ベルリンの戦い — OpenHistory
オーデル〜ナイセ河の攻防 1945年4月16日、赤軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。作戦は午前5時、オーダー川からゲオルギー・ジューコフ 元帥 率いる第1白ロシア方面軍の30分間にわたる猛砲撃で開始、続いてドイツ軍守備兵の目を晦ませるため140のサーチライト を照射し、渡河攻撃が行われた1 。しかし、この照射はドイツ軍の目を晦ますどころか、逆にドイツ軍砲兵のために赤軍を照らし出す結果となった。又、ヴァイクセル軍集団 の司令官ゴットハルト・ハインリツィ 上級大将 の命令により、前日、第1線陣地から第2線陣地にドイツ軍守備隊は後退していたため、猛砲撃の効果も無かった。このためオーデル河を渡河した赤軍はゼーロウ高地 でテオドーア・ブッセ 大将率いるドイツ第9軍の頑強な抵抗に遭い、攻撃は頓挫した2 。一方、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ方面軍も午前6時、ナイセ河 から攻撃を開始し、砲撃と煙幕 の援護を受け渡河を行った。午前8時35分、133ヶ所の渡河点を確保したコーネフは第3親衛戦車軍 に命令を送り、南方からベルリンに侵攻する準備を指示した3 。
ベルリンからの脱出
ナチス高官のベルリン脱出 一方、ベルリン防衛司令官ヘルムート・ライマン 中将 の事務室には、ナチス党 の幹部が口実を設け、ベルリン立ち退きの許可証を求め集まってきた。ベルリン防衛責任者のヨーゼフ・ゲッベルス は、武器を持てる者は一人もベルリンを離れてはならないと布告しており、ベルリン防衛司令部の許可証が無ければベルリンを退去することができなかったためであったが、これをライマンの副官は嘲笑していた7 。結局、ライマンは彼等に2000枚以上の許可証を発行した6 。
日本の要請 4月15日、ドイツの敗北を確信した東京 の海軍軍令部 はベルリン脱出寸前の阿部勝雄 中将宛に緊急電報を発信し、「残存するUボート をできるだけ多く日本 に回航するようドイツ海軍 に要請し、その実現に努力せよ」との指令を行った。この要請に海軍総司令官デーニッツ元帥は、燃料不足を理由に拒絶の意を示した。しかし、指令を果たすために、阿部はその後、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 外務大臣 と折衝を行い再度交渉を行ったが、デーニッツからは要望には応じられない旨、4月20日に最終的な回答を受けた。
その日、阿部は総統官邸に赴き、ヒトラーの誕生日を祝う記帳を行った後、デーニッツからの最終回答とベルリンから脱出する旨打電し、ベルリン包囲網が閉じる寸前に、ハンブルク 方面へ脱出した8 。なお多くの大使館員と民間人はベルリン郊外に避難したほか、一部は大使館内に残った。
ベルリンの包囲 4月20日、コーネフはさしたる抵抗を受けることも無く、バールート を陥落させ、ドイツ陸軍総司令部 のあるツォッセン に達しようとしていた。一方ジューコフは、ドイツ第56装甲軍団の抵抗もあり思うように進撃できていなかったが、21日には第1機械化軍団がベルリン郊外のヴァイセンゼー に突入し、ベルリン中心部へ向け重砲による砲撃を始めた。翌22日、第3親衛戦車軍と第4親衛戦車軍がテルトウ運河 に到達し、23日にはベルリン郊外市街地へ突入を始める9 。
4月25日、コーネフの第4親衛戦車軍がポツダム郊外へ到達して、ベルリン包囲が完成した12 。
ベルリン市街戦 4月初頭のベルリンでは赤軍がいつ攻め込んでくるかわからない状況で、市内は熱病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。ナチス党員は降伏すれば即決裁判 で処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くの赤軍将兵を道連れにすることを考えていた。ヒトラーは助かる道を完全に閉ざされていたため、ドイツの人種 、文化 、建造物 まで全てを道連れにする覚悟を決めていた13 。
そのうち送電が断たれたためラジオ放送 すら聴くことが不可能になった。情報を求める市民の間では、もうすぐアメリカ軍が救援のために味方してくれるなどの信憑性に乏しい噂が流れた。戦争の終盤になってもナチスの宣伝省 は相変わらず愛国のために徹底抗戦を訴えるプロパガンダ を放送していたが、多くの市民にとっては既にどうでもよい事柄で、生き残ることだけを考えていた。白旗 を掲げる家では親衛隊に狙撃され、何もしなければソビエト兵に殺される状態であり、もはや助かる道はアメリカ軍に降伏する以外になかった14 。
戦いが長引くにつれ地下壕や病院 は負傷兵で一杯になった。医薬品も麻酔薬も不足していたため、負傷兵は傷を負ったまま放置された。そこら中に四肢が欠けて骨がむき出しになった兵士や、血まみれで包帯が巻かれた負傷兵や死体が横たわっていた。既に戦闘不可能な負傷兵が集う場所も砲撃に晒されたため、ある野戦病院では看護婦 がシーツと口紅で赤十字 の旗を作って掲げたが、旗の意味を理解できないか、意図的に無視した等の理由により赤軍の砲撃が止む事はなかった。生き残ったドイツ人は「ベルリンは地獄と化していた」と記している15 。
ヒトラーの自殺 翌30日の15時20分、ヒトラーとエヴァは、総統地下壕の居間でピストル 及び毒薬 を使用して自殺した。遺骸は官邸の庭に運び出され、ガソリンを注がれ焼かれた後、砲弾穴へ葬られた17 。
ベルリンの無条件降伏 ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、ソ連と講和交渉を行うため、参謀総長のハンス・クレープス 大将を軍使として派遣し、2時間にわたる停戦の申し入れを行ったが、赤軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏 を要求した。ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン防衛軍による赤軍のベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、5月1日から2日にかけ、ベルリン防衛軍は降伏した18 。それまで徹底抗戦を訴え続けていたゲッベルスは、赤軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した19 。
陥落寸前の国会議事堂に立てこもり最後まで抵抗した独軍兵はフランスやノルウェーといった占領地からの志願兵やソビエトからの寝返り捕虜兵が多くを占めていたと記録されている。彼らは仮に米英軍側に投降したとしても祖国に送還されれば裏切り者としての迫害と処刑を免れないがゆえ、ドイツ人兵以上に必死であった。
終焉
ドイツ無条件降伏 ドイツ南部にはまだ武装したドイツ軍部隊が多く、5月1日にヒトラーの後継者として大統領に指名されたデーニッツの隷下にあった。彼は、5月6日に全権委任したアルフレート・ヨードル をフランス ランス の連合軍最高司令官アイゼンハワー の司令部に派遣、赤軍に包囲されたバルト海 沿岸のドイツ東部から避難民を海路ドイツ西部に受け入れるまでの時間的猶予を交渉、48時間の猶予を許され、発効を5月9日零時として5月7日にドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に署名した。それでも多くの避難民は赤軍の手に落ち、悲惨な運命をたどることになった。
余波
ドイツ人への報復 ソビエト軍の報復は苛烈を極め、多くの女性がソビエト軍将兵により強姦 され、数多くの市民が自殺した。ゲルハルト・ライヒリング 博士に拠ると、当時ベルリンの女性の平均人口は149万5500人と推計され、その6.7%に相当する10万人が赤軍兵士による性暴力の被害者となり、うち10%前後が性病 にかかったとされている。強姦された女性は心理的外傷を負い、10万人のうち1万人前後が死亡した。強姦から身を守るため、女性は不潔な身なりをしたり、あるいは伝染病にかかっているふりをした20 。又ある者(マルタ・ヒラーズ )は、強姦被害を受けた後、ソ連軍の少佐に奉仕し、パトロンになってもらうことで、身を守っていた21 。ただし、ソ連軍の軍人全てがそうであったわけではなく、中には捕虜にしたドイツ兵やヒトラーユーゲントに対して、スープやチョコレートを振舞ったりする兵士もいた22 。
これはベルリンに限ったことではなく、赤軍に占領されたドイツの町や村の多くで起こった23 。ソ連の作家イリヤ・エレンブルク は1964年に出版した回想録に「ブロンドのドイツ娘をさらえ、それは諸君の戦利品だ!」と赤軍兵士を煽ったことで非難されたことを記している24 。なおこのような赤軍兵士による「報復」は、その後政治将校がベルリンに到着し綱紀粛正が行われるとともに減少した。政治将校の中には、治安を乱す赤軍兵士を即座に射殺することもあった。
また、ソ連は戦利品部隊を占領下ドイツに送り込み、ベルリンの博物館島 や、ドイツ各地の博物館、美術館、個人収集品から250万点にも及ぶ絵画、彫刻等の美術品を戦利品として劫掠した。ハインリヒ・シュリーマン が発見した「トロイア の黄金」も劫掠された一つである。この内、約100万点は今なおドイツに返還されていない25 。
在留邦人の運命
避難組 1945年4月当時ベルリンには、駐独日本大使館があったほか、同盟国ドイツやドイツ軍との連絡、新兵器技術を研修・習得するため多くの民間人技術者や技術将校が所属する陸軍武官事務所、海軍武官事務所があった。またその他に軍需メーカーの関係者、大倉商事 や三菱商事 などの商社関係者、同盟通信 や毎日新聞 、朝日新聞 などの報道関係者、芸術家、留学生などおよそ400人から500人ほどの日本人が在住していた。これらの民間人の多くは4月に入るとベルリン郊外に避難した。ベルリンの南西80 kmのマールスドルフにある城に120名の日本人が篭城した。このような避難所は他にもベルツィヒなどベルリン郊外に数か所あり、それぞれに大使館関係者が帯同した。
5月8日には早くも、日本と交戦しているイギリス軍 とアメリカ軍 がバート・ガスタインに到着し、大島大使や武官を含む大使館関係者は滞在していたアストリアホテルにおいてアメリカ軍の軟禁下に置かれた。7月1日にはフランス経由でアメリカに送られ、その後百数十人の民間人も同じくアメリカに移送された後11月に日本へ向かった。
残留組 大使館に残留した河原酸一郎参事官 以下少数の大使館員(2人のドイツ人女性タイピストを含む)と民間人は、地下壕に前もって備蓄されていた100人が2か月間暮らせるだけの食料と地下に掘られた井戸 、ローソク などを頼りに籠城を続けたが、ベルリン陥落の危機が迫る中、4月22日には機密書類などを廃棄した。その後水と電気が止まったためにローソクと備蓄食料を頼りに生活せざるを得なくなった27 。
その後ソ連軍が入城すると、5月2日にはロシア語 ができる大使館員らの制止を無視して、下級兵士が日ソ中立条約 により中立 関係にある大使館に押し入り、大使館員の時計 や食料などを強奪するに至った。これに対して残留していた大使館員がソ連軍司令部に抗議をしたため、後に大使館入り口に警備兵が立つことになった。しかしその後もソ連軍は、司令部に訪れた日本大使館員を数日間監禁し、残留ドイツ首脳陣との連絡の有無やリッベントロップ外相の行方などについて尋問するという国際法 に違反する行為を行った。なおベルリン中心地で無事に残った建物は、オペラ座と日本大使館だけであったと言われる28 。
さらにドイツの降伏を受けて、ベルリンに4か国共同統治が敷かれ、イギリス軍やアメリカ軍がベルリンに入城してくることが決まったため、5月18日には、全ての残留大使館関係者とベルリン郊外のソ連占領区域に避難していた民間人に対して退去が命じられ、20日にはモスクワ 経由でシベリア鉄道 で帰国させられた。なおこれには、スウェーデンに在留していた日本人も合流した。
防衛に参加した部隊
ヴァイクセル軍集団
第3装甲軍
スヴィーネミュンデ 軍団(Swinemunde Corps)
第2海軍歩兵師団 (2. Marine Division)
第402海軍歩兵師団(402. Marine Division)
第32軍団(XXXII. Armeekorps)
司令官 : フリードリヒ・シャック (de )歩兵大将
フォークト 歩兵師団(Voigt Infanterie-Division)
第281歩兵師団 (281. Infanterie-Division)
第549国民擲弾兵師団(549. Volksgrenadier-Division)
オーデル 軍団(Oder Corps)
司令官 : エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー 親衛隊大将
クロセック歩兵師団(Klossek Infanterie-Division)
第610歩兵師団(610. Infanterie-Division)
第46装甲軍団(XXXXVI Panzer Corps)
司令官 : マルティン・ガーライス (de )歩兵大将
第547国民擲弾兵師団(547. Volksgrenadier-Division)
第1海軍歩兵師団 (1. Marine Division)
第9軍
第101軍団(CI Armeekorps)
司令官 : ヴィルヘルム・ベルリン (de )砲兵大将
第5猟兵師団(5. Jäger-Division)
第309歩兵師団『大ベルリン』(309. Infanterie-Division (Groß-)Berlin )
第25装甲擲弾兵師団(25. Panzergrenadier-Division)
千夜一夜戦闘団 (Kampfgruppe 1001 Nacht)
第56装甲軍団(LVI. Panzerkorps)
司令官 : ヘルムート・ヴァイトリング 砲兵大将
第9降下猟兵師団 (9.Fallschirmjäger-Division)
第18装甲擲弾兵師団(18. Panzergrenadier-Division)
第20装甲擲弾兵師団(20. Panzergrenadier-Division)
ミュンヘベルク装甲師団 (Panzer-Division Müncheberg)
第11SS装甲軍団(XI. SS-Panzerkorps)
司令官 : マティアス・クラインハイスターカンプ 親衛隊大将
第303歩兵師団『デーベリッツ』(303. Infanterie-Division "Döberitz")
第169歩兵師団(169. Infanterie-Division)
第712歩兵師団(712. Infanterie-Division)
クーアマルク装甲擲弾兵師団(Panzergrenadier-Division Kurmark)
第5SS山岳軍団 (V. SS-Freiwilligen-Gebirgskorps)
司令官 : フリードリヒ・イェッケルン 親衛隊大将
第286歩兵師団(286. Infanterie-Division)
第32SS義勇擲弾兵師団 『1月30日』(32. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division „30. Januar“)
第391保安師団(391. Sicherungs-Division)
軍集団予備
第3SS装甲軍団(III. SS-Panzerkorps)
司令官 : フェリックス・シュタイナー 親衛隊大将
(後に第9軍に割り当てられた師団)
第11SS義勇装甲擲弾兵師団 『ノルトラント』(11. SS-Freiwilligen Panzergrenadier-Division "Nordland")
第23SS義勇装甲擲弾兵師団 『ネーデルラント』(23. SS-Freiwilligen-Panzergrenadier-Division "Nederland")
(後に第3装甲軍に割り当てられた師団)
第27SS義勇擲弾兵師団 『ランゲマルク』(27. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division "Langemarck")
第28SS義勇擲弾兵師団 『ヴァロニエン』(28. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division „Wallonien“)
中央軍団集団
第5軍団(4. Panzerarmee)
司令官 : クルト・ヴェーガー砲兵大将
第35SS警察擲弾兵師団 (35. SS- und Polizei-Grenadier-Division)
第36SS武装擲弾兵師団 (36. Waffen-Grenadier-Division der SS)
第275歩兵師団(275. Infanterie-Division)
第342歩兵師団(342. Infanterie-Division)
第21装甲師団(21. Panzer-Division)
第20軍団(V. Armeekorps)
司令官 : カール・エーリック・ケルナー (de )騎兵大将
RAD 歩兵師団『テオドール・ケルナー (de )』(Infanterie-Division Theodor Körner)
歩兵師団『ウルリヒ・フォン・フッテン 』(Infanterie-Division Ulrich von Hutten)
歩兵師団『フェルディナント・フォン・シル 』(Infanterie-Division Ferdinand von Schill)
歩兵師団『シャルンホルスト』(Infanterie-Division Scharnhorst)
第39装甲軍団(XXXIX.Panzerkorps)
司令官 : カール・アルント (de )中将
(OKW 直轄 1945年4月12日~21日)
クラウゼヴィッツ装甲師団(Panzer Division Clausewitz)
RAD歩兵師団『シュラゲター (de )』(Infanterie-Division Schlageter)
第84歩兵師団(84. Infanterie-Division)
(第12軍 1945年4月21日~26日)
クラウゼヴィッツ装甲師団(Panzer Division Clausewitz)
第84歩兵師団(84. Infanterie-Division)
ハンブルク予備歩兵師団(Reserve Infanterie-division Hamburg”)
マイヤー歩兵師団(Meyer Infanterie-division)
第41装甲軍団(XXXXI. Panzer-Korps)
司令官 : ルードルフ・ホルステ 中将
フォン・ハーケ歩兵師団(Infanterie-division Von Hake)
第199歩兵師団(199. Infanterie-Division)
報復兵器 歩兵師団(Infanterie-division Vergeltungswaffe)
第48装甲軍団(XLVIII. Panzer-Korps)
司令官 : マクシミリアン・フォン・エーデルスハイム 装甲兵大将
第14対空師団(14. Flak-Division)
ライプツィヒ 戦闘団(Kampfgruppe Leipzig)
ハレ 戦闘団(Kampfgruppe Halle)
大ベルリン大管区(Gau Groß-Berlin der NSDAP) 突撃隊 集団『ベルリン・ブランデンブルク』(SA-Gruppe Berlin-Brandenburg)
SA第25旅団『ポツダム 』(SA-Brigade 25 „Potsdam“)
SA第26旅団『ブランデンブルク -東』(SA-Brigade 26 „Brandenburg-Ost“)
SA第27旅団『ブランデンブルク-西』(SA-Brigade 27 „Brandenburg-West“)
SA第28旅団『ホルスト・ヴェッセル 』(SA-Brigade 28 „Horst Wessel“)
SA第29旅団『ベルリン-東』(SA-Brigade 29 „Berlin-Ost“)
SA第30旅団『ベルリン-西』(SA-Brigade 30 „Berlin-West“)
SA第1連隊『ベルリン-シャルロッテンブルク (de )』(Standarte 1 „Berlin-Charlottenburg“)
SA第2連隊『キューテマイヤー』(Standarte 2 „Kütemeier“)
SA第3連隊『ベルリン-ノイケルン 』(Standarte 3 „Berlin-Neukölln“)
SA第5連隊『ホルスト・ヴェッセル』(Standarte 5 „Horst Wessel“)
SA第6連隊『ベルリン-中央』(Standarte 6 „Berlin-Mitte“)
SA第7連隊『ベルリン-ヴィルマースドルフ (de )』(Standarte 7 „Berlin-Wilmersdorf“)
SA第8連隊『ベルリン-クロイツベルク 』(Standarte 8 „Berlin-Kreuzberg“)
SA第9連隊『ベルリン-シュテーグリッツ 』(Standarte 9 „Berlin-Steglitz“)
SA第10連隊『ベルリン-ヴェディング (de )』(Standarte 10 „Berlin-Wedding“)
SA第24連隊『カールリッツマン (de )』(Standarte 24 „General Litzmann“)
SA第35連隊『ブランデンブルク』(Standarte 35 „Brandenburg“)
SA第39連隊『東プリーグニッツ 』(Standarte 39 „Ostpriegnitz“)
SA第64連隊『ウッカーマルク 』(Standarte 64 „Uckermark“)
SA第205連隊『ベースコー (de )及びシュトルコー (de )』(Standarte 205 „Beeskow-Storkow“)
SA第206連隊『グロースベーレン (de )』(Standarte 206 „Großbeeren“)
SA第207連隊『オーバーバルニム (de )』(Standarte 207 „Oberbarnim“)
SA第208連隊『ニーダーバルニム (de )』(Standarte 208 „Niederbarnim“)
SA第235連隊『ポツダム』(Standarte 235 „Potsdam“)
親衛隊上級地区 『シュプレー』(SS-Oberabschnitt „Spree“)
一般親衛隊 徒歩連隊(SS-Fußstandarten)
第6SS徒歩連隊(6.SS-Standarte)
第15SS徒歩連隊『ノイルピーン 』(15.SS-Standarte Neuruppin)
第27SS徒歩連隊『フランクフルト・アン・デア・オーダー 』(27.SS-Standarte Frankfurt (Oder))
第42SS徒歩連隊(42.SS-Standarte)
第44SS徒歩連隊『エーベルスヴァルデ 』(44.SS-Standarte Eberswalde)
第54SS徒歩連隊『ランツベルク(ヴァルテ) (de )』(54.SS-Standarte Lansberg / Warthe)
第75SS徒歩連隊(75.SS-Standarte)
第80SS徒歩連隊(80.SS-Standarte)
国民突撃隊(Volkssturm) ベルリン国民突撃隊指導者 : ギュンター・グランツ突撃隊大将
アドルフ・ヒトラー義勇軍(Freikorps Adolf Hitler)
第3国民突撃隊大隊(Volkssturm-Bataillon 3)
第1~146中隊
第149中隊
第155中隊
第162~164中隊
第191中隊
第201~205中隊
第209中隊
第211中隊
第229中隊
第260中隊
第283中隊
第301~391中隊
第403~407中隊
第410~415中隊
第425~427中隊
第432中隊
第456中隊
第469中隊
第501~508中隊
第511~517中隊
第521中隊
第552中隊
第555~556中隊
第569中隊
第591中隊
第603~619中隊
第628中隊
第669中隊
第691中隊
第699中隊
第705~709中隊
第715中隊
第721~723中隊
第801~803中隊
第807~811中隊
第869中隊
第899中隊
第903中隊
第962中隊
第990中隊
参考資料
参考文献
ノンフィクション
H.R.トレヴァ=ローパー 『ヒトラー最後の日』橋本福夫 訳、雄鶏社、1951年。
コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘』木村忠雄 訳、朝日新聞社 、1966年。
吉村昭 『深海の使者』文藝春秋 <文春文庫 >、1976年、ISBN 4-16-716901-0。
ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』永井淳 訳、集英社 、1979年。
Wolfgang Paul 『最終戦 1945年ドイツ』松谷健二 訳、フジ出版社、1979年。
T・プリーヴィエ 『ベルリン』金森誠也・安藤勉 訳、論創社、1992年。
エイダ ペトロヴァ / ピーター ワトソン『ヒトラー最後の日 50年目の真実』藤井留美 訳、原書房 、1996年、ISBN 4-562-02861-0。
アントニー・ビーヴァー 『ベルリン陥落 1945』川上洸 訳、白水社 、2004年、ISBN 4-56-002600-9。
ヨアヒム・フェスト 『ヒトラー・最後の12日間』鈴木直 訳、岩波書店 、2005年、ISBN 4-00-001934-1。
高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』大日本絵画、2005年、ISBN 4-499-22748-8。
H・エーベルレ、M・ウール 編『ヒトラー・コード』高木玲 訳、講談社 、2006年、ISBN 4-06-213266-4。
フォルカー・ウルリヒ著 著、松永美穂 訳『ナチ・ドイツ最後の8日間 1945.5.1-1945.5.8』すばる舎 、2022年。ISBN 978-4799110621。
回顧録
ワシーリー・チュイコフ 『ナチス第三帝国の崩壊 スターリングラードからベルリンへ』小城正 訳、読売新聞社 、1973年。
Gerhard Boldt 『ヒトラー最後の十日間』松谷健二 訳、TBS出版会、1974年。
Christian Graf von Knockow 『女たちの時 ドイツ崩壊の淵で 1944-1947』大貫敦子 訳、平凡社 、1991年、ISBN 4-582-37317-8。
トラウデル・ユンゲ 『私はヒトラーの秘書だった』足立ラーベ加代・高島市子 訳、草思社 、2004年、ISBN 4-7942-1276-3。
『ベルリン終戦日記―ある女性の記録』山本浩司 訳、白水社、2008年、新版2017年。 - 2008年に映画化(邦題「ベルリン陥落1945 」)
Pictorials
Tony Le Tissier Berlin,Then and Now , Battle of Britain Prints International Limited, ISBN 0-900913-72X, 1997
中村雅夫 編『ベルリン攻防戦』学習研究社、1999年、ISBN 4-05-602060-4。
在留邦人の記録
衣奈多喜男(朝日新聞 特派員)『敗北のヨーロッパ特電』朝日ソノラマ、1973年。
湯浅年子(フランスから避難した物理学者)『パリ随想』みすず書房、1973年。
与謝野秀(外交官) 『一外交官の思い出のヨーロッパ』筑摩書房、1981年。
新関欽哉 (最後まで大使館に残留した外交官)『第二次大戦下ベルリン最後の日 ある外交官の記録』日本放送出版協会、1988年、ISBN 4-14-001548-9。
藤山楢一(外交官)『一青年外交官の太平洋戦争 日米開戦のワシントンからベルリン陥落』新潮社、1989年、ISBN 4-10-373101-X。
邦正美 (ベルリン攻防戦の前後を自身で体験した留学生)『ベルリン戦争』朝日新聞社、1993年、ISBN 4-02-259573-6。
江尻進(同盟通信 特派員)『ベルリン特電』共同通信社 、1995年、ISBN 4-7641-0347-8。
館澤貢次 『大戦秘史 リーツェンの桜 』ぱる出版、1995年、ISBN 4-89386-474-2。
四本忠俊(内務省ベルリン事務所翻訳官)『マールスドルフ篭城記』明治大学 教養論集 通巻第185号。
映画
脚注
7.
余波
ベルリンの戦い (ベルリンのたたかい、ドイツ語 : Schlacht um Berlin、英語 : Battle of Berlin)は、第二次世界大戦 末期、1945年4月16日のソビエト赤軍 のゼーロウ高地攻撃 開始から、総統地下壕 におけるアドルフ・ヒトラーの自殺 、国会議事堂 の陥落、5月2日のドイツ国防軍 のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリング 砲兵大将 の降伏 に至るまで、ベルリン 周辺で展開された赤軍とドイツ軍の戦闘のことである。
戦いの背景
1944年6月22日、ソビエト赤軍によって開始されたバグラチオン作戦 の結果、ドイツ軍はソ連領からほぼ駆逐された。1945年1月20日、赤軍は東プロイセン に侵入、遂にドイツ 領内へ進撃した。参謀総長ハインツ・グデーリアン はラジオ放送を通じて「赤軍本土侵攻」を報じ国民の注意を喚起、ヒトラーにベルリン防衛の強化を進言するが、ヒトラーは1月23日の会議でオーストリア とドイツの石油の80%を供給するハンガリー の防衛を優先、ベルリン防衛予定部隊から第6SS装甲軍 を抽出してハンガリーに派遣することを決定した(春の目覚め作戦 )。しかし、この部隊は派遣先のハンガリーで壊滅した。
3月28日、ヒトラーはキュストリン 橋頭堡の失陥をめぐって対立したハインツ・グデーリアン を参謀総長から解任、後任に を任命した。状況は悪化しており、首都ベルリンの運命は 戦線の 隷下の と 、 隷下の に委ねられていた。しかし予備兵力は薄く、書類上は師団でもその戦力は著しく低下しており、 や の外国人 など、即席部隊で対応しなければならなかった。また、その即席部隊は末端兵士だけでなく、指揮官も忠誠心の強さのみで取り立てられたものが多かった。そのため、実質的な指揮官は叩き上げの軍人である 砲兵大将や らに委ねられている状態であった。
オーデル〜ナイセ河の攻防 1945年4月16日、赤軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。作戦は午前5時、オーダー川からゲオルギー・ジューコフ 元帥 率いる第1白ロシア方面軍の30分間にわたる猛砲撃で開始、続いてドイツ軍守備兵の目を晦ませるため140のサーチライト を照射し、渡河攻撃が行われた1 。しかし、この照射はドイツ軍の目を晦ますどころか、逆にドイツ軍砲兵のために赤軍を照らし出す結果となった。又、ヴァイクセル軍集団 の司令官ゴットハルト・ハインリツィ 上級大将 の命令により、前日、第1線陣地から第2線陣地にドイツ軍守備隊は後退していたため、猛砲撃の効果も無かった。このためオーデル河を渡河した赤軍はゼーロウ高地 でテオドーア・ブッセ 大将率いるドイツ第9軍の頑強な抵抗に遭い、攻撃は頓挫した2 。一方、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ方面軍も午前6時、ナイセ河 から攻撃を開始し、砲撃と煙幕 の援護を受け渡河を行った。午前8時35分、133ヶ所の渡河点を確保したコーネフは第3親衛戦車軍 に命令を送り、南方からベルリンに侵攻する準備を指示した3 。
ベルリンからの脱出
ナチス高官のベルリン脱出 一方、ベルリン防衛司令官ヘルムート・ライマン 中将 の事務室には、ナチス党 の幹部が口実を設け、ベルリン立ち退きの許可証を求め集まってきた。ベルリン防衛責任者のヨーゼフ・ゲッベルス は、武器を持てる者は一人もベルリンを離れてはならないと布告しており、ベルリン防衛司令部の許可証が無ければベルリンを退去することができなかったためであったが、これをライマンの副官は嘲笑していた7 。結局、ライマンは彼等に2000枚以上の許可証を発行した6 。
日本の要請 4月15日、ドイツの敗北を確信した東京 の海軍軍令部 はベルリン脱出寸前の阿部勝雄 中将宛に緊急電報を発信し、「残存するUボート をできるだけ多く日本 に回航するようドイツ海軍 に要請し、その実現に努力せよ」との指令を行った。この要請に海軍総司令官デーニッツ元帥は、燃料不足を理由に拒絶の意を示した。しかし、指令を果たすために、阿部はその後、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 外務大臣 と折衝を行い再度交渉を行ったが、デーニッツからは要望には応じられない旨、4月20日に最終的な回答を受けた。
その日、阿部は総統官邸に赴き、ヒトラーの誕生日を祝う記帳を行った後、デーニッツからの最終回答とベルリンから脱出する旨打電し、ベルリン包囲網が閉じる寸前に、ハンブルク 方面へ脱出した8 。なお多くの大使館員と民間人はベルリン郊外に避難したほか、一部は大使館内に残った。
ベルリンの包囲 4月20日、コーネフはさしたる抵抗を受けることも無く、バールート を陥落させ、ドイツ陸軍総司令部 のあるツォッセン に達しようとしていた。一方ジューコフは、ドイツ第56装甲軍団の抵抗もあり思うように進撃できていなかったが、21日には第1機械化軍団がベルリン郊外のヴァイセンゼー に突入し、ベルリン中心部へ向け重砲による砲撃を始めた。翌22日、第3親衛戦車軍と第4親衛戦車軍がテルトウ運河 に到達し、23日にはベルリン郊外市街地へ突入を始める9 。
4月25日、コーネフの第4親衛戦車軍がポツダム郊外へ到達して、ベルリン包囲が完成した12 。
ベルリン市街戦 4月初頭のベルリンでは赤軍がいつ攻め込んでくるかわからない状況で、市内は熱病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。ナチス党員は降伏すれば即決裁判 で処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くの赤軍将兵を道連れにすることを考えていた。ヒトラーは助かる道を完全に閉ざされていたため、ドイツの人種 、文化 、建造物 まで全てを道連れにする覚悟を決めていた13 。
そのうち送電が断たれたためラジオ放送 すら聴くことが不可能になった。情報を求める市民の間では、もうすぐアメリカ軍が救援のために味方してくれるなどの信憑性に乏しい噂が流れた。戦争の終盤になってもナチスの宣伝省 は相変わらず愛国のために徹底抗戦を訴えるプロパガンダ を放送していたが、多くの市民にとっては既にどうでもよい事柄で、生き残ることだけを考えていた。白旗 を掲げる家では親衛隊に狙撃され、何もしなければソビエト兵に殺される状態であり、もはや助かる道はアメリカ軍に降伏する以外になかった14 。
戦いが長引くにつれ地下壕や病院 は負傷兵で一杯になった。医薬品も麻酔薬も不足していたため、負傷兵は傷を負ったまま放置された。そこら中に四肢が欠けて骨がむき出しになった兵士や、血まみれで包帯が巻かれた負傷兵や死体が横たわっていた。既に戦闘不可能な負傷兵が集う場所も砲撃に晒されたため、ある野戦病院では看護婦 がシーツと口紅で赤十字 の旗を作って掲げたが、旗の意味を理解できないか、意図的に無視した等の理由により赤軍の砲撃が止む事はなかった。生き残ったドイツ人は「ベルリンは地獄と化していた」と記している15 。
ヒトラーの自殺 翌30日の15時20分、ヒトラーとエヴァは、総統地下壕の居間でピストル 及び毒薬 を使用して自殺した。遺骸は官邸の庭に運び出され、ガソリンを注がれ焼かれた後、砲弾穴へ葬られた17 。
ベルリンの無条件降伏 ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、ソ連と講和交渉を行うため、参謀総長のハンス・クレープス 大将を軍使として派遣し、2時間にわたる停戦の申し入れを行ったが、赤軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏 を要求した。ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン防衛軍による赤軍のベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、5月1日から2日にかけ、ベルリン防衛軍は降伏した18 。それまで徹底抗戦を訴え続けていたゲッベルスは、赤軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した19 。
陥落寸前の国会議事堂に立てこもり最後まで抵抗した独軍兵はフランスやノルウェーといった占領地からの志願兵やソビエトからの寝返り捕虜兵が多くを占めていたと記録されている。彼らは仮に米英軍側に投降したとしても祖国に送還されれば裏切り者としての迫害と処刑を免れないがゆえ、ドイツ人兵以上に必死であった。
終焉
ドイツ無条件降伏 ドイツ南部にはまだ武装したドイツ軍部隊が多く、5月1日にヒトラーの後継者として大統領に指名されたデーニッツの隷下にあった。彼は、5月6日に全権委任したアルフレート・ヨードル をフランス ランス の連合軍最高司令官アイゼンハワー の司令部に派遣、赤軍に包囲されたバルト海 沿岸のドイツ東部から避難民を海路ドイツ西部に受け入れるまでの時間的猶予を交渉、48時間の猶予を許され、発効を5月9日零時として5月7日にドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に署名した。それでも多くの避難民は赤軍の手に落ち、悲惨な運命をたどることになった。
余波
ドイツ人への報復 ソビエト軍の報復は苛烈を極め、多くの女性がソビエト軍将兵により強姦 され、数多くの市民が自殺した。ゲルハルト・ライヒリング 博士に拠ると、当時ベルリンの女性の平均人口は149万5500人と推計され、その6.7%に相当する10万人が赤軍兵士による性暴力の被害者となり、うち10%前後が性病 にかかったとされている。強姦された女性は心理的外傷を負い、10万人のうち1万人前後が死亡した。強姦から身を守るため、女性は不潔な身なりをしたり、あるいは伝染病にかかっているふりをした20 。又ある者(マルタ・ヒラーズ )は、強姦被害を受けた後、ソ連軍の少佐に奉仕し、パトロンになってもらうことで、身を守っていた21 。ただし、ソ連軍の軍人全てがそうであったわけではなく、中には捕虜にしたドイツ兵やヒトラーユーゲントに対して、スープやチョコレートを振舞ったりする兵士もいた22 。
これはベルリンに限ったことではなく、赤軍に占領されたドイツの町や村の多くで起こった23 。ソ連の作家イリヤ・エレンブルク は1964年に出版した回想録に「ブロンドのドイツ娘をさらえ、それは諸君の戦利品だ!」と赤軍兵士を煽ったことで非難されたことを記している24 。なおこのような赤軍兵士による「報復」は、その後政治将校がベルリンに到着し綱紀粛正が行われるとともに減少した。政治将校の中には、治安を乱す赤軍兵士を即座に射殺することもあった。
また、ソ連は戦利品部隊を占領下ドイツに送り込み、ベルリンの博物館島 や、ドイツ各地の博物館、美術館、個人収集品から250万点にも及ぶ絵画、彫刻等の美術品を戦利品として劫掠した。ハインリヒ・シュリーマン が発見した「トロイア の黄金」も劫掠された一つである。この内、約100万点は今なおドイツに返還されていない25 。
在留邦人の運命
避難組 1945年4月当時ベルリンには、駐独日本大使館があったほか、同盟国ドイツやドイツ軍との連絡、新兵器技術を研修・習得するため多くの民間人技術者や技術将校が所属する陸軍武官事務所、海軍武官事務所があった。またその他に軍需メーカーの関係者、大倉商事 や三菱商事 などの商社関係者、同盟通信 や毎日新聞 、朝日新聞 などの報道関係者、芸術家、留学生などおよそ400人から500人ほどの日本人が在住していた。これらの民間人の多くは4月に入るとベルリン郊外に避難した。ベルリンの南西80 kmのマールスドルフにある城に120名の日本人が篭城した。このような避難所は他にもベルツィヒなどベルリン郊外に数か所あり、それぞれに大使館関係者が帯同した。
5月8日には早くも、日本と交戦しているイギリス軍 とアメリカ軍 がバート・ガスタインに到着し、大島大使や武官を含む大使館関係者は滞在していたアストリアホテルにおいてアメリカ軍の軟禁下に置かれた。7月1日にはフランス経由でアメリカに送られ、その後百数十人の民間人も同じくアメリカに移送された後11月に日本へ向かった。
残留組 大使館に残留した河原酸一郎参事官 以下少数の大使館員(2人のドイツ人女性タイピストを含む)と民間人は、地下壕に前もって備蓄されていた100人が2か月間暮らせるだけの食料と地下に掘られた井戸 、ローソク などを頼りに籠城を続けたが、ベルリン陥落の危機が迫る中、4月22日には機密書類などを廃棄した。その後水と電気が止まったためにローソクと備蓄食料を頼りに生活せざるを得なくなった27 。
その後ソ連軍が入城すると、5月2日にはロシア語 ができる大使館員らの制止を無視して、下級兵士が日ソ中立条約 により中立 関係にある大使館に押し入り、大使館員の時計 や食料などを強奪するに至った。これに対して残留していた大使館員がソ連軍司令部に抗議をしたため、後に大使館入り口に警備兵が立つことになった。しかしその後もソ連軍は、司令部に訪れた日本大使館員を数日間監禁し、残留ドイツ首脳陣との連絡の有無やリッベントロップ外相の行方などについて尋問するという国際法 に違反する行為を行った。なおベルリン中心地で無事に残った建物は、オペラ座と日本大使館だけであったと言われる28 。
さらにドイツの降伏を受けて、ベルリンに4か国共同統治が敷かれ、イギリス軍やアメリカ軍がベルリンに入城してくることが決まったため、5月18日には、全ての残留大使館関係者とベルリン郊外のソ連占領区域に避難していた民間人に対して退去が命じられ、20日にはモスクワ 経由でシベリア鉄道 で帰国させられた。なおこれには、スウェーデンに在留していた日本人も合流した。
防衛に参加した部隊
ヴァイクセル軍集団
第3装甲軍
スヴィーネミュンデ 軍団(Swinemunde Corps)
第2海軍歩兵師団 (2. Marine Division)
第402海軍歩兵師団(402. Marine Division)
第32軍団(XXXII. Armeekorps)
司令官 : フリードリヒ・シャック (de )歩兵大将
フォークト 歩兵師団(Voigt Infanterie-Division)
第281歩兵師団 (281. Infanterie-Division)
第549国民擲弾兵師団(549. Volksgrenadier-Division)
オーデル 軍団(Oder Corps)
司令官 : エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー 親衛隊大将
クロセック歩兵師団(Klossek Infanterie-Division)
第610歩兵師団(610. Infanterie-Division)
第46装甲軍団(XXXXVI Panzer Corps)
司令官 : マルティン・ガーライス (de )歩兵大将
第547国民擲弾兵師団(547. Volksgrenadier-Division)
第1海軍歩兵師団 (1. Marine Division)
第9軍
第101軍団(CI Armeekorps)
司令官 : ヴィルヘルム・ベルリン (de )砲兵大将
第5猟兵師団(5. Jäger-Division)
第309歩兵師団『大ベルリン』(309. Infanterie-Division (Groß-)Berlin )
第25装甲擲弾兵師団(25. Panzergrenadier-Division)
千夜一夜戦闘団 (Kampfgruppe 1001 Nacht)
第56装甲軍団(LVI. Panzerkorps)
司令官 : ヘルムート・ヴァイトリング 砲兵大将
第9降下猟兵師団 (9.Fallschirmjäger-Division)
第18装甲擲弾兵師団(18. Panzergrenadier-Division)
第20装甲擲弾兵師団(20. Panzergrenadier-Division)
ミュンヘベルク装甲師団 (Panzer-Division Müncheberg)
第11SS装甲軍団(XI. SS-Panzerkorps)
司令官 : マティアス・クラインハイスターカンプ 親衛隊大将
第303歩兵師団『デーベリッツ』(303. Infanterie-Division "Döberitz")
第169歩兵師団(169. Infanterie-Division)
第712歩兵師団(712. Infanterie-Division)
クーアマルク装甲擲弾兵師団(Panzergrenadier-Division Kurmark)
第5SS山岳軍団 (V. SS-Freiwilligen-Gebirgskorps)
司令官 : フリードリヒ・イェッケルン 親衛隊大将
第286歩兵師団(286. Infanterie-Division)
第32SS義勇擲弾兵師団 『1月30日』(32. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division „30. Januar“)
第391保安師団(391. Sicherungs-Division)
軍集団予備
第3SS装甲軍団(III. SS-Panzerkorps)
司令官 : フェリックス・シュタイナー 親衛隊大将
(後に第9軍に割り当てられた師団)
第11SS義勇装甲擲弾兵師団 『ノルトラント』(11. SS-Freiwilligen Panzergrenadier-Division "Nordland")
第23SS義勇装甲擲弾兵師団 『ネーデルラント』(23. SS-Freiwilligen-Panzergrenadier-Division "Nederland")
(後に第3装甲軍に割り当てられた師団)
第27SS義勇擲弾兵師団 『ランゲマルク』(27. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division "Langemarck")
第28SS義勇擲弾兵師団 『ヴァロニエン』(28. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division „Wallonien“)
中央軍団集団
第5軍団(4. Panzerarmee)
司令官 : クルト・ヴェーガー砲兵大将
第35SS警察擲弾兵師団 (35. SS- und Polizei-Grenadier-Division)
第36SS武装擲弾兵師団 (36. Waffen-Grenadier-Division der SS)
第275歩兵師団(275. Infanterie-Division)
第342歩兵師団(342. Infanterie-Division)
第21装甲師団(21. Panzer-Division)
第20軍団(V. Armeekorps)
司令官 : カール・エーリック・ケルナー (de )騎兵大将
RAD 歩兵師団『テオドール・ケルナー (de )』(Infanterie-Division Theodor Körner)
歩兵師団『ウルリヒ・フォン・フッテン 』(Infanterie-Division Ulrich von Hutten)
歩兵師団『フェルディナント・フォン・シル 』(Infanterie-Division Ferdinand von Schill)
歩兵師団『シャルンホルスト』(Infanterie-Division Scharnhorst)
第39装甲軍団(XXXIX.Panzerkorps)
司令官 : カール・アルント (de )中将
(OKW 直轄 1945年4月12日~21日)
クラウゼヴィッツ装甲師団(Panzer Division Clausewitz)
RAD歩兵師団『シュラゲター (de )』(Infanterie-Division Schlageter)
第84歩兵師団(84. Infanterie-Division)
(第12軍 1945年4月21日~26日)
クラウゼヴィッツ装甲師団(Panzer Division Clausewitz)
第84歩兵師団(84. Infanterie-Division)
ハンブルク予備歩兵師団(Reserve Infanterie-division Hamburg”)
マイヤー歩兵師団(Meyer Infanterie-division)
第41装甲軍団(XXXXI. Panzer-Korps)
司令官 : ルードルフ・ホルステ 中将
フォン・ハーケ歩兵師団(Infanterie-division Von Hake)
第199歩兵師団(199. Infanterie-Division)
報復兵器 歩兵師団(Infanterie-division Vergeltungswaffe)
第48装甲軍団(XLVIII. Panzer-Korps)
司令官 : マクシミリアン・フォン・エーデルスハイム 装甲兵大将
第14対空師団(14. Flak-Division)
ライプツィヒ 戦闘団(Kampfgruppe Leipzig)
ハレ 戦闘団(Kampfgruppe Halle)
大ベルリン大管区(Gau Groß-Berlin der NSDAP) 突撃隊 集団『ベルリン・ブランデンブルク』(SA-Gruppe Berlin-Brandenburg)
SA第25旅団『ポツダム 』(SA-Brigade 25 „Potsdam“)
SA第26旅団『ブランデンブルク -東』(SA-Brigade 26 „Brandenburg-Ost“)
SA第27旅団『ブランデンブルク-西』(SA-Brigade 27 „Brandenburg-West“)
SA第28旅団『ホルスト・ヴェッセル 』(SA-Brigade 28 „Horst Wessel“)
SA第29旅団『ベルリン-東』(SA-Brigade 29 „Berlin-Ost“)
SA第30旅団『ベルリン-西』(SA-Brigade 30 „Berlin-West“)
SA第1連隊『ベルリン-シャルロッテンブルク (de )』(Standarte 1 „Berlin-Charlottenburg“)
SA第2連隊『キューテマイヤー』(Standarte 2 „Kütemeier“)
SA第3連隊『ベルリン-ノイケルン 』(Standarte 3 „Berlin-Neukölln“)
SA第5連隊『ホルスト・ヴェッセル』(Standarte 5 „Horst Wessel“)
SA第6連隊『ベルリン-中央』(Standarte 6 „Berlin-Mitte“)
SA第7連隊『ベルリン-ヴィルマースドルフ (de )』(Standarte 7 „Berlin-Wilmersdorf“)
SA第8連隊『ベルリン-クロイツベルク 』(Standarte 8 „Berlin-Kreuzberg“)
SA第9連隊『ベルリン-シュテーグリッツ 』(Standarte 9 „Berlin-Steglitz“)
SA第10連隊『ベルリン-ヴェディング (de )』(Standarte 10 „Berlin-Wedding“)
SA第24連隊『カールリッツマン (de )』(Standarte 24 „General Litzmann“)
SA第35連隊『ブランデンブルク』(Standarte 35 „Brandenburg“)
SA第39連隊『東プリーグニッツ 』(Standarte 39 „Ostpriegnitz“)
SA第64連隊『ウッカーマルク 』(Standarte 64 „Uckermark“)
SA第205連隊『ベースコー (de )及びシュトルコー (de )』(Standarte 205 „Beeskow-Storkow“)
SA第206連隊『グロースベーレン (de )』(Standarte 206 „Großbeeren“)
SA第207連隊『オーバーバルニム (de )』(Standarte 207 „Oberbarnim“)
SA第208連隊『ニーダーバルニム (de )』(Standarte 208 „Niederbarnim“)
SA第235連隊『ポツダム』(Standarte 235 „Potsdam“)
親衛隊上級地区 『シュプレー』(SS-Oberabschnitt „Spree“)
一般親衛隊 徒歩連隊(SS-Fußstandarten)
第6SS徒歩連隊(6.SS-Standarte)
第15SS徒歩連隊『ノイルピーン 』(15.SS-Standarte Neuruppin)
第27SS徒歩連隊『フランクフルト・アン・デア・オーダー 』(27.SS-Standarte Frankfurt (Oder))
第42SS徒歩連隊(42.SS-Standarte)
第44SS徒歩連隊『エーベルスヴァルデ 』(44.SS-Standarte Eberswalde)
第54SS徒歩連隊『ランツベルク(ヴァルテ) (de )』(54.SS-Standarte Lansberg / Warthe)
第75SS徒歩連隊(75.SS-Standarte)
第80SS徒歩連隊(80.SS-Standarte)
国民突撃隊(Volkssturm) ベルリン国民突撃隊指導者 : ギュンター・グランツ突撃隊大将
アドルフ・ヒトラー義勇軍(Freikorps Adolf Hitler)
第3国民突撃隊大隊(Volkssturm-Bataillon 3)
第1~146中隊
第149中隊
第155中隊
第162~164中隊
第191中隊
第201~205中隊
第209中隊
第211中隊
第229中隊
第260中隊
第283中隊
第301~391中隊
第403~407中隊
第410~415中隊
第425~427中隊
第432中隊
第456中隊
第469中隊
第501~508中隊
第511~517中隊
第521中隊
第552中隊
第555~556中隊
第569中隊
第591中隊
第603~619中隊
第628中隊
第669中隊
第691中隊
第699中隊
第705~709中隊
第715中隊
第721~723中隊
第801~803中隊
第807~811中隊
第869中隊
第899中隊
第903中隊
第962中隊
第990中隊
参考資料
参考文献
ノンフィクション
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吉村昭 『深海の使者』文藝春秋 <文春文庫 >、1976年、ISBN 4-16-716901-0。
ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』永井淳 訳、集英社 、1979年。
Wolfgang Paul 『最終戦 1945年ドイツ』松谷健二 訳、フジ出版社、1979年。
T・プリーヴィエ 『ベルリン』金森誠也・安藤勉 訳、論創社、1992年。
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アントニー・ビーヴァー 『ベルリン陥落 1945』川上洸 訳、白水社 、2004年、ISBN 4-56-002600-9。
ヨアヒム・フェスト 『ヒトラー・最後の12日間』鈴木直 訳、岩波書店 、2005年、ISBN 4-00-001934-1。
高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』大日本絵画、2005年、ISBN 4-499-22748-8。
H・エーベルレ、M・ウール 編『ヒトラー・コード』高木玲 訳、講談社 、2006年、ISBN 4-06-213266-4。
フォルカー・ウルリヒ著 著、松永美穂 訳『ナチ・ドイツ最後の8日間 1945.5.1-1945.5.8』すばる舎 、2022年。ISBN 978-4799110621。
回顧録
ワシーリー・チュイコフ 『ナチス第三帝国の崩壊 スターリングラードからベルリンへ』小城正 訳、読売新聞社 、1973年。
Gerhard Boldt 『ヒトラー最後の十日間』松谷健二 訳、TBS出版会、1974年。
Christian Graf von Knockow 『女たちの時 ドイツ崩壊の淵で 1944-1947』大貫敦子 訳、平凡社 、1991年、ISBN 4-582-37317-8。
トラウデル・ユンゲ 『私はヒトラーの秘書だった』足立ラーベ加代・高島市子 訳、草思社 、2004年、ISBN 4-7942-1276-3。
『ベルリン終戦日記―ある女性の記録』山本浩司 訳、白水社、2008年、新版2017年。 - 2008年に映画化(邦題「ベルリン陥落1945 」)
Pictorials
Tony Le Tissier Berlin,Then and Now , Battle of Britain Prints International Limited, ISBN 0-900913-72X, 1997
中村雅夫 編『ベルリン攻防戦』学習研究社、1999年、ISBN 4-05-602060-4。
在留邦人の記録
衣奈多喜男(朝日新聞 特派員)『敗北のヨーロッパ特電』朝日ソノラマ、1973年。
湯浅年子(フランスから避難した物理学者)『パリ随想』みすず書房、1973年。
与謝野秀(外交官) 『一外交官の思い出のヨーロッパ』筑摩書房、1981年。
新関欽哉 (最後まで大使館に残留した外交官)『第二次大戦下ベルリン最後の日 ある外交官の記録』日本放送出版協会、1988年、ISBN 4-14-001548-9。
藤山楢一(外交官)『一青年外交官の太平洋戦争 日米開戦のワシントンからベルリン陥落』新潮社、1989年、ISBN 4-10-373101-X。
邦正美 (ベルリン攻防戦の前後を自身で体験した留学生)『ベルリン戦争』朝日新聞社、1993年、ISBN 4-02-259573-6。
江尻進(同盟通信 特派員)『ベルリン特電』共同通信社 、1995年、ISBN 4-7641-0347-8。
館澤貢次 『大戦秘史 リーツェンの桜 』ぱる出版、1995年、ISBN 4-89386-474-2。
四本忠俊(内務省ベルリン事務所翻訳官)『マールスドルフ篭城記』明治大学 教養論集 通巻第185号。
映画
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