ムラト1世 — OpenHistory人物政治・外交
ムラト1世
ムラト1世、オスマン帝国の第3代皇帝。第2代君主オルハンの子。母はアナトリアのアクリタイ(アナトリア辺境を守備するキリスト教徒の軍人)の娘ホロフィラ。 オスマン帝国の君主の中で、初めてスルタンの称号を用いた人物とされている。父オルハンの政策を継承し、バルカン半島での勢力の拡大を積極的に進めた。キリスト教国に対する戦勝はイスラーム世界におけるオスマン帝国の名声を高め、ヨーロッパ諸国は新興のオスマン帝国の動向に注意を向け始めるようになった。 「支配者」「神の代理人」を意味する「ヒュダヴェンディギャール(Hüdavendigar)」の別名で呼ばれる。
生誕~死没 1326年6月29日 ~ 1389年6月28日最終更新 2026/10/16 14:52
基本情報
- 生誕 ~ 死没
- 1326年6月29日 ~ 1389年6月28日
- 在位
- 1362年3月 - 1389年6月15日
- 配偶者
- ギュルチチェク・ハトゥンなど
- 母親
- ホロフィラ
- 位置
- 40.1913, 29.0805
大きな地図で同時代を見る →目次
- 1.生涯
- 1.1.即位前
- 1.2.即位直後
- 1.3.エディルネの獲得
- 1.4.バルカン半島の征服事業
- 1.5.コソボの戦い
- 2.人物像
- 3.政策
- 3.1.軍事
- 3.2.内政
- 4.家族
- 4.1.父母
- 4.2.妃
- 4.3.子
- 5.参考文献
ムラト1世(オスマン語: مراد اول, トルコ語: I. Murat Hüdavendigâr, 11326年6月29日23 - 1389年6月15日)、オスマン帝国の第3代皇帝(在位: 1362年3月 - 1389年6月15日4)。第2代君主オルハンの子。母はアナトリアのアクリタイ(アナトリア辺境を守備するキリスト教徒の軍人)の娘ホロフィラ5。
オスマン帝国の君主の中で、初めてスルタンの称号を用いた人物とされている25。父オルハンの政策を継承し、バルカン半島での勢力の拡大を積極的に進めた16。キリスト教国に対する戦勝はイスラーム世界におけるオスマン帝国の名声を高め2、ヨーロッパ諸国は新興のオスマン帝国の動向に注意を向け始めるようになった6。
「支配者6」「神の代理人1」を意味する「ヒュダヴェンディギャール(Hüdavendigar)」の別名で呼ばれる。
生涯
即位前
1326年、オスマン帝国の君主オルハン・ベイの次男として誕生する。
最終更新 2026/10/16 14:52 · r251044 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。
父オルハンの在位中はイノニュの知事を務めていた3。オルハンの存命時はムラトの兄スレイマン・パシャがオスマン帝国の後継者と目されていたが、1359年にスレイマンは不慮の落馬によって急死する8。
オルハンの死後に皇子たちの間で後継者争いが起こり、抗争を勝ち抜いたムラトが帝位に就く9。
即位直後
エディルネの獲得
1362年7月にアドリアノープル攻略に派遣したララ・シャヒーン・パシャがサズルデレの戦いでビザンツ軍に勝利し10、1363年にアドリアノープルはオスマン帝国の支配下に入る11。さらに、ララ・シャヒーン・パシャによって、フィリッポポリス(フィリベ、プロヴディフ)、サグラ、セレスが制圧され、トラキア地方はオスマンの手に帰した。特に食糧の補給地点、エディルネを守る前線基地、バルカン山脈の北から侵入する敵軍の監視地点としての役割を有するフィリッポポリスを獲得した意義は大きく10、要所を占領したオスマン軍は進軍を一時停止し、軍備を整えた11。
バルカン半島の征服事業
オスマン帝国のヨーロッパでの勢力の拡大に対して、これまで対立していたバルカン半島の国家は団結してオスマンに抵抗しようとしていた13。
また、1371年から1372年にかけて、ブルガリア遠征と同時期にエウレノス・ベイがマケドニアを攻撃していた。エウレノス・ベイの攻撃により、カヴァラ、ドラマがオスマンの支配下に入る。
1375年にセルビアが領有するニシュを一時的に奪い18、ニシュを失ったセルビアは大打撃を受ける19。1378年にはオスマン軍は協約を破り、ブルガリアに侵入した。軍備、内政の安定のため、ムラトは1380年までの間にバルカン諸国と一時的に休戦協定を結んだ19。ブルガリアはオスマンに臣従を誓い、セルビアは毎年一定量の兵力と銀を貢納した20。
コソボの戦い
また、アナトリアでのオスマン帝国の拡大はカラマンに危機感を抱かせ、アナトリアのオスマン領はカラマン侯国の攻撃を受けた。ムラトはキュタヒヤに軍を集結してカラマンの首都コンヤに進軍し、カラマン平野の戦闘で勝利を収める。この時にムラトが率いていた軍には、同盟国であるビザンツ、ブルガリア、セルビアの兵士が加わっていた21。1387年、カラマンはオスマン侯国から奪った土地の返還を認め、和平を結んだ19。
同年、4年の包囲の末にビザンツ帝国の勢力圏にあったペロポネソス半島の主要都市であるテッサロニキがオスマン帝国の支配下に入る9。ビザンツ皇帝マヌエル2世はオスマンへの臣従を拒んでいたが、テッサロニキの攻略後にムラトはマヌエル2世から臣従の誓いを受けた22。
一方、バルカン半島ではセルビア、ボスニア、クロアチア、アルバニアが反オスマンの同盟を結び、オスマン帝国に臣従していたブルガリアも密かに同盟に参加していた19。ムラトはセルビアへの進軍に先立ち、1386年に大宰相アリー・パシャをブルガリアに派遣した23。
アリー・パシャはブルガリア軍をニコポリスで破り、1388年までにブルガリアの大部分がオスマンの支配下に入った23。ムラトは以前と同じようにシシュマンを手厚く待遇し、オスマンへの協力を誓わせた23。
とはいえ、1386年あるいは1387年には、ボスニアに侵入した20,000の非正規の騎兵(アクンジュ)がプロシュニクでセルビア・ボスニア連合軍に大敗を喫する事件が起きる(プロシュニクの戦い)。また、セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチの下にはブルガリア、ワラキア、アルバニア、ハンガリーから援軍が集まり、セルビア・ボスニア連合軍の兵数は急速に増加していった23。
1389年春、ムラトはセルビアに親征を行い、オスマン軍とバルカン諸侯の連合軍はコソボ平原で激突する(コソボの戦い)。オスマン軍は戦闘で勝利を収めたが、ムラトは戦闘の最中にセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチによって殺害される。戦後、報復としてラザルをはじめとするバルカン諸侯がムラトの跡を継いだバヤズィトによって処刑された524。戦勝の結果セルビアがオスマンの支配下に入り、バルカン半島におけるオスマンの版図はより拡大した25。
人物像
ムラト1世は、陣頭で指揮を執る人物だった26。法律を遵守し、国家に対して献身的に奉仕し、キリスト教徒にも公正な判決を下したと伝えられる26。
ムラトは父のオルハンと同じく「ベイ(君侯)」の称号を名乗っていたが、碑文や貨幣の一部では「スルタン」の称号を使用していた2728。イズニクのニルフェル救貧院の碑文には、スルタンの称号が使用されている2829。
政策
軍事
ムラト1世の治世、オスマン帝国は他のイスラム先進国をモデルとした国家組織の再編を行った27。
オスマン帝国の常備軍であるイェニチェリは、ムラトが征服地のキリスト教徒を徴用したものが起源とされている1230。父オルハンが創設を試みた常備軍の実現を目指し、奴隷として入手した異教徒・異民族に訓練・教育を行い、軍人奴隷に育て上げた31。
そして、1360年代のトラキア征服中に施行されたペンチック(ペンジク)制度はイェニチェリを徴収するデウシルメ制度の基となった10。奴隷を獲得するために、戦争で獲得した捕虜の5分の1が君主の下に送られ、彼らが軍人奴隷に充てられた32 。
軍隊の組織化が進められるとともに皇子の軍事的役割は減衰し、側近がベイレルベイ(軍司令官)の地位に就くようになる32。代わりに皇子たちはサンジャク(小軍管区)の長に任命された33。ムラトの治世では、従前のオスマン帝国で軍事を司っていた皇族とガーズィー(アナトリア辺境を守備するトルコ系の戦士)に代わり、君主直属の軍人奴隷が軍隊の指揮官を務めるようになった33。
また、遠征にはオスマンに臣従を誓ったバルカン半島の王侯や領主も加わっていた9。
内政
ムラト1世の元では、国の法を担うカーディー(判事)制度が整備され、新たにカザスケル(司法長官)職が設置された34。
行政を司る宰相には軍事的な権限が与えられ、権限の拡大に伴って大宰相を筆頭とする複数の宰相が軍事と行政を担った35。カザスケルに任命されたチャンダルル家のカラ・ハリルはイェニチェリの設置に関わっていたと言われ、チャンダルル家は大宰相と宰相を多く輩出した36。
家族
父母
妃
子
参考文献
- 小山皓一郎「ムラト1世」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)
- 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)
- 羽田明「ムラト1世」『アジア歴史事典』9巻収録(平凡社, 1962年)
- 林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット, 山川出版社, 1997年11月)
- 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)
- 三橋富治男『トルコの歴史』(世界史研究双書, 近藤出版社, 1990年12月)
- N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)
- ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳, アリアドネ企画, 1998年6月)
- ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)
脚注
父母
下位記事
この記事に属する個別の出来事や下位の話題を、別の記事として作成できます。
+ 下位記事を作成 ムラト1世(オスマン語: مراد اول, トルコ語: I. Murat Hüdavendigâr, 11326年6月29日23 - 1389年6月15日)、オスマン帝国の第3代皇帝(在位: 1362年3月 - 1389年6月15日4)。第2代君主オルハンの子。母はアナトリアのアクリタイ(アナトリア辺境を守備するキリスト教徒の軍人)の娘ホロフィラ5。
オスマン帝国の君主の中で、初めてスルタンの称号を用いた人物とされている25。父オルハンの政策を継承し、バルカン半島での勢力の拡大を積極的に進めた16。キリスト教国に対する戦勝はイスラーム世界におけるオスマン帝国の名声を高め2、ヨーロッパ諸国は新興のオスマン帝国の動向に注意を向け始めるようになった6。
「支配者6」「神の代理人1」を意味する「ヒュダヴェンディギャール(Hüdavendigar)」の別名で呼ばれる。
生涯
即位前
1326年、オスマン帝国の君主オルハン・ベイの次男として誕生する7。
父オルハンの在位中はイノニュの知事を務めていた3。オルハンの存命時はムラトの兄スレイマン・パシャがオスマン帝国の後継者と目されていたが、1359年にスレイマンは不慮の落馬によって急死する8。
オルハンの死後に皇子たちの間で後継者争いが起こり、抗争を勝ち抜いたムラトが帝位に就く9。
即位直後
エディルネの獲得
1362年7月にアドリアノープル攻略に派遣したララ・シャヒーン・パシャがサズルデレの戦いでビザンツ軍に勝利し10、1363年にアドリアノープルはオスマン帝国の支配下に入る11。さらに、ララ・シャヒーン・パシャによって、フィリッポポリス(フィリベ、プロヴディフ)、サグラ、セレスが制圧され、トラキア地方はオスマンの手に帰した。特に食糧の補給地点、エディルネを守る前線基地、バルカン山脈の北から侵入する敵軍の監視地点としての役割を有するフィリッポポリスを獲得した意義は大きく10、要所を占領したオスマン軍は進軍を一時停止し、軍備を整えた11。
バルカン半島の征服事業
オスマン帝国のヨーロッパでの勢力の拡大に対して、これまで対立していたバルカン半島の国家は団結してオスマンに抵抗しようとしていた13。
また、1371年から1372年にかけて、ブルガリア遠征と同時期にエウレノス・ベイがマケドニアを攻撃していた。エウレノス・ベイの攻撃により、カヴァラ、ドラマがオスマンの支配下に入る。
1375年にセルビアが領有するニシュを一時的に奪い18、ニシュを失ったセルビアは大打撃を受ける19。1378年にはオスマン軍は協約を破り、ブルガリアに侵入した。軍備、内政の安定のため、ムラトは1380年までの間にバルカン諸国と一時的に休戦協定を結んだ19。ブルガリアはオスマンに臣従を誓い、セルビアは毎年一定量の兵力と銀を貢納した20。
コソボの戦い
また、アナトリアでのオスマン帝国の拡大はカラマンに危機感を抱かせ、アナトリアのオスマン領はカラマン侯国の攻撃を受けた。ムラトはキュタヒヤに軍を集結してカラマンの首都コンヤに進軍し、カラマン平野の戦闘で勝利を収める。この時にムラトが率いていた軍には、同盟国であるビザンツ、ブルガリア、セルビアの兵士が加わっていた21。1387年、カラマンはオスマン侯国から奪った土地の返還を認め、和平を結んだ19。
同年、4年の包囲の末にビザンツ帝国の勢力圏にあったペロポネソス半島の主要都市であるテッサロニキがオスマン帝国の支配下に入る9。ビザンツ皇帝マヌエル2世はオスマンへの臣従を拒んでいたが、テッサロニキの攻略後にムラトはマヌエル2世から臣従の誓いを受けた22。
一方、バルカン半島ではセルビア、ボスニア、クロアチア、アルバニアが反オスマンの同盟を結び、オスマン帝国に臣従していたブルガリアも密かに同盟に参加していた19。ムラトはセルビアへの進軍に先立ち、1386年に大宰相アリー・パシャをブルガリアに派遣した23。
アリー・パシャはブルガリア軍をニコポリスで破り、1388年までにブルガリアの大部分がオスマンの支配下に入った23。ムラトは以前と同じようにシシュマンを手厚く待遇し、オスマンへの協力を誓わせた23。
とはいえ、1386年あるいは1387年には、ボスニアに侵入した20,000の非正規の騎兵(アクンジュ)がプロシュニクでセルビア・ボスニア連合軍に大敗を喫する事件が起きる(プロシュニクの戦い)。また、セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチの下にはブルガリア、ワラキア、アルバニア、ハンガリーから援軍が集まり、セルビア・ボスニア連合軍の兵数は急速に増加していった23。
1389年春、ムラトはセルビアに親征を行い、オスマン軍とバルカン諸侯の連合軍はコソボ平原で激突する(コソボの戦い)。オスマン軍は戦闘で勝利を収めたが、ムラトは戦闘の最中にセルビア人貴族ミロシュ・オビリッチによって殺害される。戦後、報復としてラザルをはじめとするバルカン諸侯がムラトの跡を継いだバヤズィトによって処刑された524。戦勝の結果セルビアがオスマンの支配下に入り、バルカン半島におけるオスマンの版図はより拡大した25。
人物像
ムラト1世は、陣頭で指揮を執る人物だった26。法律を遵守し、国家に対して献身的に奉仕し、キリスト教徒にも公正な判決を下したと伝えられる26。
ムラトは父のオルハンと同じく「ベイ(君侯)」の称号を名乗っていたが、碑文や貨幣の一部では「スルタン」の称号を使用していた2728。イズニクのニルフェル救貧院の碑文には、スルタンの称号が使用されている2829。
政策
軍事
ムラト1世の治世、オスマン帝国は他のイスラム先進国をモデルとした国家組織の再編を行った27。
オスマン帝国の常備軍であるイェニチェリは、ムラトが征服地のキリスト教徒を徴用したものが起源とされている1230。父オルハンが創設を試みた常備軍の実現を目指し、奴隷として入手した異教徒・異民族に訓練・教育を行い、軍人奴隷に育て上げた31。
そして、1360年代のトラキア征服中に施行されたペンチック(ペンジク)制度はイェニチェリを徴収するデウシルメ制度の基となった10。奴隷を獲得するために、戦争で獲得した捕虜の5分の1が君主の下に送られ、彼らが軍人奴隷に充てられた32 。
軍隊の組織化が進められるとともに皇子の軍事的役割は減衰し、側近がベイレルベイ(軍司令官)の地位に就くようになる32。代わりに皇子たちはサンジャク(小軍管区)の長に任命された33。ムラトの治世では、従前のオスマン帝国で軍事を司っていた皇族とガーズィー(アナトリア辺境を守備するトルコ系の戦士)に代わり、君主直属の軍人奴隷が軍隊の指揮官を務めるようになった33。
また、遠征にはオスマンに臣従を誓ったバルカン半島の王侯や領主も加わっていた9。
内政
ムラト1世の元では、国の法を担うカーディー(判事)制度が整備され、新たにカザスケル(司法長官)職が設置された34。
行政を司る宰相には軍事的な権限が与えられ、権限の拡大に伴って大宰相を筆頭とする複数の宰相が軍事と行政を担った35。カザスケルに任命されたチャンダルル家のカラ・ハリルはイェニチェリの設置に関わっていたと言われ、チャンダルル家は大宰相と宰相を多く輩出した36。
家族
父母
妃
子
参考文献
- 小山皓一郎「ムラト1世」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)
- 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)
- 羽田明「ムラト1世」『アジア歴史事典』9巻収録(平凡社, 1962年)
- 林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット, 山川出版社, 1997年11月)
- 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)
- 三橋富治男『トルコの歴史』(世界史研究双書, 近藤出版社, 1990年12月)
- N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)
- ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳, アリアドネ企画, 1998年6月)
- ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)
脚注
過去30日の閲覧 0回