オスマン帝国 — OpenHistory
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オスマン帝国 - オスマン帝国
- دولت عليه عثمانیه (オスマン語)
-
- 国の標語: دولت ابد مدت(オスマン語)永遠の国家
- 国歌: オスマン帝国の国歌
- オスマン帝国の最大版図(1683年)
-
- オスマン帝国は、かつて存在したテュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の皇帝を戴く多民族帝国である。英語圏ではオットマン帝国 と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都とした。17世紀の最大版図は中東からアフリカ・ヨーロッパに著しく拡大した。東
建国~滅亡 1302年7月27日 ~ 1922年11月17日 最終更新 2026/10/16 15:01
基本情報
建国 ~ 滅亡 1302年7月27日 ~ 1922年11月17日
トロイ 3000-700 BC
ハッティ人 2500-2000 BC
アッカド帝国 2400-2150 BC
ルウィ語 2300-1400 BC
アッシリア 1950-1750 BC
アカイア人 1700-1300 BC
キッズワトナ 1650-1450 BC
ヒッタイト 1680-1220 BC
アルザワ(英語版) 1500-1320 BC
ミタンニ 1500-1300 BC
アッジ(ハヤサ)(英語版) 1500-1290 BC
リュキア 1450-300 BC
アスワ同盟(英語版) 1300-1250 BC
ディアオキ(英語版) 1200-800 BC
シロ・ヒッタイト国家群(英語版) 1200-800 BC
フリギア 1200-700 BC
カリア 1150-547 BC
ヘクサポリス(英語版) 1100-560 BC
アイオリス 1000-560 BC
テュアナ 1000-700 BC
イオニア 1000-545 BC
ウラルトゥ 859-595/85 BC
ディアオキ(英語版) 1200-800 BC
シロ・ヒッタイト国家群(英語版) 1200-800 BC
フリギア 1200-700 BC
カリア 1150-547 BC
ヘクサポリス(英語版) 1100-560 BC
アイオリス 1000-560 BC
テュアナ 1000-700 BC
イオニア 1000-545 BC
ウラルトゥ 859-595/85 BC
メディア王国 678-549 BC
リュディア 685-547 BC
アケメネス朝 559-331 BC
アレクサンドロス大王 334-301 BC
カッパドキア 322-130 BC
アンティゴノス朝 306-168 BC
セレウコス朝 305-64 BC
プトレマイオス朝 305-30 BC
ポントス 302-64 BC
ビテュニア 297-74 BC
アッタロス朝ペルガモン 282-129 BC
ガラティア 281-64 BC
パルティア 247 BC-224 AD
アルメニア王国 190 BC-428 AD
共和政ローマ 133-27 BC
コンマゲネ王国 163 BC-72 AD
ローマ帝国 27 BC-330 AD
サーサーン朝 224-651 AD
東ローマ帝国 330–1453
正統カリフ時代 637–656
セルジューク朝 1037–1194
ダニシュメンド朝 1071–1178
ルーム・セルジューク朝 1077–1307
キリキア・アルメニア王国 1078–1375
ベイリク 1081-1423
エデッサ伯国 1098–1150
アルトゥク朝 1101–1409
トレビゾンド帝国 1204–1461
ニカイア帝国 1204–1261
位置 41.0000, 29.0000 大きな地図で同時代を見る → 目次 1. 概要 2. 国名 3. 歴史 3.1. 建国期 3.2. ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代 3.3. 失地回復の時代 3.4. 版図拡大の時代 3.5. オスマン帝国の最盛期 3.6. 帝国支配の混乱 3.7. オスマン文化の繁栄期 3.8. 帝国の衰退と近代化の試み 3.9. 世界大戦から滅亡への道 4. 制度 4.1. 軍制 4.2. 最終更新 2026/10/16 15:01 · r272262 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。
建国 ~ 滅亡 1302年7月27日 ~ 1922年11月17日
トロイ 3000-700 BC
ハッティ人 2500-2000 BC
アッカド帝国 2400-2150 BC
ルウィ語 2300-1400 BC
アッシリア 1950-1750 BC
アカイア人 1700-1300 BC
キッズワトナ 1650-1450 BC
ヒッタイト 1680-1220 BC
アルザワ(英語版) 1500-1320 BC
ミタンニ 1500-1300 BC
アッジ(ハヤサ)(英語版) 1500-1290 BC
リュキア 1450-300 BC
アスワ同盟(英語版) 1300-1250 BC
ディアオキ(英語版) 1200-800 BC
シロ・ヒッタイト国家群(英語版) 1200-800 BC
フリギア 1200-700 BC
カリア 1150-547 BC
ヘクサポリス(英語版) 1100-560 BC
アイオリス 1000-560 BC
テュアナ 1000-700 BC
イオニア 1000-545 BC
ウラルトゥ 859-595/85 BC
ディアオキ(英語版) 1200-800 BC
シロ・ヒッタイト国家群(英語版) 1200-800 BC
フリギア 1200-700 BC
カリア 1150-547 BC
ヘクサポリス(英語版) 1100-560 BC
アイオリス 1000-560 BC
テュアナ 1000-700 BC
イオニア 1000-545 BC
ウラルトゥ 859-595/85 BC
メディア王国 678-549 BC
リュディア 685-547 BC
アケメネス朝 559-331 BC
アレクサンドロス大王 334-301 BC
カッパドキア 322-130 BC
アンティゴノス朝 306-168 BC
セレウコス朝 305-64 BC
プトレマイオス朝 305-30 BC
ポントス 302-64 BC
ビテュニア 297-74 BC
アッタロス朝ペルガモン 282-129 BC
ガラティア 281-64 BC
パルティア 247 BC-224 AD
アルメニア王国 190 BC-428 AD
共和政ローマ 133-27 BC
コンマゲネ王国 163 BC-72 AD
ローマ帝国 27 BC-330 AD
サーサーン朝 224-651 AD
東ローマ帝国 330–1453
正統カリフ時代 637–656
セルジューク朝 1037–1194
ダニシュメンド朝 1071–1178
ルーム・セルジューク朝 1077–1307
キリキア・アルメニア王国 1078–1375
ベイリク 1081-1423
エデッサ伯国 1098–1150
アルトゥク朝 1101–1409
トレビゾンド帝国 1204–1461
ニカイア帝国 1204–1261
位置 41.0000, 29.0000 大きな地図で同時代を見る → オスマン帝国の統治システム
概要 その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革 にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国 のカール5世 が持っていた西欧の統一とカトリック 的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制 から絶対王政 へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた1 。ピョートル1世 がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝 を支援して前線を南下させた。
19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局 が設置された世紀末から、ドイツ帝国 が最後まで残っていた領土のアナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国 として第一次世界大戦 に参戦したが、敗れた。敗戦後の講和条約のセーブル条約 は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったため、同条約に反対する勢力がアンカラ に共和国政府 を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度 の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。その結果、アナトリアの国民国家 トルコ共和国 に取って代わられた(トルコ革命 )。
国名 英語でオスマン帝国を Ottoman Turks , Turkish Empire と呼んだことから、かつては「オスマントルコ 」、「トルコ帝国 」、「オスマントルコ帝国 」、「オスマン朝トルコ帝国 」とされることが多かったが、現在はオスマン帝国 あるいは単にオスマン朝 と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主 (パーディシャー 、スルタン )の出自はトルコ系 で宮廷の言語もオスマン語 と呼ばれるアラビア語 やペルシア語 の語彙を多く取り込んだトルコ語 ではあったが、支配階層には民族 ・宗教 の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家 とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さずに「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない2 3 。
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる Osmanlı İmparatorluğu や「オスマン国家」にあたる Osmanlı Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
歴史 歴代皇帝については**オスマン家 **を参照。オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世 がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制 が廃止されてメフメト6世 が廃位された1922年が滅亡年とされる。
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定していくことは難しい4 。
建国期 13世紀末に、東ローマ帝国 とルーム・セルジューク朝 の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジク にあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世 が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム (イスラム教徒)のガーズィー(ジハード に従事する戦士)が集団を形成したとされる説5 が欧州では一般的であるが、遊牧民 の集団であったとする説も根強く6 、未だに決着はされていない7 8 。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父エルトゥグルル の時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが7 、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒 やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する**オスマン君侯国 **を築き上げた9 10 11 。
ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代 オルハンの子ムラト1世 は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川 流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ )を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメ と呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリ を創設して国制を整えた5 19 。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った20 。
1393年にはタルノヴォ を占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープル を一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島 までがオスマン帝国の占領下となった29 。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった28 。
さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニア 、アルバニア まで侵略、ワラキア のミルチャ1世 はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王 ジギスムント を中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍 を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした28 30 。
失地回復の時代 バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった35 。このため、東ローマ帝国はテッサロニキ を回復、さらにアテネ公国 も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた36 。
バヤズィトの子メフメト1世 は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し33 34 、その子ムラト2世 は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナ を占領、1431年にはエペイロス 全土がオスマン支配下となった37 38 。
しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュ はオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグ が1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年のヴァルナの戦い 、1448年のコソヴォの戦い において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった38 。
それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴス は西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議 に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世パレオロゴス がギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡 のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが39 、メフメト1世と次代ムラト2世 の時代は失地回復に費やされることになった33 30 。
版図拡大の時代 陥落後、シャリーア に従うことを余儀なくされたコンスタンティノープルでは略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始44 、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた45 。
そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、レスボス (1462年)、サモス (1475年)、タソス 、レムノス 、プサラ (それぞれ1479年)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領17 、このため、黒海 北岸やエーゲ海 の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海 」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、白羊朝 の英主ウズン・ハサン が東部アナトリア、アゼルバイジャン を基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦い でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した46 。
メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世 (1481年 - 1512年)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった49 。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェム は、ロドス島 、フランス 、イタリア へ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである49 。
オスマン帝国の最盛期 スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ 、北アフリカ にまで広がった。
ペルシア湾・インド洋方面 ロバート・シャーリー に率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年のホルムズ占領 で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島 を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。
インドネシア方面
エジプト・シリア・アラビア半島方面 この反乱を受けたスレイマン1世 は大宰相 イブラヒム・パシャ を送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したハドゥム・スレイマン・パシャ はタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフ を設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした58 。
地中海・北アフリカ方面
対ロシア戦
ヨーロッパ方面(バルカン半島) 過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。 しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる64 。
オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍 により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦い において混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった65 。
15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。
オスマン家とハプスブルク家 の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランス のフランソワ1世 に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション (恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権 などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリス をはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉 の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約 として重くのしかかることになった。
軍事構造の転換 スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相 (首相 )が担うようになる。
オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある67 。
アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した68 。
オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲 での武装及び常備軍 の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵 であるイェニチェリを核とする常備軍 の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士 であるスィパーヒー 層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制 は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制 (イルティザーム制 )が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項 で後述する高度な官僚 機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
帝国支配の混乱 繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1578年にオスマン・サファヴィー戦争 が始まると、1579年にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャ がサファヴィー朝ペルシア の間者によって暗殺 されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸 産の銀 の流入による物価の高騰(価格革命 )69 や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった69 。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった69 。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した69 。
極端なインフレーション は流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった70 。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、1589年には、彼らの反乱が起こった70 。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった70 。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった70 。1608年を頂点に、ジェラーリーの反乱 は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった70 。
キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島 やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため71 、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
オスマン文化の繁栄期 やがて露土戦争 (1735年-1739年) が終結し、その講和条約である1739年のニシュ条約 とベオグラード条約 が締結されベオグラードを奪還。1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーン と呼ばれる地方名士が台頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、産業革命 の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世 時に与えたカピチュレーション を逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めることとなった。
帝国の衰退と近代化の試み 18世紀末に入ると、ロシア帝国 の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1768年に始まった露土戦争 で敗北すると、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約 によって黒海の北岸を喪失し、1787年からの露土戦争 にも再び敗れたことで、1792年のヤシ条約 ではロシアのクリミア半島 の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世 は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード 」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、逆に廃位に追い込まれてしまう。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を辿ることとなった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題 という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭における勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなってしまう。オスマン帝国はこのように帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世 はイェニチェリを廃止 して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成した。さらにはアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した73 。また1839年にアブデュルメジト1世 は改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャ の起草したギュルハネ勅令 を発布し、全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る**タンジマート **を始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった74 。
1853年にはロシアとの間でクリミア戦争 が起こるが、イギリスなどの加担によりきわどいながらも勝利を収めた。このときイギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は1856年に改革勅令 を発布し、非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した75 。こうして第二段階に入ったタンジマートでは宗教法(シャリーア )と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育 を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた76 。そして、カモンド家 の支配するオスマン銀行 も設立された。
改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款 を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したことで農業 のモノカルチャー 化を招き、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産するに至った77 。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャ のもとでオスマン帝国憲法 (通称ミドハト憲法 )を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家 であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた78 。
しかし憲法発布から間もない1878年、オスマン帝国はロシアとの露土戦争 に完敗。帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世 は、ロシアとはサン・ステファノ条約 を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した79 。これ以降、アブデュルハミト2世による専制政治の時代がはじまる。しかし一方ではオスマン債務管理局 などを通じて帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。
世界大戦から滅亡への道 アブデュルハミトが専制政治をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会 」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人 運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した80 。1891年には、時事新報 記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した81 。
1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ )の統一派を中心とするマケドニア 駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命 )。彼らは1909年に保守派の反革命運動を鎮圧したものの、積極的に政治の表舞台には立つことはなかった。しかしバルカン戦争中の1913年になると、ついに統一派はクーデターを起こして大宰相を暗殺し、中核指導者タラート・パシャ 、エンヴェル・パシャ らを指導者とする政権を確立した。バルカン戦争の敗北によってヨーロッパのオスマン領の大半が失われると、統一派政権は次第にムスリム・ナショナリズムに傾斜していった。またバルカン戦争より帝国では、経済におけるナショナリズム路線である「民族経済」政策が議論され始めた。第一次世界大戦の勃発後にはカピチュレーションの一方的な廃止が宣言されている82 。
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ 、ガリポリの戦い などいくつかの重要な防衛戦では勝利を収めたものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際にアルメニア人虐殺 が発生し、後継となるトルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾を続け、未解決の外交問題となっている。1918年10月30日ムドロス休戦協定 により帝国は降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領されるとともに、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった83 。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世 は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍 がイズミル に上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマル パシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、アンカラ にトルコ大国民議会 を組織して抵抗政府を結成したが84 、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた85 。
一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約 をメフメト6世と締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に割譲する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。この結果はトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約 )の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府 を招請した。1922年、ケマルはオスマン国家の二重政府の解消を名目としてパーディシャー (スルタン)とカリフ の分離とともに、**帝政の廃止 **を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタ へ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命 )86 。
翌1923年大国民議会は共和制 を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国 に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止 。オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した86 。
制度 オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。
20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主 がルーム(ローマ帝国 )のカイセル (皇帝 )と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教 の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義 の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は東ローマ帝国 の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている18 。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・中央集権 を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。
軍制 軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され87 、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らはカプクル (「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した88 。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ 制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリ は、火器を扱うことから軍事革命 の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍 に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。
オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた89 。
オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所はカラミュルセル であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった90 。
オスマン帝国の統治システム オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、ビレジク 、イェニシェヒル (ブルサ 近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まればベイ (君主)、もしくはベイレルベイ (ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下のララ・シャヒーン が任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた93 。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄するアナドル・ベイレルベイスィ 配下のアナドルのベイレルベイリク (大軍管区の意味)とルメリを管轄するルメリ・ベイレルベイスィ 配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった94 。
この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった95 。
ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下にはサンジャク (小軍管区)、サンジャク・ベイ (小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった96 94 。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する97 。
さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官(カーディー )らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた98 99 。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった100 。
当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、サラエヴォ を中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された99 。
さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した89 。
中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー )と、書記官僚(キャーティプ )の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリート は宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ (宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティー の公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル )であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム )である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官 を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧 を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣 を率いる首相 となった。
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家 としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。
『オスマン帝国の行政遺産および現代中東』を執筆したカーター・ヴォーン・フィンドリーによると、1800年代初頭、オスマン帝国は、自由主義という新たな世界秩序に適応するために、「タンジマート」の時期を迎えた。オスマン帝国の支配者は、広大な土地に散らばる臣民との関係を断ち切っていたため、あらゆる方面から様々な独立思想の影響を受けやすかったのである。このような時期の戦略的な変化の一つが、再び権力を集中化することであった。 さらにフィンドリーは、市場を独占していた国家主導の企業に対する自由貿易と、1838年のインフィタ時代に出された保護法との争いがあったことも指摘している。フィンドリーによると、オスマン帝国の支配階級には、軍、宗教、奉仕という3つの重要な機能的区分があった。軍は、軍事工学学校の設立、軍内の外交術の改革、さらに服務規定の改善により、文官としてのプロ意識が育まれた、1800年代のマフムト2世とアブデュルハミト2世の時代に最も強化された。文官支配は「1908年から1950年までトルコを支配し続けた」。フィンドリーはこの遺産を、タンジマート時代に促進されたインフィタ(開かれた貿易市場)時代に起因するとしている。このようなタンジマートの「後継者」または遺産が、「ホーラーニの自由主義時代、アラブの社会主義の一時的な流行、そして冷戦後の時代」を通じて存続した。また、19世紀には文官の雇用率が高まり、行政の質が低下して破産および対外債務につながったが、一方で、不規則な採用および昇進方法はスルターンが利用した利権の保護手段であった。1838年から1839年にかけてのタンジマート時代は、イスラム社会に対する急激な西洋化と批判され、近代主義を通してオスマン帝国によるイスラムの古い価値観の復活を望む国民主義的なオスマン帝国の人々が結集した
オスマン帝国の人々
宗教面 オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した101 。
そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数存在しており、その他、キリスト教諸教派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀にイベリア半島 でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した103 。
バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったがアドリア海 沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとセルボ・クロアチア語 を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた103 。
一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国はプロテスタント 、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったフス派 の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた104 。
こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた105 。
民族 オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。
オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している106 。
オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはアラビア語 を母語として自らをアラブ人 と認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうとベルベル語 を母語とするベルベル人 、そして北イラクから北シリアへ向かうとシリア語 を母語としてネストリウス派を奉じるアッシリア人 が少数であるが加わった。微妙な立場としてはコプト正教会 でありながらコプト語 を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト正教徒らが存在する107 。
また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のクルド人 らが存在しており、クルド語 を母語としていた108 。
元東ローマ帝国領であったアナトリア及びバルカン半島では、ギリシャ語を母語としてギリシャ正教 を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア使徒教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した108 。
バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた109 。
アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人もこれに加わることになる110 。
その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々はラディーノ語 、ハンガリー征服以後はイディッシュ語 をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそ違えどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた110 。
ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策 オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝 ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教 徒、アルメニア使徒教会 派、ギリシャ正教 徒らであった111 。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている112 。
このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ) の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた112 。
これらミッレト制はシャーリア 上のズィンミー 制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民 」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった113 。
このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ 」114 という面があったということを意味しており115 、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった116 。
ユダヤ教徒 ユダヤ人の宗派共同体は東ローマ帝国時代からすでに存在した。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、オーストリア 、ハンガリー 、ポーランド 、ボヘミア 、スペイン などからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハハム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した117 。
なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している118 。
アルメニア人 アルメニア人らは合性論 を教義とする非カルケドン派 が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によってカフカース からカッパドキア 、キリキア へ移住させられ、キリキア・アルメニア王国 (小アルメニア)を形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、モンゴル軍、ティムール帝国 などの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメト2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった119 。
ギリシャ正教徒 ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメト2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世 を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメト2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった120 。
なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた115 。
しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座 を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャン が帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャ の尽力によりセルビア総主教座 を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた121 。
イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山 の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた122 。
これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語 を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ122 、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした95 。
さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった123 。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法 が固有の法であった124 。
文化
建築
陶芸 オスマン帝国では15世紀末、イズニクにおいて飛躍的に陶芸が発達した。これをイズニク陶器 と呼ぶ。中国陶器の影響を受け、初期には青と白を基調にし、のちにイズニクならではと言われた赤色を使用したものが生まれた。これらの陶器は皿などの一般的なものだけではなく、モスクや宮殿も彩った。17世紀に入ると徐々にイズニクでの陶器製造は衰え、テクフール・サライやキュタヒヤが後を継いだがイズニクを越えることは叶わなかった125 。
しかし、イズニク陶器の影響はオスマン帝国属州に広がり、シリア、チュニジアなどで製造されたタイルにはその影響が強くみられる126 。
文学 オスマン帝国の宮廷では詩が特権的な立場を得ていた。スルタンの多くが詩作に耽り、また、プルサ、エディルネのような旧都や後に加わったバクダットなどでも作成され、宮廷詩人らはメドレセでアラビアやペルシアの文学を学んだ。その中でもバーキーやフズーリーなどの詩人が生まれた127 。
美術
音楽
科学と技術 オスマン帝国は、600年の歴史の中で科学技術 を大きく進歩させていた。その分野は数学 、天文学 、医学 など幅広く及んでおり、特に天文学は同帝国において非常に重要な分野に位置付けられていた。
パクス・オトマニカ 17世紀の1683年、皇帝メフメト4世 の治世の元、オスマン帝国は勢力的に最大版図を築いた。オスマン帝国の歴史学者らはこのオスマン帝国の最盛期や、その後の時代をパクス・オトマニカ と呼ぶ。
関連作品
文芸作品 ジェイソン・グッドウィン 『イスタンブールの毒蛇』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・ギリシャ独立戦争 をテーマにした小説
塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』・『ロードス島攻防記』・『レパントの海戦』、各・新潮文庫(改版)
陳舜臣 『イスタンブール 世界の都市の物語』 文藝春秋(1992年)、文春文庫(1998年)。「陳舜臣中国ライブラリー 26」で再刊(集英社, 2001年)
映画
テレビドラマ
漫画
参考文献
新井政美 『トルコ近現代史』 みすず書房 、2001年。 ISBN 9784622033882。
新井政美 『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社 、2009年、229-280頁。ISBN 9784791764907。
鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書、1992年。ISBN 4061490974。
鈴木董『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』筑摩書房 〈ちくま新書 〉、2000年。ISBN 4-480-05842-7。 - 講談社学術文庫 で再刊、2018年
テレーズ・ビダール、富樫瓔子訳 著、鈴木董監修 編『オスマン帝国の栄光』創元社「知の再発見」双書 、1996年。ISBN 4422211110。
林佳世子 『オスマン帝国の時代』山川出版社〈世界史リブレット19〉、1997年。ISBN 4-634-34190-5。
坂本勉 『トルコ民族主義』講談社現代新書 、1996年。ISBN 4061493272。
小松久男 著、小松久男 +梅村坦 +宇山智彦 +帯谷知可 +堀川徹 編『中央ユーラシアを知る事典 - 「トルコ」の章』平凡社、2005年。ISBN 4106003805。
ジョルジュ・カステラン、山口俊章訳『バルカン 歴史と現在』サイマル出版会、1994年。ISBN 4-377-11015-2。
那谷敏郎『三日月の世紀 「大航海時代 」のトルコ、イラン、インド』新潮選書 、1990年。ISBN 4106003805。
桜井万里子 編『ギリシア史』山川出版社、2005年。ISBN 4-634-41470-8。
佐藤次高編『世界各国史8西アジア史Iアラブ』山川出版社、2002年。ISBN 4-634-41380-9。
担当執筆者
「第5章 オスマン帝国治下のアラブ地域」 長谷部史彦 ・私市正年
永田雄三編『世界各国史9西アジア史IIイラン・トルコ』山川出版社、2002年。ISBN 4-634-41390-6。
担当執筆者
「第3章 トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」 井谷鋼造
「第5章 オスマン帝国の時代」 林佳世子
「第6章 オスマン帝国の改革」 永田雄三
矢田俊隆 編『世界各国史13 東欧史』山川出版社 、1977年。ISBN 4-634-41130-X。
三橋冨治男『オスマン=トルコ史論』吉川弘文館 〈ユーラシア文化史選書〉、1966年。
Karpat, Kemal. 1978. Ottoman Population Records and the Census of 1881/82-1893. International Journal of Middle Eastern Studies (9):237-274.
L. Kinross, The Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire, 1979
関連文献
新井政美 『オスマン vs. ヨーロッパ』 講談社選書メチエ、2002年
林佳世子 『オスマン帝国500年の平和』 講談社 〈興亡の世界史10〉、2008年/講談社学術文庫 、2016年
鈴木董 『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版会 、1993年
坂本勉 『トルコ民族の世界史』 慶應義塾大学出版会 、2006年
坂本勉・佐藤次高 ・鈴木董編 『パクス・イスラミカの世紀 新書イスラームの世界史2』 講談社現代新書(全3巻)、1993年
アラン・パーマー『オスマン帝国衰亡史』 白須英子 訳、中央公論社 、1998年
小笠原弘幸 『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』 中公新書、2018年
今井宏平 『トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 中公新書 、2017年
永田雄三 ・羽田正 『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社、1998年、中公文庫 、2008年
永田雄三・加藤博 『西アジア(下)』(地域からの世界史8)朝日新聞出版 、1993年
藤由順子 『ハプスブルク・オスマン両帝国の外交交渉 1908 – 1914』 南窓社、2003年
久保吉光 『ハンガリーからトルコへ その言語及び歴史、地理』 泰流社、1989年
ウルリッヒ・クレーファー 『オスマン・トルコ帝国』 戸叶勝也 訳、佑学社、1982年
ロベール・マントラン 『トルコ史』 小山皓一郎訳、(文庫クセジュ )白水社、1982年
三橋富治男 『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』 (清水新書)清水書院、1971年、新版1984年、再訂版2018年
三橋富治男 『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』 (紀伊国屋新書)紀伊国屋書店、1962年、復刻単行版1994年
スティーヴン・ランシマン 『コンスタンティノープル陥落す』 護雅夫 訳、みすず書房、1969年、新版1998年
デイヴィド・ホサム 『トルコ人』 護雅夫訳、みすず書房、1983年
脚注
世界大戦から滅亡への道
概要 その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革 にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国 のカール5世 が持っていた西欧の統一とカトリック 的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制 から絶対王政 へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた1 。ピョートル1世 がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝 を支援して前線を南下させた。
19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局 が設置された世紀末から、ドイツ帝国 が最後まで残っていた領土のアナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国 として第一次世界大戦 に参戦したが、敗れた。敗戦後の講和条約のセーブル条約 は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったため、同条約に反対する勢力がアンカラ に共和国政府 を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度 の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。その結果、アナトリアの国民国家 トルコ共和国 に取って代わられた(トルコ革命 )。
国名 英語でオスマン帝国を Ottoman Turks , Turkish Empire と呼んだことから、かつては「オスマントルコ 」、「トルコ帝国 」、「オスマントルコ帝国 」、「オスマン朝トルコ帝国 」とされることが多かったが、現在はオスマン帝国 あるいは単にオスマン朝 と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主 (パーディシャー 、スルタン )の出自はトルコ系 で宮廷の言語もオスマン語 と呼ばれるアラビア語 やペルシア語 の語彙を多く取り込んだトルコ語 ではあったが、支配階層には民族 ・宗教 の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家 とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さずに「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない2 3 。
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる Osmanlı İmparatorluğu や「オスマン国家」にあたる Osmanlı Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
歴史 歴代皇帝については**オスマン家 **を参照。オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世 がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制 が廃止されてメフメト6世 が廃位された1922年が滅亡年とされる。
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定していくことは難しい4 。
建国期 13世紀末に、東ローマ帝国 とルーム・セルジューク朝 の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジク にあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世 が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム (イスラム教徒)のガーズィー(ジハード に従事する戦士)が集団を形成したとされる説5 が欧州では一般的であるが、遊牧民 の集団であったとする説も根強く6 、未だに決着はされていない7 8 。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父エルトゥグルル の時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが7 、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒 やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する**オスマン君侯国 **を築き上げた9 10 11 。
ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代 オルハンの子ムラト1世 は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川 流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ )を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメ と呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリ を創設して国制を整えた5 19 。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った20 。
1393年にはタルノヴォ を占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープル を一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島 までがオスマン帝国の占領下となった29 。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった28 。
さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニア 、アルバニア まで侵略、ワラキア のミルチャ1世 はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王 ジギスムント を中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍 を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした28 30 。
失地回復の時代 バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった35 。このため、東ローマ帝国はテッサロニキ を回復、さらにアテネ公国 も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた36 。
バヤズィトの子メフメト1世 は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し33 34 、その子ムラト2世 は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナ を占領、1431年にはエペイロス 全土がオスマン支配下となった37 38 。
しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュ はオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグ が1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年のヴァルナの戦い 、1448年のコソヴォの戦い において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった38 。
それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴス は西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議 に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世パレオロゴス がギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡 のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが39 、メフメト1世と次代ムラト2世 の時代は失地回復に費やされることになった33 30 。
版図拡大の時代 陥落後、シャリーア に従うことを余儀なくされたコンスタンティノープルでは略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始44 、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた45 。
そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、レスボス (1462年)、サモス (1475年)、タソス 、レムノス 、プサラ (それぞれ1479年)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領17 、このため、黒海 北岸やエーゲ海 の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海 」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、白羊朝 の英主ウズン・ハサン が東部アナトリア、アゼルバイジャン を基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦い でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した46 。
メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世 (1481年 - 1512年)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった49 。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェム は、ロドス島 、フランス 、イタリア へ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである49 。
オスマン帝国の最盛期 スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ 、北アフリカ にまで広がった。
ペルシア湾・インド洋方面 ロバート・シャーリー に率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年のホルムズ占領 で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島 を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。
インドネシア方面
エジプト・シリア・アラビア半島方面 この反乱を受けたスレイマン1世 は大宰相 イブラヒム・パシャ を送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したハドゥム・スレイマン・パシャ はタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフ を設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした58 。
地中海・北アフリカ方面
対ロシア戦
ヨーロッパ方面(バルカン半島) 過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。 しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる64 。
オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍 により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦い において混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった65 。
15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。
オスマン家とハプスブルク家 の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランス のフランソワ1世 に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション (恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権 などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリス をはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉 の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約 として重くのしかかることになった。
軍事構造の転換 スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相 (首相 )が担うようになる。
オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある67 。
アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した68 。
オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲 での武装及び常備軍 の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵 であるイェニチェリを核とする常備軍 の重要性が増大した。しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士 であるスィパーヒー 層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制 は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制 (イルティザーム制 )が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項 で後述する高度な官僚 機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
帝国支配の混乱 繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1578年にオスマン・サファヴィー戦争 が始まると、1579年にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャ がサファヴィー朝ペルシア の間者によって暗殺 されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸 産の銀 の流入による物価の高騰(価格革命 )69 や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった69 。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった69 。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した69 。
極端なインフレーション は流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった70 。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、1589年には、彼らの反乱が起こった70 。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった70 。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった70 。1608年を頂点に、ジェラーリーの反乱 は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった70 。
キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島 やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため71 、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
オスマン文化の繁栄期 やがて露土戦争 (1735年-1739年) が終結し、その講和条約である1739年のニシュ条約 とベオグラード条約 が締結されベオグラードを奪還。1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーン と呼ばれる地方名士が台頭し、彼らの手に支えられることで緩やかな経済発展が進んでいた。しかし、産業革命 の波及により急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世 時に与えたカピチュレーション を逆に利用することで、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めることとなった。
帝国の衰退と近代化の試み 18世紀末に入ると、ロシア帝国 の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1768年に始まった露土戦争 で敗北すると、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約 によって黒海の北岸を喪失し、1787年からの露土戦争 にも再び敗れたことで、1792年のヤシ条約 ではロシアのクリミア半島 の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世 は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード 」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、逆に廃位に追い込まれてしまう。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を辿ることとなった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題 という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭における勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなってしまう。オスマン帝国はこのように帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世 はイェニチェリを廃止 して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成した。さらにはアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した73 。また1839年にアブデュルメジト1世 は改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャ の起草したギュルハネ勅令 を発布し、全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る**タンジマート **を始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった74 。
1853年にはロシアとの間でクリミア戦争 が起こるが、イギリスなどの加担によりきわどいながらも勝利を収めた。このときイギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は1856年に改革勅令 を発布し、非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した75 。こうして第二段階に入ったタンジマートでは宗教法(シャリーア )と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育 を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた76 。そして、カモンド家 の支配するオスマン銀行 も設立された。
改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款 を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したことで農業 のモノカルチャー 化を招き、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産するに至った77 。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャ のもとでオスマン帝国憲法 (通称ミドハト憲法 )を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家 であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた78 。
しかし憲法発布から間もない1878年、オスマン帝国はロシアとの露土戦争 に完敗。帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世 は、ロシアとはサン・ステファノ条約 を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した79 。これ以降、アブデュルハミト2世による専制政治の時代がはじまる。しかし一方ではオスマン債務管理局 などを通じて帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。
世界大戦から滅亡への道 アブデュルハミトが専制政治をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会 」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人 運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した80 。1891年には、時事新報 記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した81 。
1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ )の統一派を中心とするマケドニア 駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命 )。彼らは1909年に保守派の反革命運動を鎮圧したものの、積極的に政治の表舞台には立つことはなかった。しかしバルカン戦争中の1913年になると、ついに統一派はクーデターを起こして大宰相を暗殺し、中核指導者タラート・パシャ 、エンヴェル・パシャ らを指導者とする政権を確立した。バルカン戦争の敗北によってヨーロッパのオスマン領の大半が失われると、統一派政権は次第にムスリム・ナショナリズムに傾斜していった。またバルカン戦争より帝国では、経済におけるナショナリズム路線である「民族経済」政策が議論され始めた。第一次世界大戦の勃発後にはカピチュレーションの一方的な廃止が宣言されている82 。
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ 、ガリポリの戦い などいくつかの重要な防衛戦では勝利を収めたものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際にアルメニア人虐殺 が発生し、後継となるトルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾を続け、未解決の外交問題となっている。1918年10月30日ムドロス休戦協定 により帝国は降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領されるとともに、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった83 。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世 は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍 がイズミル に上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマル パシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、アンカラ にトルコ大国民議会 を組織して抵抗政府を結成したが84 、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた85 。
一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約 をメフメト6世と締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に割譲する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。この結果はトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約 )の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府 を招請した。1922年、ケマルはオスマン国家の二重政府の解消を名目としてパーディシャー (スルタン)とカリフ の分離とともに、**帝政の廃止 **を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタ へ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命 )86 。
翌1923年大国民議会は共和制 を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国 に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止 。オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した86 。
制度 オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。
20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主 がルーム(ローマ帝国 )のカイセル (皇帝 )と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教 の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義 の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は東ローマ帝国 の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった)
このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。
オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている18 。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・中央集権 を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。
軍制 軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され87 、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らはカプクル (「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した88 。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ 制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリ は、火器を扱うことから軍事革命 の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍 に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。
オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた89 。
オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所はカラミュルセル であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった90 。
オスマン帝国の統治システム オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、ビレジク 、イェニシェヒル (ブルサ 近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まればベイ (君主)、もしくはベイレルベイ (ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下のララ・シャヒーン が任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた93 。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄するアナドル・ベイレルベイスィ 配下のアナドルのベイレルベイリク (大軍管区の意味)とルメリを管轄するルメリ・ベイレルベイスィ 配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった94 。
この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった95 。
ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下にはサンジャク (小軍管区)、サンジャク・ベイ (小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった96 94 。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する97 。
さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官(カーディー )らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた98 99 。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった100 。
当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、サラエヴォ を中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された99 。
さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した89 。
中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー )と、書記官僚(キャーティプ )の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリート は宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ (宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティー の公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル )であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム )である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官 を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。
これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧 を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣 を率いる首相 となった。
しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家 としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。
『オスマン帝国の行政遺産および現代中東』を執筆したカーター・ヴォーン・フィンドリーによると、1800年代初頭、オスマン帝国は、自由主義という新たな世界秩序に適応するために、「タンジマート」の時期を迎えた。オスマン帝国の支配者は、広大な土地に散らばる臣民との関係を断ち切っていたため、あらゆる方面から様々な独立思想の影響を受けやすかったのである。このような時期の戦略的な変化の一つが、再び権力を集中化することであった。 さらにフィンドリーは、市場を独占していた国家主導の企業に対する自由貿易と、1838年のインフィタ時代に出された保護法との争いがあったことも指摘している。フィンドリーによると、オスマン帝国の支配階級には、軍、宗教、奉仕という3つの重要な機能的区分があった。軍は、軍事工学学校の設立、軍内の外交術の改革、さらに服務規定の改善により、文官としてのプロ意識が育まれた、1800年代のマフムト2世とアブデュルハミト2世の時代に最も強化された。文官支配は「1908年から1950年までトルコを支配し続けた」。フィンドリーはこの遺産を、タンジマート時代に促進されたインフィタ(開かれた貿易市場)時代に起因するとしている。このようなタンジマートの「後継者」または遺産が、「ホーラーニの自由主義時代、アラブの社会主義の一時的な流行、そして冷戦後の時代」を通じて存続した。また、19世紀には文官の雇用率が高まり、行政の質が低下して破産および対外債務につながったが、一方で、不規則な採用および昇進方法はスルターンが利用した利権の保護手段であった。1838年から1839年にかけてのタンジマート時代は、イスラム社会に対する急激な西洋化と批判され、近代主義を通してオスマン帝国によるイスラムの古い価値観の復活を望む国民主義的なオスマン帝国の人々が結集した
オスマン帝国の人々
宗教面 オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した101 。
そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数存在しており、その他、キリスト教諸教派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀にイベリア半島 でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した103 。
バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったがアドリア海 沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとセルボ・クロアチア語 を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた103 。
一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国はプロテスタント 、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったフス派 の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた104 。
こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた105 。
民族 オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。
オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している106 。
オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはアラビア語 を母語として自らをアラブ人 と認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうとベルベル語 を母語とするベルベル人 、そして北イラクから北シリアへ向かうとシリア語 を母語としてネストリウス派を奉じるアッシリア人 が少数であるが加わった。微妙な立場としてはコプト正教会 でありながらコプト語 を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト正教徒らが存在する107 。
また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のクルド人 らが存在しており、クルド語 を母語としていた108 。
元東ローマ帝国領であったアナトリア及びバルカン半島では、ギリシャ語を母語としてギリシャ正教 を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア使徒教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した108 。
バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた109 。
アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人もこれに加わることになる110 。
その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々はラディーノ語 、ハンガリー征服以後はイディッシュ語 をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそ違えどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた110 。
ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策 オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝 ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教 徒、アルメニア使徒教会 派、ギリシャ正教 徒らであった111 。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている112 。
このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ) の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた112 。
これらミッレト制はシャーリア 上のズィンミー 制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民 」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった113 。
このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ 」114 という面があったということを意味しており115 、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった116 。
ユダヤ教徒 ユダヤ人の宗派共同体は東ローマ帝国時代からすでに存在した。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、オーストリア 、ハンガリー 、ポーランド 、ボヘミア 、スペイン などからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハハム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した117 。
なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している118 。
アルメニア人 アルメニア人らは合性論 を教義とする非カルケドン派 が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によってカフカース からカッパドキア 、キリキア へ移住させられ、キリキア・アルメニア王国 (小アルメニア)を形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、モンゴル軍、ティムール帝国 などの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメト2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった119 。
ギリシャ正教徒 ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメト2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世 を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメト2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった120 。
なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた115 。
しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座 を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャン が帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャ の尽力によりセルビア総主教座 を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた121 。
イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山 の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた122 。
これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語 を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ122 、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした95 。
さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった123 。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法 が固有の法であった124 。
文化
建築
陶芸 オスマン帝国では15世紀末、イズニクにおいて飛躍的に陶芸が発達した。これをイズニク陶器 と呼ぶ。中国陶器の影響を受け、初期には青と白を基調にし、のちにイズニクならではと言われた赤色を使用したものが生まれた。これらの陶器は皿などの一般的なものだけではなく、モスクや宮殿も彩った。17世紀に入ると徐々にイズニクでの陶器製造は衰え、テクフール・サライやキュタヒヤが後を継いだがイズニクを越えることは叶わなかった125 。
しかし、イズニク陶器の影響はオスマン帝国属州に広がり、シリア、チュニジアなどで製造されたタイルにはその影響が強くみられる126 。
文学 オスマン帝国の宮廷では詩が特権的な立場を得ていた。スルタンの多くが詩作に耽り、また、プルサ、エディルネのような旧都や後に加わったバクダットなどでも作成され、宮廷詩人らはメドレセでアラビアやペルシアの文学を学んだ。その中でもバーキーやフズーリーなどの詩人が生まれた127 。
美術
音楽
科学と技術 オスマン帝国は、600年の歴史の中で科学技術 を大きく進歩させていた。その分野は数学 、天文学 、医学 など幅広く及んでおり、特に天文学は同帝国において非常に重要な分野に位置付けられていた。
パクス・オトマニカ 17世紀の1683年、皇帝メフメト4世 の治世の元、オスマン帝国は勢力的に最大版図を築いた。オスマン帝国の歴史学者らはこのオスマン帝国の最盛期や、その後の時代をパクス・オトマニカ と呼ぶ。
関連作品
文芸作品 ジェイソン・グッドウィン 『イスタンブールの毒蛇』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・ギリシャ独立戦争 をテーマにした小説
塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』・『ロードス島攻防記』・『レパントの海戦』、各・新潮文庫(改版)
陳舜臣 『イスタンブール 世界の都市の物語』 文藝春秋(1992年)、文春文庫(1998年)。「陳舜臣中国ライブラリー 26」で再刊(集英社, 2001年)
映画
テレビドラマ
漫画
参考文献
新井政美 『トルコ近現代史』 みすず書房 、2001年。 ISBN 9784622033882。
新井政美 『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社 、2009年、229-280頁。ISBN 9784791764907。
鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書、1992年。ISBN 4061490974。
鈴木董『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』筑摩書房 〈ちくま新書 〉、2000年。ISBN 4-480-05842-7。 - 講談社学術文庫 で再刊、2018年
テレーズ・ビダール、富樫瓔子訳 著、鈴木董監修 編『オスマン帝国の栄光』創元社「知の再発見」双書 、1996年。ISBN 4422211110。
林佳世子 『オスマン帝国の時代』山川出版社〈世界史リブレット19〉、1997年。ISBN 4-634-34190-5。
坂本勉 『トルコ民族主義』講談社現代新書 、1996年。ISBN 4061493272。
小松久男 著、小松久男 +梅村坦 +宇山智彦 +帯谷知可 +堀川徹 編『中央ユーラシアを知る事典 - 「トルコ」の章』平凡社、2005年。ISBN 4106003805。
ジョルジュ・カステラン、山口俊章訳『バルカン 歴史と現在』サイマル出版会、1994年。ISBN 4-377-11015-2。
那谷敏郎『三日月の世紀 「大航海時代 」のトルコ、イラン、インド』新潮選書 、1990年。ISBN 4106003805。
桜井万里子 編『ギリシア史』山川出版社、2005年。ISBN 4-634-41470-8。
佐藤次高編『世界各国史8西アジア史Iアラブ』山川出版社、2002年。ISBN 4-634-41380-9。
担当執筆者
「第5章 オスマン帝国治下のアラブ地域」 長谷部史彦 ・私市正年
永田雄三編『世界各国史9西アジア史IIイラン・トルコ』山川出版社、2002年。ISBN 4-634-41390-6。
担当執筆者
「第3章 トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」 井谷鋼造
「第5章 オスマン帝国の時代」 林佳世子
「第6章 オスマン帝国の改革」 永田雄三
矢田俊隆 編『世界各国史13 東欧史』山川出版社 、1977年。ISBN 4-634-41130-X。
三橋冨治男『オスマン=トルコ史論』吉川弘文館 〈ユーラシア文化史選書〉、1966年。
Karpat, Kemal. 1978. Ottoman Population Records and the Census of 1881/82-1893. International Journal of Middle Eastern Studies (9):237-274.
L. Kinross, The Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire, 1979
関連文献
新井政美 『オスマン vs. ヨーロッパ』 講談社選書メチエ、2002年
林佳世子 『オスマン帝国500年の平和』 講談社 〈興亡の世界史10〉、2008年/講談社学術文庫 、2016年
鈴木董 『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版会 、1993年
坂本勉 『トルコ民族の世界史』 慶應義塾大学出版会 、2006年
坂本勉・佐藤次高 ・鈴木董編 『パクス・イスラミカの世紀 新書イスラームの世界史2』 講談社現代新書(全3巻)、1993年
アラン・パーマー『オスマン帝国衰亡史』 白須英子 訳、中央公論社 、1998年
小笠原弘幸 『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』 中公新書、2018年
今井宏平 『トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 中公新書 、2017年
永田雄三 ・羽田正 『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社、1998年、中公文庫 、2008年
永田雄三・加藤博 『西アジア(下)』(地域からの世界史8)朝日新聞出版 、1993年
藤由順子 『ハプスブルク・オスマン両帝国の外交交渉 1908 – 1914』 南窓社、2003年
久保吉光 『ハンガリーからトルコへ その言語及び歴史、地理』 泰流社、1989年
ウルリッヒ・クレーファー 『オスマン・トルコ帝国』 戸叶勝也 訳、佑学社、1982年
ロベール・マントラン 『トルコ史』 小山皓一郎訳、(文庫クセジュ )白水社、1982年
三橋富治男 『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』 (清水新書)清水書院、1971年、新版1984年、再訂版2018年
三橋富治男 『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』 (紀伊国屋新書)紀伊国屋書店、1962年、復刻単行版1994年
スティーヴン・ランシマン 『コンスタンティノープル陥落す』 護雅夫 訳、みすず書房、1969年、新版1998年
デイヴィド・ホサム 『トルコ人』 護雅夫訳、みすず書房、1983年
脚注
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