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家 出身のメキシコ 皇帝 (在位:1864年 - 1867年)。全名は、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン (独 : Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Habsburg-Lothringen)、フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア・デ・アブスブルゴ=ロレーナ (西 : Fernando Maximiliano José María de Habsburgo-Lorena)。オーストリア皇帝 フランツ・ヨーゼフ1世 の弟。妻はベルギー国王 レオポルド1世 の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン 。
優れた海軍 の軍歴ののち、1864年4月10日、フランス のナポレオン3世 と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位した。アメリカ合衆国 を含む多くの国々は彼の帝国を承認しなかった。これはベニート・フアレス 率いる共和派軍の優位を確かなものにし、1867年に捕虜となり処刑された。
生い立ち
誕生
1832年7月6日、オーストリア帝国 の首都ウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれた1 。誕生ののちに洗礼を受け、「 」と命名された。ファーストネームは父方の伯父で後の皇帝となる代父 に、セカンドネームは母方の祖父で にそれぞれ由来する 。
フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ
父のフランツ・カール 大公は神聖ローマ皇帝フランツ2世 (後のオーストリア皇帝フランツ1世)の成年を迎えた二人の息子の一人であり、父方ではハプスブルク=ロートリンゲン家であり、母・ゾフィー はヴィッテルスバッハ家 のバイエルン王女であった6 7 。知性と野心と強い意志のあるゾフィーは夫とはまったく共通するところはなかった。歴史家のリチャード・オコナー(Richard O'Conner)はフランツ・カール大公を「人生の最大の主要な関心事は肉汁たっぷりのミートボール を平らげることだという鈍重な肥った男」と表現している8 。そのような人柄の違いにもかかわらず、この結婚は実りの多いものとなり、4度の流産の後、マクシミリアンを含めて4人の子供が生まれ育った9 。
教育 幼いうちから、マクシミリアンは彼がより良く適任で二番目以上の価値のあるものすべてを証明しようと試み、兄のフランツ・ヨーゼフをあらゆる面でしのいでいた。オーストリア宮廷のたいへん堅苦しい環境はマクシミリアンの社交的な性格には耐えられなかった。マクシミリアンは陽気で、大変カリスマがあり、周囲の人を魅了することができた。また、魅力的な少年だったにもかかわらず、彼はまた奔放であった15 。彼は教師をバカにしたり、しばしば、いたずらの扇動者となった。そのいたずらの被害者にはひ弱な伯父フェルディナント1世 も含まれた16 。それにもかかわらずマクシミリアンは大変人気者であった。フランツ・ヨーゼフより優る試みと魅了する能力は、物静かで内向的な兄とは大きな隔たりがあった。それは年を経るごとに広がり、子供のころには親友だった兄弟はやがては名ばかりのものとなった17 。
1848年に革命 が起きた。抗議と反乱に直面した皇帝フェルディナント1世は退位し、マクシミリアンの兄フランツ・ヨーゼフが次の皇帝に選ばれ、フランツ・ヨーゼフ1世となった18 19 。マクシミリアンは兄の遠征に同行し、帝国一円の反乱を鎮圧した20 19 。1849年のみ、オーストリアでは革命は数百人の反乱者の処刑と数千人の投獄とともに鎮圧された。マクシミリアンは無慈悲と感じたものに恐怖し、それについて広く不平を言った。彼は後に「私たちは、自分たちの生きている時代を啓蒙時代と呼ぶ、しかし未来に向かって人々が司法上の不正義にたいする恐怖と驚きのうちに振り返る光景が、いまのヨーロッパにある。それは、復讐の精神で法の上の政府に代わり恣意的な統治をする政府に異議を唱えた者たちを罪に問い、死刑を言い渡す光景である」と指摘している21 22 。
オーストリア海軍での軍歴 フェルディナント・マクシミリアンは特に利発な少年であった。芸術の分野ではかなりの教養を現し、科学においてとくに植物学 には幼いうちから興味を示した。軍に入隊すると、オーストリア海軍で訓練を受けた。彼は海軍に身を投じると情熱を注ぎ、急速に昇進した。
マクシミリアンは18歳で中尉になり、1854年には司令官としてコルベット「ミネルヴァ(Minerva )」の帆走を指揮し、この航海ではアルバニア とダルマチア 沿岸を探検した。22歳で、オーストリア海軍の少将 に就任した。彼以前のフリードリヒ大公(1821年–1847年) のように彼は戦艦 に鋭い興味をしめし、海軍は彼によって皇帝家からの影響力の支援を獲得した。外交において海軍力を重視していなかったオーストリアにとってこれは画期的であった。
ロンバルディア・ヴェネツィア副王 フェルディナント・マクシミリアンは政治的には、当時流行していた進歩思想の影響を受けていた。彼は自由主義 の意見の持ち主であり、これによって1857年2月にロンバルド=ヴェネト王国 の副王 に任命された。
二人は、ミラノに総督としてあるいはロンバルディア・ヴェネトの副王として1857年から1859年にフランツ・ヨーゼフ1世が彼を副王から解任するまでの間ミラノ に暮らした。
皇帝はイタリアでの弟による自由主義政策の実行に怒った。彼の解任からほどなく、オーストリアはイタリア地域のほとんどでの統治の影響力を失った。マクシミリアンはトリエステで隠遁した。彼はトリエステ近郊にミラマール城 を築いた。
メキシコ皇帝
メキシコ帝冠受諾 1859年、フェルディナント・マクシミリアンはメキシコ貴族 からなるメキシコ王党派との最初の接触をもった。王党派は地方貴族ホセ・パブロ・マルチネス・デ・リオ に率いられ、彼らはメキシコ皇帝になるよう申し出た。1861年10月20日のパリでは、マクシミリアンはグティエレス・デ・エストラから、メキシコの皇位を受けるようにとの手紙を受け取った。
当初マクシミリアンは受け入れなかったが、シャルロッテ妃の説得によってこれを受ける決意を固め、1861年からその翌年にかけて兄のフランツ・ヨーゼフ1世と協議した23 。マクシミリアンは、ブラジルの熱帯雨林 での植物学の調査が伴った探検で彼の止むことのない欲望を満たそうとした。
しかしフランスのメキシコ出兵の後、ナポレオン3世の圧力の下、エリー・フレデリック・フォレー 将軍のメキシコシティ攻略と帝国設立の布告を確認する国民投票(この投票は「フランス軍が占領している地域のほとんど」で行われたが、マクシミリアンには投票の胡散臭さは伝えなかった)の後、1863年10月に彼はメキシコ帝冠を受諾した。
兄フランツ・ヨーゼフ1世はマクシミリアンの決意に迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことをしばしば言い含めていたにもかかわらず23 、頑強とはいえない皇太子ルドルフ に万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることを指摘して慰留した24 。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、オーストリア皇位継承権を放棄することを署名した24 。この決定により、マクシミリアンは皇位継承権のみならずオーストリア皇族としての権利も喪失したが、これは彼がヨーロッパを離れる直前まで知らされなかった。シャルロッテ大公妃はこの後、「カルロータ皇后陛下」として知られるようになった。
メキシコ皇帝としての治世 1864年4月、フェルディナント・マクシミリアン大公はオーストリア海軍少将の職を辞した。彼はトリエステからノヴァラ 号に乗船し、フリゲート艦「ベローナ号」(オーストリア)と 「テミス号(Themis )」(フランス)とを従えて皇帝のヨット「ファンタジー号(Phantasie )」はこれらを導きミラマール宮殿を出港した25 。彼らは教皇ピウス9世の祝福を受け、ヴィクトリア女王はジブラルタル海峡 を通過するマクシミリアンを乗せた艦隊に祝砲を打つように命令した。
新皇帝は群衆からの手荒な祝意の中ベラクルス に同年5月21日に上陸した。彼はメキシコの保守派とナポレオン3世の支援があったが、フアレス率いる自由主義軍からは彼の帝国を拒否されて以来、一連の困難に巻き込まれた。フランス軍と共和派の間の連続的な戦闘があった。
皇帝夫妻はメキシコシティ を帝都に選んだ。皇帝夫妻はチャプルテペク城 を居城にした。この城はかつてのメキシコシティの郊外の丘の上にあり、アステカ皇帝の離宮であった。 マクシミリアーノ1世はチャプルテペク からメキシコシティ中心部へと通り抜ける道路の建設を命じた。もともと「皇后通り」と呼ばれたこの通りは今日ではメキシコシティの目抜き通り「レフォルマ通り 」として知られる。
彼はまたクエルナバカ に離宮を求めた。皇帝夫妻はメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂 での戴冠式を計画したが、政情不安のせいで、挙行されることはなかった。マクシミリアーノ1世は貧民の生活環境と上流階級の壮大なアシエンダの格差に衝撃を受けた。皇后カルロータは貧しい人々のために富裕層から金を集めるためのパーティを主催した。マクシミリアーノ1世の皇帝としての最初の法律のひとつは、労働時間の制限と児童の労働の禁止である。彼は、10ペソ 以上の農民の借金を全て帳消しにする「徳政令」を出したほか、公共財産を回復させ、いかなる体罰も禁止した。彼はまた、アシエンダ の独占を廃し、今後は貧民が借金のかたに人身売買されないようにした。
保守派同盟の狼狽に対して、マクシミリアーノ1世はフアレス政府によって提案されている自由主義 政策のいくつかを支持した-農地改革 、信仰の自由、投票権の大土地所有者以外への拡大などである。はじめ、マクシミリアーノ1世はフアレスに帝国に忠誠を誓うなら恩赦し、首相に任命すると提案したがフアレスは拒絶した。のちに、マクシミリアーノ1世は捕えたフアレス支持者を射殺するよう命令を出し、その報復として共和派は帝国の支持者をすべて処刑した。結局、これは彼の政権をかえって悪化させる戦略的誤りになることが証明された。
南北戦争終結後、アメリカ合衆国はナポレオン3世にマクシミリアーノ1世へのフランスの支援をやめ、メキシコから撤退するように外交的な説得の圧力を増してきた。ワシントンはフアレスのパルチザンの供給を開始し、彼の同盟者ポルフィリオ・ディアス は「敗北したことで」彼らのための兵站基地をメキシコ国境のエルパソ・デル・ノルテ を構えた。
フアレスを復帰させるアメリカの侵攻の見通しは、大義を捨て、首都を離れる多数の皇帝信奉者を生み出した27 。
その間、マクシミリアーノ1世は元南軍をメキシコの一連の植民地、「シャルロッテ植民地」とニュー・ヴァージニア植民地 ほか検討されていた12近くの植民地に移住するように招いた。この構想は国際的なアメリカ合衆国海軍の海洋学者で発明家のマシュー・フォンテーン・モーリー による。マクシミリアーノ1世はまたどの植民地にもオーストリア他ドイツ諸国の植民者を招いた28 。
それにもかかわらず、マクシミリアーノ1世の退位の緊急性はメキシコ国外において誰の目にも明らかなものとなっていた。この年、ナポレオン3世はメキシコのレジスタンスとモンロー主義のもと反対するアメリカ合衆国軍と対峙しているフランス軍を撤退させた。時折しもナポレオン3世とその軍は本国で、これまで増強されてきたプロイセン軍と宰相オットー・フォン・ビスマルク に直面していた。
カルロータは夫の帝国への支援を求めてパリ、ウィーンとヨーロッパを旅し、ローマでは教皇ピウス9世との謁見に成功したが、彼女の努力は失敗に終わり、結果彼女は深刻な情緒の崩壊を起こし、2度とメキシコに帰ることはなかった。彼女の夫が処刑されたのち、彼女は隠遁生活を送り、決して夫の死を認めなかった。隠遁の場はイタリア、トリエステのミラマール城 、次にベルギーのメイゼ のボウハウト城 であった 29 。そこで1927年1月19日彼女は死んだ30 。
陥落 しかし、メキシコ国民からの支持が得られなかったこと、南北戦争を終えた合衆国がモンロー主義 に基づきマクシミリアーノ1世の即位に反対したこと、マクシミリアーノ1世自体が自由主義的思想を有しており、メキシコの保守派とも良好な関係を築けなかったことなどから、彼の地位は当初より非常に脆いものであった。さらに、ヨーロッパ本国でプロイセン が急速に強大化したため、フランスはメキシコ問題に拘泥することを望まなかった。そのため、メキシコの自由主義勢力が勢力を挽回させて保守派を破ると、ナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまった。
ナポレオン3世によってメキシコの放棄が要求され、メキシコからフランス軍が引き上げることになったのはメキシコ皇帝の正統性にとって大きな打撃であったけれども、マクシミリアーノ1世は彼に従うものを見捨てるのを拒んだ。彼は自身に従うものに退位するか否かを決定することを許可した。ミゲル・ミラモン 、レオナルド・マルケス とトマス・メヒア のような忠実な将軍らは共和派に挑戦するべく挙兵することを誓った。マクシミリアーノ1世は10,000人のメキシコ人帝国軍と共に戦った。1867年2月ケレタロ に撤退し、彼はそこで何週間も包囲を受けたが、5月11日に敵の戦線からの脱出を試みた。この脱出計画は、門を開いて軍を引き入れるという協定を共和派と交わしていた、ミゲル・アンヘル・ロペス大佐によって妨害された。ロペスは皇帝が助命・解放されるものと考えていたようである31 。
1867年5月15日にケレタロは陥落し、翌朝マクシミリアーノ1世は捕えられた。フェリックス・ザルム=ザルム 率いる王党派の軽騎兵 旅団 による脱出の試みが失敗した後、軍事裁判 にかけられ、彼は死刑を言い渡された。ザルム=ザルムの妻アグネス・ザルム=ザルム やマクシミリアンの弁護人を擁立したメキシコシティ駐普大使 アントン・フォン・マグヌス などはフアレスに直接面会して皇帝の助命を嘆願したほか、ほかの多くのヨーロッパの元首とほかの著名人(著名な自由主義者であるヴィクトル・ユーゴー とジュゼッペ・ガリバルディ が含まれる)が電信と手紙をメキシコに送り、皇帝の助命を嘆願した。 フアレスは個人的にはマクシミリアーノ1世が好きだったが32 、彼は、大勢のメキシコ人がマクシミリアーノ1世に対する戦いで戦死した観点から、刑の減軽を拒んだ。彼は、メキシコは外国勢力によって介入したいかなる政権に対して、断固たる態度をとるというメッセージを発信する必要があると信じていた。
刑は1867年6月9日に「鐘の丘 (Cerro de las Campanas)」で執行された。このときマクシミリアーノ1世はミラモンとメヒアとともに兵士によって銃殺された。
彼はスペイン語で話し、死刑執行者に、母が自分の死に顔を見られるように頭は撃たないようにひと瓶の金貨を与えた33 。
最期の言葉は「私は全ての人を許そう!お願いだ、みなも私を許してくれたまえ!いま流される血が、この国の幸福につながらんことを望む!メキシコ万歳!独立万歳!34 35 」。 また、2人のメキシコ人の将軍は「皇帝万歳!」と叫んで射殺された。
埋葬
遺産 兄のフランツ・ヨーゼフ1世とは仲が良く、弟の死を知って兄は悲しんだ。また、妻のシャルロッテは精神の錯乱を引き起こし、死ぬまで夫の死を認めなかった。ナポレオン3世 はこの失政でフランス国民の信頼を失い、帝政 が崩壊する遠因となった。エドゥアール・マネ は『皇帝マキシミリアンの処刑 』でフランスの軍服を着た銃殺隊による処刑場面を描き、マクシミリアーノ1世を見殺しにしたナポレオン3世を批判した。
マクシミリアーノ1世は、自由主義的な改革、メキシコの人々を助けようとする稀有な希望、忠実につき従うものを見捨てることを拒絶したこと、ケレタロ包囲戦での個人的な勇敢さでいくらかの歴史家によって称賛されてきた。しかし、他の研究者はマクシミリアーノ1世は短期間の政治的軍事的問題、第2次メキシコ帝国の急速な崩壊の間のメキシコでの民主主義の復活の障害であったと考える。
称号と紋章
称号
1832年7月6日 – 1864年4月10日:オーストリア大公 並びにオーストリアの皇子、ハンガリー並びにボヘミアの王子、ロートリンゲン の公子にしてハプスブルク家 の子息ほか…高貴なる大公にして君侯、フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ殿下
1864年4月10日 – 1867年6月19日:皇帝陛下
皇帝としての称号 神の恩寵と人民の意志によるメキシコ皇帝 ドン・ マクシミリアーノ1世陛下
栄典
外国からの栄典
系譜
参考文献
Corti, Egon Caesar Count (1929). Maximilian and Charlotte of Mexico . 1–2 . New York and London: Alfred A. Knopf
Hall, Frederick (1868). Invasion of Mexico by the French; and the reign of Maximilian I., with a sketch of the Empress Carlota . New York: James Miller
Haslip, Joan (1972). The Crown of Mexico: Maximilian and His Empress Carlota . New York: Holt, Rinehart and Winston. ISBN 0-03-086572-7
Hyde, H. Montgomery (1946). Mexican Empire: the history of Maximilian and Carlota of Mexico . London: Macmillan & Co.
Kératry, Émile (1868). The rise and fall of the Emperor Maximilian. A narrative of the Mexican Empire, 1861-7, with the imperial correspondence . London: Sampson Low, Son, and Marston
O'Connor, Richard (1971). The Cactus Throne: the tragedy of Maximilian and Carlotta . New York: G. P. Putnam's Sons
Palmer, Alan (1994). Twilight of the Habsburgs: The Life and Times of Emperor Francis Joseph . New York: Atlantic Monthly Press. ISBN 0-87113-665-1
Ridley, Jasper (2001). Maximilian & Juarez . London: Phoenix Press. ISBN 1-84212-150-2
イカロスの失墜 悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン一世伝 菊池良生 新人物往来社, 1994.9.
江村洋 『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍 、1994(平成6)年9月20日。ISBN 4-487-79143-X。
リチャード・リケット 著、青山孝徳 訳『オーストリアの歴史』成文社 、1995年(平成7年)。ISBN 4404021305。
アンドリュー・ウィートクロフツ 著、瀬原義生 訳『ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者』文理閣 、2009(平成21)年7月15日。ISBN 978-4-89259-591-2。
脚注
下位記事 この記事に属する個別の出来事や下位の話題を、別の記事として作成できます。
+ 下位記事を作成 過去30日の閲覧 0回