ウラジーミル・レーニン — OpenHistory
4.2.
各種改革の実施
1921年頃からレーニンの健康状態は著しく悪化し、静養のためクレムリンを離れることが多くなった。病状が悪化する中、ソビエト連邦(ソ連)の形成には構想の段階から関与し、1922年12月にソ連が建国されると、その行政府 の初代議長に選出された。一方で、この頃にはグルジア問題 などを巡ってスターリン との対立を深め、口述筆記させた文書の中で党書記長からスターリンを解任するよう求めた。1923年に3度目の脳卒中を起こすと、意思疎通に困難をきたす状態に陥った。1924年1月21日、ゴールキの邸宅で意識不明の状態となり、そのまま死去した。遺体は防腐処理を施された上で、赤の広場に建てられた霊廟(レーニン廟 )にて一般公開された。
出生から青年期まで
出自 レーニンの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ は元農奴 の家系の出身であり、イリヤの父親の民族性は不明瞭なものの2 、母親はカルムイク人 とロシア人 の血を半分ずつ引いていた3 。イリヤは下層階級の出自であったが、カザン帝国大学 で物理学と数学を学んだのち4 、ペンザ の貴族学校で教職を得て、中流階級の身分を手にした5 。1863年の半ば、イリヤはのちにレーニンの母となるマリア・アレクサンドロヴナ・ブランク と結婚した6 。マリアは裕福なドイツ・スウェーデン系の母と、ユダヤ系ロシア人の父との間に生まれ、彼女の父はキリスト教に改宗し、医師として働いていた7 。結婚後、イリヤは教育者として出世を続け、やがてシンビルスク地方の公立学校の視学官 となり、帝国政府による近代化計画の一環として450校以上の学校設立を監督した。1882年1月には教育分野における功績が認められて聖ウラジーミル勲章 を授与され、世襲貴族の地位を得た8 9 。
生い立ち 1870年4月22日(ロシア暦 の4月10日10 )、レーニンはロシア帝国 のシンビルスクでウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ として生まれ、生後6日で洗礼 を受けた11 。ウラジーミルは両親の3番目の子であり、上には姉のアンナ(1864年生)と兄のアレクサンドル (1866年生)が、下にはオルガ(1871年生)とドミトリー(1874年生)、マリア(1878年生)がおり、他に生後すぐ早世した2人の姉と弟がいた12 。父のイリヤがロシア正教会 の敬虔な信者であった一方で、母のマリアはルーテル教会 の信徒として育てられたもののキリスト教 的信仰にはほとんど関心がなく、彼女の宗教観は子供たちにも影響を与えた13 。両親はともに君主制主義者 かつ自由保守主義者 であり、ロシア皇帝アレクサンドル2世 が実施した農奴解放令 も熱心に支持しており14 、子供たちをロシア人として育てた15 。2人は政治的過激派を避けており、危険人物として帝国警察の監視下に置かれていたという記録も存在していない14 。ウラジーミルは姉弟の中でも特に妹のオルガと親しく、彼女に対してはしばしば威張り散らしていた。当時の彼は極めて競争心が強く、気性の荒さを見せていたが、自分が犯した間違いについては認めることが多かった16 。入学したシンビルスク古典中高等学校では非常に成績優秀であった一方、スポーツにも熱心であり、自由時間はほとんど屋外に出るかチェス を遊んで過ごした17 。
青年時代 1886年1月、父のイリヤが脳内出血 によって死亡した18 。父の死後、レーニンの振る舞いは突飛で攻撃的になり、神への信仰も放棄した19 。その頃、兄のアレクサンドルはサンクトペテルブルク大学 で絶対君主制 に反対する政治的活動に取り組んでいた。彼はその後、ロシア皇帝であるアレクサンドル3世 の暗殺を目論む革命的結社に加わり、暗殺用爆弾の製造役に選ばれた。しかし暗殺計画は決行される前に露呈し、アレクサンドルら計画者は逮捕されたのち裁判で死刑を宣告され、1887年5月に絞首刑に処された20 。父と兄の死により精神的ショックを受けたものの、引き続き学業に励んだレーニンは古典中高等学校を首席で卒業し、その際には突出した成績を称えて金メダルを授与された21 。 1887年8月、父の母校であるカザン大学 に入学して法学 を専攻したが22 、12月には学生運動 の集会に参加したことから警察に拘束されて大学から退学処分を受け23 、帝国内務省によってコクシキノ村のウリヤノフ家の所有地に追放された24 。
1890年5月、母のマリアによる当局との交渉の末、レーニンは学外学生としてサンクトペテルブルク大学 法学部の卒業検定試験を受けることを許可された31 32 。1891年、レーニンは試験を受けるため春と秋の2度サンクトペテルブルクを訪れ、すべての試験に合格したが33 、2度の試験の合間である5月には妹のオルガが腸チフス で病死した34 31 。1892年1月、レーニンはサンクトペテルブルク教育管区局から第一級学位を授与され33 、同月からサマーラの弁護士事務所に弁護士補として一年半ほど勤めたが、1893年8月にはその職を辞してサンクトペテルブルクに移住した35 。
1891年から92年にかけて、レーニンが当時住んでいたロシアのヴォルガ川 流域で飢饉が発生し、知識人を含む多くの人々が救済活動をはじめたが、レーニンは飢饉が大衆を急進化させるのに役立つとの見解を持っており、それらの知識人による救済活動を「甘ったるい感傷行為」として否定した36 37 。
革命家として
初期の活動 帰国後はロシア各地を巡り、国外から大量に持ち帰った非合法な革命的出版物を当地のストライキ労働者に配った41 。 1895年秋、レーニンはサンクトペテルブルクの全てのマルクス主義労働者グループを統合して「労働者階級解放闘争同盟 」を結成した22 。その後、闘争同盟の非合法機関紙『ラボーチェエ・デーロ 』の発行に関与したが、同年12月に他の39人の活動家と共に逮捕され、扇動罪に問われた42 。逮捕されたレーニンは罪状を全面的に否認したが、その後刑の宣告まで1年にわたって収監されることとなった43 。
1897年2月、レーニンは東シベリアでの3年間の流刑を宣告され、身の回りの整理のためサンクトペテルブルクで3日間過ごすことを許可されたが、彼はその猶予期間を闘争同盟のメンバーと会うために利用した44 。レーニンは政府に対する大きな脅威ではないとみなされており、流刑地のシュシェンスコエ 村では警察の監視下に置かれたものの、村から他の革命活動家と文通することは可能であり、近くのエニセイ川 で泳ぐことや水鳥の狩猟を楽しむことも許可されていた45 。
1898年5月、レーニンは流刑地でクルプスカヤと再会した。彼女はストライキを組織したことで1896年8月に逮捕され、当初ウファ での流刑に処されていたが、自分とレーニンが婚約していると主張して当局を説得し、シュシェンスコエ村に移送されてきた46 。その後、1898年7月10日にレーニンとクルプスカヤは結婚した46 。この頃、ドイツでは選挙による平和的な社会主義実現を主張するエドゥアルト・ベルンシュタイン ら修正主義 者が台頭し、マルクス主義者の間でイデオロギー上の対立が生じていた。その中でもレーニンは暴力革命 を強力に支持し続け、『ロシア社会民主党員による抗議』という著作の中で修正主義者の主張を攻撃した47 。1899年には『ロシアにおける資本主義の発展 』を著し、 農業社会主義 を批判すると共に、ロシアの経済発展に対するマルクス主義的な分析を提示した。この著作はウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名で出版されたが、内容への評価は低かった48 。
ロシア社会民主労働党の分裂 ウラジーミル・ウリヤノフが初めて「レーニン」の筆名を使用したのは1901年12月であり53 、翌1902年にはこの筆名で『なにをなすべきか?』と題するパンフレット を出版し、前衛党 がプロレタリアート革命を指導することの必要性について論じた54 。レーニンはカール・カウツキー の言葉を引用し、「社会主義意識は、プロレタリアート の階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」と述べ、この考え方は後に「外部注入論」と呼ばれるようになった。『なにをなすべきか?』の出版は大きな反響を呼び、以降の彼は「レーニン」の名でロシア帝国のマルクス主義者に広く知られるようになった55 。
同時期にはミュンヘンで『イスクラ』の執筆を続け、イデオロギー上の対立者や批判者、とりわけ社会革命党 (エスエル)に対して攻撃を加えた56 。1902年4月、バイエルンの警察を恐れたレーニンは『イスクラ』と共にロンドンに移住した57 。ロンドンでは同胞のマルクス主義者レフ・トロツキー と友人になった一方で58 、丹毒 を患って『イスクラ』編集局で中心的役割を担うことができなくなり59 、レーニン不在の間に『イスクラ』の本部はジュネーヴ に移された59 。
1903年7月、ロンドンでロシア社会民主労働党の第2回党大会が開かれたが60 、大会ではレーニンの支持者とマルトフの支持者が激しく対立し、マルトフは、党員は党指導部に縛られることなく独自の意見を表明することを許されるべきと主張したが、レーニンはそれに反対し、強力な指導部が党全体を完全にコントロールすることの必要性を強く主張した61 。ロシア社会民主労働党はレーニン支持派の「ボリシェヴィキ (多数派)」とマルトフ支持派の「メンシェヴィキ (少数派)」という2つの派閥に分裂し、『イスクラ』編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となった。党大会後も両者の論争は続き、ボリシェヴィキがメンシェヴィキを「規律を欠く日和見主義・社会改良主義」と批判した一方で、メンシェヴィキはレーニンを「独裁・専制主義者」として非難した62 。メンシェヴィキに憤慨したレーニンは『イスクラ』編集局を辞職し、1904年5月にメンシェヴィキを批判した著作『一歩前進、二歩後退 』を出版した63 。
ロシア第一革命と労農民主独裁論 1905年1月、サンクトペテルブルクで起こった血の日曜日事件 をきっかけに動乱がロシア帝国全土に広がり、1905年革命 (ロシア第一革命)として知られる革命へと発展した64 。レーニンはこの動乱においてボリシェヴィキがより大きな役割を演じることを要求し、暴力的な蜂起を呼びかけた65 。1905年8月には『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術 』を出版して革命に対する見解を提示し、ロシアの自由主義的ブルジョワジーは立憲君主制 への移行で満足してしまうため革命の遂行を裏切ると予想した上で、プロレタリアートは農民と同盟を結んで君主制を打倒し、臨時的に「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁(労農民主独裁)」体制を樹立する必要があると論じた66 。
ロシア第一革命への反応としてニコライ2世 は十月詔書 を発布し、いくつかの自由主義的改革を約束した。レーニンはこの状況下では安全と見てサンクトペテルブルクに帰還した67 この頃、レーニンは党員からの徴収や裕福な支援者からの寄付だけでは活動資金源として不十分と認識し、郵便局、列車、銀行などへの強盗による資金集めを承認した。ボリシェヴィキはレオニード・クラーシン の指導下でそのような犯罪行為に手を染め始め、1907年6月にはヨシフ・スターリン 指揮下の党員がグルジアのトビリシ で帝国銀行に対する武装強盗 を決行した68 。1906年4月にストックホルム で開かれた第4回党大会において、レーニンによる暴力や強盗の支持はメンシェヴィキから激しく非難された69 。
1907年1月、レーニンはサンクトペテルブルクのフィンランド大公国 領クオッカラ地区で生活を始め33 、当地ではボリシェヴィキの拠点構築に関与した70 。その後、1907年5月にロンドンで開催された第5回党大会ではボリシェヴィキがロシア社会民主労働党における支配的勢力を取り戻した70 。帝政政府が反対派への弾圧を強め、秘密警察 機関の「オフラーナ 」に革命活動家の逮捕を命じると、レーニンはフィンランド領から逃亡してスイスに移住した71 。
1910年8月にコペンハーゲン で開かれた第二インターナショナル 第8回大会にロシア社会民主労働党の代表として参加した後75 、レーニンは妻や姉らと共にフランスの首都パリに居を移し76 、当地ではフランス人ボリシェヴィキのイネッサ・アルマンド と親密な仲になった77 。一部の伝記作家は1910年から1912年にかけてレーニンがアルマンドと不倫関係にあったと示唆している77 。1912年1月、レーニンはプラハでロシア社会民主労働党の協議会を主催したが、召集された参加者18名のうち16名がボリシェヴィキであり、メンシェヴィキは2名だけだった78 。このプラハ協議会 でボリシェヴィキは独自に新たな党中央委員会を選出した78 79 。党中央委員に選ばれた7名にはレーニン、ジノヴィエフ 、オルジョニキーゼ の他、帝国のスパイであるマリノフスキーも含まれており78 、選任されたばかりの委員の多くがロシアへの帰国後に逮捕された80 。逮捕によって欠員が生じたことを受け、レーニンはスターリンを新たな党中央委員として抜擢した80 。
第一次世界大戦と『帝国主義論』 1914年に第一次世界大戦 が勃発した時、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィア に居た85 。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された86 。釈放後、レーニン夫妻はベルンに戻り87 、1916年2月にはチューリヒ に居を移した88 。レーニンはドイツ社会民主党が第二インターナショナルのシュトゥットガルト決議(社会主義政党が戦争に反対することを義務付けていた)に反し、自国の戦争遂行を支持したことに怒り、第二インターナショナルは消滅したものとみなした89 。その後、社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議 と1916年4月のキーンタール会議 に出席し90 、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた91 。
1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義 (帝国主義論)』の執筆を完了した33 。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義 が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義 の産物であると論じた。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した92 。同じ7月には母マリアがペトログラードで死去したが、レーニンは葬儀に参列することができなかった93 33 。母の死はレーニンを意気消沈させ、自らもプロレタリア革命を目撃する前に死ぬことになるのではないかという恐怖を抱かせた94 。
二月革命・ロシアへの帰国と四月テーゼの発表 1917年2月、二月革命 が首都ペトログラード (開戦時にサンクトペテルブルクから改称された)で勃発し、ロシア皇帝ニコライ2世は退位した。権力を掌握した国家ドゥーマ によってロシア臨時政府 が樹立され、ロシア帝国は「ロシア共和国 」へと改革された95 。スイスで二月革命について知らされたレーニンは、他の反体制活動家らと共に革命の発生を祝った96 。レーニンはボリシェヴィキを指導するためロシアに帰国する意思を固めたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されており、唯一の方法はドイツ帝国の国土を通過することだった。ドイツ政府はレーニンのような反体制分子は敵国ロシアに混乱をもたらすと判断し、彼とその妻を含む32名のロシア人が封印列車 に乗り込み、ドイツ領内を通過して母国へと向かうことを許可した97 。レーニンらの一行は封印列車でチューリヒからドイツのザスニッツ に移動した後、スウェーデンを経由してヘルシンキ へと向かい、そこからペトログラード行きの最後の列車に乗り込んだ98 。
1917年4月、ペトログラードのフィンリャンツキー駅 に到着したレーニンは、ボリシェヴィキの支持者らに向けて演説を行い、ロシア臨時政府を厳しく批判すると共に、全ヨーロッパでのプロレタリア革命という主張を繰り返した99 33 。その後の数日間にはボリシェヴィキの諸会議に出席してメンシェヴィキとの融和を主張する党員を譴責すると共に、スイスからの旅の途中で書き上げた『四月テーゼ 』を党の綱領案として発表した100 。レーニンは権勢あるペトログラード・ソビエト を支配しているメンシェヴィキと社会革命党がロシア臨時政府に協力していることを非難し、両者を社会主義への裏切り者として糾弾した。そして、臨時政府はツァーリの政府と同程度に帝国主義的であると定義し、プロレタリア政権を樹立して社会主義社会へ向かうための手段として、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの即時和平・ソビエト への権力集中・産業と銀行の国有化・国家による土地収用などを提唱した。対照的に、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと考えており、レーニンは誕生したばかりの新共和国を内戦へと導こうと試みていると批判した101 。
その後の数カ月間、レーニンは自らの綱領を広めるための運動に励み、ボリシェヴィキ中央委員会の諸会議に出席し、党機関紙 『プラウダ 』に多く寄稿する一方で、労働者、兵士、農民からの支持を得るため、ペトログラードの街中で大衆に向けた演説を行った102 。特に、ソビエトへの権力集中の要求は「すべての権力をソビエトへ」のスローガン とともに喧伝された。のちにレーニンは、このスローガンが「我々によって広範な一般大衆の意識に植え付けられ」、十月革命におけるボリシェヴィキの勝利を容易にしたと述懐している103 。
1917年7月、ペトログラードで兵士たちによる反ロシア臨時政府の武装デモ(七月蜂起 )が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙った臨時政府は、「レーニンはドイツのスパイである」との情報を新聞社やペトログラード駐留部隊に対して流出させた104 。結果として、レーニンおよびボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモに参加した部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除され、武装デモは鎮圧された105 。臨時政府はレーニンと他のボリシェヴィキ幹部の逮捕令を発したが106 、レーニンは逮捕を逃れ、ペトログラード市内の多くの隠れ家を転々としつつ潜伏した107 。
臨時政府に殺害されることを恐れたレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフ は変装してペトログラードから逃走し、ラズリーフ湖 周辺に拠点を移した108 。レーニンは逃亡に成功したものの、臨時政府により多くのボリシェヴィキ幹部が逮捕され、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。ラズリーフでレーニンはのちに『国家と革命 』として出版される本の執筆を開始した109 。同書では自らの国家観を提示し、プロレタリア革命後の社会主義国家が発展することでいずれ国家が消滅 し、純粋な共産主義社会を残すのみとなる過程について論じた109 。この頃、レーニンはボリシェヴィキが武装蜂起を起こして臨時政府を転覆することを主張し始めたが、秘密裏に開かれた党中央委員会でレーニンの提案は退けられた110 。その後、列車と徒歩でフィンランドに向かい、8月10日にはヘルシンキに到着し、当地ではボリシェヴィキ支持者が所有する隠れ家に潜伏した111 。
十月革命による権力掌握 レーニンがフィンランドに居た1917年8月、ロシア共和国軍の最高総司令官ラーヴル・コルニーロフ が軍事クーデターを試み、首都ペトログラードに向け指揮下の部隊を進軍させた。ロシア臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキー は(ボリシェヴィキを含む)ペトログラード・ソビエトに支援を要請し、首都防衛のためボリシェヴィキが労働者を武装し「赤衛隊 」として組織することを容認した。コルニーロフの反乱はペトログラードに到達する前に鎮圧されたが、一連の出来事はボリシェヴィキを政治の表舞台へと復帰させた112 。また、社会主義を敵視する右派による反革命の動きを恐れたメンシェヴィキと社会革命党が臨時政府に圧力をかけ、ボリシェヴィキとの関係を正常化させた113 。その後、臨時政府が逮捕されていた党幹部の釈放に応じたため、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。メンシェヴィキと社会革命党は人気のない戦争を継続するロシア臨時政府との協力関係によって大衆からの支持を失っており、ボリシェヴィキはそれに乗じて支持を拡大し、やがてボリシェヴィキ派のマルクス主義者レフ・トロツキーがペトログラード・ソビエトの議長に選出された114 。9月、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワの労働ソビエトで過半数の支持を獲得した115 。
1917年10月、レーニンはペトログラードへと戻った33 。ペトログラードとモスクワの両都市で多数派を占めることに成功したことを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキ内で主張し、反対するジノヴィエフとカーメネフを批判した116 。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した117 。10月11日の夜明け前、ボリシェヴィキ中央委員会で投票が行われ、10対2でレーニンが主張する武装蜂起の決行が採択された118 。ボリシェヴィキは武装蜂起の計画に着手し、10月24日にはペトログラードのスモーリヌイ学院 で会議を開き、最終的な打ち合わせを行った119 。スモーリヌイ学院はボリシェヴィキに忠実な軍事機関である「軍事革命委員会 」の本拠として使われていた120 。
10月24日夜、軍事革命委員会は指揮下の兵と赤衛隊に命令を出し121 、ペトログラード市内の主な輸送機関、通信機関、印刷機関、公共公益設備を制圧するよう指示した122 。ボリシェヴィキの軍勢は無血で目標を達成することに成功し122 、続いて臨時政府の置かれている冬宮殿 を包囲した。ボリシェヴィキ派の水兵が乗る巡洋艦「アヴローラ 」が宮殿への砲撃を実行した後、冬宮は制圧され、臨時政府の閣僚は逮捕された123 。この武装蜂起の最中、レーニンはペトログラード・ソビエトに向けて演説を行い、ロシア臨時政府は打倒されたと宣言した124 。
権力獲得以降
人民委員会議の発足・憲法制定議会の解散 十月革命 後、ボリシェヴィキは新たな行政府 として 「人民委員会議 」を設立した。当初レーニンは人民委員会議の議長 への就任を固辞し、議長職にはトロツキーを推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた125 。レーニンらボリシェヴィキ幹部は1917年10月26日から27日(ロシア暦)にかけ開催された第2回全ロシア・ソビエト大会 に出席し、新政府の樹立を宣言したが、大会に参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した126 。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた127 。
ボリシェヴィキによって転覆されたロシア臨時政府は、将来的な選挙によって全ロシア憲法制定議会 が開催されるまでの暫定政権 として発足していた128 。当初、ボリシェヴィキは憲法制定議会の構想を尊重しており、レーニンが首班を務める人民委員会議は憲法制定議会が開かれるまでの新しい暫定政権とされていた129 。臨時政府は1917年11月に全ロシア憲法制定議会選挙 の実施を約束していたが、レーニンはこの選挙でボリシェヴィキが勝利することはないと予想し、実施の延期を党に提案した130 。しかし、人民委員会議はレーニンの反対を押して予定通りに選挙を行うことを決定した131 。11月に選挙が実施されると第一党は得票率40パーセント を得た社会革命党 となり、一方でボリシェヴィキの得票率は24パーセントにとどまった132 。レーニンはこの選挙について、有権者にボリシェヴィキの政策を十分に理解する時間が与えられず、また候補者リストが社会革命党が右派と左派に分裂する以前に作成されたことで、人民の意志が正しく反映されなかったと主張した133 。
1918年1月、新たに選ばれた全ロシア憲法制定議会がペトログラードで開会されたが134 、出席したレーニンらボリシェヴィキはこの議会がソビエトから権力を奪うことを企図しており反革命的であると主張した135 。メンシェヴィキと社会革命党員はそれを否定したが135 、ボリシェヴィキは議会からほとんどの法的権力を剥奪する動議を提出し、それが議会によって却下されると、反革命的な性質が証明されたとして憲法制定議会を強制的に解散させた136 。
各種改革の実施 すべての労働者・兵士・農民の諸君。ソビエト政権は全交戦国に対して民主的講和を、全戦線において即時休戦を直ちに提起する。地主・皇室・修道院の土地をすべて農民委員会に無償で引き渡すことを保障する。軍隊の完全な民主化を実行し、兵士の権利を保護する。産業における労働者統制を確立する。憲法制定議会を期日通りに招集することを約束する。都市にはパンを、村には必需品を供給する。そして、ロシアに居住する全民族の民族自決権を保証する。……革命万歳!
レーニンの新政府は発足後ただちに一連の布告を発した。「平和に関する布告 」は、第一次世界大戦の交戦国に対して「無併合・無賠償・民族自決 」の講和を提議した138 。「土地に関する布告 」では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは農業の集団化 を希望するレーニンの意向に反していたが、すでに蔓延していた農民による土地の接収に国家的な承認を与えるものであった139 。「言論に関する布告」は、ボリシェヴィキに反対する報道機関の多くを反革命であるとして廃止させたが、これは報道の自由 を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多数のボリシェヴィキ党員も含まれていた140 。さらに別の布告で人民委員会議は従来のロシアの法制度を廃することを宣言し、廃止された法律に代わって「革命的良心」を用いることを呼びかけた141 。旧来の裁判所は、反革命犯罪を専門に扱う「革命裁判所 」と、その他の犯罪を扱う「人民裁判所」の二重のシステムに置き換えられ142 、裁判所は既存の法律を無視し、人民委員会議の布告と「社会主義的正義感」に基づいて裁定を下すよう指導された143 。
レーニンは1917年10月の布告でロシアの全労働者の労働時間を1日あたり8時間に制限したほか144 、ロシアのすべての子供を対象とした無料の普通教育が公的に約束されることを定めた144 。さらに別の布告では国営の孤児院 制度が創設された145 。強硬な無神論者であるレーニンとその党は組織的宗教の解体を望んでおり146 、新政府は1918年1月の布告 で教会と国家の分離を宣言するとともに、学校における宗教的教育を禁止した147 。レーニン政権下で、ロシアは妊娠初期における妊婦の意思による中絶 を合法化した世界で最初の国となった148 。また、男女同権 の理念のもと女性解放を推し進めるための新たな法律が制定され、既婚女性に夫からの経済的自律性が認められ、離婚に関しての各種制限も撤廃された149 。
レーニン率いるボリシェヴィキは権力を掌握した直後に産業・運輸・銀行の国有化を宣言し、大企業は1918年6月までに全て国有化された154 。民間銀行も収公されて国立銀行に統合、人民銀行と称されるようになった154 。また、レーニンの政府は革命以前のロシア政府が発行した一切の国債の償還を拒否し、1918年1月にデフォルトを宣言した155 。 また、レーニンの新政府は先のロシア政府が締結した各種条約は継承しないと宣言した。また秘密外交の廃止を主張し、サイクス・ピコ協定 や日露協約 などの先のロシア政府が各国と締結した秘密条約・秘密協定の暴露を行った156 。
憲法制定議会の開催に先立つ1918年1月1日157 、レーニンはペトログラードの馬術学校での演説を終えた帰途の車中で数人の男から発砲されたが、同乗していたフリッツ・プラッテン が盾となり身を呈して銃弾を受けたことで負傷を免れた158 。捜査によってレーニンの暗殺を試みたのは王党派 であったことが判明したが、人民委員会議はボリシェヴィキと敵対する他の社会主義政党にテロ行為加担の容疑をかけた159 。
1918年3月、ボリシェヴィキは党の正式名を従来の「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」へと改称したが160 、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった161 。同月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは政府をモスクワに移転した(当初移転は一時的な処置となる予定だった)162 。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワのクレムリン に居を移したが163 、レーニンはペトログラードに比べて西欧化されておらず、伝統的ロシアの色が濃いモスクワを嫌った164 。
1920年にレーニンは、全国土の電化の推進によって社会問題を解決できるとして、いわゆるゴエルロ計画 を立案し、委員会が設立された。「共産主義とはソビエト政府、プラス、全国土の電化である167 」とするレーニンの言葉が広く知られる。レーニンは全国土の電化によって「地方の文化レベルを引き上げ、国中どんな遠隔地だったとしても、後進性、無知、貧困、病気、そして野蛮を克服できるようになる」168 とした。
ブレスト=リトフスク条約の締結 権力を得たレーニンは、政権にとって緊急の課題はドイツ帝国 とオーストリア=ハンガリー帝国 を中心とする中央同盟国 と講和を結び、第一次世界大戦から離脱することであると認識していた169 。レーニン政権は1917年11月の「平和に関する布告」の中でドイツおよびオーストリア=ハンガリーの両政府に対して3カ月の休戦を提案した170 。これを西部戦線 に集中する好機と捉えたドイツ政府は前向きな反応を示し171 、12月には休戦協定の交渉がドイツ軍の東部戦線 司令部が置かれるブレスト=リトフスク で始まり、トロツキーとアドリフ・ヨッフェ によって率いられるロシア側代表団が到着した172 。間もなく1918年1月までの休戦協定は合意されたが173 、その後の和平交渉でドイツ側はポーランド、リトアニア、クールラント など戦争中に獲得した領土の維持を要求し、ロシア側はその要求は民族自決 権の侵害であると抗議した174 。この時期、ボリシェヴィキの一部は交渉を長引かせることでプロレタリア革命がヨーロッパ全域で巻き起こるまで時間を稼ぐことを望んでいた175 。一方で、ニコライ・ブハーリン のような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張していた。1918年1月7日、トロツキーが中央同盟国からの最後通牒 を携えてブレスト=リトフスクからサンクトペテルブルクに帰還し、ボリシェヴィキはドイツによる領土的要求の受諾か戦争の再開かの選択を迫られた176 。
1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをはったりと見て休戦を引き延ばすことを望んだ177 。
1918年1月27日には、中央同盟国 とウクライナ人民共和国 が講和を結び、反ボリシェヴィキ 共同戦線を張ることに合意したほか153 、2月18日にはドイツ軍がファウストシュラーク作戦 を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日にドヴィンスク を占領するなど支配領域を拡大した178 。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された179 。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの影響下(衛星国 )になることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った180 。
1918年3月3日、中央同盟国との講和条約 であるブレスト=リトフスク条約 が締結された181 。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26パーセント、農業収穫面積の37パーセント、産業の28パーセント、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった182 。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり183 、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した184 。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた左翼社会革命党 (左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ 暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。
ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は連合国 と休戦協定 を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した185 。
チェーカーの創設・反富農運動・赤色テロ 同志諸君!5つの富農地区における蜂起は容赦なく制圧されなければならない。革命全体の利益がそれを必要としている。今や富農 との「最後の決戦」が至る所で進行しているからだ。手本を示さなければならない。
最低でも100人の名の知れた富農、金持ち、搾取 者を縛り首にせよ(必ず大衆の面前で縛り首にすること)。
彼らの名前を公表せよ。
彼らの穀物をすべて没収せよ。
昨日の電報に従って人質を指名せよ。
周囲何百キロもの人々が見て、震え、悟り、叫ぶような方法で実行せよ。生き血をすする富農どもが我々の手で絞め殺されており、今後も絞め殺されるのだと。
1918年初頭までに、ロシア西部の都市の多くでは慢性的な食糧不足による飢饉が発生していた190 。レーニンは、富農(クラーク) が生産した穀物を密かに備蓄していることがその原因であるとし、1918年5月には徴発 令を発して富農から穀物を没収するための武装分遣隊を組織し、6月には徴発を助ける目的で「貧農委員会 」の結成を命じた191 。武装分遣隊による強制的な穀物徴発は、それに反発する農民との武力衝突など、大きな社会的混乱と暴力をもたらし、ロシア内戦が勃発する背景のひとつとなった192 。この問題に対する当時のレーニンの見解を示す顕著な一例はペンザ の同志へ宛てた1918年8月の電報であり、その中でレーニンは、農民反乱を抑制するための見せしめとして「最低でも100人」の富農などの公開処刑を命じていた193 。
1918年8月30日、モスクワでレーニンは再び暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った194 。レーニンは首に銃弾を受けて大量に出血し、一時は生死の境を彷徨ったが、その後は急速に回復した195 。実行犯として現場で逮捕され、9月3日に処刑された社会革命党 員のファニィ・カプラン は、全ロシア憲法制定議会を解散させ、またブレスト=リトフスク条約を結んだレーニンを罰することが動機であったと述べた196 197 。この暗殺未遂はロシアで広く報道され、同情を受けたレーニンへの支持は高まった198 。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊のゴールキ の邸宅に移された199 。
レーニンが暗殺未遂によって重傷を負ったことは、同日に発生したチェーカー指導者モイセイ・ウリツキー の暗殺事件とともに、ボリシェヴィキが「階級の敵 」に対する大規模な暴力の行使を発動する契機となった200 。レーニン暗殺未遂の直後、ペトログラードのチェーカーは計512名の帝政関係者の処刑を執行し、5000人以上の「ブルジョアジーの代表者」を逮捕した200 。1918年9月5日、人民委員会議は「赤色テロ に関する布告」を発し、チェーカーによって組織的に行われる大規模テロの開始を宣言した200 。赤色テロによる犠牲者は大半がブルジョアジーか旧帝国政府の関係者であったが201 、反ボリシェヴィキの非ブルジョワジーや社会的に望ましくないと見做された売春婦のような人々も含まれていた202 。チェーカーはそれが政府の敵と見做すあらゆる人間に死刑を言い渡し、刑を執行する権限を与えられており、革命裁判所を頼る必要もなかったため203 、ソビエト・ロシア各地でしばしば大規模な処刑が実行されることとなった204 。赤色テロによる正確な犠牲者数を示す記録は現存していないが205 、のちに歴史家が推定した死者数には1万人 – 1万5000人206 とするものや5万人 – 14万人とするものがある207 。このような暴力の行使にレーニンが立ち会ったことや直接的に参加したことはなく208 、公的には暴力から距離を保っていた209 。レーニンは機密文書や暗号化された電報の中で頻繁に処刑の執行を要求したが、公表される文書や演説の中で要求することはほとんどなかった210 。
1918年8月、レーニンおよびトロツキーは恒常的な強制収容所 の創設を命じた211 。1918年9月の赤色テロに関する布告により、「階級の敵」が強制収容所に隔離されることが定められた211 。その後、1919年4月の布告によって各地にチェーカーが管理する強制収容所が設立され212 、のちに収容所の管理を担う専門の政府機関「グラーグ 」が創設された213 。1920年末の時点で、ソビエト・ロシアには84の収容所と約5万人の被収容者が存在したが、1923年10月には収容所の数は315となり、被収容者も約7万人に増加した214 。これらの被収容者は強制労働 に従事させられていた215 。
ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争 レーニンは、ロシアの貴族階級とブルジョワ階級が自らの政権に敵対することは予想していたが、数的に優位な下層階級をボリシェヴィキが有効に組織することにより、いかなる抗争でも速やかに勝利することが可能であると考えており216 、ボリシェヴィキによる支配に対して実際に生じた抵抗の激しさを予期していなかった216 。十月革命後に勃発したロシア内戦 は、ボリシェヴィキ派の赤軍と反ボリシェヴィキ派の白軍 との間の戦争であっただけでなく、ロシア国境地帯における民族間紛争をも包含するものであり、また旧ロシア帝国領全域で農民を中心とした緑軍 が赤軍と白軍の両者に敵対した217 。
白軍は旧ロシア帝国軍将校により組織され218 、ロシア南部を拠点とするアントーン・デニーキン の義勇軍219 、シベリアを拠点とするアレクサンドル・コルチャーク の軍220 、新たに独立を獲得したバルト諸国に拠点を置くニコライ・ユデーニチ の軍などによって構成された221 。白軍は、1918年5月にチェコ軍団 がボリシェヴィキに対して反乱を起こし、その後反ボリシェヴィキ派の政府である「憲法制定議会議員委員会 (コムーチ)」と同盟を結んだことで鼓舞された222 。社会革命党員によって1918年6月にサマーラ で結成されたコムーチは、ボリシェヴィキによって強制的に解散させられた憲法制定議会の名を冠し、自らがロシアの正当な政府であると主張した。さらに白軍は、ブレスト=リトフスク条約の締結を裏切り行為と捉え、またボリシェヴィキが提唱する世界革命の勃発を恐れる連合国 諸政府から支援を受けた
ブレスト=リトフスク条約の締結後、左翼社会革命党は連立政権から離脱し、ボリシェヴィキは革命の裏切り者であるとの見方を強めていった227 。1918年7月、左翼社会革命党員ヤーコフ・ブリュムキン が駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハを暗殺したが、その動機は大使暗殺によって引き起こされる外交問題がドイツ帝国に対する革命戦争の再開につながるとの希望であった228 。その後、左翼社会革命党はモスクワでクーデターを起こし、クレムリンを砲撃し、モスクワ市中央郵便局を占拠したが、最終的にトロツキーが率いる軍勢によって制圧された229 。左翼社会革命党の指導者と党員の多くは逮捕・収監されたが、他の反ボリシェヴィキ勢力と比較してより寛大な扱いを受けた230 。
1919年までに、白軍は3方面すべての前線で劣勢に追いやられ、1920年を迎える頃には赤軍への敗北が確定的となった231 。ボリシェヴィキは白軍に勝利したものの、その間に多くの非ロシア系民族が混乱に乗じて国家的独立を推し進めたため、ロシアの領土範囲は縮小していた232 。北東ヨーロッパ諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランド等)の場合などには、ソビエト政府はその独立を承認した上で、それぞれと平和条約を締結したが233 、その他の分離独立運動は赤軍によって鎮圧された234 。赤軍は1921年までにウクライナの民族運動を制圧し、またコーカサスを占領したが、中央アジアでの戦闘 は1920年代末まで継続した234 。
ドイツ軍が連合国との休戦協定を結び東部前線から撤退した後、空白となった地域(ウクライナ ・ベラルーシ など)には赤軍とポーランド軍の両者が進出した235 。新たに独立を獲得したポーランドはソビエト政府と同じくこの地域での領土獲得を望んでおり236 、1919年2月にはポーランド軍と赤軍の間で最初の衝突が発生し237 、両者の争いはポーランド・ソビエト戦争 へと発展した238 。ソビエト政府がそれまでに経験した抗争とは異なり、ポーランドとの戦争は革命の国外への輸出およびヨーロッパの未来に対して大きな意味合いを持っていた239 。ポーランドはウクライナに軍を展開し、一度は赤軍が抑えたキエフ を、ウクライナのディレクトーリヤ 軍と合同して、1920年5月までに占領していた240 (キーウ攻勢 )241 。ポーランド赤軍がポーランド軍をウクライナから撤退させることに成功した後、レーニンは赤軍によるポーランド本国への侵攻を要求した。レーニンは、侵攻を実行すればポーランドのプロレタリアートは赤軍を助けるために反乱を起こし、それが全ヨーロッパ的な革命勃発の導火線となることを信じていた242 。トロツキーら他のボリシェヴィキはレーニンの予想に懐疑的であったものの、ポーランド侵攻には同意した242 。結果的に、ポーランドのプロレタリアートが反乱を起こすことはなく、赤軍はワルシャワの戦い でポーランド軍に敗北を喫した242 。ポーランド軍によって赤軍がロシアまで押し返されると、ソビエト政府は和平を模索し、ポーランドにウクライナ とベラルーシ の領土の一部を割譲することを認めたリガ講和条約 の締結によって戦争は終結した243 。
コミンテルンの創設 西部戦線で休戦協定が結ばれた後、レーニンはヨーロッパ諸国で革命が巻き起こるのは今や時間の問題であると考えた244 。革命を促進するため、人民委員会議は1919年3月のクン・ベーラ によるハンガリーの共産主義政権 樹立を支援し、それに続いてバイエルンでも社会主義政権 が樹立され、ドイツの他地域でも(1月のスパルタクス団の武装蜂起 を含む)社会主義者による革命的蜂起が続発していた245 。1919年3月にはモスクワで国際共産主義 組織「コミンテルン 」の創立大会が開催され、レーニンはその開会演説を行った246 33 。大会期間中、レーニンは参加各国の代表団に向けて、修正主義的マルクス主義者が信奉する議会主義 を厳しく批判し、ヨーロッパのブルジョワ政権を暴力的手段によって転覆するよう改めて呼びかけた247 。コミンテルンの初代議長にはジノヴィエフが就任したが、レーニンはこの組織に対する重大な影響力を保ち続けた248 。
1920年7月、ペトログラードのスモーリヌイ学院 で第2回コミンテルン大会が開会し249 、大会中レーニンは各国代表団にボリシェヴィキによる権力奪取を再現するよう激励すると共に、社会進化の過程において資本主義 社会の段階は不可避とする自らの長年の見解(二段階革命論 )を捨て、被植民地支配地域からの代表団に対し資本主義段階を飛ばしてそれぞれの社会を直接社会主義社会へと変革するよう訴えかけた250 。レーニンはこの大会のために『共産主義における左翼小児病 』を著し、イギリスおよびドイツの共産主義政党に見られる、各々の国の議会制度や労働組合への参加を拒否する態度を批判し、革命的目標を達成するためそのような行動を改めるよう要求した251 。最終的に、レーニンが予想した世界革命 勃発は実現せず、ハンガリーの共産主義政府は倒され、ドイツのマルクス主義者による蜂起も鎮圧された252 。
飢饉と新経済政策の導入・宗教弾圧 旱魃 (かんばつ)を一因とする1921年から1922年にかけてのロシア飢饉 は、1891年 - 1892年以来の深刻な飢饉であり253 、ヴォルガ河 流域を中心に1000万人単位が飢餓線上におかれ、死者は150万人 - 200万人254 、または、約500万人にのぼったともされる255 。レーニン率いるボリシェヴィキ政府が行った強制的な食糧徴発および、外貨獲得のための大量の穀物の国外輸出(飢餓輸出 )は、この飢饉に拍車をかけた256 。飢饉による被害者を救援するため、アメリカ政府は救済管理局 を設立し、食糧支援を行ったが257 、レーニンはこの支援に疑いの目を向け、注意深く監視した258 。
1920年から1921年にかけ、食糧徴発に対する地方の抵抗運動が反ボリシェヴィキを掲げる農民反乱へと発展する事例が、ロシア各地及び、赤軍が抑えていたウクライナ占領地で発生したが、いずれも政府によって鎮圧された259 。レーニンは国内の飢餓救済のため、穀倉地帯であるウクライナ の占領地でも穀物徴発を命じており、ヴォルガ地方 、モスクワ、ペトログラードへ輸送された。これによりウクライナも飢饉に見舞われていたが、被害がさらに拡大していた260 。
1921年2月、ペトログラードの労働者がストライキを決行したため、政府は市に戒厳令を敷き、デモを鎮圧するため赤軍を派遣した261 。3月には、クロンシュタット の水兵が出版・集会の自由や農民からの食糧徴発の停止などを求めてボリシェヴィキ政府に対する反乱 を起こしたが、レーニンは反乱兵が社会革命党および外国の帝国主義者によって煽動されていると宣言し、暴力的な報復措置を要求した262 。トロツキーが指揮する赤軍は反乱を3月17日までに鎮圧したが、その過程で数千人の死者を出し、生存者は強制労働収容所に抑留されることとなった263 。
1921年2月、レーニンは党政治局に対して「新経済政策 (NEP、ネップ)」を提出し、ボリシェヴィキ幹部の大半にその必要性を納得させた上で、4月には法律として通過させた264 。レーニンは『食糧税について 』と題する小冊子の中で新経済政策を解説し、ネップの施行はボリシェヴィキが本来の経済計画へと復帰したことを示すものであり、これまで政府は「戦時共産主義 」という経済政策を内戦によって強いられていたと主張した265 266 。ネップにおいて、ソビエト政府は戦時共産主義 の時代(1918年 - 1921年)に実施された産業の完全な国有化を部分的に撤回し、私人が中小規模の事業を営むことを認めた(大規模産業や銀行、外国貿易などは引き続き国家の統制下に置かれた)267 268 。さらに農民からの強制的な穀物徴発 (Prodrazvyorstka ) が廃止され、農産物の現物という形で支払う新たな税 (Prodnalog ) が導入された267 269 。また、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた270 。レーニンはネップを「国家資本主義 」と表現し271 、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張したが272 、多くのボリシェヴィキはこのような政策は社会主義原理への背信であると考えた273 。
レーニンの経済政策(穀物の強制徴発・産業の国有化等)で、ロシアはハイパーインフレに陥り、ルーブルの価値は戦前の500億分の1になった155 (ソビエト初期のハイパーインフレーション も参照)。経済学者ジョン・メイナード・ケインズ によれば、レーニンはこのインフレについて「資本主義を破壊する最善の方法は、通貨を堕落させることだ。政府はインフレを継続することで、密かに、気づかれることなく、国民の富のうち、かなりの部分を没収できる。」と述べたという274 。その後ルーブルは、1924年4月までに3回のデノミが行われ、インフレは沈静化した155 。
飢饉に際し、ロシア正教会は救済活動に動いた254 。モスクワ総主教であるティーホン は、正教会に対して飢餓民救済のため不必要な物品を売却するよう呼びかけ、当初はソビエト政府もこの活動を支持したが275 、レーニンは1922年2月、飢餓対策として教会の財産を没収した上で海外に売却すべきと党政治局に対して提案した254 。同月、ソビエト政府は弾圧に転じ、教会による援助を禁止し276 254 、さらに宗教施設が所有する全財産・貴重品の没収と売却を命じた277 。これに対しティーホンは、不必要なものは寄付するが、礼拝のために必要な貴重品を奪い取るのは神への冒涜であるとボリシェヴィキを批判した。両者の関係は極度に悪化した278 。他にも多くの聖職者が政府による接収に抵抗した、暴力的な衝突がもたらされた279 。 1922年3月、イワノボ・ボズネセンスク県 のシューヤ で政府による教会財産接収に対する発砲事件(シューヤ発砲事件 )が発生すると、レーニンはこの事件は教会上層部によって指導されたものと見なし、また直接的な弾圧を実行する機会と捉えた280 。シューヤ 発砲事件に対して、ルイコフ・カリーニンが農民との宥和を主張したのに対して、レーニン、スターリン、トロツキーは聖職者の銃殺を主張した254 。レーニンは3月19日、シューヤだけでなくモスクワなど各都市で正教会 指導者を逮捕し281 、裁判にかけるべきであると党政治局に文書で伝え「この機に撃ち殺せる反動 的聖職者・反動的ブルジョワの代表者は多ければ多いほどよい。今がまさに、あの者たちに今後の数十年間抵抗を考える気も起きないほどの教訓を与えるべき時である」と宣言した280 。1922年5月、レーニンは反ボリシェヴィキの聖職者の処刑を命じる布告を発し、その結果として8000人(8100人254 )以上の聖職者が処刑され殺害された276 。殺害された聖職者は1万4000人 – 2万人にのぼるとする研究もある282 。
まさに現在、飢饉地域で人が食べられ、通りで何千でないとしても何百の屍体が横たわっている今だからこそ、犯罪的抵抗を弾圧するのを躊躇することなく、もっとも苛烈で容赦のないエネルギーでわれわれは教会貴重品の収用を行うことができる(そのため、そうしなければならない)。
1922年の3月に始まった教会財産の強制収用は、軍や秘密警察を動員して行われたが、収用活動自体に莫大な費用がかかり、財政的成果は想定を下回った283 。また、接収した教会財産(貴重品類)を換金して得られた財の多くは、飢饉救済のために充てられることはなく、党とソビエト各機関の強化のための資金に流用された283 。また、大きな救済能力を有する教会に対するレーニン政権の敵対的な対応は、飢饉による犠牲者を拡大させた278 。
健康の悪化・スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題 レーニンの健康状態は1921年後半までに著しく悪化し、聴覚過敏や不眠、慢性的な頭痛などの症状に悩まされるようになった285 。1921年7月、党政治局の要求により、モスクワを離れてゴールキの邸宅 での1カ月間の静養に入った286 。レーニンは自殺を考え始め、妻のクルプスカヤとスターリンの両者に自殺用の青酸カリを入手するよう依頼した287 。晩年のレーニンの治療のため雇われた医師は26人にのぼり、多額の報酬で招かれた彼らの多くは外国人だった288 289 。一部の医師は、病因が1918年の暗殺未遂から体内に残る銃弾の金属の酸化 である可能性を指摘し、1922年4月には銃弾を体内から取り除く手術が行われた290 。1922年5月、レーニンは最初の脳卒中 発作を起こし、一時的な会話能力の喪失と右半身の麻痺を生じた291 。その後はゴールキで療養し、7月までにほぼ回復した292 。10月にはモスクワに戻ったが、12月に2度目の発作を起こし、再びゴールキでの静養生活に入った293 。
病状は悪化していたものの、レーニンは政治的動向に強い関心を持ち続けた。1922年6月 - 8月に行われた裁判において社会革命党の指導者らがソビエト政府への謀反を企てたことが認定されると、レーニンは有罪となった者たちを処刑するよう要求した(彼らは実際には無期限の懲役刑に処されたが、のちにスターリンの指導下で行われた大粛清 によって処刑された)294 。レーニンは帝政時代の官僚体制がソビエト・ロシアに引き継がれていることに懸念を抱いており295 、晩年には特にその思いを強めた296 。
レーニンが不在の間、スターリンは自らの支持者を要職に任命するとともに、自身はレーニンに最も近しい盟友であり、その後継者にふさわしい人物とのイメージを築くことで権力基盤を固め始めていた297 298 。スターリンは1922年12月に党政治局によってレーニンの治療計画の責任者に任命され、彼が他者と面会することを監督する役割を与えられたが299 、実際にはこの時期に両者の関係は悪化した。1922年の半ば、レーニンが外国貿易の国家独占を維持すべきと主張したのに対し、スターリンは他のボリシェヴィキを率いてそれに反対することを試みたため、レーニンはスターリンに対して次第に批判的になった300 。1922年末にはスターリンがクルプスカヤ(レーニンの妻)を電話での会話中に面罵し、それに激怒したレーニンが不快感を表した手紙をスターリンに送りつけるなど、両者には私的な衝突もあった301 。
レーニンとスターリンの最大の政治的対立は「グルジア問題 」をめぐって発生した。1921年2月にグルジア社会主義ソビエト共和国 が成立して以来、ロシア共産党中央委員会がグルジアをアゼルバイジャン 、アルメニア とともにザカフカース連邦 として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。1922年の夏、スターリンはグルジアをはじめウクライナ 、ベラルーシ 、アゼルバイジャン、アルメニアの各ソビエト共和国をロシア・ソビエト共和国 内の「自治共和国」として再編するという「自治化」案を提示した302 。レーニンはこれをスターリンとその支持者らによる大ロシア排外主義の表れであると批判し、代案としてロシアがグルジアなどと共により大きな1つの連邦国家を構成することを求め、そのような国家の名称として「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」を提示した303 。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、代案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニン案にそった決議を通過させた304 。ただし、スターリンはレーニンの同意を得た上で新国家の名称を「ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦)」へと変更させた305 。1922年12月30日、新国家の形成がソビエト大会 によって正式に承認され、ソビエト連邦 (以下ソ連)が成立した306 。レーニンは病床にあったが、新設されたソ連の行政府(ソ連人民委員会議 )の議長に任命された307 。こうして1922年までに共産党は旧ロシア帝国 の版図 の再統合を意図し、一度分離を認めたウクライナ 、ベラルーシ 、ザカフカース に赤軍 が進出し、共産党政権が成立した254 。
他方、グルジアでは、ザカフカーズ連邦 を通じてソ連に加入することになっていたため反対運動が継続するなか、ロシア共産党のグリゴリー・オルジョニキーゼ が独立派のグルジア共産党員を殴打する事件が起きた。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した308 。レーニンはグルジアのナショナリズムを是認しなかったが、それを抑圧する大ロシア排外主義はより大きな問題であると考えていた308 。
1922年12月から1923年1月にかけ、レーニンは同志のボリシェヴィキ、特にトロツキーとスターリンの個人的資質について論じた、いわゆる「レーニンの遺書 」を口述筆記させた309 。レーニンはこの文書の中で、スターリンは党書記長として不適格であり、その地位から解任されるべきと述べ310 、トロツキーについては「現在の党中央委員会において最も有能な男」と評価する一方で、自己を過信し、過度に行政的な傾向があることを批判した311 。1923年3月にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、その翌日にはグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した308 。しかし3月10日に発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を失った312 。
死と葬儀 1923年3月、レーニンは3度目の脳卒中発作に見舞われ、発話能力を失った313 。同月には右半身の部分麻痺と、耳で聞いた言葉の理解に支障をきたす感覚性失語 の症状も現れた314 。その後、5月までに緩やかな回復の兆しを見せ、運動と発話、筆記の能力を一部取り戻し315 、10月にはクレムリンへの生前最後の訪問を行った316 。最期の数週間、レーニンは同志であるジノヴィエフ 、カーメネフ 、ブハーリン の訪問を受け、中でもブハーリンはレーニンの死の当日にゴールキの邸宅を訪れていた317 。
同年1月22日、ソビエト政府はレーニンの死を公表した322 。23日には共産党、各労働組合、各ソビエトからの哀悼者がゴールキの邸宅を訪れ、レーニンの遺体が入った赤い棺がボルシェヴィキの指導者らによって担ぎ出された323 。その後、レーニンの棺はモスクワまで列車で輸送されたのち、労働組合会館 へと運ばれ、その場で正装安置 された324 。その後の3日間、レーニンの遺体を見るため労働組合会館には100万人近くの哀悼者が訪れた(その多くは厳しい寒さの中で何時間も列に並んだ)325 。1月26日に開催された全連邦ソビエト大会ではレーニンへの敬意が示され、スターリン、カリーニン、ジノヴィエフによる演説が行われた325 。トロツキーは当時コーカサスで病後療養しており、この大会には出席しなかった。のちにトロツキーは、レーニンの葬儀についてスターリンが誤った日付を電報で送ったことにより、それに間に合うようモスクワに戻ることができなかったと主張した326 。
葬儀は1924年1月27日に挙行され、レーニンの遺体は軍歌が演奏される中で赤の広場 まで運ばれ、集まった群衆の前で一連の演説が行われた後、急造された仮設の廟に安置された327 328 。葬儀は厳しい寒さの中で行われたが、参列者は数万人にのぼった329 。
その後、赤の広場 には建築家アレクセイ・シューセフ の設計による新しい木造の霊廟 が建設された328 。妻であるクルプスカヤの抗議にもかかわらず、レーニンの遺体は長期間の展示に耐えるよう防腐処理 が施された上で、新しい霊廟 に移され、1924年8月から一般公開された330 328 。防腐処理の過程で脳は取り除かれたが、1925年に研究のため解剖され、その結果レーニンが極度の硬化症を患っていたことが確認された331 。1929年7月、共産党政治局は木造の霊廟を花崗岩 造の新しい霊廟に置き換えることを決定し、新霊廟の建設は1933年に完了した332 。
影響・評価
ソ連における影響 ソビエト連邦において、レーニンへの個人崇拝は存命時からすでに始まっていたが、本格的にそれが確立されたのは死後においてであった337 。歴史家のニナ・トゥマーキンによれば、それはアメリカにおけるジョージ・ワシントン の個人崇拝以来、「最も手の込んだ革命指導者の個人崇拝」であり338 、 しばしば「宗教じみた」性質が指摘されている339 。レーニンの胸像や銅像が国中のほぼすべての村に建てられ340 、郵便切手やポスター、『プラウダ』と『イズベスチヤ 』の1面などはレーニンの顔で飾られた341 。レーニンが住んだ、もしくは滞在した場所は彼の記念館に姿を変え340 、多くの図書館・通り・農場・博物館・町・地域などがレーニンに因んだ名前に改名された340 。ペトログラードは1924年に「レニングラード」と改名され342 343 、出生地であるシンビルスクは「ウリヤノフスク」に改められた344 。また、ソビエト連邦における最高の勲章としてレーニン勲章 が設立された341 。これらすべてはレーニン自身の望みに反しており、未亡人のクルプスカヤによって公然と批判された329 。 多くの伝記作家が、レーニンの著作はソビエト連邦において聖書 のような扱われ方をしていたと述べており345 、リチャード・パイプスは「彼(レーニン)の意見はすべて、ある政策や他の政策を正当化するために引用され、福音書 のような扱いを受けていた」と指摘している346 。レーニンの死後、スターリンは党中央委員会の決定として、あらゆるレーニンの著述(手紙や私的な性質のものを含む)を収集し、マルクス・エンゲルス・レーニン研究所 内の秘密書物庫に収蔵するよう命じた347 。クラクフのレーニンの蔵書のように、国外に存在する資料も、研究所の書物庫に保管するため(多くの場合多額の費用で)収集された348 。ソ連時代、レーニンの書物庫は厳格に管理されており、アクセスできる者は党幹部などごく一部に限られていた349 。レーニンの著述のうち、スターリンにとって有益なものはすべて出版されたが、それ以外のものは非公表のままにされた350 。スターリン体制下、レーニンは盛んにスターリンの親友として描写され、 ソビエトの次期指導者がスターリンとなることを支持していたと主張された351 。他方、レーニンが非ロシア系の血を引いていた事実、および貴族の地位を有していた事実は隠蔽され341 、特にレーニンがユダヤ系の血を引いていたことは1980年代まで公表されなかったが352 、その理由はソ連内に存在した反ユダヤ主義であるとも353 、それがスターリンによるロシア化 政策の妨げとなるためとも354 、国際的な反ユダヤ主義者が持つ反ソ感情を激化させないようにするためとも指摘されている353 。レーニンがユダヤ系の血を引くことが明らかにされると、この事実はロシアの極右勢力によって繰り返し強調され、レーニンが伝統的ロシア社会の根絶を願ったことはユダヤ系の遺伝子によって説明できると彼らは主張した355 。
スターリンの死後、ソ連の指導者となったニキータ・フルシチョフ によって非スターリン化 のプロセスが開始されたが、フルシチョフはこのプロセスを正当化するため、レーニンの著述(スターリンについてのものを含む)を引用した356 。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフ が「グラスノスチ 」および「ペレストロイカ 」の政策を導入した際にも、ゴルバチョフは自らの政策を「レーニンの原理」への回帰と表現した357 。1991年末のソ連解体 の最中、ロシア大統領ボリス・エリツィン は、レーニンの書物庫を共産党管理下から解放することを命じ、その結果6000点以上のレーニンによる著述が非公表のままにされていたことが発覚した。それらの文書は機密指定から外され、 学術的研究対象として利用可能になった358 。一方で、エリツィンはレーニン廟を撤去しなかった。エリツィンは、撤去を実行するにはレーニンはあまりにも一般大衆から人気と尊敬を集めていると認識していた359 。レーニンは死後、ソ連において常に極めて高く評価され、死後に評価を落としたスターリンと比較して遥かに長期間その名声を保っていた360 。
2012年、ロシア自由民主党 の議員によってロシアからレーニンのモニュメント をすべて撤去する提案が出されたが、この提案はロシア連邦共産党 からの猛反対に遭った361 。同年には、モンゴルの首都ウランバートルに残っていた最後のレーニンの銅像が撤去され、その際に同市の市長はレーニンを「殺人者」と表現した362 。2012年12月、ロシア大統領のウラジーミル・プーチン はレーニン廟を聖遺物 になぞらえて保存を主張した363 。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた364 。
ウクライナでは、2013年 - 2014年にかけてのユーロマイダン 運動の期間中、デモ参加者によって各地のレーニン像が破壊された365 。2015年4月、ウクライナ政府は脱共産化法に基づき、レーニン像を含むすべての共産主義的モニュメントの撤去を命じた366 。
国際的影響 レーニンの政権は約70年にわたりロシアを支配することとなる政体の枠組みを築き、それは後発の共産党国家にとっての模範ともなったため、その影響は全世界に及んでいる367 368 。20世紀には、レーニンの思想に倣った社会主義国家が世界各地で出現した369 。1972年、歴史家マルセル・リーブマン は「ラテンアメリカからアンゴラまで、今日の世界でレーニン主義の継承を主張しない反乱的運動はほぼ存在しない」と書き残している370 。
評価 ドミトリー・ヴォルコゴーノフ はレーニンを評して「あれほどの規模で、あのように巨大な社会を、あれほどに大きく変革した人物は歴史上ほとんど例を見ない」と述べている374 。歴史学者アルバート・レシス は、20世紀で最も重要な出来事が十月革命とみなされるならば、レーニンは「善かれ悪しかれ、今世紀で最も重要な政治指導者として扱われなければならない」と指摘している10 。ロバート・サーヴィス は一般にレーニンは20世紀における「主要人物 (principal actor) 」の1人と扱われているとしており375 、同様にクリストファー・リードも「最も広く知られ、全世界的に認識される20世紀の象徴的人物の1人」とレーニンを評している372 。アメリカの雑誌『タイム 』はレーニンを 「20世紀で最も重要な100人」にリストしているほか376 、歴史上の象徴的政治家の上位25名にも選出している377 。
レーニンの政権は多くの歴史学者や伝記作家によって全体主義 体制、あるいは警察国家 と表現され378 379 、また一党独裁体制であったと評されている380 。一部の学者はレーニンを独裁者 と形容しているが381 、歴史家ジェームズ・ライアンはレーニンが「一切の提案が承認され、実行されるという意味の独裁者ではなかった」と述べ、党員がレーニンの意見に異議を唱えることも多かったと指摘している382 。同様に、ルイス・フィッシャー も「レーニンは一種の独裁者であったが、のちにスターリンがなったような種類の独裁者ではなかった」と述べている383 。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「党による独裁」を確立したが、ソビエト連邦の政体が「1人の男による独裁」に変化したのはスターリンの時代になってからであったとの見解を示している384 。一方でヴォルコゴーノフは、国家的暴力が共産主義社会の実現には不可欠と信じ、チェーカー (秘密警察 )やグラーグ (強制収容所 )などのシステムを創設したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と評している385 。
レーニン政権の独裁的・非民主的な性質は、ロシア国内外の社会主義者によって批判された386 387 。チェコ系オーストリア人のマルクス主義者カール・カウツキー は、1918年に反レーニン主義的な著作『プロレタリアートの独裁』を出版し、ソビエト・ロシアの反民主主義的性質を非難した(レーニンはこの批判に対して攻撃的な反論 を出版した)388 387 。ドイツのマルクス主義者ローザ・ルクセンブルク もカウツキーと同様の見解を示し389 、ボリシェヴィキが民主的に選ばれた憲法制定議会を解散したことを批判するとともに、レーニン政権を「プロレタリアートによる独裁ではなく、ほんの一握りの政治家による独裁」と評した387 。
イギリスの首相ウィンストン・チャーチル はレーニンについて「彼の慈愛は北極海のように冷たく広い。彼の憎悪は絞首刑執行人の首なわより固い。」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった。」「ロシア人の最大の不幸はレーニンが生まれてきたことだが、その次の不幸は彼が死んだことだ(レーニンが志半ばで死去し、スターリン体制が出現したことを指す)」と評した390 。反共主義者のチャーチルは、ロシア革命でボリシェヴィキ政権が誕生したことに否定的で、彼はロシア革命当時に、ボリシェヴィキ政権が強大化する前に打倒しなければ、諸列強は後悔する時がくるだろうと警鐘を鳴らしていた391 。
政治思想 レーニンは忠実なマルクス主義 者であり392 、自らのマルクス主義の解釈(1904年にマルトフ によって「レーニン主義 」と初めて呼ばれた393 )こそが唯一の真正で正統なものであると考えていた394 。レーニンのマルクス主義的見解では、人類は最終的に純粋な共産主義へと到達し、国家も階級も存在しない平等主義社会を築き、そのような社会で労働者は搾取 と疎外 から解放され、自らの運命をコントロールし、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る 」というルールを順守して行くものとされた395 。ヴォルコゴーノフによれば、 レーニンは自らがロシアに押し付けた道筋は、最終的にはこのような共産主義社会の実現につながると「深く、心から」信じていた396 。
自らのマルクス主義的見解に基づき、レーニンは当時の社会の状態から直接共産主義に移行することは不可能であり、その前にまず社会主義の段階に入ることが必要であると考えていた。したがって、レーニンの主な関心事はいかにロシアを社会主義社会へと変革するかということであり、そのためには「プロレタリアートによる独裁 」が、ブルジョワジーを抑圧し、社会主義的経済を発達させる上で不可欠であると考えていた397 。レーニンは社会主義を「生産手段 が社会的に所有されている、良識ある協力者による体制」 と定義し398 、 その経済体制は潤沢な社会 を達成するまで発展する必要があると考えていた395 。その実現のため、レーニンは中心課題がロシア経済を国家の統制下に置くことであり、「すべての市民」を、彼が言うところの「国家によって雇用される従業員」に転化することであると考えていた399 。
レーニンの解釈による社会主義は、中央集権的で、計画的で、国家統制的なものであり、そこでは生産と分配の両方が厳格にコントロールされた395 。レーニンは、国中の全労働者が自発的に協力し、国家による経済的・政治的な中央集権化を可能にすると信じていた400 。レーニンが要求した生産手段の「労働者による統制」とは、事業がそれに従事する労働者によって直接統制されることではなく、すべての事業の運営が1つの「労働者国家」の統制下に置かれることを意味していた401 。その結果、レーニンの思想には、一般の労働者による統制と、中央集権化された階層 的・威圧的な国家機構という、2つの矛盾するように感じられるテーマが含まれていた402 。
1914年以前には、レーニンの見解はヨーロッパの正統派マルクス主義 と大筋で一致していた392 。しかし、レーニンの思想(レーニン主義)はその発展に伴って既存の正統派マルクス主義に修正を加え、マルクス主義思想に新しい要素を導入した392 。レーニン主義は他のマルクス主義思想と比べてより絶対主義的・純理論的な観点を採用しており392 、プロレタリアートを革命に導く前衛 の役割を重視している点で際立っていたほか403 、革命的手段として暴力が果たす役割を強調していた404 。プロレタリア国家がどのようにあるべきかについても、レーニンの信念はマルクス主義主流派の思想から逸脱していた403 。レーニンが、ブルジョワジーの協力を一切排除した、強力で中央集権化された国家機構を求めたのに対し、カウツキー のようなヨーロッパのマルクス主義者は、民主的に選ばれ、プロレタリアートが多数派を占める議会制政府を想定していた403 。
レーニンは、資本主義諸国における議会制民主主義 が、民主主義の幻想を与えつつ、「ブルジョワジーによる独裁」を維持していると考えており405 、「ソビエト政府は、最も民主的なブルジョワ共和国より何百万倍も民主的である」と宣言していた406 。レーニンは自らの「プロレタリアートによる独裁」は民主的であると見なしており、その理由としてソビエト への代表者を選ぶための選挙が存在すること、すべての労働者が国家の統治に参加していることなどを主張した407 。レーニンはアメリカの議会制民主主義制度について、「2つのブルジョワ政党による、壮観かつ無意味な決闘」と表現し、どちらの政党もアメリカのプロレタリアートを搾取する「抜け目ない億万長者」によって指導されていると述べた405 。レーニンは自由主義 に反対し、価値としての自由への嫌悪感を示しており408 、自由主義における自由は資本家による搾取から労働者を解放せず、詐欺的なものであると考えていた409 。
彼はマルクスが伝えた真実を受け入れており、その真実を補強するために資料や論拠を選定した。彼は古くからのマルクス主義の聖典を疑うことをしなかった。彼はただそれを解説したのであったが、その解説は新たな聖典となった。
レーニンは国際主義者 であり、世界革命 を熱心に支持し、国境を時代遅れの概念と考え、ナショナリズム は階級闘争の妨げであると捉えていた411 。また、社会主義社会において世界各国は必然的に合併し、最終的に1つの世界政府 を形成すると考えていた412 。他方、レーニンは著述の中で反帝国主義 の思想を支持し、すべての民族が「民族自決権 」を有すると宣言していた413 。レーニンは民族解放戦争を支持しており、そのような闘争が、ある社会主義国家から少数派が分離独立するために必要となる可能性も認め、社会主義国家は「神聖で、誤りや脆弱さがないと保証されている」わけではないと述べていた414 。
レーニンは、非マルクス主義の哲学者・社会学者などから考えを取り入れるマルクス主義者たちを冷笑していたが415 、彼自身の思想もまた、ロシアのマルクス主義理論だけでなく、ナロードニキ 運動などロシア革命運動の(非マルクス主義的な)思想から影響を受けていた416 417 。レーニンは変化する環境に合わせて自らの思想を適応させており418 、戦争、飢饉、経済崩壊などの中でロシアを統治するという実際的な現実もその思想に影響を与えた419 。
人物 伝記作家ルイス・フィッシャー は、レーニンが「急激な変化や極端な変革の愛好者」であり、「折衷とは全く無縁であって、何事も黒か赤 かの二者択一に誇張する人間」であったと評している420 。歴史学者リチャード・パイプス は、レーニンが非常にカリスマ性 のある人物であったと指摘しており421 、ドミトリー・ヴォルコゴーノフ も同様に「(レーニンは)その強烈な個性そのものによって、人々に影響を及ぼすことができた」と評している422 。他方、レーニンの友人であったマクシム・ゴーリキー は彼の容姿について「禿頭で、ずんぐりと」して「あまりにも平凡」であり、「指導者然とした印象」を与えるものではなかったと述べている423 。歴史学者ロバート・サーヴィス によれば、レーニンは自分が宿命を負った人間 (man of destiny) であると考えており、自らの理想の正しさと革命指導者としての能力に少しの疑念も抱いていなかった424 。
サーヴィスによれば、若き日のレーニンは非常に感情的であり425 、皇帝の権威に対して強い憎悪を示すのと同時に426 、マルクス、エンゲルス、チェルヌイシェフスキー といった思想家達への「愛情」を培い、彼らのポートレイト を所有し427 、私的な会話の中で自らがマルクスとエンゲルスを「愛している」とも語っていた428 。ヴォルコゴーノフの見解では、レーニンはマルクス主義を「絶対的な真理」と捉えており、「宗教的な狂信者」のように振る舞っていた429 。バートランド・ラッセル もまた、レーニンが「マルクス主義の福音への確固たる、宗教的な信仰」を有しているとの印象を抱いた430 。それらの指摘にもかかわらず、レーニンは無神論者 であり、また宗教の批判者であった。レーニンは無神論が社会主義の前提であると理解しており、したがって「キリスト教社会主義 」は名辞矛盾であると考えていた431 。
レーニンはロシア語の他にフランス語、ドイツ語、英語を話し、また読むことができた432 。健康に気を遣って定期的な運動を心がけており433 、水泳、狩猟、サイクリングを好んだほか434 、スイスでは山歩きへの情熱を育んだ435 。ペットも好み436 、特にネコ を可愛がっていた437 。乱雑さを嫌い、デスクは常に片付けられ、鉛筆は尖った状態に保たれており、仕事中には完全な静寂を要求した438 。パイプスは、レーニンが「私的な欲望について極端に自制的」であり、したがって「質素な、ほとんど禁欲的と言える生活スタイル」を送っていたと指摘している439 。フィッシャーによればレーニンは「最低限度」の虚栄心しか持っておらず440 、したがって自らに対する個人崇拝 も忌み嫌っていたが、それが共産主義運動の統一化に有益である可能性は認めていた441 。
レーニンの性格について、サーヴィスは時に「気まぐれで短気」であったと述べ442 、パイプスは「徹底的な人間嫌い」であったと評したが443 、歴史家クリストファー・リードはパイプスの見解に反論し、レーニンが人間、特に子供に対して親切心を示した例は数多く存在すると指摘している444 。複数の伝記作家によれば、レーニンは反論されることを許容できず、しばしば自分と異なる率直な意見をはねつけたほか445 、自らの見解にとって不都合な事実を無視し446 、妥協することを極度に嫌い447 、間違いを認めることは非常に稀だった448 。
レーニンは自らが民族的にロシア人 であると認識していたが449 、母国ロシアよりも他のヨーロッパ諸国、特にドイツは文化的に優れていると考えており450 、ロシアを「アジア諸国の中でも最も未開で、中世風の、恥ずべき後進国」と評していた405 。また、ロシア国民に見られる規律や勤勉さの欠如に苛立っており、青年期からロシアが文化的により西洋的・ヨーロッパ的になることを望んでいた451 。
筆名 ウラジーミル・ウリヤノフが恐らくシベリアのレナ川 に由来する「レーニン」という筆名を初めて公に使用したのは1901年12月であった452 453 。ウラジーミルは他にも複数の偽名を使用していたが、『何をなすべきか 』を「レーニン」の筆名で発表して以降、他のマルクス主義者からこの名前で広く認知されるようになった55 。ウラジーミルはしばしば「N・レーニン(Н. Ленин)」という形でこの名を用い、イニシャルの「N」は実際には無意味であったが、のちにこれが「ニコライ」を示すとする誤解が一般的に広まった454 。なお、一般的に「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」という名前の表記も用いられるが、本人自らがそのように署名した例はなく、455 上記サインのように「ウリヤノフ/レーニン(Ульянов/Ленин)」または単に「レーニン」と綴っていた。
「レーニン」の名は、帝国警察から身元を隠すためにウラジーミルが使用した150以上の偽名の中の1つであり、その由来についての定説は存在していない456 。ウラジーミルが1901年当時に敬愛していたゲオルギー・プレハーノフ の用いた多数の偽名の中に、ヴォルガ川 にちなんだ「ヴォルギン」があり、そこから同じくロシアの大河であるレナ川にちなんだ「レーニン」の名を考案したとの説があるほか456 、自身が送られた流刑地の近くを流れていたのがレナ川だったためという説も挙げられるが、彼のいたシュシェンスコエ の側を流れていたのはエニセイ川 であり、実際にレナ川を訪れたことは一度もなかった457 。ほかにも、中高等学校時代の級友の名前に由来するという説や456 、過去に交際した女性の名前に由来するとの説などが存在するが、ロバート・サーヴィス は諸説について「擬似心理学的な憶測」と述べている458 。
著作
全集
参考文献
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脚注
3.6.
十月革命による権力掌握
ウラジーミル・イリイチ・レーニン (ロシア語 : Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日1 – 1924年1月21日)は、ロシア の革命家 、政治家 、哲学者 。ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 およびソビエト連邦 の創設者であり、初代指導者。ボリシェヴィキ を率いて1917年の十月革命 を成功させ、世界史上初の社会主義政権を樹立。ロシア共和国の人民委員会議議長(首相)として1922年のソビエト連邦の成立 を指導し、1924年に死去するまでソ連人民委員会議議長 の地位にあった。「レーニン」は筆名(#筆名 も参照)であり、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ (ロシア語 : Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)。
1919年には第二インターナショナル に代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルン の創設を主導。マルクス主義者 として政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、マルクス主義を理論的に発展させた。その思想はレーニン主義 およびマルクス・レーニン主義 として継承され、世界の社会主義国および国際的革命運動に大きな影響を与えた( § 国際的影響 )。
概要
1870年、ロシア帝国 シンビルスク(現: )で の教育者の家庭に生まれた。1887年、皇帝暗殺計画に関与した兄が処刑されたのちに革命思想に染まり、学生運動に参加して を放校された。1893年にはサンクトペテルブルクに移り、マルクス主義活動家となったが、1897年に扇動罪で逮捕され、シベリアの寒村での に処された。刑期が終わると西ヨーロッパに移り、ロシア社会民主労働党の幹部として頭角を現したが、同党は1903年にレーニン派のボリシェヴィキと 派の に分裂した。1914年に勃発した については資本家による 戦争と定義し、戦争を全ヨーロッパ的なプロレタリア革命へと転化することを提唱した。1917年の で帝政が崩壊し、 が樹立されると、封印列車で帰国したレーニンはボリシェヴィキの指導者として反臨時政府運動を展開し、十月革命によって体制を転覆させ、自身が首班となるソビエト政権を樹立した。
1921年頃からレーニンの健康状態は著しく悪化し、静養のためクレムリンを離れることが多くなった。病状が悪化する中、ソビエト連邦(ソ連)の形成には構想の段階から関与し、1922年12月にソ連が建国されると、その行政府 の初代議長に選出された。一方で、この頃にはグルジア問題 などを巡ってスターリン との対立を深め、口述筆記させた文書の中で党書記長からスターリンを解任するよう求めた。1923年に3度目の脳卒中を起こすと、意思疎通に困難をきたす状態に陥った。1924年1月21日、ゴールキの邸宅で意識不明の状態となり、そのまま死去した。遺体は防腐処理を施された上で、赤の広場に建てられた霊廟(レーニン廟 )にて一般公開された。
出生から青年期まで
出自 レーニンの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフ は元農奴 の家系の出身であり、イリヤの父親の民族性は不明瞭なものの2 、母親はカルムイク人 とロシア人 の血を半分ずつ引いていた3 。イリヤは下層階級の出自であったが、カザン帝国大学 で物理学と数学を学んだのち4 、ペンザ の貴族学校で教職を得て、中流階級の身分を手にした5 。1863年の半ば、イリヤはのちにレーニンの母となるマリア・アレクサンドロヴナ・ブランク と結婚した6 。マリアは裕福なドイツ・スウェーデン系の母と、ユダヤ系ロシア人の父との間に生まれ、彼女の父はキリスト教に改宗し、医師として働いていた7 。結婚後、イリヤは教育者として出世を続け、やがてシンビルスク地方の公立学校の視学官 となり、帝国政府による近代化計画の一環として450校以上の学校設立を監督した。1882年1月には教育分野における功績が認められて聖ウラジーミル勲章 を授与され、世襲貴族の地位を得た8 9 。
生い立ち 1870年4月22日(ロシア暦 の4月10日10 )、レーニンはロシア帝国 のシンビルスクでウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ として生まれ、生後6日で洗礼 を受けた11 。ウラジーミルは両親の3番目の子であり、上には姉のアンナ(1864年生)と兄のアレクサンドル (1866年生)が、下にはオルガ(1871年生)とドミトリー(1874年生)、マリア(1878年生)がおり、他に生後すぐ早世した2人の姉と弟がいた12 。父のイリヤがロシア正教会 の敬虔な信者であった一方で、母のマリアはルーテル教会 の信徒として育てられたもののキリスト教 的信仰にはほとんど関心がなく、彼女の宗教観は子供たちにも影響を与えた13 。両親はともに君主制主義者 かつ自由保守主義者 であり、ロシア皇帝アレクサンドル2世 が実施した農奴解放令 も熱心に支持しており14 、子供たちをロシア人として育てた15 。2人は政治的過激派を避けており、危険人物として帝国警察の監視下に置かれていたという記録も存在していない14 。ウラジーミルは姉弟の中でも特に妹のオルガと親しく、彼女に対してはしばしば威張り散らしていた。当時の彼は極めて競争心が強く、気性の荒さを見せていたが、自分が犯した間違いについては認めることが多かった16 。入学したシンビルスク古典中高等学校では非常に成績優秀であった一方、スポーツにも熱心であり、自由時間はほとんど屋外に出るかチェス を遊んで過ごした17 。
青年時代 1886年1月、父のイリヤが脳内出血 によって死亡した18 。父の死後、レーニンの振る舞いは突飛で攻撃的になり、神への信仰も放棄した19 。その頃、兄のアレクサンドルはサンクトペテルブルク大学 で絶対君主制 に反対する政治的活動に取り組んでいた。彼はその後、ロシア皇帝であるアレクサンドル3世 の暗殺を目論む革命的結社に加わり、暗殺用爆弾の製造役に選ばれた。しかし暗殺計画は決行される前に露呈し、アレクサンドルら計画者は逮捕されたのち裁判で死刑を宣告され、1887年5月に絞首刑に処された20 。父と兄の死により精神的ショックを受けたものの、引き続き学業に励んだレーニンは古典中高等学校を首席で卒業し、その際には突出した成績を称えて金メダルを授与された21 。 1887年8月、父の母校であるカザン大学 に入学して法学 を専攻したが22 、12月には学生運動 の集会に参加したことから警察に拘束されて大学から退学処分を受け23 、帝国内務省によってコクシキノ村のウリヤノフ家の所有地に追放された24 。
1890年5月、母のマリアによる当局との交渉の末、レーニンは学外学生としてサンクトペテルブルク大学 法学部の卒業検定試験を受けることを許可された31 32 。1891年、レーニンは試験を受けるため春と秋の2度サンクトペテルブルクを訪れ、すべての試験に合格したが33 、2度の試験の合間である5月には妹のオルガが腸チフス で病死した34 31 。1892年1月、レーニンはサンクトペテルブルク教育管区局から第一級学位を授与され33 、同月からサマーラの弁護士事務所に弁護士補として一年半ほど勤めたが、1893年8月にはその職を辞してサンクトペテルブルクに移住した35 。
1891年から92年にかけて、レーニンが当時住んでいたロシアのヴォルガ川 流域で飢饉が発生し、知識人を含む多くの人々が救済活動をはじめたが、レーニンは飢饉が大衆を急進化させるのに役立つとの見解を持っており、それらの知識人による救済活動を「甘ったるい感傷行為」として否定した36 37 。
革命家として
初期の活動 帰国後はロシア各地を巡り、国外から大量に持ち帰った非合法な革命的出版物を当地のストライキ労働者に配った41 。 1895年秋、レーニンはサンクトペテルブルクの全てのマルクス主義労働者グループを統合して「労働者階級解放闘争同盟 」を結成した22 。その後、闘争同盟の非合法機関紙『ラボーチェエ・デーロ 』の発行に関与したが、同年12月に他の39人の活動家と共に逮捕され、扇動罪に問われた42 。逮捕されたレーニンは罪状を全面的に否認したが、その後刑の宣告まで1年にわたって収監されることとなった43 。
1897年2月、レーニンは東シベリアでの3年間の流刑を宣告され、身の回りの整理のためサンクトペテルブルクで3日間過ごすことを許可されたが、彼はその猶予期間を闘争同盟のメンバーと会うために利用した44 。レーニンは政府に対する大きな脅威ではないとみなされており、流刑地のシュシェンスコエ 村では警察の監視下に置かれたものの、村から他の革命活動家と文通することは可能であり、近くのエニセイ川 で泳ぐことや水鳥の狩猟を楽しむことも許可されていた45 。
1898年5月、レーニンは流刑地でクルプスカヤと再会した。彼女はストライキを組織したことで1896年8月に逮捕され、当初ウファ での流刑に処されていたが、自分とレーニンが婚約していると主張して当局を説得し、シュシェンスコエ村に移送されてきた46 。その後、1898年7月10日にレーニンとクルプスカヤは結婚した46 。この頃、ドイツでは選挙による平和的な社会主義実現を主張するエドゥアルト・ベルンシュタイン ら修正主義 者が台頭し、マルクス主義者の間でイデオロギー上の対立が生じていた。その中でもレーニンは暴力革命 を強力に支持し続け、『ロシア社会民主党員による抗議』という著作の中で修正主義者の主張を攻撃した47 。1899年には『ロシアにおける資本主義の発展 』を著し、 農業社会主義 を批判すると共に、ロシアの経済発展に対するマルクス主義的な分析を提示した。この著作はウラジーミル・イリイン (Vladimir Ilin) という筆名で出版されたが、内容への評価は低かった48 。
ロシア社会民主労働党の分裂 ウラジーミル・ウリヤノフが初めて「レーニン」の筆名を使用したのは1901年12月であり53 、翌1902年にはこの筆名で『なにをなすべきか?』と題するパンフレット を出版し、前衛党 がプロレタリアート革命を指導することの必要性について論じた54 。レーニンはカール・カウツキー の言葉を引用し、「社会主義意識は、プロレタリアート の階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」と述べ、この考え方は後に「外部注入論」と呼ばれるようになった。『なにをなすべきか?』の出版は大きな反響を呼び、以降の彼は「レーニン」の名でロシア帝国のマルクス主義者に広く知られるようになった55 。
同時期にはミュンヘンで『イスクラ』の執筆を続け、イデオロギー上の対立者や批判者、とりわけ社会革命党 (エスエル)に対して攻撃を加えた56 。1902年4月、バイエルンの警察を恐れたレーニンは『イスクラ』と共にロンドンに移住した57 。ロンドンでは同胞のマルクス主義者レフ・トロツキー と友人になった一方で58 、丹毒 を患って『イスクラ』編集局で中心的役割を担うことができなくなり59 、レーニン不在の間に『イスクラ』の本部はジュネーヴ に移された59 。
1903年7月、ロンドンでロシア社会民主労働党の第2回党大会が開かれたが60 、大会ではレーニンの支持者とマルトフの支持者が激しく対立し、マルトフは、党員は党指導部に縛られることなく独自の意見を表明することを許されるべきと主張したが、レーニンはそれに反対し、強力な指導部が党全体を完全にコントロールすることの必要性を強く主張した61 。ロシア社会民主労働党はレーニン支持派の「ボリシェヴィキ (多数派)」とマルトフ支持派の「メンシェヴィキ (少数派)」という2つの派閥に分裂し、『イスクラ』編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となった。党大会後も両者の論争は続き、ボリシェヴィキがメンシェヴィキを「規律を欠く日和見主義・社会改良主義」と批判した一方で、メンシェヴィキはレーニンを「独裁・専制主義者」として非難した62 。メンシェヴィキに憤慨したレーニンは『イスクラ』編集局を辞職し、1904年5月にメンシェヴィキを批判した著作『一歩前進、二歩後退 』を出版した63 。
ロシア第一革命と労農民主独裁論 1905年1月、サンクトペテルブルクで起こった血の日曜日事件 をきっかけに動乱がロシア帝国全土に広がり、1905年革命 (ロシア第一革命)として知られる革命へと発展した64 。レーニンはこの動乱においてボリシェヴィキがより大きな役割を演じることを要求し、暴力的な蜂起を呼びかけた65 。1905年8月には『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術 』を出版して革命に対する見解を提示し、ロシアの自由主義的ブルジョワジーは立憲君主制 への移行で満足してしまうため革命の遂行を裏切ると予想した上で、プロレタリアートは農民と同盟を結んで君主制を打倒し、臨時的に「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁(労農民主独裁)」体制を樹立する必要があると論じた66 。
ロシア第一革命への反応としてニコライ2世 は十月詔書 を発布し、いくつかの自由主義的改革を約束した。レーニンはこの状況下では安全と見てサンクトペテルブルクに帰還した67 この頃、レーニンは党員からの徴収や裕福な支援者からの寄付だけでは活動資金源として不十分と認識し、郵便局、列車、銀行などへの強盗による資金集めを承認した。ボリシェヴィキはレオニード・クラーシン の指導下でそのような犯罪行為に手を染め始め、1907年6月にはヨシフ・スターリン 指揮下の党員がグルジアのトビリシ で帝国銀行に対する武装強盗 を決行した68 。1906年4月にストックホルム で開かれた第4回党大会において、レーニンによる暴力や強盗の支持はメンシェヴィキから激しく非難された69 。
1907年1月、レーニンはサンクトペテルブルクのフィンランド大公国 領クオッカラ地区で生活を始め33 、当地ではボリシェヴィキの拠点構築に関与した70 。その後、1907年5月にロンドンで開催された第5回党大会ではボリシェヴィキがロシア社会民主労働党における支配的勢力を取り戻した70 。帝政政府が反対派への弾圧を強め、秘密警察 機関の「オフラーナ 」に革命活動家の逮捕を命じると、レーニンはフィンランド領から逃亡してスイスに移住した71 。
1910年8月にコペンハーゲン で開かれた第二インターナショナル 第8回大会にロシア社会民主労働党の代表として参加した後75 、レーニンは妻や姉らと共にフランスの首都パリに居を移し76 、当地ではフランス人ボリシェヴィキのイネッサ・アルマンド と親密な仲になった77 。一部の伝記作家は1910年から1912年にかけてレーニンがアルマンドと不倫関係にあったと示唆している77 。1912年1月、レーニンはプラハでロシア社会民主労働党の協議会を主催したが、召集された参加者18名のうち16名がボリシェヴィキであり、メンシェヴィキは2名だけだった78 。このプラハ協議会 でボリシェヴィキは独自に新たな党中央委員会を選出した78 79 。党中央委員に選ばれた7名にはレーニン、ジノヴィエフ 、オルジョニキーゼ の他、帝国のスパイであるマリノフスキーも含まれており78 、選任されたばかりの委員の多くがロシアへの帰国後に逮捕された80 。逮捕によって欠員が生じたことを受け、レーニンはスターリンを新たな党中央委員として抜擢した80 。
第一次世界大戦と『帝国主義論』 1914年に第一次世界大戦 が勃発した時、レーニンはオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィア に居た85 。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は敵国同士となったため、ロシア国籍のレーニンは逮捕され、少しの間収監された86 。釈放後、レーニン夫妻はベルンに戻り87 、1916年2月にはチューリヒ に居を移した88 。レーニンはドイツ社会民主党が第二インターナショナルのシュトゥットガルト決議(社会主義政党が戦争に反対することを義務付けていた)に反し、自国の戦争遂行を支持したことに怒り、第二インターナショナルは消滅したものとみなした89 。その後、社会主義者による1915年9月のツィンマーヴァルト会議 と1916年4月のキーンタール会議 に出席し90 、全ヨーロッパでこの「帝国主義戦争」を、プロレタリアートが貴族階級・ブルジョワ階級に立ち向かう「内乱」へと転化するよう、各国の社会主義者に呼びかけた91 。
1916年7月には『資本主義の最高の段階としての帝国主義 (帝国主義論)』の執筆を完了した33 。翌1917年の9月に出版されたこの著作でレーニンは、帝国主義 が資本家による利益追求の結果として生じる国家独占資本主義 の産物であると論じた。その上で、競争と衝突は今後もエスカレートし、大国間の戦争は帝国主義政権がプロレタリア革命によって打倒され、社会主義政権が樹立されるまで継続すると予想した92 。同じ7月には母マリアがペトログラードで死去したが、レーニンは葬儀に参列することができなかった93 33 。母の死はレーニンを意気消沈させ、自らもプロレタリア革命を目撃する前に死ぬことになるのではないかという恐怖を抱かせた94 。
二月革命・ロシアへの帰国と四月テーゼの発表 1917年2月、二月革命 が首都ペトログラード (開戦時にサンクトペテルブルクから改称された)で勃発し、ロシア皇帝ニコライ2世は退位した。権力を掌握した国家ドゥーマ によってロシア臨時政府 が樹立され、ロシア帝国は「ロシア共和国 」へと改革された95 。スイスで二月革命について知らされたレーニンは、他の反体制活動家らと共に革命の発生を祝った96 。レーニンはボリシェヴィキを指導するためロシアに帰国する意思を固めたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されており、唯一の方法はドイツ帝国の国土を通過することだった。ドイツ政府はレーニンのような反体制分子は敵国ロシアに混乱をもたらすと判断し、彼とその妻を含む32名のロシア人が封印列車 に乗り込み、ドイツ領内を通過して母国へと向かうことを許可した97 。レーニンらの一行は封印列車でチューリヒからドイツのザスニッツ に移動した後、スウェーデンを経由してヘルシンキ へと向かい、そこからペトログラード行きの最後の列車に乗り込んだ98 。
1917年4月、ペトログラードのフィンリャンツキー駅 に到着したレーニンは、ボリシェヴィキの支持者らに向けて演説を行い、ロシア臨時政府を厳しく批判すると共に、全ヨーロッパでのプロレタリア革命という主張を繰り返した99 33 。その後の数日間にはボリシェヴィキの諸会議に出席してメンシェヴィキとの融和を主張する党員を譴責すると共に、スイスからの旅の途中で書き上げた『四月テーゼ 』を党の綱領案として発表した100 。レーニンは権勢あるペトログラード・ソビエト を支配しているメンシェヴィキと社会革命党がロシア臨時政府に協力していることを非難し、両者を社会主義への裏切り者として糾弾した。そして、臨時政府はツァーリの政府と同程度に帝国主義的であると定義し、プロレタリア政権を樹立して社会主義社会へ向かうための手段として、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーとの即時和平・ソビエト への権力集中・産業と銀行の国有化・国家による土地収用などを提唱した。対照的に、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと考えており、レーニンは誕生したばかりの新共和国を内戦へと導こうと試みていると批判した101 。
その後の数カ月間、レーニンは自らの綱領を広めるための運動に励み、ボリシェヴィキ中央委員会の諸会議に出席し、党機関紙 『プラウダ 』に多く寄稿する一方で、労働者、兵士、農民からの支持を得るため、ペトログラードの街中で大衆に向けた演説を行った102 。特に、ソビエトへの権力集中の要求は「すべての権力をソビエトへ」のスローガン とともに喧伝された。のちにレーニンは、このスローガンが「我々によって広範な一般大衆の意識に植え付けられ」、十月革命におけるボリシェヴィキの勝利を容易にしたと述懐している103 。
1917年7月、ペトログラードで兵士たちによる反ロシア臨時政府の武装デモ(七月蜂起 )が発生したが、その武装デモに関わるボリシェヴィキの求心力低下を狙った臨時政府は、「レーニンはドイツのスパイである」との情報を新聞社やペトログラード駐留部隊に対して流出させた104 。結果として、レーニンおよびボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモに参加した部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除され、武装デモは鎮圧された105 。臨時政府はレーニンと他のボリシェヴィキ幹部の逮捕令を発したが106 、レーニンは逮捕を逃れ、ペトログラード市内の多くの隠れ家を転々としつつ潜伏した107 。
臨時政府に殺害されることを恐れたレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフ は変装してペトログラードから逃走し、ラズリーフ湖 周辺に拠点を移した108 。レーニンは逃亡に成功したものの、臨時政府により多くのボリシェヴィキ幹部が逮捕され、ボリシェヴィキの勢力は一時的に大きく後退することになった。ラズリーフでレーニンはのちに『国家と革命 』として出版される本の執筆を開始した109 。同書では自らの国家観を提示し、プロレタリア革命後の社会主義国家が発展することでいずれ国家が消滅 し、純粋な共産主義社会を残すのみとなる過程について論じた109 。この頃、レーニンはボリシェヴィキが武装蜂起を起こして臨時政府を転覆することを主張し始めたが、秘密裏に開かれた党中央委員会でレーニンの提案は退けられた110 。その後、列車と徒歩でフィンランドに向かい、8月10日にはヘルシンキに到着し、当地ではボリシェヴィキ支持者が所有する隠れ家に潜伏した111 。
十月革命による権力掌握 レーニンがフィンランドに居た1917年8月、ロシア共和国軍の最高総司令官ラーヴル・コルニーロフ が軍事クーデターを試み、首都ペトログラードに向け指揮下の部隊を進軍させた。ロシア臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキー は(ボリシェヴィキを含む)ペトログラード・ソビエトに支援を要請し、首都防衛のためボリシェヴィキが労働者を武装し「赤衛隊 」として組織することを容認した。コルニーロフの反乱はペトログラードに到達する前に鎮圧されたが、一連の出来事はボリシェヴィキを政治の表舞台へと復帰させた112 。また、社会主義を敵視する右派による反革命の動きを恐れたメンシェヴィキと社会革命党が臨時政府に圧力をかけ、ボリシェヴィキとの関係を正常化させた113 。その後、臨時政府が逮捕されていた党幹部の釈放に応じたため、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。メンシェヴィキと社会革命党は人気のない戦争を継続するロシア臨時政府との協力関係によって大衆からの支持を失っており、ボリシェヴィキはそれに乗じて支持を拡大し、やがてボリシェヴィキ派のマルクス主義者レフ・トロツキーがペトログラード・ソビエトの議長に選出された114 。9月、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワの労働ソビエトで過半数の支持を獲得した115 。
1917年10月、レーニンはペトログラードへと戻った33 。ペトログラードとモスクワの両都市で多数派を占めることに成功したことを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキ内で主張し、反対するジノヴィエフとカーメネフを批判した116 。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した117 。10月11日の夜明け前、ボリシェヴィキ中央委員会で投票が行われ、10対2でレーニンが主張する武装蜂起の決行が採択された118 。ボリシェヴィキは武装蜂起の計画に着手し、10月24日にはペトログラードのスモーリヌイ学院 で会議を開き、最終的な打ち合わせを行った119 。スモーリヌイ学院はボリシェヴィキに忠実な軍事機関である「軍事革命委員会 」の本拠として使われていた120 。
10月24日夜、軍事革命委員会は指揮下の兵と赤衛隊に命令を出し121 、ペトログラード市内の主な輸送機関、通信機関、印刷機関、公共公益設備を制圧するよう指示した122 。ボリシェヴィキの軍勢は無血で目標を達成することに成功し122 、続いて臨時政府の置かれている冬宮殿 を包囲した。ボリシェヴィキ派の水兵が乗る巡洋艦「アヴローラ 」が宮殿への砲撃を実行した後、冬宮は制圧され、臨時政府の閣僚は逮捕された123 。この武装蜂起の最中、レーニンはペトログラード・ソビエトに向けて演説を行い、ロシア臨時政府は打倒されたと宣言した124 。
権力獲得以降
人民委員会議の発足・憲法制定議会の解散 十月革命 後、ボリシェヴィキは新たな行政府 として 「人民委員会議 」を設立した。当初レーニンは人民委員会議の議長 への就任を固辞し、議長職にはトロツキーを推薦したが、党員からの強い要請により最終的に議長就任を受け入れた125 。レーニンらボリシェヴィキ幹部は1917年10月26日から27日(ロシア暦)にかけ開催された第2回全ロシア・ソビエト大会 に出席し、新政府の樹立を宣言したが、大会に参加したメンシェヴィキはボリシェヴィキによる権力奪取は違法であり内戦の危険をもたらすものであるとして非難した126 。この当時、レーニンを含む多くのボリシェヴィキはプロレタリア革命の全ヨーロッパへの波及は目前に迫っていると考えていた127 。
ボリシェヴィキによって転覆されたロシア臨時政府は、将来的な選挙によって全ロシア憲法制定議会 が開催されるまでの暫定政権 として発足していた128 。当初、ボリシェヴィキは憲法制定議会の構想を尊重しており、レーニンが首班を務める人民委員会議は憲法制定議会が開かれるまでの新しい暫定政権とされていた129 。臨時政府は1917年11月に全ロシア憲法制定議会選挙 の実施を約束していたが、レーニンはこの選挙でボリシェヴィキが勝利することはないと予想し、実施の延期を党に提案した130 。しかし、人民委員会議はレーニンの反対を押して予定通りに選挙を行うことを決定した131 。11月に選挙が実施されると第一党は得票率40パーセント を得た社会革命党 となり、一方でボリシェヴィキの得票率は24パーセントにとどまった132 。レーニンはこの選挙について、有権者にボリシェヴィキの政策を十分に理解する時間が与えられず、また候補者リストが社会革命党が右派と左派に分裂する以前に作成されたことで、人民の意志が正しく反映されなかったと主張した133 。
1918年1月、新たに選ばれた全ロシア憲法制定議会がペトログラードで開会されたが134 、出席したレーニンらボリシェヴィキはこの議会がソビエトから権力を奪うことを企図しており反革命的であると主張した135 。メンシェヴィキと社会革命党員はそれを否定したが135 、ボリシェヴィキは議会からほとんどの法的権力を剥奪する動議を提出し、それが議会によって却下されると、反革命的な性質が証明されたとして憲法制定議会を強制的に解散させた136 。
各種改革の実施 すべての労働者・兵士・農民の諸君。ソビエト政権は全交戦国に対して民主的講和を、全戦線において即時休戦を直ちに提起する。地主・皇室・修道院の土地をすべて農民委員会に無償で引き渡すことを保障する。軍隊の完全な民主化を実行し、兵士の権利を保護する。産業における労働者統制を確立する。憲法制定議会を期日通りに招集することを約束する。都市にはパンを、村には必需品を供給する。そして、ロシアに居住する全民族の民族自決権を保証する。……革命万歳!
レーニンの新政府は発足後ただちに一連の布告を発した。「平和に関する布告 」は、第一次世界大戦の交戦国に対して「無併合・無賠償・民族自決 」の講和を提議した138 。「土地に関する布告 」では、貴族と正教会の所有地を国有化し、地方行政機関を通じて農民に再分配すると宣言した。これは農業の集団化 を希望するレーニンの意向に反していたが、すでに蔓延していた農民による土地の接収に国家的な承認を与えるものであった139 。「言論に関する布告」は、ボリシェヴィキに反対する報道機関の多くを反革命であるとして廃止させたが、これは報道の自由 を侵害するものとして広範な批判を巻き起こし、批判者には多数のボリシェヴィキ党員も含まれていた140 。さらに別の布告で人民委員会議は従来のロシアの法制度を廃することを宣言し、廃止された法律に代わって「革命的良心」を用いることを呼びかけた141 。旧来の裁判所は、反革命犯罪を専門に扱う「革命裁判所 」と、その他の犯罪を扱う「人民裁判所」の二重のシステムに置き換えられ142 、裁判所は既存の法律を無視し、人民委員会議の布告と「社会主義的正義感」に基づいて裁定を下すよう指導された143 。
レーニンは1917年10月の布告でロシアの全労働者の労働時間を1日あたり8時間に制限したほか144 、ロシアのすべての子供を対象とした無料の普通教育が公的に約束されることを定めた144 。さらに別の布告では国営の孤児院 制度が創設された145 。強硬な無神論者であるレーニンとその党は組織的宗教の解体を望んでおり146 、新政府は1918年1月の布告 で教会と国家の分離を宣言するとともに、学校における宗教的教育を禁止した147 。レーニン政権下で、ロシアは妊娠初期における妊婦の意思による中絶 を合法化した世界で最初の国となった148 。また、男女同権 の理念のもと女性解放を推し進めるための新たな法律が制定され、既婚女性に夫からの経済的自律性が認められ、離婚に関しての各種制限も撤廃された149 。
レーニン率いるボリシェヴィキは権力を掌握した直後に産業・運輸・銀行の国有化を宣言し、大企業は1918年6月までに全て国有化された154 。民間銀行も収公されて国立銀行に統合、人民銀行と称されるようになった154 。また、レーニンの政府は革命以前のロシア政府が発行した一切の国債の償還を拒否し、1918年1月にデフォルトを宣言した155 。 また、レーニンの新政府は先のロシア政府が締結した各種条約は継承しないと宣言した。また秘密外交の廃止を主張し、サイクス・ピコ協定 や日露協約 などの先のロシア政府が各国と締結した秘密条約・秘密協定の暴露を行った156 。
憲法制定議会の開催に先立つ1918年1月1日157 、レーニンはペトログラードの馬術学校での演説を終えた帰途の車中で数人の男から発砲されたが、同乗していたフリッツ・プラッテン が盾となり身を呈して銃弾を受けたことで負傷を免れた158 。捜査によってレーニンの暗殺を試みたのは王党派 であったことが判明したが、人民委員会議はボリシェヴィキと敵対する他の社会主義政党にテロ行為加担の容疑をかけた159 。
1918年3月、ボリシェヴィキは党の正式名を従来の「ロシア社会民主労働党」から「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」へと改称したが160 、これは修正主義的傾向を強めるドイツ社会民主党と距離を置き、同時に共産主義社会という党の最終目的を強調することを望むレーニンの意向を反映したものだった161 。同月、ペトログラードがドイツ軍に脅かされることへの懸念から、ボリシェヴィキは政府をモスクワに移転した(当初移転は一時的な処置となる予定だった)162 。それに伴い、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導者もモスクワのクレムリン に居を移したが163 、レーニンはペトログラードに比べて西欧化されておらず、伝統的ロシアの色が濃いモスクワを嫌った164 。
1920年にレーニンは、全国土の電化の推進によって社会問題を解決できるとして、いわゆるゴエルロ計画 を立案し、委員会が設立された。「共産主義とはソビエト政府、プラス、全国土の電化である167 」とするレーニンの言葉が広く知られる。レーニンは全国土の電化によって「地方の文化レベルを引き上げ、国中どんな遠隔地だったとしても、後進性、無知、貧困、病気、そして野蛮を克服できるようになる」168 とした。
ブレスト=リトフスク条約の締結 権力を得たレーニンは、政権にとって緊急の課題はドイツ帝国 とオーストリア=ハンガリー帝国 を中心とする中央同盟国 と講和を結び、第一次世界大戦から離脱することであると認識していた169 。レーニン政権は1917年11月の「平和に関する布告」の中でドイツおよびオーストリア=ハンガリーの両政府に対して3カ月の休戦を提案した170 。これを西部戦線 に集中する好機と捉えたドイツ政府は前向きな反応を示し171 、12月には休戦協定の交渉がドイツ軍の東部戦線 司令部が置かれるブレスト=リトフスク で始まり、トロツキーとアドリフ・ヨッフェ によって率いられるロシア側代表団が到着した172 。間もなく1918年1月までの休戦協定は合意されたが173 、その後の和平交渉でドイツ側はポーランド、リトアニア、クールラント など戦争中に獲得した領土の維持を要求し、ロシア側はその要求は民族自決 権の侵害であると抗議した174 。この時期、ボリシェヴィキの一部は交渉を長引かせることでプロレタリア革命がヨーロッパ全域で巻き起こるまで時間を稼ぐことを望んでいた175 。一方で、ニコライ・ブハーリン のような強硬派のボリシェヴィキ指導者はドイツで革命を誘発する手段として戦争の継続を主張していた。1918年1月7日、トロツキーが中央同盟国からの最後通牒 を携えてブレスト=リトフスクからサンクトペテルブルクに帰還し、ボリシェヴィキはドイツによる領土的要求の受諾か戦争の再開かの選択を迫られた176 。
1918年1月から2月にかけ、レーニンはボリシェヴィキ政権の存続を確実にできるならば領土の喪失は容認可能であり、ドイツ側の要求を受け入れるべきであると主張した。大多数のボリシェヴィキはレーニンの提言を拒絶し、ドイツの脅しをはったりと見て休戦を引き延ばすことを望んだ177 。
1918年1月27日には、中央同盟国 とウクライナ人民共和国 が講和を結び、反ボリシェヴィキ 共同戦線を張ることに合意したほか153 、2月18日にはドイツ軍がファウストシュラーク作戦 を発動してロシアに攻勢を仕掛け、作戦初日にドヴィンスク を占領するなど支配領域を拡大した178 。この状況下、レーニンはかろうじてボリシェヴィキ中央委員会の過半数を説得することに成功し、中央同盟国側の要求を受諾することが決定された179 。2月23日、中央同盟国は新たな最後通帳を発し、ポーランドとバルト三国に加えウクライナもドイツの影響下(衛星国 )になることを認めるか、ドイツ軍による本格的な侵攻に直面するかの選択をボリシェヴィキに迫った180 。
1918年3月3日、中央同盟国との講和条約 であるブレスト=リトフスク条約 が締結された181 。この条約の結果としてロシア側が失った領土は甚大であり、旧ロシア帝国の人口の26パーセント、農業収穫面積の37パーセント、産業の28パーセント、鉄・石炭の埋蔵量の4分の3がドイツ帝国に引き渡されることとなった182 。したがって、この条約はロシア国内のあらゆる政党に極めて不評であり183 、一部のボリシェヴィキは条約締結への抗議として人民委員会議を離脱した184 。また、当時ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた左翼社会革命党 (左翼エスエル)は政権から離脱し、同年7月6日、駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ 暗殺を皮切りに反ボリシェヴィキ運動を起こした。
ブレスト=リトフスク条約の調印も中央同盟国の敗戦を防ぐには至らず、1918年11月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 が退陣し、新たに発足した新ドイツ政府は連合国 と休戦協定 を結んだ。これを受けて、ボリシェヴィキ政府(人民委員会議)はブレスト=リトフスク条約の無効を宣言した185 。
チェーカーの創設・反富農運動・赤色テロ 同志諸君!5つの富農地区における蜂起は容赦なく制圧されなければならない。革命全体の利益がそれを必要としている。今や富農 との「最後の決戦」が至る所で進行しているからだ。手本を示さなければならない。
最低でも100人の名の知れた富農、金持ち、搾取 者を縛り首にせよ(必ず大衆の面前で縛り首にすること)。
彼らの名前を公表せよ。
彼らの穀物をすべて没収せよ。
昨日の電報に従って人質を指名せよ。
周囲何百キロもの人々が見て、震え、悟り、叫ぶような方法で実行せよ。生き血をすする富農どもが我々の手で絞め殺されており、今後も絞め殺されるのだと。
1918年初頭までに、ロシア西部の都市の多くでは慢性的な食糧不足による飢饉が発生していた190 。レーニンは、富農(クラーク) が生産した穀物を密かに備蓄していることがその原因であるとし、1918年5月には徴発 令を発して富農から穀物を没収するための武装分遣隊を組織し、6月には徴発を助ける目的で「貧農委員会 」の結成を命じた191 。武装分遣隊による強制的な穀物徴発は、それに反発する農民との武力衝突など、大きな社会的混乱と暴力をもたらし、ロシア内戦が勃発する背景のひとつとなった192 。この問題に対する当時のレーニンの見解を示す顕著な一例はペンザ の同志へ宛てた1918年8月の電報であり、その中でレーニンは、農民反乱を抑制するための見せしめとして「最低でも100人」の富農などの公開処刑を命じていた193 。
1918年8月30日、モスクワでレーニンは再び暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った194 。レーニンは首に銃弾を受けて大量に出血し、一時は生死の境を彷徨ったが、その後は急速に回復した195 。実行犯として現場で逮捕され、9月3日に処刑された社会革命党 員のファニィ・カプラン は、全ロシア憲法制定議会を解散させ、またブレスト=リトフスク条約を結んだレーニンを罰することが動機であったと述べた196 197 。この暗殺未遂はロシアで広く報道され、同情を受けたレーニンへの支持は高まった198 。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊のゴールキ の邸宅に移された199 。
レーニンが暗殺未遂によって重傷を負ったことは、同日に発生したチェーカー指導者モイセイ・ウリツキー の暗殺事件とともに、ボリシェヴィキが「階級の敵 」に対する大規模な暴力の行使を発動する契機となった200 。レーニン暗殺未遂の直後、ペトログラードのチェーカーは計512名の帝政関係者の処刑を執行し、5000人以上の「ブルジョアジーの代表者」を逮捕した200 。1918年9月5日、人民委員会議は「赤色テロ に関する布告」を発し、チェーカーによって組織的に行われる大規模テロの開始を宣言した200 。赤色テロによる犠牲者は大半がブルジョアジーか旧帝国政府の関係者であったが201 、反ボリシェヴィキの非ブルジョワジーや社会的に望ましくないと見做された売春婦のような人々も含まれていた202 。チェーカーはそれが政府の敵と見做すあらゆる人間に死刑を言い渡し、刑を執行する権限を与えられており、革命裁判所を頼る必要もなかったため203 、ソビエト・ロシア各地でしばしば大規模な処刑が実行されることとなった204 。赤色テロによる正確な犠牲者数を示す記録は現存していないが205 、のちに歴史家が推定した死者数には1万人 – 1万5000人206 とするものや5万人 – 14万人とするものがある207 。このような暴力の行使にレーニンが立ち会ったことや直接的に参加したことはなく208 、公的には暴力から距離を保っていた209 。レーニンは機密文書や暗号化された電報の中で頻繁に処刑の執行を要求したが、公表される文書や演説の中で要求することはほとんどなかった210 。
1918年8月、レーニンおよびトロツキーは恒常的な強制収容所 の創設を命じた211 。1918年9月の赤色テロに関する布告により、「階級の敵」が強制収容所に隔離されることが定められた211 。その後、1919年4月の布告によって各地にチェーカーが管理する強制収容所が設立され212 、のちに収容所の管理を担う専門の政府機関「グラーグ 」が創設された213 。1920年末の時点で、ソビエト・ロシアには84の収容所と約5万人の被収容者が存在したが、1923年10月には収容所の数は315となり、被収容者も約7万人に増加した214 。これらの被収容者は強制労働 に従事させられていた215 。
ロシア内戦とポーランド・ソビエト戦争 レーニンは、ロシアの貴族階級とブルジョワ階級が自らの政権に敵対することは予想していたが、数的に優位な下層階級をボリシェヴィキが有効に組織することにより、いかなる抗争でも速やかに勝利することが可能であると考えており216 、ボリシェヴィキによる支配に対して実際に生じた抵抗の激しさを予期していなかった216 。十月革命後に勃発したロシア内戦 は、ボリシェヴィキ派の赤軍と反ボリシェヴィキ派の白軍 との間の戦争であっただけでなく、ロシア国境地帯における民族間紛争をも包含するものであり、また旧ロシア帝国領全域で農民を中心とした緑軍 が赤軍と白軍の両者に敵対した217 。
白軍は旧ロシア帝国軍将校により組織され218 、ロシア南部を拠点とするアントーン・デニーキン の義勇軍219 、シベリアを拠点とするアレクサンドル・コルチャーク の軍220 、新たに独立を獲得したバルト諸国に拠点を置くニコライ・ユデーニチ の軍などによって構成された221 。白軍は、1918年5月にチェコ軍団 がボリシェヴィキに対して反乱を起こし、その後反ボリシェヴィキ派の政府である「憲法制定議会議員委員会 (コムーチ)」と同盟を結んだことで鼓舞された222 。社会革命党員によって1918年6月にサマーラ で結成されたコムーチは、ボリシェヴィキによって強制的に解散させられた憲法制定議会の名を冠し、自らがロシアの正当な政府であると主張した。さらに白軍は、ブレスト=リトフスク条約の締結を裏切り行為と捉え、またボリシェヴィキが提唱する世界革命の勃発を恐れる連合国 諸政府から支援を受けた
ブレスト=リトフスク条約の締結後、左翼社会革命党は連立政権から離脱し、ボリシェヴィキは革命の裏切り者であるとの見方を強めていった227 。1918年7月、左翼社会革命党員ヤーコフ・ブリュムキン が駐露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハを暗殺したが、その動機は大使暗殺によって引き起こされる外交問題がドイツ帝国に対する革命戦争の再開につながるとの希望であった228 。その後、左翼社会革命党はモスクワでクーデターを起こし、クレムリンを砲撃し、モスクワ市中央郵便局を占拠したが、最終的にトロツキーが率いる軍勢によって制圧された229 。左翼社会革命党の指導者と党員の多くは逮捕・収監されたが、他の反ボリシェヴィキ勢力と比較してより寛大な扱いを受けた230 。
1919年までに、白軍は3方面すべての前線で劣勢に追いやられ、1920年を迎える頃には赤軍への敗北が確定的となった231 。ボリシェヴィキは白軍に勝利したものの、その間に多くの非ロシア系民族が混乱に乗じて国家的独立を推し進めたため、ロシアの領土範囲は縮小していた232 。北東ヨーロッパ諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランド等)の場合などには、ソビエト政府はその独立を承認した上で、それぞれと平和条約を締結したが233 、その他の分離独立運動は赤軍によって鎮圧された234 。赤軍は1921年までにウクライナの民族運動を制圧し、またコーカサスを占領したが、中央アジアでの戦闘 は1920年代末まで継続した234 。
ドイツ軍が連合国との休戦協定を結び東部前線から撤退した後、空白となった地域(ウクライナ ・ベラルーシ など)には赤軍とポーランド軍の両者が進出した235 。新たに独立を獲得したポーランドはソビエト政府と同じくこの地域での領土獲得を望んでおり236 、1919年2月にはポーランド軍と赤軍の間で最初の衝突が発生し237 、両者の争いはポーランド・ソビエト戦争 へと発展した238 。ソビエト政府がそれまでに経験した抗争とは異なり、ポーランドとの戦争は革命の国外への輸出およびヨーロッパの未来に対して大きな意味合いを持っていた239 。ポーランドはウクライナに軍を展開し、一度は赤軍が抑えたキエフ を、ウクライナのディレクトーリヤ 軍と合同して、1920年5月までに占領していた240 (キーウ攻勢 )241 。ポーランド赤軍がポーランド軍をウクライナから撤退させることに成功した後、レーニンは赤軍によるポーランド本国への侵攻を要求した。レーニンは、侵攻を実行すればポーランドのプロレタリアートは赤軍を助けるために反乱を起こし、それが全ヨーロッパ的な革命勃発の導火線となることを信じていた242 。トロツキーら他のボリシェヴィキはレーニンの予想に懐疑的であったものの、ポーランド侵攻には同意した242 。結果的に、ポーランドのプロレタリアートが反乱を起こすことはなく、赤軍はワルシャワの戦い でポーランド軍に敗北を喫した242 。ポーランド軍によって赤軍がロシアまで押し返されると、ソビエト政府は和平を模索し、ポーランドにウクライナ とベラルーシ の領土の一部を割譲することを認めたリガ講和条約 の締結によって戦争は終結した243 。
コミンテルンの創設 西部戦線で休戦協定が結ばれた後、レーニンはヨーロッパ諸国で革命が巻き起こるのは今や時間の問題であると考えた244 。革命を促進するため、人民委員会議は1919年3月のクン・ベーラ によるハンガリーの共産主義政権 樹立を支援し、それに続いてバイエルンでも社会主義政権 が樹立され、ドイツの他地域でも(1月のスパルタクス団の武装蜂起 を含む)社会主義者による革命的蜂起が続発していた245 。1919年3月にはモスクワで国際共産主義 組織「コミンテルン 」の創立大会が開催され、レーニンはその開会演説を行った246 33 。大会期間中、レーニンは参加各国の代表団に向けて、修正主義的マルクス主義者が信奉する議会主義 を厳しく批判し、ヨーロッパのブルジョワ政権を暴力的手段によって転覆するよう改めて呼びかけた247 。コミンテルンの初代議長にはジノヴィエフが就任したが、レーニンはこの組織に対する重大な影響力を保ち続けた248 。
1920年7月、ペトログラードのスモーリヌイ学院 で第2回コミンテルン大会が開会し249 、大会中レーニンは各国代表団にボリシェヴィキによる権力奪取を再現するよう激励すると共に、社会進化の過程において資本主義 社会の段階は不可避とする自らの長年の見解(二段階革命論 )を捨て、被植民地支配地域からの代表団に対し資本主義段階を飛ばしてそれぞれの社会を直接社会主義社会へと変革するよう訴えかけた250 。レーニンはこの大会のために『共産主義における左翼小児病 』を著し、イギリスおよびドイツの共産主義政党に見られる、各々の国の議会制度や労働組合への参加を拒否する態度を批判し、革命的目標を達成するためそのような行動を改めるよう要求した251 。最終的に、レーニンが予想した世界革命 勃発は実現せず、ハンガリーの共産主義政府は倒され、ドイツのマルクス主義者による蜂起も鎮圧された252 。
飢饉と新経済政策の導入・宗教弾圧 旱魃 (かんばつ)を一因とする1921年から1922年にかけてのロシア飢饉 は、1891年 - 1892年以来の深刻な飢饉であり253 、ヴォルガ河 流域を中心に1000万人単位が飢餓線上におかれ、死者は150万人 - 200万人254 、または、約500万人にのぼったともされる255 。レーニン率いるボリシェヴィキ政府が行った強制的な食糧徴発および、外貨獲得のための大量の穀物の国外輸出(飢餓輸出 )は、この飢饉に拍車をかけた256 。飢饉による被害者を救援するため、アメリカ政府は救済管理局 を設立し、食糧支援を行ったが257 、レーニンはこの支援に疑いの目を向け、注意深く監視した258 。
1920年から1921年にかけ、食糧徴発に対する地方の抵抗運動が反ボリシェヴィキを掲げる農民反乱へと発展する事例が、ロシア各地及び、赤軍が抑えていたウクライナ占領地で発生したが、いずれも政府によって鎮圧された259 。レーニンは国内の飢餓救済のため、穀倉地帯であるウクライナ の占領地でも穀物徴発を命じており、ヴォルガ地方 、モスクワ、ペトログラードへ輸送された。これによりウクライナも飢饉に見舞われていたが、被害がさらに拡大していた260 。
1921年2月、ペトログラードの労働者がストライキを決行したため、政府は市に戒厳令を敷き、デモを鎮圧するため赤軍を派遣した261 。3月には、クロンシュタット の水兵が出版・集会の自由や農民からの食糧徴発の停止などを求めてボリシェヴィキ政府に対する反乱 を起こしたが、レーニンは反乱兵が社会革命党および外国の帝国主義者によって煽動されていると宣言し、暴力的な報復措置を要求した262 。トロツキーが指揮する赤軍は反乱を3月17日までに鎮圧したが、その過程で数千人の死者を出し、生存者は強制労働収容所に抑留されることとなった263 。
1921年2月、レーニンは党政治局に対して「新経済政策 (NEP、ネップ)」を提出し、ボリシェヴィキ幹部の大半にその必要性を納得させた上で、4月には法律として通過させた264 。レーニンは『食糧税について 』と題する小冊子の中で新経済政策を解説し、ネップの施行はボリシェヴィキが本来の経済計画へと復帰したことを示すものであり、これまで政府は「戦時共産主義 」という経済政策を内戦によって強いられていたと主張した265 266 。ネップにおいて、ソビエト政府は戦時共産主義 の時代(1918年 - 1921年)に実施された産業の完全な国有化を部分的に撤回し、私人が中小規模の事業を営むことを認めた(大規模産業や銀行、外国貿易などは引き続き国家の統制下に置かれた)267 268 。さらに農民からの強制的な穀物徴発 (Prodrazvyorstka ) が廃止され、農産物の現物という形で支払う新たな税 (Prodnalog ) が導入された267 269 。また、税を納めた後の残りは市場で自由に処分することを認めた270 。レーニンはネップを「国家資本主義 」と表現し271 、ロシアの現状では国家資本主義も一歩前進だと主張したが272 、多くのボリシェヴィキはこのような政策は社会主義原理への背信であると考えた273 。
レーニンの経済政策(穀物の強制徴発・産業の国有化等)で、ロシアはハイパーインフレに陥り、ルーブルの価値は戦前の500億分の1になった155 (ソビエト初期のハイパーインフレーション も参照)。経済学者ジョン・メイナード・ケインズ によれば、レーニンはこのインフレについて「資本主義を破壊する最善の方法は、通貨を堕落させることだ。政府はインフレを継続することで、密かに、気づかれることなく、国民の富のうち、かなりの部分を没収できる。」と述べたという274 。その後ルーブルは、1924年4月までに3回のデノミが行われ、インフレは沈静化した155 。
飢饉に際し、ロシア正教会は救済活動に動いた254 。モスクワ総主教であるティーホン は、正教会に対して飢餓民救済のため不必要な物品を売却するよう呼びかけ、当初はソビエト政府もこの活動を支持したが275 、レーニンは1922年2月、飢餓対策として教会の財産を没収した上で海外に売却すべきと党政治局に対して提案した254 。同月、ソビエト政府は弾圧に転じ、教会による援助を禁止し276 254 、さらに宗教施設が所有する全財産・貴重品の没収と売却を命じた277 。これに対しティーホンは、不必要なものは寄付するが、礼拝のために必要な貴重品を奪い取るのは神への冒涜であるとボリシェヴィキを批判した。両者の関係は極度に悪化した278 。他にも多くの聖職者が政府による接収に抵抗した、暴力的な衝突がもたらされた279 。 1922年3月、イワノボ・ボズネセンスク県 のシューヤ で政府による教会財産接収に対する発砲事件(シューヤ発砲事件 )が発生すると、レーニンはこの事件は教会上層部によって指導されたものと見なし、また直接的な弾圧を実行する機会と捉えた280 。シューヤ 発砲事件に対して、ルイコフ・カリーニンが農民との宥和を主張したのに対して、レーニン、スターリン、トロツキーは聖職者の銃殺を主張した254 。レーニンは3月19日、シューヤだけでなくモスクワなど各都市で正教会 指導者を逮捕し281 、裁判にかけるべきであると党政治局に文書で伝え「この機に撃ち殺せる反動 的聖職者・反動的ブルジョワの代表者は多ければ多いほどよい。今がまさに、あの者たちに今後の数十年間抵抗を考える気も起きないほどの教訓を与えるべき時である」と宣言した280 。1922年5月、レーニンは反ボリシェヴィキの聖職者の処刑を命じる布告を発し、その結果として8000人(8100人254 )以上の聖職者が処刑され殺害された276 。殺害された聖職者は1万4000人 – 2万人にのぼるとする研究もある282 。
まさに現在、飢饉地域で人が食べられ、通りで何千でないとしても何百の屍体が横たわっている今だからこそ、犯罪的抵抗を弾圧するのを躊躇することなく、もっとも苛烈で容赦のないエネルギーでわれわれは教会貴重品の収用を行うことができる(そのため、そうしなければならない)。
1922年の3月に始まった教会財産の強制収用は、軍や秘密警察を動員して行われたが、収用活動自体に莫大な費用がかかり、財政的成果は想定を下回った283 。また、接収した教会財産(貴重品類)を換金して得られた財の多くは、飢饉救済のために充てられることはなく、党とソビエト各機関の強化のための資金に流用された283 。また、大きな救済能力を有する教会に対するレーニン政権の敵対的な対応は、飢饉による犠牲者を拡大させた278 。
健康の悪化・スターリンとの対立・ソ連の形成とグルジア問題 レーニンの健康状態は1921年後半までに著しく悪化し、聴覚過敏や不眠、慢性的な頭痛などの症状に悩まされるようになった285 。1921年7月、党政治局の要求により、モスクワを離れてゴールキの邸宅 での1カ月間の静養に入った286 。レーニンは自殺を考え始め、妻のクルプスカヤとスターリンの両者に自殺用の青酸カリを入手するよう依頼した287 。晩年のレーニンの治療のため雇われた医師は26人にのぼり、多額の報酬で招かれた彼らの多くは外国人だった288 289 。一部の医師は、病因が1918年の暗殺未遂から体内に残る銃弾の金属の酸化 である可能性を指摘し、1922年4月には銃弾を体内から取り除く手術が行われた290 。1922年5月、レーニンは最初の脳卒中 発作を起こし、一時的な会話能力の喪失と右半身の麻痺を生じた291 。その後はゴールキで療養し、7月までにほぼ回復した292 。10月にはモスクワに戻ったが、12月に2度目の発作を起こし、再びゴールキでの静養生活に入った293 。
病状は悪化していたものの、レーニンは政治的動向に強い関心を持ち続けた。1922年6月 - 8月に行われた裁判において社会革命党の指導者らがソビエト政府への謀反を企てたことが認定されると、レーニンは有罪となった者たちを処刑するよう要求した(彼らは実際には無期限の懲役刑に処されたが、のちにスターリンの指導下で行われた大粛清 によって処刑された)294 。レーニンは帝政時代の官僚体制がソビエト・ロシアに引き継がれていることに懸念を抱いており295 、晩年には特にその思いを強めた296 。
レーニンが不在の間、スターリンは自らの支持者を要職に任命するとともに、自身はレーニンに最も近しい盟友であり、その後継者にふさわしい人物とのイメージを築くことで権力基盤を固め始めていた297 298 。スターリンは1922年12月に党政治局によってレーニンの治療計画の責任者に任命され、彼が他者と面会することを監督する役割を与えられたが299 、実際にはこの時期に両者の関係は悪化した。1922年の半ば、レーニンが外国貿易の国家独占を維持すべきと主張したのに対し、スターリンは他のボリシェヴィキを率いてそれに反対することを試みたため、レーニンはスターリンに対して次第に批判的になった300 。1922年末にはスターリンがクルプスカヤ(レーニンの妻)を電話での会話中に面罵し、それに激怒したレーニンが不快感を表した手紙をスターリンに送りつけるなど、両者には私的な衝突もあった301 。
レーニンとスターリンの最大の政治的対立は「グルジア問題 」をめぐって発生した。1921年2月にグルジア社会主義ソビエト共和国 が成立して以来、ロシア共産党中央委員会がグルジアをアゼルバイジャン 、アルメニア とともにザカフカース連邦 として構成しようとする計画を進めたのに対し、グルジア共産党がグルジアの独立性を主張して抵抗していた。1922年の夏、スターリンはグルジアをはじめウクライナ 、ベラルーシ 、アゼルバイジャン、アルメニアの各ソビエト共和国をロシア・ソビエト共和国 内の「自治共和国」として再編するという「自治化」案を提示した302 。レーニンはこれをスターリンとその支持者らによる大ロシア排外主義の表れであると批判し、代案としてロシアがグルジアなどと共により大きな1つの連邦国家を構成することを求め、そのような国家の名称として「ヨーロッパ・アジア・ソビエト共和国連邦」を提示した303 。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、代案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニン案にそった決議を通過させた304 。ただし、スターリンはレーニンの同意を得た上で新国家の名称を「ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦)」へと変更させた305 。1922年12月30日、新国家の形成がソビエト大会 によって正式に承認され、ソビエト連邦 (以下ソ連)が成立した306 。レーニンは病床にあったが、新設されたソ連の行政府(ソ連人民委員会議 )の議長に任命された307 。こうして1922年までに共産党は旧ロシア帝国 の版図 の再統合を意図し、一度分離を認めたウクライナ 、ベラルーシ 、ザカフカース に赤軍 が進出し、共産党政権が成立した254 。
他方、グルジアでは、ザカフカーズ連邦 を通じてソ連に加入することになっていたため反対運動が継続するなか、ロシア共産党のグリゴリー・オルジョニキーゼ が独立派のグルジア共産党員を殴打する事件が起きた。病床にあったレーニンはこれを重大なことと受け止め、オルジョニキーゼやその後ろだてとなっていたスターリンを非難した308 。レーニンはグルジアのナショナリズムを是認しなかったが、それを抑圧する大ロシア排外主義はより大きな問題であると考えていた308 。
1922年12月から1923年1月にかけ、レーニンは同志のボリシェヴィキ、特にトロツキーとスターリンの個人的資質について論じた、いわゆる「レーニンの遺書 」を口述筆記させた309 。レーニンはこの文書の中で、スターリンは党書記長として不適格であり、その地位から解任されるべきと述べ310 、トロツキーについては「現在の党中央委員会において最も有能な男」と評価する一方で、自己を過信し、過度に行政的な傾向があることを批判した311 。1923年3月にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、その翌日にはグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した308 。しかし3月10日に発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を失った312 。
死と葬儀 1923年3月、レーニンは3度目の脳卒中発作に見舞われ、発話能力を失った313 。同月には右半身の部分麻痺と、耳で聞いた言葉の理解に支障をきたす感覚性失語 の症状も現れた314 。その後、5月までに緩やかな回復の兆しを見せ、運動と発話、筆記の能力を一部取り戻し315 、10月にはクレムリンへの生前最後の訪問を行った316 。最期の数週間、レーニンは同志であるジノヴィエフ 、カーメネフ 、ブハーリン の訪問を受け、中でもブハーリンはレーニンの死の当日にゴールキの邸宅を訪れていた317 。
同年1月22日、ソビエト政府はレーニンの死を公表した322 。23日には共産党、各労働組合、各ソビエトからの哀悼者がゴールキの邸宅を訪れ、レーニンの遺体が入った赤い棺がボルシェヴィキの指導者らによって担ぎ出された323 。その後、レーニンの棺はモスクワまで列車で輸送されたのち、労働組合会館 へと運ばれ、その場で正装安置 された324 。その後の3日間、レーニンの遺体を見るため労働組合会館には100万人近くの哀悼者が訪れた(その多くは厳しい寒さの中で何時間も列に並んだ)325 。1月26日に開催された全連邦ソビエト大会ではレーニンへの敬意が示され、スターリン、カリーニン、ジノヴィエフによる演説が行われた325 。トロツキーは当時コーカサスで病後療養しており、この大会には出席しなかった。のちにトロツキーは、レーニンの葬儀についてスターリンが誤った日付を電報で送ったことにより、それに間に合うようモスクワに戻ることができなかったと主張した326 。
葬儀は1924年1月27日に挙行され、レーニンの遺体は軍歌が演奏される中で赤の広場 まで運ばれ、集まった群衆の前で一連の演説が行われた後、急造された仮設の廟に安置された327 328 。葬儀は厳しい寒さの中で行われたが、参列者は数万人にのぼった329 。
その後、赤の広場 には建築家アレクセイ・シューセフ の設計による新しい木造の霊廟 が建設された328 。妻であるクルプスカヤの抗議にもかかわらず、レーニンの遺体は長期間の展示に耐えるよう防腐処理 が施された上で、新しい霊廟 に移され、1924年8月から一般公開された330 328 。防腐処理の過程で脳は取り除かれたが、1925年に研究のため解剖され、その結果レーニンが極度の硬化症を患っていたことが確認された331 。1929年7月、共産党政治局は木造の霊廟を花崗岩 造の新しい霊廟に置き換えることを決定し、新霊廟の建設は1933年に完了した332 。
影響・評価
ソ連における影響 ソビエト連邦において、レーニンへの個人崇拝は存命時からすでに始まっていたが、本格的にそれが確立されたのは死後においてであった337 。歴史家のニナ・トゥマーキンによれば、それはアメリカにおけるジョージ・ワシントン の個人崇拝以来、「最も手の込んだ革命指導者の個人崇拝」であり338 、 しばしば「宗教じみた」性質が指摘されている339 。レーニンの胸像や銅像が国中のほぼすべての村に建てられ340 、郵便切手やポスター、『プラウダ』と『イズベスチヤ 』の1面などはレーニンの顔で飾られた341 。レーニンが住んだ、もしくは滞在した場所は彼の記念館に姿を変え340 、多くの図書館・通り・農場・博物館・町・地域などがレーニンに因んだ名前に改名された340 。ペトログラードは1924年に「レニングラード」と改名され342 343 、出生地であるシンビルスクは「ウリヤノフスク」に改められた344 。また、ソビエト連邦における最高の勲章としてレーニン勲章 が設立された341 。これらすべてはレーニン自身の望みに反しており、未亡人のクルプスカヤによって公然と批判された329 。 多くの伝記作家が、レーニンの著作はソビエト連邦において聖書 のような扱われ方をしていたと述べており345 、リチャード・パイプスは「彼(レーニン)の意見はすべて、ある政策や他の政策を正当化するために引用され、福音書 のような扱いを受けていた」と指摘している346 。レーニンの死後、スターリンは党中央委員会の決定として、あらゆるレーニンの著述(手紙や私的な性質のものを含む)を収集し、マルクス・エンゲルス・レーニン研究所 内の秘密書物庫に収蔵するよう命じた347 。クラクフのレーニンの蔵書のように、国外に存在する資料も、研究所の書物庫に保管するため(多くの場合多額の費用で)収集された348 。ソ連時代、レーニンの書物庫は厳格に管理されており、アクセスできる者は党幹部などごく一部に限られていた349 。レーニンの著述のうち、スターリンにとって有益なものはすべて出版されたが、それ以外のものは非公表のままにされた350 。スターリン体制下、レーニンは盛んにスターリンの親友として描写され、 ソビエトの次期指導者がスターリンとなることを支持していたと主張された351 。他方、レーニンが非ロシア系の血を引いていた事実、および貴族の地位を有していた事実は隠蔽され341 、特にレーニンがユダヤ系の血を引いていたことは1980年代まで公表されなかったが352 、その理由はソ連内に存在した反ユダヤ主義であるとも353 、それがスターリンによるロシア化 政策の妨げとなるためとも354 、国際的な反ユダヤ主義者が持つ反ソ感情を激化させないようにするためとも指摘されている353 。レーニンがユダヤ系の血を引くことが明らかにされると、この事実はロシアの極右勢力によって繰り返し強調され、レーニンが伝統的ロシア社会の根絶を願ったことはユダヤ系の遺伝子によって説明できると彼らは主張した355 。
スターリンの死後、ソ連の指導者となったニキータ・フルシチョフ によって非スターリン化 のプロセスが開始されたが、フルシチョフはこのプロセスを正当化するため、レーニンの著述(スターリンについてのものを含む)を引用した356 。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフ が「グラスノスチ 」および「ペレストロイカ 」の政策を導入した際にも、ゴルバチョフは自らの政策を「レーニンの原理」への回帰と表現した357 。1991年末のソ連解体 の最中、ロシア大統領ボリス・エリツィン は、レーニンの書物庫を共産党管理下から解放することを命じ、その結果6000点以上のレーニンによる著述が非公表のままにされていたことが発覚した。それらの文書は機密指定から外され、 学術的研究対象として利用可能になった358 。一方で、エリツィンはレーニン廟を撤去しなかった。エリツィンは、撤去を実行するにはレーニンはあまりにも一般大衆から人気と尊敬を集めていると認識していた359 。レーニンは死後、ソ連において常に極めて高く評価され、死後に評価を落としたスターリンと比較して遥かに長期間その名声を保っていた360 。
2012年、ロシア自由民主党 の議員によってロシアからレーニンのモニュメント をすべて撤去する提案が出されたが、この提案はロシア連邦共産党 からの猛反対に遭った361 。同年には、モンゴルの首都ウランバートルに残っていた最後のレーニンの銅像が撤去され、その際に同市の市長はレーニンを「殺人者」と表現した362 。2012年12月、ロシア大統領のウラジーミル・プーチン はレーニン廟を聖遺物 になぞらえて保存を主張した363 。また、2019年4月には現代政治問題研究所の所長であるアントン・オルロフがロシア中央選挙管理委員会に、レーニンの遺体埋葬に関する国民投票の実施を提案する書簡を送ったことが報じられた364 。
ウクライナでは、2013年 - 2014年にかけてのユーロマイダン 運動の期間中、デモ参加者によって各地のレーニン像が破壊された365 。2015年4月、ウクライナ政府は脱共産化法に基づき、レーニン像を含むすべての共産主義的モニュメントの撤去を命じた366 。
国際的影響 レーニンの政権は約70年にわたりロシアを支配することとなる政体の枠組みを築き、それは後発の共産党国家にとっての模範ともなったため、その影響は全世界に及んでいる367 368 。20世紀には、レーニンの思想に倣った社会主義国家が世界各地で出現した369 。1972年、歴史家マルセル・リーブマン は「ラテンアメリカからアンゴラまで、今日の世界でレーニン主義の継承を主張しない反乱的運動はほぼ存在しない」と書き残している370 。
評価 ドミトリー・ヴォルコゴーノフ はレーニンを評して「あれほどの規模で、あのように巨大な社会を、あれほどに大きく変革した人物は歴史上ほとんど例を見ない」と述べている374 。歴史学者アルバート・レシス は、20世紀で最も重要な出来事が十月革命とみなされるならば、レーニンは「善かれ悪しかれ、今世紀で最も重要な政治指導者として扱われなければならない」と指摘している10 。ロバート・サーヴィス は一般にレーニンは20世紀における「主要人物 (principal actor) 」の1人と扱われているとしており375 、同様にクリストファー・リードも「最も広く知られ、全世界的に認識される20世紀の象徴的人物の1人」とレーニンを評している372 。アメリカの雑誌『タイム 』はレーニンを 「20世紀で最も重要な100人」にリストしているほか376 、歴史上の象徴的政治家の上位25名にも選出している377 。
レーニンの政権は多くの歴史学者や伝記作家によって全体主義 体制、あるいは警察国家 と表現され378 379 、また一党独裁体制であったと評されている380 。一部の学者はレーニンを独裁者 と形容しているが381 、歴史家ジェームズ・ライアンはレーニンが「一切の提案が承認され、実行されるという意味の独裁者ではなかった」と述べ、党員がレーニンの意見に異議を唱えることも多かったと指摘している382 。同様に、ルイス・フィッシャー も「レーニンは一種の独裁者であったが、のちにスターリンがなったような種類の独裁者ではなかった」と述べている383 。ヴォルコゴーノフも、レーニンは「党による独裁」を確立したが、ソビエト連邦の政体が「1人の男による独裁」に変化したのはスターリンの時代になってからであったとの見解を示している384 。一方でヴォルコゴーノフは、国家的暴力が共産主義社会の実現には不可欠と信じ、チェーカー (秘密警察 )やグラーグ (強制収容所 )などのシステムを創設したレーニンを「不寛容という全体主義的イデオロギーの生みの親」と評している385 。
レーニン政権の独裁的・非民主的な性質は、ロシア国内外の社会主義者によって批判された386 387 。チェコ系オーストリア人のマルクス主義者カール・カウツキー は、1918年に反レーニン主義的な著作『プロレタリアートの独裁』を出版し、ソビエト・ロシアの反民主主義的性質を非難した(レーニンはこの批判に対して攻撃的な反論 を出版した)388 387 。ドイツのマルクス主義者ローザ・ルクセンブルク もカウツキーと同様の見解を示し389 、ボリシェヴィキが民主的に選ばれた憲法制定議会を解散したことを批判するとともに、レーニン政権を「プロレタリアートによる独裁ではなく、ほんの一握りの政治家による独裁」と評した387 。
イギリスの首相ウィンストン・チャーチル はレーニンについて「彼の慈愛は北極海のように冷たく広い。彼の憎悪は絞首刑執行人の首なわより固い。」「彼の目的は世界を救うことだった。そしてその方法は世界を爆破することだった。」「ロシア人の最大の不幸はレーニンが生まれてきたことだが、その次の不幸は彼が死んだことだ(レーニンが志半ばで死去し、スターリン体制が出現したことを指す)」と評した390 。反共主義者のチャーチルは、ロシア革命でボリシェヴィキ政権が誕生したことに否定的で、彼はロシア革命当時に、ボリシェヴィキ政権が強大化する前に打倒しなければ、諸列強は後悔する時がくるだろうと警鐘を鳴らしていた391 。
政治思想 レーニンは忠実なマルクス主義 者であり392 、自らのマルクス主義の解釈(1904年にマルトフ によって「レーニン主義 」と初めて呼ばれた393 )こそが唯一の真正で正統なものであると考えていた394 。レーニンのマルクス主義的見解では、人類は最終的に純粋な共産主義へと到達し、国家も階級も存在しない平等主義社会を築き、そのような社会で労働者は搾取 と疎外 から解放され、自らの運命をコントロールし、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る 」というルールを順守して行くものとされた395 。ヴォルコゴーノフによれば、 レーニンは自らがロシアに押し付けた道筋は、最終的にはこのような共産主義社会の実現につながると「深く、心から」信じていた396 。
自らのマルクス主義的見解に基づき、レーニンは当時の社会の状態から直接共産主義に移行することは不可能であり、その前にまず社会主義の段階に入ることが必要であると考えていた。したがって、レーニンの主な関心事はいかにロシアを社会主義社会へと変革するかということであり、そのためには「プロレタリアートによる独裁 」が、ブルジョワジーを抑圧し、社会主義的経済を発達させる上で不可欠であると考えていた397 。レーニンは社会主義を「生産手段 が社会的に所有されている、良識ある協力者による体制」 と定義し398 、 その経済体制は潤沢な社会 を達成するまで発展する必要があると考えていた395 。その実現のため、レーニンは中心課題がロシア経済を国家の統制下に置くことであり、「すべての市民」を、彼が言うところの「国家によって雇用される従業員」に転化することであると考えていた399 。
レーニンの解釈による社会主義は、中央集権的で、計画的で、国家統制的なものであり、そこでは生産と分配の両方が厳格にコントロールされた395 。レーニンは、国中の全労働者が自発的に協力し、国家による経済的・政治的な中央集権化を可能にすると信じていた400 。レーニンが要求した生産手段の「労働者による統制」とは、事業がそれに従事する労働者によって直接統制されることではなく、すべての事業の運営が1つの「労働者国家」の統制下に置かれることを意味していた401 。その結果、レーニンの思想には、一般の労働者による統制と、中央集権化された階層 的・威圧的な国家機構という、2つの矛盾するように感じられるテーマが含まれていた402 。
1914年以前には、レーニンの見解はヨーロッパの正統派マルクス主義 と大筋で一致していた392 。しかし、レーニンの思想(レーニン主義)はその発展に伴って既存の正統派マルクス主義に修正を加え、マルクス主義思想に新しい要素を導入した392 。レーニン主義は他のマルクス主義思想と比べてより絶対主義的・純理論的な観点を採用しており392 、プロレタリアートを革命に導く前衛 の役割を重視している点で際立っていたほか403 、革命的手段として暴力が果たす役割を強調していた404 。プロレタリア国家がどのようにあるべきかについても、レーニンの信念はマルクス主義主流派の思想から逸脱していた403 。レーニンが、ブルジョワジーの協力を一切排除した、強力で中央集権化された国家機構を求めたのに対し、カウツキー のようなヨーロッパのマルクス主義者は、民主的に選ばれ、プロレタリアートが多数派を占める議会制政府を想定していた403 。
レーニンは、資本主義諸国における議会制民主主義 が、民主主義の幻想を与えつつ、「ブルジョワジーによる独裁」を維持していると考えており405 、「ソビエト政府は、最も民主的なブルジョワ共和国より何百万倍も民主的である」と宣言していた406 。レーニンは自らの「プロレタリアートによる独裁」は民主的であると見なしており、その理由としてソビエト への代表者を選ぶための選挙が存在すること、すべての労働者が国家の統治に参加していることなどを主張した407 。レーニンはアメリカの議会制民主主義制度について、「2つのブルジョワ政党による、壮観かつ無意味な決闘」と表現し、どちらの政党もアメリカのプロレタリアートを搾取する「抜け目ない億万長者」によって指導されていると述べた405 。レーニンは自由主義 に反対し、価値としての自由への嫌悪感を示しており408 、自由主義における自由は資本家による搾取から労働者を解放せず、詐欺的なものであると考えていた409 。
彼はマルクスが伝えた真実を受け入れており、その真実を補強するために資料や論拠を選定した。彼は古くからのマルクス主義の聖典を疑うことをしなかった。彼はただそれを解説したのであったが、その解説は新たな聖典となった。
レーニンは国際主義者 であり、世界革命 を熱心に支持し、国境を時代遅れの概念と考え、ナショナリズム は階級闘争の妨げであると捉えていた411 。また、社会主義社会において世界各国は必然的に合併し、最終的に1つの世界政府 を形成すると考えていた412 。他方、レーニンは著述の中で反帝国主義 の思想を支持し、すべての民族が「民族自決権 」を有すると宣言していた413 。レーニンは民族解放戦争を支持しており、そのような闘争が、ある社会主義国家から少数派が分離独立するために必要となる可能性も認め、社会主義国家は「神聖で、誤りや脆弱さがないと保証されている」わけではないと述べていた414 。
レーニンは、非マルクス主義の哲学者・社会学者などから考えを取り入れるマルクス主義者たちを冷笑していたが415 、彼自身の思想もまた、ロシアのマルクス主義理論だけでなく、ナロードニキ 運動などロシア革命運動の(非マルクス主義的な)思想から影響を受けていた416 417 。レーニンは変化する環境に合わせて自らの思想を適応させており418 、戦争、飢饉、経済崩壊などの中でロシアを統治するという実際的な現実もその思想に影響を与えた419 。
人物 伝記作家ルイス・フィッシャー は、レーニンが「急激な変化や極端な変革の愛好者」であり、「折衷とは全く無縁であって、何事も黒か赤 かの二者択一に誇張する人間」であったと評している420 。歴史学者リチャード・パイプス は、レーニンが非常にカリスマ性 のある人物であったと指摘しており421 、ドミトリー・ヴォルコゴーノフ も同様に「(レーニンは)その強烈な個性そのものによって、人々に影響を及ぼすことができた」と評している422 。他方、レーニンの友人であったマクシム・ゴーリキー は彼の容姿について「禿頭で、ずんぐりと」して「あまりにも平凡」であり、「指導者然とした印象」を与えるものではなかったと述べている423 。歴史学者ロバート・サーヴィス によれば、レーニンは自分が宿命を負った人間 (man of destiny) であると考えており、自らの理想の正しさと革命指導者としての能力に少しの疑念も抱いていなかった424 。
サーヴィスによれば、若き日のレーニンは非常に感情的であり425 、皇帝の権威に対して強い憎悪を示すのと同時に426 、マルクス、エンゲルス、チェルヌイシェフスキー といった思想家達への「愛情」を培い、彼らのポートレイト を所有し427 、私的な会話の中で自らがマルクスとエンゲルスを「愛している」とも語っていた428 。ヴォルコゴーノフの見解では、レーニンはマルクス主義を「絶対的な真理」と捉えており、「宗教的な狂信者」のように振る舞っていた429 。バートランド・ラッセル もまた、レーニンが「マルクス主義の福音への確固たる、宗教的な信仰」を有しているとの印象を抱いた430 。それらの指摘にもかかわらず、レーニンは無神論者 であり、また宗教の批判者であった。レーニンは無神論が社会主義の前提であると理解しており、したがって「キリスト教社会主義 」は名辞矛盾であると考えていた431 。
レーニンはロシア語の他にフランス語、ドイツ語、英語を話し、また読むことができた432 。健康に気を遣って定期的な運動を心がけており433 、水泳、狩猟、サイクリングを好んだほか434 、スイスでは山歩きへの情熱を育んだ435 。ペットも好み436 、特にネコ を可愛がっていた437 。乱雑さを嫌い、デスクは常に片付けられ、鉛筆は尖った状態に保たれており、仕事中には完全な静寂を要求した438 。パイプスは、レーニンが「私的な欲望について極端に自制的」であり、したがって「質素な、ほとんど禁欲的と言える生活スタイル」を送っていたと指摘している439 。フィッシャーによればレーニンは「最低限度」の虚栄心しか持っておらず440 、したがって自らに対する個人崇拝 も忌み嫌っていたが、それが共産主義運動の統一化に有益である可能性は認めていた441 。
レーニンの性格について、サーヴィスは時に「気まぐれで短気」であったと述べ442 、パイプスは「徹底的な人間嫌い」であったと評したが443 、歴史家クリストファー・リードはパイプスの見解に反論し、レーニンが人間、特に子供に対して親切心を示した例は数多く存在すると指摘している444 。複数の伝記作家によれば、レーニンは反論されることを許容できず、しばしば自分と異なる率直な意見をはねつけたほか445 、自らの見解にとって不都合な事実を無視し446 、妥協することを極度に嫌い447 、間違いを認めることは非常に稀だった448 。
レーニンは自らが民族的にロシア人 であると認識していたが449 、母国ロシアよりも他のヨーロッパ諸国、特にドイツは文化的に優れていると考えており450 、ロシアを「アジア諸国の中でも最も未開で、中世風の、恥ずべき後進国」と評していた405 。また、ロシア国民に見られる規律や勤勉さの欠如に苛立っており、青年期からロシアが文化的により西洋的・ヨーロッパ的になることを望んでいた451 。
筆名 ウラジーミル・ウリヤノフが恐らくシベリアのレナ川 に由来する「レーニン」という筆名を初めて公に使用したのは1901年12月であった452 453 。ウラジーミルは他にも複数の偽名を使用していたが、『何をなすべきか 』を「レーニン」の筆名で発表して以降、他のマルクス主義者からこの名前で広く認知されるようになった55 。ウラジーミルはしばしば「N・レーニン(Н. Ленин)」という形でこの名を用い、イニシャルの「N」は実際には無意味であったが、のちにこれが「ニコライ」を示すとする誤解が一般的に広まった454 。なお、一般的に「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」という名前の表記も用いられるが、本人自らがそのように署名した例はなく、455 上記サインのように「ウリヤノフ/レーニン(Ульянов/Ленин)」または単に「レーニン」と綴っていた。
「レーニン」の名は、帝国警察から身元を隠すためにウラジーミルが使用した150以上の偽名の中の1つであり、その由来についての定説は存在していない456 。ウラジーミルが1901年当時に敬愛していたゲオルギー・プレハーノフ の用いた多数の偽名の中に、ヴォルガ川 にちなんだ「ヴォルギン」があり、そこから同じくロシアの大河であるレナ川にちなんだ「レーニン」の名を考案したとの説があるほか456 、自身が送られた流刑地の近くを流れていたのがレナ川だったためという説も挙げられるが、彼のいたシュシェンスコエ の側を流れていたのはエニセイ川 であり、実際にレナ川を訪れたことは一度もなかった457 。ほかにも、中高等学校時代の級友の名前に由来するという説や456 、過去に交際した女性の名前に由来するとの説などが存在するが、ロバート・サーヴィス は諸説について「擬似心理学的な憶測」と述べている458 。
著作
全集
参考文献
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脚注
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