教皇領 — OpenHistory
グレゴリウス1世による司教座支配 5世紀前半には、教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及んだ2 。ところが東ローマ帝国 に結びついたことで、東方の神学論争が西方に持ち込まれた。神学論争に介入する皇帝の姿勢は不満の種となり、北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示し、ガリア とイベリア半島 でも分離傾向が見られた。イタリア半島にランゴバルド族 が侵入すると、グレゴリウス1世 はフランク王国 と友好的な関係を結んだ。分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり、上層階級には司教座を熱望する動きがあった3 4 。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった3 。
グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島 への伝道を組織した。このアングロ・サクソン人 への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教 区が設けられ布教の拠点となった。これ以降、ブリテン島は北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となった。たとえばカール大帝 の時代には、アングロ・サクソン人の伝道者たちが大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派 の牙城であった西ゴート王国 のカトリックへの改宗に成功した。
成立
ピピンの寄進 ランゴバルド王国を牽制したかった教皇ザカリアス は、751年に名目だけの王と成り下がっていたフランク王国 (メロヴィング朝 )のキルデリク3世 を廃し、カロリング家のピピン3世 の王位簒奪を支持してカロリング朝が創設された。本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、翌752年にこの国王ピピン3世がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進 してからである。この時期、ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナ を征服してローマ教皇に献じ(ピピンの寄進 )、教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。カトリック教会 の中心であるローマ教皇庁が領土をもったことは、精神的な存在であるはずの教会の世俗化につながった。
続く教皇ステファヌス2世 は、ガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入する約束と引き替えに、ピピン3世の息子カール とカールマン に塗油の秘蹟を施した。
カール大帝の寄進とフランク・ローマ皇帝 800年、教皇レオ3世 はカール1世をローマに招き、カールにローマ皇帝 の冠を授けて「西ローマ皇帝」の地位を与えた。この場合の「西ローマ」は、イタリア半島と西ヨーロッパ内陸部、ガリアとゲルマニア(理念上はヒスパニアとブリタニアも含む)を指す領域的な用語で、かつての東西分裂時代の西ローマ帝国 とは基本的に異なり、その支配者に注目すれば「カロリング帝国」もしくは「フランク帝国」となる。こうして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった。欧州の大実力者フランク王国とローマ教皇が提携することによって、東方教会 と東ローマ帝国やイスラム帝国 に対抗できる体制が整った。
教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝 が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。
神聖ローマ帝国の誕生 教皇ヨハネス12世 は、教皇領拡大政策で周辺国と争いが絶えなかったが、東フランク王国の国王オットー1世に救援を要請し窮地を脱した。962年、ヨハネス12世はオットー1世 にローマ皇帝の帝冠を与え(神聖ローマ帝国 )、この見返りとしてオットー大帝は教皇領を保障した。
教皇派と皇帝派
アヴィニョン捕囚と教会大分裂 しかし、教皇のアヴィニョン捕囚 (1309年 - 1377年)が起こると、教皇による教皇領への支配が弱まり、各地を支配する代官が僭主 (シニョリーア )として独立君主のように振舞うようになった。
イタリア戦争
三十年戦争
パリ外国宣教会創設とアジア布教
フランス革命およびナポレオン時代 フランス革命 は、カトリック教会全般にとってと同様、教皇座の現世の領域にとって悲惨な状況をもたらした。1791年に、コンタ・ヴネサンおよびアヴィニョン がフランスによって併合された。その後1796年、ナポレオン・ボナパルト を司令官とするフランス軍のイタリア侵略により、教皇領公国は併呑されチザルピーナ共和国 の一部となった。2年後の1798年、教皇領全体がローマ共和国 の樹立を宣言したフランス軍によって侵略された。教皇ピウス6世 は1799年にフランスで幽閉中に没した。教皇領は1800年6月に復活し、教皇ピウス7世 が戻った。しかし1808年に再度フランスが侵略し、この時には教皇領の残りがフランス領に併合され、ティブル県およびトラジメーヌ県とされた。1814年にナポレオン体制が倒れたことにより、教皇領はウィーン会議 で復活した。
国民国家イタリアの勃興と教皇領の終焉 1866年、プロイセン・オーストリア戦争 で、イタリアはプロイセンと同盟を結んで参戦するが、イタリア軍は指揮官の党派的反目で機動的作戦が妨げられ、敗戦を重ねた11 。プロイセンはイタリアに無通告でオーストリアと休戦し、イタリアは国民的恥辱のうちにあったが、ヴェネト州 を回収できた11 。
1867年フランス軍がローマを撤退する13 と、反教皇派のガリバルディがローマ占領を試みるが、再派遣されたフランス軍によって撃破され、その後もフランス軍はローマに駐留した11 。
1870年9月、プロイセン=フランス戦争 のセダンの戦い でフランスが降伏すると、イタリア王国 は共和主義者マッツィーニ派 によるローマ奪回に先んじて、イタリア軍は9月19日に簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した14 。教皇は教皇の世俗権力の廃棄に関与するすべてのものを破門 にすると宣告したが、10月2日の住民投票では、ローマのイタリア王国への併合が圧倒的に賛成され、可決した14 。翌1871年5月、イタリア王国は教皇保障法 (Legge delle Guarentigie) を制定し、教皇は反対したが、政府は一方的に成立させ、イタリア統一を完成させた14 。これにより、教皇領は完全に消滅した。1871年には、イタリアの首都がローマに移された。
影響
参考文献
尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年。
H・I・マルー 『教父時代』2、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 168 . キリスト教史〉、1996年。
M・D・ノウルズ 『中世キリスト教の成立』3、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 174 . キリスト教史〉、1996年。
William, Barry (1902). The Papal Monarchy from St. Gregory the Great to Boniface VIII. T. Fisher Unwin.
森田鉄郎 著「第1編 イタリア史」、井上幸治 編『南欧史』山川出版社 〈世界各国史5〉、1957年3月。
脚注
2.
影響
教皇領
Status Ecclesiasticus (ラテン語 )
国歌 : Marcia trionfale
大凱旋行進曲
教皇領の位置(1789年)
教皇領 (きょうこうりょう、ラテン語 : Status Pontificius, イタリア語 : Stato Pontificio)は、ローマ教皇 あるいはローマ教皇庁 の支配していた領土である。歴史的には国家 としての体裁も持ったため、教皇国 、教皇国家 とも呼ばれる。
歴史
前史
教皇権の成立
教皇国家 あるいは教皇領と呼ばれる、教皇の世俗支配の形成過程を概観する。ローマ司教の優位性は、イエス の言葉に求められた。イエスはペテロ に向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた。「『わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』」1 。
教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世 で、455年にヴァンダル族 がローマを攻撃したときに、その王ガイセリック と交渉してローマの略奪を防いだ。この頃から「教皇 (パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念が、ヨーロッパ世界に定着していった。
4世紀の教皇シリキウス はテサロニカ 主教を教皇代理に任命して、ダキア とマケドニア への指導権を獲得し、ボニファティウス1世 は改めてこれを皇帝 に認めさせた。
グレゴリウス1世による司教座支配 5世紀前半には、教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及んだ2 。ところが東ローマ帝国 に結びついたことで、東方の神学論争が西方に持ち込まれた。神学論争に介入する皇帝の姿勢は不満の種となり、北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示し、ガリア とイベリア半島 でも分離傾向が見られた。イタリア半島にランゴバルド族 が侵入すると、グレゴリウス1世 はフランク王国 と友好的な関係を結んだ。分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり、上層階級には司教座を熱望する動きがあった3 4 。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった3 。
グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島 への伝道を組織した。このアングロ・サクソン人 への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教 区が設けられ布教の拠点となった。これ以降、ブリテン島は北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となった。たとえばカール大帝 の時代には、アングロ・サクソン人の伝道者たちが大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派 の牙城であった西ゴート王国 のカトリックへの改宗に成功した。
成立
ピピンの寄進 ランゴバルド王国を牽制したかった教皇ザカリアス は、751年に名目だけの王と成り下がっていたフランク王国 (メロヴィング朝 )のキルデリク3世 を廃し、カロリング家のピピン3世 の王位簒奪を支持してカロリング朝が創設された。本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、翌752年にこの国王ピピン3世がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進 してからである。この時期、ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナ を征服してローマ教皇に献じ(ピピンの寄進 )、教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。カトリック教会 の中心であるローマ教皇庁が領土をもったことは、精神的な存在であるはずの教会の世俗化につながった。
続く教皇ステファヌス2世 は、ガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入する約束と引き替えに、ピピン3世の息子カール とカールマン に塗油の秘蹟を施した。
カール大帝の寄進とフランク・ローマ皇帝 800年、教皇レオ3世 はカール1世をローマに招き、カールにローマ皇帝 の冠を授けて「西ローマ皇帝」の地位を与えた。この場合の「西ローマ」は、イタリア半島と西ヨーロッパ内陸部、ガリアとゲルマニア(理念上はヒスパニアとブリタニアも含む)を指す領域的な用語で、かつての東西分裂時代の西ローマ帝国 とは基本的に異なり、その支配者に注目すれば「カロリング帝国」もしくは「フランク帝国」となる。こうして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった。欧州の大実力者フランク王国とローマ教皇が提携することによって、東方教会 と東ローマ帝国やイスラム帝国 に対抗できる体制が整った。
教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝 が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。
神聖ローマ帝国の誕生 教皇ヨハネス12世 は、教皇領拡大政策で周辺国と争いが絶えなかったが、東フランク王国の国王オットー1世に救援を要請し窮地を脱した。962年、ヨハネス12世はオットー1世 にローマ皇帝の帝冠を与え(神聖ローマ帝国 )、この見返りとしてオットー大帝は教皇領を保障した。
教皇派と皇帝派
アヴィニョン捕囚と教会大分裂 しかし、教皇のアヴィニョン捕囚 (1309年 - 1377年)が起こると、教皇による教皇領への支配が弱まり、各地を支配する代官が僭主 (シニョリーア )として独立君主のように振舞うようになった。
イタリア戦争
三十年戦争
パリ外国宣教会創設とアジア布教
フランス革命およびナポレオン時代 フランス革命 は、カトリック教会全般にとってと同様、教皇座の現世の領域にとって悲惨な状況をもたらした。1791年に、コンタ・ヴネサンおよびアヴィニョン がフランスによって併合された。その後1796年、ナポレオン・ボナパルト を司令官とするフランス軍のイタリア侵略により、教皇領公国は併呑されチザルピーナ共和国 の一部となった。2年後の1798年、教皇領全体がローマ共和国 の樹立を宣言したフランス軍によって侵略された。教皇ピウス6世 は1799年にフランスで幽閉中に没した。教皇領は1800年6月に復活し、教皇ピウス7世 が戻った。しかし1808年に再度フランスが侵略し、この時には教皇領の残りがフランス領に併合され、ティブル県およびトラジメーヌ県とされた。1814年にナポレオン体制が倒れたことにより、教皇領はウィーン会議 で復活した。
国民国家イタリアの勃興と教皇領の終焉 1866年、プロイセン・オーストリア戦争 で、イタリアはプロイセンと同盟を結んで参戦するが、イタリア軍は指揮官の党派的反目で機動的作戦が妨げられ、敗戦を重ねた11 。プロイセンはイタリアに無通告でオーストリアと休戦し、イタリアは国民的恥辱のうちにあったが、ヴェネト州 を回収できた11 。
1867年フランス軍がローマを撤退する13 と、反教皇派のガリバルディがローマ占領を試みるが、再派遣されたフランス軍によって撃破され、その後もフランス軍はローマに駐留した11 。
1870年9月、プロイセン=フランス戦争 のセダンの戦い でフランスが降伏すると、イタリア王国 は共和主義者マッツィーニ派 によるローマ奪回に先んじて、イタリア軍は9月19日に簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した14 。教皇は教皇の世俗権力の廃棄に関与するすべてのものを破門 にすると宣告したが、10月2日の住民投票では、ローマのイタリア王国への併合が圧倒的に賛成され、可決した14 。翌1871年5月、イタリア王国は教皇保障法 (Legge delle Guarentigie) を制定し、教皇は反対したが、政府は一方的に成立させ、イタリア統一を完成させた14 。これにより、教皇領は完全に消滅した。1871年には、イタリアの首都がローマに移された。
影響
参考文献
尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年。
H・I・マルー 『教父時代』2、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 168 . キリスト教史〉、1996年。
M・D・ノウルズ 『中世キリスト教の成立』3、上智大学中世思想研究所訳、平凡社〈平凡社ライブラリー, 174 . キリスト教史〉、1996年。
William, Barry (1902). The Papal Monarchy from St. Gregory the Great to Boniface VIII. T. Fisher Unwin.
森田鉄郎 著「第1編 イタリア史」、井上幸治 編『南欧史』山川出版社 〈世界各国史5〉、1957年3月。
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