百日天下 — OpenHistory出来事政治・外交
百日天下
- フランス帝国
- Empire français (フランス語)
-
- 国歌: Chant du Départ(フランス語)門出の歌
- 百日天下は、ひとたびヨーロッパ諸国との戦争に敗れてフランス皇帝から退位したナポレオン1世が、1815年3月1日に帰国して帝位を取り戻し大陸軍(グランダルメ)を再建した後に、ワーテルロー会戦に敗れて再びその地位を追われるまでの、およそ100日間の一時的支配のことを言う。 またこの故事が転じて、百日天下は短期間の政権の喩えとしても使われる。
開始~終了 1815年3月20日 ~ 1815年7月8日最終更新 2026/10/16 14:59
基本情報
- 開始 ~ 終了
- 1815年3月20日 ~ 1815年7月8日
- メロヴィング朝
- 481–751
- カロリング朝
- 751–987
- カペー朝
- 987–1328
- ヴァロワ朝
- 1328–1498
- ヴァロワ=オルレアン朝
- 1498–1515
- ヴァロワ=アングレーム朝
- 1515–1589
- ブルボン朝
- 1589–1792
- フランス革命
- 1789
- 立憲王政
- 1791–1792
- 第一共和政
- 1792–1804
- • 国民公会
- 1792–1795
- • 総裁政府
- 1795–1799
- • 統領政府
- 1799–1804
- 第一帝政
- 1804–1814/1815
- • 百日天下
- 1815
- 復古王政
- 1814–1830
- 七月革命
- 1830
- 七月王政
- 1830–1848
- 二月革命
- 1848
- 第二共和政
- 1848–1852
- 第二帝政
- 1852–1870
- 第三共和政
- 1870–1940
- パリ・コミューン
- 1871
- ナチス・ドイツの侵攻ナチス・ドイツの占領ヴィシー政権自由フランスパリの解放
- 1940–1944
- 共和国臨時政府
- 1944–1946
- 第四共和政
- 1946–1958
- 第五共和政
- 1958–現在
目次
- 1.経過
- 2.白色テロ
- 3.ナポリ王ミュラの独断
- 4.参考文献
- 5.脚注
フランス帝国
Empire français (フランス語)
国歌: Chant du Départ(フランス語)
門出の歌
百日天下(ひゃくにちてんか、フランス語: Cent-Jours, 英語: Hundred Days)は、ひとたびヨーロッパ諸国との戦争に敗れてフランス皇帝から退位したナポレオン1世が、1815年3月1日に帰国して帝位を取り戻し大陸軍(グランダルメ)を再建した後に、ワーテルロー会戦に敗れて再びその地位を追われるまでの、およそ100日間12の一時的支配のことを言う。
またこの故事が転じて、百日天下は短期間の政権の喩えとしても使われる1。
経過
1814年、ナポレオンは第六次対仏大同盟諸国との戦争に敗れ、フォンテーヌブロー条約を結んで、フランスの帝位を追われてエルバ島へ引退することになった。戦勝各国はウィーン会議を開催して戦後体制について検討したが、利害が絡んで遅々として進展しなかった3。フランスではルイ18世が即位してブルボン王朝による王政復古がなされたが、その政治は国民の不満を買っていた。
こうした状況の隙を突いて、1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島をブリッグInconstantで脱出する。3月1日にとの間にある近郊に上陸した。王党派の強いを避けて地方をへ向けて進軍した。ナポレオンはルイ18世が差し向けた討伐軍の前に立ちふさがり、「兵士諸君!諸君らの皇帝はここにいる!さあ撃て!」と叫んだという。の連隊もナポレオンを出迎えた。ナポレオンを鉄の檻に入れて連れて帰ると豪語したも帰順するなど討伐軍は寝返り、を除いてさしたる抵抗もないまま、ルイ18世は逃亡。3月20日、ナポレオンはパリに入城し、再び帝位に就いた。
最終更新 2026/10/16 14:59 · r268965 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。
4月22日、ナポレオンは民衆の選べる議員数を300名から629名に増やし、過半数とするなど憲法を修正し6、6月1日に帝国憲法付加法を成立させて、名目上の自由帝政を開始したが、これは彼の支配体制が脆弱になって自由主義者の協力を必要としたからに他ならなかった。
5月9日、ルイ18世と王党派に対して、国家反逆者としての処分を定めた法が制定された8。
6月22日、ナポレオンは再び退位した。ナポレオンはイギリスに保護を求めるが、イギリス本土への上陸を拒否され、7月31日にセントヘレナ島へ幽閉とされた1011。フランスではナポレオンによって後継者に指名された長男がナポレオン2世として形式的に皇帝に即位したが、7月7日に退位をせまられ、ここにフランス第一帝政は崩壊した。
7月5日、議会は新たな人権宣言を制定し、7月7日、新憲法の条文を採決した。8月15日、議会選挙が行われ、極右王党派が過半数を占めた11。
白色テロ
フランスではルイ18世が王位に復帰したが、百日天下を経たことで王党派とボナパルティストとの溝がいっそう深まり、その後3年にわたる白色テロを引き起こすことになった。白色テロは、当初は戦争犯罪を問うものであったが、次第に逸脱していき、反勢力への弾圧へと移行していった。こうした白色テロを陰で扇動したのは、王弟アルトワ伯とルイ16世の王女マリー・テレーズであったと言われている。
6月28日、ルイ18世は、カンブレーの宣言を発し、自ら進んで簒奪者であるナポレオンに仕えた人物以外への大赦を行った12。
次に、王党派は即決裁判所を設置して追及の手を広げた。これにより断罪されたボナパルティストは九千名にのぼり、うち3分の1が死刑とされた。さらに、当局が黙認したことで、無頼の徒によるボナパルティストへのリンチが半公然と行われた。当局がこれらの弾圧に歯止めをかけたのは、1818年になってからだった。こうした行き過ぎは、後の七月革命(1830年)の遠因ともなった。
ナポリ王ミュラの独断
ナポレオンの義弟であるジョアシャン・ミュラは、ナポレオンに王位を召し上げられることを恐れ、3月29日、オーストリアに宣戦布告し、4月4日、モデナを占領し、フィレンツェへ進軍した。しかし、4月9日、オーストリア軍の反撃に遭い、アンコーナまで退却、5月3日、トレンティーノで敗北し、5月21日、フランスへ亡命するため船出したが15、ナポレオンは彼に会うことを拒絶した。コルシカ島で600人を集め、イタリア征服を目指したが、ピッツォで捕らえられ、10月13日銃殺された16。
参考文献
脚注
フランス帝国
Empire français (フランス語)
国歌: Chant du Départ(フランス語)
門出の歌
百日天下(ひゃくにちてんか、フランス語: Cent-Jours, 英語: Hundred Days)は、ひとたびヨーロッパ諸国との戦争に敗れてフランス皇帝から退位したナポレオン1世が、1815年3月1日に帰国して帝位を取り戻し大陸軍(グランダルメ)を再建した後に、ワーテルロー会戦に敗れて再びその地位を追われるまでの、およそ100日間12の一時的支配のことを言う。
またこの故事が転じて、百日天下は短期間の政権の喩えとしても使われる1。
経過
1814年、ナポレオンは第六次対仏大同盟諸国との戦争に敗れ、フォンテーヌブロー条約を結んで、フランスの帝位を追われてエルバ島へ引退することになった。戦勝各国はウィーン会議を開催して戦後体制について検討したが、利害が絡んで遅々として進展しなかった3。フランスではルイ18世が即位してブルボン王朝による王政復古がなされたが、その政治は国民の不満を買っていた。
こうした状況の隙を突いて、1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島をブリッグで脱出する。3月1日にとの間にある近郊に上陸した。王党派の強いを避けて地方をへ向けて進軍した。ナポレオンはルイ18世が差し向けた討伐軍の前に立ちふさがり、「兵士諸君!諸君らの皇帝はここにいる!さあ撃て!」と叫んだという。の連隊もナポレオンを出迎えた。ナポレオンを鉄の檻に入れて連れて帰ると豪語したも帰順するなど討伐軍は寝返り、を除いてさしたる抵抗もないまま、ルイ18世は逃亡。3月20日、ナポレオンはパリに入城し、再び帝位に就いた。
4月22日、ナポレオンは民衆の選べる議員数を300名から629名に増やし、過半数とするなど憲法を修正し6、6月1日に帝国憲法付加法を成立させて、名目上の自由帝政を開始したが、これは彼の支配体制が脆弱になって自由主義者の協力を必要としたからに他ならなかった。
5月9日、ルイ18世と王党派に対して、国家反逆者としての処分を定めた法が制定された8。
6月22日、ナポレオンは再び退位した。ナポレオンはイギリスに保護を求めるが、イギリス本土への上陸を拒否され、7月31日にセントヘレナ島へ幽閉とされた1011。フランスではナポレオンによって後継者に指名された長男がナポレオン2世として形式的に皇帝に即位したが、7月7日に退位をせまられ、ここにフランス第一帝政は崩壊した。
7月5日、議会は新たな人権宣言を制定し、7月7日、新憲法の条文を採決した。8月15日、議会選挙が行われ、極右王党派が過半数を占めた11。
白色テロ
フランスではルイ18世が王位に復帰したが、百日天下を経たことで王党派とボナパルティストとの溝がいっそう深まり、その後3年にわたる白色テロを引き起こすことになった。白色テロは、当初は戦争犯罪を問うものであったが、次第に逸脱していき、反勢力への弾圧へと移行していった。こうした白色テロを陰で扇動したのは、王弟アルトワ伯とルイ16世の王女マリー・テレーズであったと言われている。
6月28日、ルイ18世は、カンブレーの宣言を発し、自ら進んで簒奪者であるナポレオンに仕えた人物以外への大赦を行った12。
次に、王党派は即決裁判所を設置して追及の手を広げた。これにより断罪されたボナパルティストは九千名にのぼり、うち3分の1が死刑とされた。さらに、当局が黙認したことで、無頼の徒によるボナパルティストへのリンチが半公然と行われた。当局がこれらの弾圧に歯止めをかけたのは、1818年になってからだった。こうした行き過ぎは、後の七月革命(1830年)の遠因ともなった。
ナポリ王ミュラの独断
ナポレオンの義弟であるジョアシャン・ミュラは、ナポレオンに王位を召し上げられることを恐れ、3月29日、オーストリアに宣戦布告し、4月4日、モデナを占領し、フィレンツェへ進軍した。しかし、4月9日、オーストリア軍の反撃に遭い、アンコーナまで退却、5月3日、トレンティーノで敗北し、5月21日、フランスへ亡命するため船出したが15、ナポレオンは彼に会うことを拒絶した。コルシカ島で600人を集め、イタリア征服を目指したが、ピッツォで捕らえられ、10月13日銃殺された16。
参考文献
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