突撃隊 — OpenHistory
長いナイフの夜
歴史
前身 ヴァイマル共和政期のドイツでは、政党の集会や演説会に他党の党員・支持者が殴り込みをかけるのが日常化しており、各党は警備や他党派攻撃のための武装組織を保有していた。バイエルン州 ミュンヘン で活動するDAPも例外ではなかった。1919年11月のエーベルブロイケラーでのDAP党集会において、初めて会場警備を専門とする部隊が設置された2 。この会場警備部隊はDAPがナチスに改組された後の1920年夏に「整理隊」と名付けられ、党集会の防衛や敵対政党への妨害活動に動員された3 。発足当初の隊員数は25名程度で、エミール・モーリス が隊長を務めた4 。
クリンチュ時代 クリンチュはナチ党員ではなく、エアハルト海兵旅団 から派生した極右 テロ組織「コンスル 」のメンバーであった。この人選はレーム大尉の要請によるものであった。レームは政府により禁止された義勇軍や郷土軍を体育およびスポーツ部に送り込み、義勇軍の維持を図ろうとしていた11 。そのためにクリンチュを新しい隊長に推挙したのだった。一方ヒトラーもエアハルト海兵旅団を高く評価していたので、この要請を承諾したという7 。以降、義勇軍組織(特にエアハルト海兵旅団)とナチスの連携関係ができあがった12 。
9月10日にヒトラーは体育およびスポーツ部を改組して突撃隊を創設することを発表した13 。11月4日にナチ党集会に乱入してきたSPD党員800人14 を50人足らずの体育およびスポーツ部が撃退し15 16 17 18 、これを機に、突撃隊 の名称が正式に与えられた15 。
突撃隊となった後も隊長は引き続きクリンチュが務めた。初期の突撃隊幹部は、ヒトラーの要請に応じて派遣されたエアハルト海兵旅団の指導者たちが占めていた。クリンチュと、後に突撃隊最高指導者となるフランツ・プフェファー・フォン・ザロモン はその代表である。クリンチュらの俸給はエアハルト海兵旅団から支払われており、派遣された団員達は引き続き同団の指揮下にあり、半独立的な義勇軍組織としての一面を持っていた19 。エアハルト海兵旅団はカップ一揆 に参加して非合法化されたため、突撃隊への参加は組織を温存するためにも有効であった。またこの時点のナチスにもエアハルト海兵旅団の高い声望を利用し、オーバーバイエルン 全体に勢力を広げることができるというメリットがあった。そして軍の立場からナチスに関与していたレームにも、連合国によって解散命令の出たドイツ義勇軍隊員の受け皿として、突撃隊拡充は歓迎すべきことであった20 。やがてエアハルト海兵旅団のみならずベルリン のロスバッハ突撃隊 のミュンヘン支部のエドムント・ハイネス らも突撃隊に参加するようになった21 22 。
ヒトラーは再三にわたって「突撃隊は党の組織であって、党中央の決定に従わねばならない」ことを強調したが、こうした他の組織から来ている隊員らは、あまりナチスの規律を気に留めなかったという21 。1923年3月まで突撃隊への実質的な指示は、ミュンヘンの義勇軍の統括者たるレームが行っており、そのためヒトラーもしばしば彼の元を訪れなければならなかった23 。とはいえ突撃隊に流れてくる義勇軍兵士は義勇軍の中でも「政治化」した部類の者たちが多かった21 。ヒトラーと義勇軍の間に政治的意見の相違はほとんどなかったから、ほとんどの場合彼は突撃隊を自由に政治運動へ参加させることができた24 。この頃の突撃隊員は、ミュンヘン市内での交通費・飲食費などは自腹であり、末端の突撃隊員にとっては頻繁に動員されることは重い負担であったが、自己の信念から自発的に参加し続けていた25 。ミュンヘン一揆前の突撃隊は他の義勇軍とほとんど変わりがなく、軍事・政治知識の授業、隊列を組んでの行進、党および友好団体への参加などを行っていた26 。
この頃の隊員数は1921年末の時点で100人未満、1922年9月の時点で800人未満であったと推定されている15 27 。1922年夏に突撃隊は百人隊 と呼ばれる単位によって編成されることとなったが、百人隊は必ずしも100人の隊員がそろっていたわけではなかった15 。
1922年3月18日には年齢的に突撃隊に入隊できない若年層のために青少年部を設置することが発表された。これが後のヒトラーユーゲント となる組織であるが、当初は突撃隊の下部組織と定められていた28 。ヒトラーユーゲントが突撃隊から独立するのは1932年5月になってのことである10 。
1922年10月14日、ヒトラーとナチスは「ドイツの日 」という右翼 諸政党が開催していた愛国的集会に参加するためにコーブルク を訪れた。そこで集会に反対する共産主義者 のデモ隊と口論になり、初めてナチスがミュンヘンの外で他勢力と争った。 これらの事件をヒトラーは後に『我が闘争 』に「コーブルクへの列車」として記し、ナチス、とりわけ突撃隊の重要な闘争史として位置づけた。10年後の1932年、闘争10周年を記念して「コーブルク闘争名誉章 」が制定され、闘争参加者に授与された。
1922-23年頃の編成
第1百人隊(1. Hundertschaft) - 指揮官:カール・ベッゲル
第2百人隊(2. Hundertschaft) - 指揮官:ヨーゼフ・リードル
第3百人隊(3. Hundertschaft) - 指揮官:ヴィルヘルム・レムケ
第4百人隊(4. Hundertschaft) - 指揮官:ヒューベルト・ホッホグラッスル
第6SA百人隊(6. SA-Hundertschaft) - 指揮官:フォークト
第9百人隊(9. Hundertschaft) - 指揮官:ハンス・ツェーバーライン
第11SA百人隊(11. SA-Hundertschaft) - 指揮官:ルドルフ・ヘス
第13百人隊(13. Hundertschaft) - 指揮官:シュティーガー
第17SA百人隊(17. SA-Hundertschaft) - 指揮官:ヨーゼフ・ベルヒトルト
第20SA百人隊(20. SA-Hundertschaft) - 指揮官:エドムント・ハイネス
第25百人隊(25. Hundertschaft) - 指揮官:フランツ・クサーヴァー・ヒルシュボルト
ゲーリング時代 1923年1月にフランス軍 が「ドイツのヴェルサイユ条約 不履行」を理由にルール地方 を占領した。ドイツ陸軍 総司令官ハンス・フォン・ゼークト 大将は憤慨し、「フランスによる不法占領には再軍備で答える」と宣言した。その影響で突撃隊もミュンヘンの国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められた。ヒトラーは当初嫌がっていたが、レームの説得でしぶしぶ了承した。こうして3月から突撃隊は軍の訓練を受ける事となった29 。
しかし突撃隊の実質的な指揮権までも軍に奪われる事を恐れたヒトラーは、レームの息のかかったクリンチュを解任して自身の熱心な支持者であったヘルマン・ゲーリング を代わりの突撃隊司令官に任じている29 。ゲーリングはエアハルト旅団から参加した信用のおけない隊員を一掃し、突撃隊をヒトラーに忠誠を誓う組織に改編していった30 。ゲーリングは突撃隊を3個大隊 からなる1個連隊 で編成し、13個中隊 で1個大隊を構成させた。連隊長にはヴィルヘルム・ブリュックナー が就任した29 。隊員数も増し、1923年11月のミュンヘン一揆 までに3000人ほどになった15 。
1923年頃の編成
ミュンヘンSA連隊 (Münchener SA-Regiment) - 指揮官:ヴィルヘルム・ブリュックナー
ミュンヘンSA第1大隊 (1. Bataillon der Münchener SA) - 指揮官:カール・ベッゲル
ミュンヘンSA第2大隊 (2. Bataillon der Münchener SA) - 指揮官:ヨーゼフ・ベルヒトルト(初代)
エドムント・ハイネス(1923年7月-11月)
ミュンヘンSA第3大隊 (3. Bataillon der Münchener SA) - 指揮官:ルドルフ・ヘス(初代)
ハンス・クナウス (?-1923年11月)
突撃隊の訓練を行ったのは軍の工兵第7連隊と歩兵第19連隊第一大隊で、突撃隊は小銃、機関銃等の扱いを学んだ23 。また突撃隊に砲兵隊や騎兵隊、自転車中隊や軍楽隊などの組織が作られることになった。軍の影響力はさらに強まり、7月11日には「(突撃隊は)党の地区組織や党指導部から分離された、国民社会主義運動内部における別個の組織である。隊は突撃隊司令部の命令に従う」という命令が出された31 。
8月13日にグスタフ・シュトレーゼマン 内閣が成立し、これまでドイツ政府が取ってきたフランス軍ルール地方占領への「受動的抵抗」路線が放棄され、西欧列強との関係回復を目指すことになった。これに反発した右左双方によるシュトレーゼマン批判が強まった32 。
ミュンヘンでも中央政府打倒の機運が高まった。これに乗じてヒトラーは9月2日に突撃隊やオーバーラント義勇軍 などを結集させて右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟 」を結成させた。実質的指揮権はヒトラーが握りつつ、エーリヒ・ルーデンドルフ 歩兵大将に名誉総裁に就任してもらっている33 34 。中央政府への批判を強め、バイエルン州総督グスタフ・フォン・カール による「ベルリン進軍」の動きを支持するようになった。しかしやがてカールは中央政府からの圧力でベルリン進軍を日和見するようになり、これに固執するナチスを除外した右翼大連合政府を立ち上げようとしたため、ヒトラーは一揆を起こすことを決意した。9月26日にはレームも軍を退役し、ヒトラーの下に参じた35 。
ミュンヘン一揆 1923年11月8日午後8時30分、ヒトラーはドイツ闘争連盟を率いて、カール総督らが演説中のビュルガーブロイケラー を占拠し、一揆を起こした。ただし連絡が不十分であったため、突撃隊員全員が一揆に参加したわけではなかった。たとえば突撃隊第1大隊(600名)は100名ほどしか参加していない36 。第1大隊はオーバーラント義勇軍第3大隊とともに国軍第19連隊第1大隊から武器を確保しようとしたが、交渉に失敗して退却、その後ビュルガーブロイケラーへ帰還した。第2大隊は郷土軍が解散の際に隠した武器を確保してヴィッテルスバッハ橋で小休止した37 。第3大隊はビュルガーブロイケラーで待機した。一方レームは「帝国旗団」や「ミュンヘン闘争団 」、突撃隊の一部を率いて軍司令部を占拠した38 。また突撃隊の学生グループはルドルフ・ヘス の指揮のもとに州首相オイゲン・フォン・クニリング らの監禁にあたった39 。
軍の協力は得られず、逆に鎮圧軍が編成されたのを知ったヒトラーは、11月9日12時30分、ルーデンドルフとともにドイツ闘争同盟を率いてミュンヘン中心部のオデオン広場へ向かってデモ行進を開始した。「ヒトラー・ミュンヘン衝撃隊」が隊列の左側、オーバーラント同盟が隊列の右側、そして突撃隊は隊列の中央に付いて行進した40 。しかし警官隊から銃撃を受けて失敗した。突撃隊司令官ゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れ、突撃隊員に運ばれてその場を逃れ、オーストリア へ国外逃亡した41 。一方マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター と腕を組んでいたヒトラーは彼が撃たれた時に一緒に引きずられて倒れ、肩を脱臼した。突撃隊員に抱えられてその場を離れたが、結局逮捕された42 43 44 45 。軍司令部を占拠したレームたちも午後2時頃に鎮圧軍に投降した44 。
禁止時代 ヒトラーやレームら逮捕された一揆指導者は裁判にかけられ、1924年4月1日に判決が下った。ヒトラーは城塞禁固刑 5年の実刑判決(ただし執行6カ月後に保護観察に切り替える事も公約)、レームは1年3カ月の有罪判決を受けたが、彼は判決のその日のうちに仮釈放を受けた。ランツベルク刑務所 に収監されることとなったヒトラーは突撃隊やドイツ闘争連盟をレームに委任した46 47 。
レームは5月31日にドイツ闘争連盟の元隊員を集めてフロントバン を組織した48 41 。さらに他の全国準軍事組織との連絡のためにフロントリンク (Frontring)を結成した49 。8月28日にフロントバンの正式な設立大会が行われ、ヒトラー、ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グレーフェ の三人が政治指導者、レームが軍事指導者と定められた。またルーデンドルフが名誉総裁に就任している。フロントバンの隊員数は3万人にものぼったが、統一性は弱く、小右翼軍事組織の寄せ集めであった50 51 。また、突撃隊員が全員参加したというわけではなかった。フロントバンは突撃隊よりも政党から独立した準軍事組織の性格が強く52 53 、こうした非政治色に反発し、参加を見合わせた隊員も多かった54 。
再建 1924年12月20日にヒトラーは仮釈放され、1925年2月27日にビュルガーブロイケラー でナチスの再結党を宣言した。フロントバン・ミュンヘン司令部の隊員達が真っ先に党に復帰して突撃隊の活動を再開した55 56 。それ以外の隊員達も1925年末までにほとんどが突撃隊へ戻った。フロントバンに残っていた最後の者たちは「人狼団 」に吸収されて消滅した57 。一方でフロントバンの隊員の中にはルーデンドルフがフロントリンクを改組した「タンネンベルク同盟 」に参加した者もいる58 。
3月末から4月にかけてヒトラーとレームは突撃隊の再建にあたって、突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織にするか党に従属する党の宣伝・集会防衛組織にするかで激論した。前者の立場がレーム、後者がヒトラーの立場である。結局二人は決裂し、4月30日にレームは突撃隊司令官職とフロントバン司令官職を辞し、政界を去った59 60 。
ヒトラーは5月24日に突撃隊の再建命令を下したが、どこの党支部も組織の再建で手いっぱいであり、手が回らなかった。バイエルンでは比較的早期に突撃隊が再建されたが、それ以外の地区ではだいたい1926年春ごろ以降に再建されている61 。ベルリン ではクルト・ダリューゲ 、ルール地方 ではヴィクトール・ルッツェ が中心となり、突撃隊の再建が行われた57 。
ザロモン時代 党組織の再建がだいぶ進んでくると、ヒトラーは突撃隊を各支部ではなく、中央からコントロールすることを希望するようになった。1926年7月27日にヒトラーは、9月1日より突撃隊最高指導者(OSAF)を新設し、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン を11月1日から同職に就任させると発表した65 66 67 。
ザロモンは直ちに支部集団単位になっていた突撃隊を中央集権型の組織体制へ変更した。旅団 (2〜5個連隊で構成)、連隊 (2〜5個大隊で構成)、大隊 (2〜4個中隊で構成)、中隊 (5〜8個団で構成)、団 (6〜12人で構成)という指導者原理 に基づく垂直組織で構成させ、特に大隊を日常の活動の基本単位とした。1927年初頭には、18個大隊が編成された68 。突撃隊員はザロモンに忠誠を誓い、彼は党中央執行部のメンバーとして議長であるヒトラーに忠誠を誓う形となった69 。しかしこのために、大管区指導者 など党の政治組織の指導者からの指示に突撃隊が従う必要がなくなってしまい、後々の対立を招くことになる69 。
隊員数は、ザロモンの隊最高指導者就任時に2万人70 、1927年8月に3万人56 、1929年8月には5万人、1930年10月には6万人ほどになった71 。隊員は大多数が10~20代の若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り、大多数は従軍経験のない世代に変貌した72 。
同年3月頃にはナチスのヤング案 反対闘争で突撃隊員の暴力活動が増えた。ヒトラーは突撃隊を禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動を嫌がっていたが、禁止しすぎれば離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳しい締め付けを出来なかった。結果、国旗団 や赤色戦線戦士同盟などの左派武装組織との路上闘争が激しくなり、死傷者が頻繁に出るようになった74 。そのため6月5日にバイエルン州 でナチスの制服が禁止され、さらに6月11日にはプロイセン州 政府、6月13日にはバーデン州 でも禁止された74 75 。このため党は対抗措置として制服を白シャツに代えることで規制を切り抜けた75 。
ザロモンは突撃隊の福祉制度の充実も図った。負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。ここは失業者隊員の宿泊施設であり、また隊員のクラブとなった76 。
ザロモン時代に様々な組織が突撃隊のもとに創設・あるいは傘下に入れられた。1926年に彼が最高指導者に就任した直後に親衛隊 が傘下となっており、1934年までその状態が続いた77 。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海上突撃隊(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は、1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会 (DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団 (NSKK)として突撃隊から独立している78 。
シュテンネスの反乱 ナチスが有力政党として活動するようになると、保守勢力と協調する必要が生まれた。このため社会主義 的な思想を持つ古参党員や党内左派 の不満が増大した。特に突撃隊は労働者階級が多数を占めていたため、そういう者が多かった。
1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、ザロモンは突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求したが、ヒトラーは「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」としてこれを拒否した79 。不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職したため、9月1日にヒトラーが自ら突撃隊最高指導者に就任することになった80 。これが直接の引き金となり、各地の突撃隊員が党の政治組織から依頼された宣伝活動をボイコット するようになった。一番過激だったのはベルリンの突撃隊だった。1930年8月28日に突撃隊ベルリン東部指導者であったヴァルター・シュテンネス がミュンヘンの党本部に対してベルリン大管区指導者 であったゲッベルスの解任を要求した79 81 。党本部がこれを拒否すると、8月30日にシュテンネス一派はベルリン大管区本部の襲撃を開始した。ゲッベルスはクルト・ダリューゲ の親衛隊部隊を投入したが、突撃隊の方が数に勝り、鎮圧に失敗した。結局ゲッベルスは警察に介入してもらって鎮圧した。9月1日にはヒトラー自らがベルリンを訪れてシュテンネスを直接説得してひとまず収めた81 82 。
ヒトラーは、突撃隊の監視を強化するため、1930年11月7日に親衛隊は突撃隊指揮官の命令に従う必要はないと定めた(ただし形式的には長いナイフの夜 事件まで親衛隊は突撃隊の傘下にあった)83 。
レーム時代 選挙後の1930年11月末にヒトラーは突撃隊暴動再発を阻止すべく、隊員の待遇改善を約束し、隊員の人望厚いレームを南米ボリビア から呼び戻して突撃隊幕僚長に据えることを宣言した83 。1931年1月5日にレームを正式に突撃隊幕僚に任じた83 84 。
1931年4月2日にシュテンネスの再反乱があったが、ゲッベルスが動員したダリューゲの親衛隊部隊が鎮圧に成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。結果、シュテンネス一派の1万人が去ることとなった86 87 。
しかしこれによって突撃隊の過激派勢力が弱まったわけではなかった。ヒトラーやレームは党勢拡大のために入隊希望者を無制限に受け入れ、彼らに食事や宿舎の提供を行った為に世界恐慌 の影響で巷にあふれかえる失業者 がナチスや突撃隊に続々と参加したためである。こうした者は反資本主義 的で革命的な政治的急進派が多かった。こうした革命志向の隊員達は、「制服は褐色だが中身は赤い」としてステーキ に例えられていた88 89 。
1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチ党が政権を獲得する直前の1933年1月には50万人以上に達した88 90 。結果として隊員の質の低下は避けられず、しばしばゴロツキ同然の振る舞いを行う突撃隊員が増加した。またあまりに増大した突撃隊員に対する待遇は悪化した。突撃隊はますます過激化し、隊員達はヒトラーの「合法路線」にしびれを切らして、武装蜂起を求めるようになった。レームも隊員の不満を抑えるためにこうした声を代弁するようになり、1931年末にはヒトラーに武装蜂起を進言している91 。
1932年3月、ヒトラーが大統領選挙に出馬し、30パーセントの票を獲得した。4月14日、ナチ党の勢いを恐れたハインリヒ・ブリューニング 首相が突撃隊と親衛隊の禁止命令を出し、各地の突撃隊施設が当局に差し押さえられた92 93 。しかしこの禁止命令に国防次官クルト・フォン・シュライヒャー は反対であり、彼はナチ党と連携して倒閣活動を行った。その結果、ブリューニング内閣は倒れ、6月1日にシュライヒャーを国防相とするフランツ・フォン・パーペン 内閣が成立した94 。パーペン内閣のもとで6月16日に突撃隊・親衛隊禁止命令は解除された95 。
一方レームが突撃隊幕僚長になってから突撃隊内では同性愛が公然化していた。社民党の機関紙『ミュンヒナー・ポスト』も「ナチスは反同性愛政党でありながら身内の同性愛行為には目をつぶっている」と批判した96 。当時のドイツでは同性の性交渉は刑法175条 によって禁止されていた(この条項は1994年になって廃止された)97 。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」と述べており、突撃隊で同性愛が横行したのは彼らの革命的性質とも無関係ではなかったようである98 。
政権掌握 1933年1月30日夕刻、ヒトラーのドイツ首相就任を知った人々は大統領官邸に押し寄せていた。午後6時頃にヒンデンブルク 大統領とヒトラーとパーペン副首相が人々の前に姿を見せた。続いて松明を持った突撃隊がベルリン市内を行進し、その勢いを示した。ベルリンは翌1月31日に入った午前1時ぐらいまでお祭り騒ぎになった99 。
ゲーリングは1933年2月20日に突撃隊員と親衛隊員合わせて5万人と鉄兜団 1万人をプロイセン州警察の補助警察官として動員する事を決定した101 。2月24日には突撃隊がドイツ共産党 本部カール・リープクネヒト館 を襲撃している101 。2月27日に国会議事堂放火事件 が発生すると、ゲーリングは4000人の共産党員の逮捕を命じ、4月末までに2万5000人に及ぶ大量の左翼(共産党に加えて一部社民党員も)が補助警察官によって逮捕された102 103 。彼らを収容するために突撃隊員はあちこちに私的収容所を創設した。後にゲーリングに承認され、州公認の収容所となったオラニエンブルク強制収容所 はそのひとつであった104 。4月1日にはボイコット委員会委員長ユリウス・シュトライヒャー の指揮の下に突撃隊員がユダヤ人商店のボイコット運動をドイツ全国で行い、ユダヤ人商店を強制的に閉鎖していった105 。5月2日には左翼系労働組合の事務所を襲い、その財産を奪取した106 。6月21日には鉄兜団が突撃隊に吸収された107 。
ハインリヒ・ヘルト のバイエルン州政府が解体された後、レームは同州の州委員に任じられた。1933年3月12日にレームはバイエルンの7つの郡知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突撃隊を補助警察官として配置した108 。レームはこの「突撃隊最高指導部特別委員」制度を他の州にも導入させようと図り、5月にプロイセン州 で導入され、その後他の州でも続々と導入された109 。
しかしヒトラーもドイツ内相ヴィルヘルム・フリック もプロイセン州首相・内相ゲーリングも過激派の多い突撃隊に警察権力を集中させることには反対だった。警戒したゲーリングは1933年8月には補助警官隊に解散を命じ、他の州も続々とゲーリングに倣って補助警官隊を解散させた。ごく一部の突撃隊員が正規の警察官として採用されたが、他の大多数の突撃隊員は補助警察官として支給されていた給料を切られ、失業者に戻された。そのため突撃隊の不満が高まり、彼らは「第二革命 」を叫ぶようになり、1933年8月以降ドイツ各地で暴動を起こすようになった90 。
第二革命 結党から政権掌握までのナチス党史において、突撃隊が大きな力になったことは明らかであったが、独裁体制が安定するにつれて必要性は薄れ、ヒトラーにとって持て余す存在となっていった110 。保守派との協力を重視するヒトラーは、クルップ・フォン・ボーレン =テュッセン雇用者協会を復活させたり、大百貨店に敵対する小売業 闘争同盟を解散させるなど、保守政策を次々と打ち出したが、こうした態度は労働者階級からなり、社会主義的であった突撃隊員の不満を助長した111 。資本家や地主との妥協を止め、社会主義的政策を打ち出すことを求める「第二革命」運動が突撃隊内で強まった112 。突撃隊員の声を代弁するレームも公然とこれを唱え、ヒトラーの革命終了宣言に抵抗した113 114 。
レームは9月1日、バイエルンの突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止し、かわりにバイエルン州政府に突撃隊特別全権官、郡政府に突撃隊特別委任官を置いた。彼らの任務は「国家社会主義革命による発展が続けられているかを、官庁と協力しながら監視する」ことであった。これによって地方行政機関を第二革命に動かそうとした115 。10月には、ゲーリングの支配するプロイセン州にも、突撃隊特別全権官の設置を認めさせた。彼は突撃隊政治部長ゲオルク・フォン・デッテン から国会議事堂放火事件 の真相を暴露すると強請られ、渋々認めたという116 。各州もプロイセン州に倣って突撃隊特別全権官の設置を認めた。結果、突撃隊特別全権官による行政への横やりや命令無視が横行し、「ヒトラー政権は早晩崩壊するだろう」という噂が立つほどであった116 。
国軍との対立 突撃隊は国軍 とも対立を深めていた。国軍と突撃隊は、1933年5月に協定を結び、突撃隊と親衛隊と鉄兜団 は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りてフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー 突撃隊大将 の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかし、レームは東部国境守備隊の指揮権を要求し、またその武器庫を管理下に置こうとしたため、国軍と対立を深めた121 。
もともとレームは、貴族 が中心の国軍では、旧来のプロイセン王国と同じ古い戦術思想しか持ち得ない軍隊にしかならないと考え、これにかわって突撃隊を国民軍 として正規軍にするという構想があった122 。突撃隊は1934年春には300万人以上の人員を擁するようになっていた110 。うち武装兵士が50万人いた123 。ヴェルサイユ条約 で陸軍兵力10万人に限定されていた国軍にとって、これは大いに脅威となる存在であった。一方ヒトラーは、政権の維持のためには国軍の支持が不可欠と認識しており、再軍備は国軍を以って行うと決め、レームの国民軍構想を却下していた124 。
ドイツの国際連盟 脱退によって、ポーランド とフランス がドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感が高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは1934年1月15日に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど、第二革命問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して、突撃隊を正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。これが達成できれば、突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった119 。
ヒトラーは1934年1月2日、レームに対して友情とこれまでの功績への感謝を強調した私信を送った120 。その中で、安全保障は国軍に任せるべきであることを婉曲に伝えた。しかし、この手紙の真意を理解しなかったレームは、2月初めにヴェルナー・フォン・ブロンベルク 国防相に対して、国家安全保障は突撃隊の任務とする書簡を送った125 。この書簡を見たブロンベルクは「レームは全ての国防組織を突撃隊の傘下にして国軍をただの訓練機関にしようとしている」と結論し、ヒトラーに処置を要求した126 。2月末、ヒトラーの仲介で国防省において、ブロンベルクとレームが協定を結び、国軍が国で唯一の武装兵力であり、突撃隊はその補助のため国境地帯の警備や予備訓練を担当することが取りきめられた125 126 127 。しかしレームの反発は大きかった126 128 。
長いナイフの夜 突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の捏造を行った133 134 。そして1934年6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊による武装蜂起の噂が流れた。ヒトラーは6月4日に首相官邸でレームと会談を行った。会談の結果、高まる緊張を少しでも沈静化するため突撃隊の多くの部隊が一カ月の休暇に入り、レームも療養に入ることとなった135 136 。しかしヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相は、6月21日にノイデックの大統領私邸においてヒトラーに対し、もし事態の鎮静化ができないなら、権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した137 。最後通牒を突きつけられた形のヒトラーは、この日に突撃隊の粛清を決意したという138 。6月25日までにヒトラーはブロンベルクにレーム以下突撃隊幹部を粛清する旨を伝え、国軍もその準備に入った139 。
事件以降 長いナイフの夜で粛清を受けたのは上層部が中心だったが、事件は若い下級隊員たちを震え上がらせるのに十分な効果があった143 。事件後、大きな反発もなく突撃隊の力はそぎ落とされていった。ヒトラーの指示によりルッツェはベルリン親衛隊指導者クルト・ダリューゲ 親衛隊中将 にドイツ東部の突撃隊の解体と再編を依頼することになった。ダリューゲによって突撃隊最高指導部(OSAF)の主要な政治部門はすべて解体され、またその財産を没収させられた144 。親衛隊は正式に突撃隊から独立し、オラニエンブルク強制収容所 など突撃隊管理の強制収容所は親衛隊の管理下に移された145 。自動車突撃隊(Motor-SA)も国家社会主義自動車軍団 (NSKK)として突撃隊から独立した。16あった突撃隊上級集団(SA-Obergruppen)は解体され、突撃隊の最上級の編成は突撃隊集団(SA-Gruppen)になった142 。突撃隊員が武器を携帯することも禁止された146 。隊員数もこの後減少の一途をたどることになり、長いナイフの夜の頃には400万人を超えるといわれた突撃隊の隊員数は粛清の2ヶ月後の1934年9月に260万人、1935年10月に160万人、1938年には120万人にまで減少した。1940年初頭、SAの会員数はわずか約90万人になっていた146 。
事件後も青年に対する軍事訓練機関としての役割は残され、これが突撃隊の主要任務となった(ただし、1939年1月に突撃隊防衛団が組織されるまで武器の使用・所持は認められなかった)142 。これに次ぐ突撃隊の任務は行政機関や大管区などの布告を配布・宣伝することであった142 143 。毎年冬に行われるナチ党の慈善事業、冬季貧民救済事業 も突撃隊が行っていた147 。
1938年11月の水晶の夜 事件の際、ルッツェはヨーゼフ・ゲッベルス の指示を無視して、突撃隊集団指導者たちに対して反ユダヤ暴動に参加しないよう命じていたが148 、結局多数の突撃隊員が党政治指導部の命令で反ユダヤ暴動に参加した149 。
1939年1月には、国防軍 へ入隊する者の教育機関たることが突撃隊の唯一の役割と定められ142 、軍事訓練を担当する武装組織として「突撃隊防衛団(SA-Wehrmannschaften)」が創設された150 。戦争がはじまると突撃隊は国防軍に代わって入隊予定者の訓練に当たったほか、防空任務にも動員され151 111 、その他には警察・税関・親衛隊・国境警備など諸機関の補助員にも充てられた。ただ突撃隊員は兵役の義務を負い続けたため、隊員が国防軍に応召することで、突撃隊自体のマンパワーは減少の一途をたどった。また突撃隊防衛団の一部の部隊は、軍からの脱走者等を収容する強制収容所の管理や、占領地のパルチザン 掃討作戦に動員された152 。大戦末期には、国民突撃隊 に編入されている152 。
戦後 戦後のニュルンベルク裁判 において突撃隊は起訴された6組織の一つとなった(他にヒトラー内閣 、ナチ党全国指導部 、参謀本部 、親衛隊、ゲシュタポ )156 。この裁判で親衛隊とゲシュタポとナチ党指導部は「犯罪組織」と判決されたが、一方突撃隊は「特殊な場合に置いて突撃隊の若干部隊は戦争犯罪や人道に対する罪の遂行に使用されたが、その成員が一般に犯罪行為に参加していたとかまたは知っていたということはできない」とされて有罪判決を受けなかった157 。
突撃隊の組織論 ヒトラー自身の構想を見るならば、『我が闘争 』には「運動の世界観闘争の擁護と強化のための道具158 」というSAの規定が存在する。ナチ党の運動が必ずしもイデオロギー的・綱領的政治運動ではなくその世界観がヒトラーによって体現されたことを考えあわせると、SAはヒトラー及びナチ党の防衛組織・権力手段であり、それ以上の事がここで明記されている訳ではない。『我が闘争』ではこの規定とパラレルにSAの国防団体化・秘密組織化の否定が強調されており、ポイントは寧ろ後者にあった。この著書の刊行に先立って既に『フェルキッシャー・ベオバハター 』紙上でヒトラーは再建後のSAの構想を明らかにしていた。彼はそこでSAを1923年2月以前の状態に戻すと述べている。1923年11月以前としていない点が注目される。1923年2月という時期はバイエルンに於る民間国防団体統一化の為に結成された「祖国闘争共働団の指揮下にSAが属した時期を指しており、これ以後ヒトラーの意思を離れて「ビヤホール一揆 」迄にSAは益々その軍事団体的性格を強めていった。一揆の挫折は、ヒトラーをして合法戦術を以後とらしめるに至り、彼にとって民間国防団体から独立した新しい党を発足させる為にはSAの軍事団体的性格の払拭が必要であった。ヒトラーは同じ『フェルキッシャー・ベオバハター』紙の中で、SAが宣伝・集会防衛の組織であることを再確認し青年の身体訓練、共通の偉大な理念に対する規律・献身の教育、運動の秩序・啓蒙の完成をその課題に据えた。以上の様なヒトラーのSAについての展望は1920年に会場整理隊として出発したこの組織の非軍事団体的復活を宣していたものの具体的な組織構想とは言い難かった。
1926年から1930年迄の間、SA最高指導者のプフェッファー・フォン・ザロモンは鞏固でかつ弾力的な組織的枠組をSAに与え、有能な組織指導者であることを証明した。彼はSA命令 (SABE)、SA原則命令 (RUSA)を発し159 、SAの組織的性格を具体的に規定していった。その基調は概ねヒトラーの構想に沿っていた。SAの各隊員に課せられた職務としては、集会設営、会場整理、ビラ配布、パンフレツト・新聞販売、ポスター貼り、パトロールその他困難な特別任務などの活動が挙げられている。ただ、既に編成されていた党政治組織との対比に於てザロモンはSA独自の組織的位置を「SAは在来の議会政党からナチ党を区別するその本質的メルクマールをなし、議会主義とその制度に破綻が生じたその時こそSAはナチ党の勝利を保証するものとなる」と意味付けていた。更にザロモンはSABE第3の中でも党組織との区別を次のように行っている160 161 。
SA隊員は同時に党員でもあり、党員としては無論、政治指導部 の宣伝には出来るだけ協力しなければならない。しかしSAは政治指導部そのものではない。SAはそれに奉仕する機関ではない。
SA隊員は神聖な自由の闘争者であり、一般党員は策に富む宣伝者・狡滑なアジテーターである。政治的プロパガンダは敵を啓蒙し敵と論争しその立脚点を把握しその思想に係わり、ある程度まで敵を是認しようとする。しかしSAが登場するとこれは終わりとなる。SAが妥協することはない。敵に対して断固突き進むのみである。
このような規定をみると、党が宣伝方針を担当しSAが党の宣伝を実現するという役割分担が存在するものの、寧ろ公衆の眼前への登場それ自体、SAの存在そのものが宣伝価値を形成することになっている。政治的敵対者・大衆に対し恐怖・畏懼の念を植え付けることが、党の活動基盤を準備し拡大することになるのである。つまりSAの意味と機能は純然たる行動の中に、従ってまたその心理的モメントにあったといえる。ザウアーはSAと党との区別をその軍事的性格と政治的性格との差異に求めず「SAはゲヴァルト の道具であり、党は策略の道具である」と論じている162 。
SAと党政治組織との関係についていえば、「前者が後者に従属し、SAは党政治組織の要請に応じてその都度動員されるべき」とSABE第2の中に明記されている163 。
ただ動員の開始と共にその内部活動に関して党組織の干渉は許されなくなり、SAの従属は条件的なものとなる。ここにはSAを党政治組織とは異なった独自の命令系をもつ機構に編成せんとしたザロモンの志向が窺える。一方彼は1927年2月、SABE第15の中で初めてSAと軍事的組織、特に国防団体との区別を明示した164 165 。
彼にとって旧ドイツ帝国 軍の組織範型は二重の意味で(一つは目標価値に於て、また一つには指導原理に於て)否定されねばならなかった。第一にSAは武装組織であってはならなかった。文字通り最新の装備・戦術・戦略をSAに於て追求する意思は彼になく、また共和国政府が諸団体の軍事活動を一揆後は厳しく禁じていた為、当面純軍事的価値は追求できる目標ではなかった。SAは寧ろ内政的・党派政治的価値を「武器なき闘争」によって実現するものとされた。第二にSAの部隊操作に於ては、組織上の権威が指揮権の担い手個人から分離されてはならなかった。SAの指導原理は、個人としての指導者と被指導者の間にいわば心情倫理的なコンセンサスを要求し、軍指揮官の権限に基づく責任指導原理は、指導者が自らの良心にのみ責任を負う原理へと質的に変化させられなければならなかった。ナチズムの所謂、指導者原理 がプロイセン 軍の組織範型に由来することはしばしば指摘されてきた点であるが、SAの機動性は軍隊に於ける非人格的な指揮官・兵士関係の形式的ヒエラルヒーに求められるのではなく、寧ろ極めて人格的な指導・被指導関係に基づく同志的結合の中から生み出されるものとされた。パーソナルな接触に基づく恒常的共働活動を通じた実行力・信頼関係が重視されたのである。ヒトラーやザロモンの政治的視野に映った軍事的組織に対するこのような価値否定の判断は、一揆前に発生した義勇軍・国防団体・秘密組織が、鉄兜団やドイツ青年騎士団を除き、相対的安定期の内政展開の中で消滅することによって、その的確さを実証することになった。
ザロモンの強調した先の指導者原理は、また同時に他のあらゆる政党組織からナチ党を区別する組織的母斑でもあった。即ち、各組織毎に於る指導者は選挙によって選出されるのではなく各上位の指導者の決定による、とされた。党政治組織にあっては1929年にヒトラーが人事に関するデモクラシー的手続による慣行を正式に廃止する迄は地区指導者 が党員によって選出される制度が擬制であれ残存していたのに対し、SAに於ては上から下への任命系が最初から確立されていたのである。
ザロモンは1930年9月のナチ党の大躍進をみずにその指導者の地位を退いたが、彼がSAに与えた意味づけ・組織原理が継受されなかった訳ではない。
平安は存在しない。SAの意味は『突撃隊』というこの名称の中に在る。SAは運動の政治的兵士であり、理念の突貫者であらんと欲する。 — 南部SA最高指導者代理アウグスト・シュナイトフーバー の1930年11月の指令166
我々SA隊員は軍人でもなければ政治的弁論家でもない。我々は何よりアドルフ・ヒトラーの国民社会主義運動の『政治的兵士』たらんと欲する。 — 1932年ベルリンSA政治教育用パンフレット167
これらの表現の中にザロモンのSA独自のイデオロギー形成の痕跡をみることができる。なお、ここで用いられる「政治的兵土」という表現は、前線兵士との対比でエルンスト・レームや義勇軍の指導者達が嫌悪していた「政治的軍人(参媒将校群)」を意味するものではないことはもちろんである。このような原理に基づくSAの組織化は、共和国の政治空間の中では国防軍・国防団体も他の政党組織も持ち得ない戦闘的エネルギーをナチズム運動に与えることになった。
突撃隊の組織体制
編成
突撃隊最高指導部 (Oberste SA-Führung、OSAF)
上級集団(Obergruppe)8つの集団で編成、1934年廃止
集団(Gruppe)複数の旅団で編成
下級集団/旅団(Untergruppe/Brigade)3つから9つの連隊で編成
連隊(Standarte)3つから5つの大隊で編成
大隊(Sturmbann)3つから5つの中隊で編成
中隊(Sturm)3つから4つの小隊で編成
小隊(Trupp)3つから4つの分隊で編成
分隊(Schar)8人から16人で編成
突撃隊最高指導部 (Oberste SA-Führung)は1926年11月に創設された56 。最高指導部は突撃隊に関する全ての事務を取り扱い、その隷下の集団が最高指導部の指導のもとに各種訓練学校を運営していた142 。集団の数は1933年時に21個、開戦時に25個、戦時中には29個になった142 。
指揮権者 突撃隊最高指導者(Oberste SA-Führer)
身辺護衛連隊 1931年11月、SA『ホッホラント』管区集団「第1SA連隊(ミュンヘン市)(SA-Standarte 1 (München/Stadt))」から編成168 。
古参連隊
第1SA連隊(ミュンヘン市)(SA-Standarte 1 (München/Stadt))
第2SA連隊(ミュンヘン方面)(SA-Standarte 2 (München/Land))
第3SA連隊(オーバーバイエルン)(SA-Standarte 3 (Oberbayern))
衛兵連隊 司令官 - エーリッヒ・ライマンSA中将(1937-1945)
SA衛兵連隊『フェルトヘルンハレ 』(SA-Wachstandarte „Feldherrnhalle“)
第I衛兵大隊『ベルリン』(I. Wachsturmbann (Berlin))
第II衛兵大隊『ミュンヘン』(II. Wachsturmbann (München))
第III衛兵大隊『ハッティンゲン =ルール』(III. Wachsturmbann (Hattingen/ Ruhr))
第IV衛兵大隊『フィヒテンハイン及びクレーフェルト 』(IV. Wachsturmbann (Fichtenheim und Krefeld))
第V衛兵大隊『シュテティーン』(V. Wachsturmbann (Stettin))
第VI衛兵大隊『バート・カンシュタット 』(VI. Wachsturmbann (Bad Cannstadt bei Stuttgart))
第VII衛兵大隊『ウィーン 』(VII. Wachsturmbann (Wien)) - 1938年発足
第VIII衛兵大隊『リンダウ 』(VIII. Wachsturmbann (lindau) )- 1941年発足
第IX衛兵大隊『コーニッツ 』(IX. Wachsturmbann (Konitz/ Pommern))
第X衛兵大隊『ワルシャワ 』(X. Wachsturmbann (Warschau))
予備連隊
突撃隊の制服 初期の突撃隊は様々な制服が入り乱れて使用されたが、ミュンヘン一揆後に再建された突撃隊では褐色シャツ、ケピ帽 、乗馬ズボン、ブーツというスタイルで統一された63 。
褐色シャツはもともと東アフリカの旧ドイツ植民地 駐留軍の制服として作られた物だった。第一次世界大戦 後ドイツの植民地はすべて連合国 に奪われたためにこの制服の在庫が有り余った。そこでゲルハルト・ロスバッハが1924年にこの制服を安価に大量入手した。これが褐色シャツが制服になったきっかけだった62 63 64 。ちなみに褐色シャツはシャツ型の上着であり、その下には襟なしの褐色のシャツを着用していた170 。
突撃隊の制服というとこの褐色シャツ型制服が有名であるが、1932年以降には褐色チュニック が制服として使用されるようになっていった64 。
突撃隊海軍や突撃隊防衛団などは一般の突撃隊員とかなり異なった独自の制服を着用した171 。
突撃隊を描いた作品
参考文献
脚注
政権掌握
突撃隊 (とつげきたい、独 : S turma bteilung, 略号:SA )は、国民社会主義ドイツ労働者党 (ナチス)の準軍事組織 である。制服 の色から「褐色シャツ隊(Braunhemden)」とも呼ばれた1 。
概要
突撃隊はナチスの前身であるドイツ労働者党 (DAP)集会の会場警備隊が改組されて創設された。初期の頃はエルンスト・レーム の斡旋により義勇軍 から流れてきた者を多く受け入れたため、党からの半独立的な性格を持っていた。1923年11月のミュンヘン一揆 に参加したが、失敗によって党と共に一時期禁止された。1925年に再建され、党に従属する組織として再出発した。党集会の警備やパレード 行進の他、ドイツ社会民主党 (SPD)の国旗団 やドイツ共産党 (KPD)の赤色戦線戦士同盟 などとの街頭闘争を行った。はじめフランツ・プフェファー・フォン・ザロモン が突撃隊最高指導者として指揮したが、党首アドルフ・ヒトラー との軋轢から1930年に辞職。以降はヒトラー自らが最高指導者に就任するとともに、日常的指揮は突撃隊幕僚長に任命されたレームに委ねられた。1933年にナチスが政権を獲得 すると、突撃隊は補助警察となり、政敵の摘発や弾圧 にあたった。しかし突撃隊は失業に喘ぐ下層民が多い大衆組織であったため、社会主義 的な思想を持つ隊員も多く、国防軍 などの 勢力との連携を深めるヒトラーにとって厄介な存在となり、1934年6月末から7月初旬にかけてレーム以下突撃隊幹部が (SS)によって された( )。粛清後は勢力を失い、重要な役割のほとんどが親衛隊に移され、突撃隊は国防軍入隊予定者の訓練を主任務とするようになり、 の敗戦まで存続した。
歴史
前身 ヴァイマル共和政期のドイツでは、政党の集会や演説会に他党の党員・支持者が殴り込みをかけるのが日常化しており、各党は警備や他党派攻撃のための武装組織を保有していた。バイエルン州 ミュンヘン で活動するDAPも例外ではなかった。1919年11月のエーベルブロイケラーでのDAP党集会において、初めて会場警備を専門とする部隊が設置された2 。この会場警備部隊はDAPがナチスに改組された後の1920年夏に「整理隊」と名付けられ、党集会の防衛や敵対政党への妨害活動に動員された3 。発足当初の隊員数は25名程度で、エミール・モーリス が隊長を務めた4 。
クリンチュ時代 クリンチュはナチ党員ではなく、エアハルト海兵旅団 から派生した極右 テロ組織「コンスル 」のメンバーであった。この人選はレーム大尉の要請によるものであった。レームは政府により禁止された義勇軍や郷土軍を体育およびスポーツ部に送り込み、義勇軍の維持を図ろうとしていた11 。そのためにクリンチュを新しい隊長に推挙したのだった。一方ヒトラーもエアハルト海兵旅団を高く評価していたので、この要請を承諾したという7 。以降、義勇軍組織(特にエアハルト海兵旅団)とナチスの連携関係ができあがった12 。
9月10日にヒトラーは体育およびスポーツ部を改組して突撃隊を創設することを発表した13 。11月4日にナチ党集会に乱入してきたSPD党員800人14 を50人足らずの体育およびスポーツ部が撃退し15 16 17 18 、これを機に、突撃隊 の名称が正式に与えられた15 。
突撃隊となった後も隊長は引き続きクリンチュが務めた。初期の突撃隊幹部は、ヒトラーの要請に応じて派遣されたエアハルト海兵旅団の指導者たちが占めていた。クリンチュと、後に突撃隊最高指導者となるフランツ・プフェファー・フォン・ザロモン はその代表である。クリンチュらの俸給はエアハルト海兵旅団から支払われており、派遣された団員達は引き続き同団の指揮下にあり、半独立的な義勇軍組織としての一面を持っていた19 。エアハルト海兵旅団はカップ一揆 に参加して非合法化されたため、突撃隊への参加は組織を温存するためにも有効であった。またこの時点のナチスにもエアハルト海兵旅団の高い声望を利用し、オーバーバイエルン 全体に勢力を広げることができるというメリットがあった。そして軍の立場からナチスに関与していたレームにも、連合国によって解散命令の出たドイツ義勇軍隊員の受け皿として、突撃隊拡充は歓迎すべきことであった20 。やがてエアハルト海兵旅団のみならずベルリン のロスバッハ突撃隊 のミュンヘン支部のエドムント・ハイネス らも突撃隊に参加するようになった21 22 。
ヒトラーは再三にわたって「突撃隊は党の組織であって、党中央の決定に従わねばならない」ことを強調したが、こうした他の組織から来ている隊員らは、あまりナチスの規律を気に留めなかったという21 。1923年3月まで突撃隊への実質的な指示は、ミュンヘンの義勇軍の統括者たるレームが行っており、そのためヒトラーもしばしば彼の元を訪れなければならなかった23 。とはいえ突撃隊に流れてくる義勇軍兵士は義勇軍の中でも「政治化」した部類の者たちが多かった21 。ヒトラーと義勇軍の間に政治的意見の相違はほとんどなかったから、ほとんどの場合彼は突撃隊を自由に政治運動へ参加させることができた24 。この頃の突撃隊員は、ミュンヘン市内での交通費・飲食費などは自腹であり、末端の突撃隊員にとっては頻繁に動員されることは重い負担であったが、自己の信念から自発的に参加し続けていた25 。ミュンヘン一揆前の突撃隊は他の義勇軍とほとんど変わりがなく、軍事・政治知識の授業、隊列を組んでの行進、党および友好団体への参加などを行っていた26 。
この頃の隊員数は1921年末の時点で100人未満、1922年9月の時点で800人未満であったと推定されている15 27 。1922年夏に突撃隊は百人隊 と呼ばれる単位によって編成されることとなったが、百人隊は必ずしも100人の隊員がそろっていたわけではなかった15 。
1922年3月18日には年齢的に突撃隊に入隊できない若年層のために青少年部を設置することが発表された。これが後のヒトラーユーゲント となる組織であるが、当初は突撃隊の下部組織と定められていた28 。ヒトラーユーゲントが突撃隊から独立するのは1932年5月になってのことである10 。
1922年10月14日、ヒトラーとナチスは「ドイツの日 」という右翼 諸政党が開催していた愛国的集会に参加するためにコーブルク を訪れた。そこで集会に反対する共産主義者 のデモ隊と口論になり、初めてナチスがミュンヘンの外で他勢力と争った。 これらの事件をヒトラーは後に『我が闘争 』に「コーブルクへの列車」として記し、ナチス、とりわけ突撃隊の重要な闘争史として位置づけた。10年後の1932年、闘争10周年を記念して「コーブルク闘争名誉章 」が制定され、闘争参加者に授与された。
1922-23年頃の編成
第1百人隊(1. Hundertschaft) - 指揮官:カール・ベッゲル
第2百人隊(2. Hundertschaft) - 指揮官:ヨーゼフ・リードル
第3百人隊(3. Hundertschaft) - 指揮官:ヴィルヘルム・レムケ
第4百人隊(4. Hundertschaft) - 指揮官:ヒューベルト・ホッホグラッスル
第6SA百人隊(6. SA-Hundertschaft) - 指揮官:フォークト
第9百人隊(9. Hundertschaft) - 指揮官:ハンス・ツェーバーライン
第11SA百人隊(11. SA-Hundertschaft) - 指揮官:ルドルフ・ヘス
第13百人隊(13. Hundertschaft) - 指揮官:シュティーガー
第17SA百人隊(17. SA-Hundertschaft) - 指揮官:ヨーゼフ・ベルヒトルト
第20SA百人隊(20. SA-Hundertschaft) - 指揮官:エドムント・ハイネス
第25百人隊(25. Hundertschaft) - 指揮官:フランツ・クサーヴァー・ヒルシュボルト
ゲーリング時代 1923年1月にフランス軍 が「ドイツのヴェルサイユ条約 不履行」を理由にルール地方 を占領した。ドイツ陸軍 総司令官ハンス・フォン・ゼークト 大将は憤慨し、「フランスによる不法占領には再軍備で答える」と宣言した。その影響で突撃隊もミュンヘンの国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められた。ヒトラーは当初嫌がっていたが、レームの説得でしぶしぶ了承した。こうして3月から突撃隊は軍の訓練を受ける事となった29 。
しかし突撃隊の実質的な指揮権までも軍に奪われる事を恐れたヒトラーは、レームの息のかかったクリンチュを解任して自身の熱心な支持者であったヘルマン・ゲーリング を代わりの突撃隊司令官に任じている29 。ゲーリングはエアハルト旅団から参加した信用のおけない隊員を一掃し、突撃隊をヒトラーに忠誠を誓う組織に改編していった30 。ゲーリングは突撃隊を3個大隊 からなる1個連隊 で編成し、13個中隊 で1個大隊を構成させた。連隊長にはヴィルヘルム・ブリュックナー が就任した29 。隊員数も増し、1923年11月のミュンヘン一揆 までに3000人ほどになった15 。
1923年頃の編成
ミュンヘンSA連隊 (Münchener SA-Regiment) - 指揮官:ヴィルヘルム・ブリュックナー
ミュンヘンSA第1大隊 (1. Bataillon der Münchener SA) - 指揮官:カール・ベッゲル
ミュンヘンSA第2大隊 (2. Bataillon der Münchener SA) - 指揮官:ヨーゼフ・ベルヒトルト(初代)
エドムント・ハイネス(1923年7月-11月)
ミュンヘンSA第3大隊 (3. Bataillon der Münchener SA) - 指揮官:ルドルフ・ヘス(初代)
ハンス・クナウス (?-1923年11月)
突撃隊の訓練を行ったのは軍の工兵第7連隊と歩兵第19連隊第一大隊で、突撃隊は小銃、機関銃等の扱いを学んだ23 。また突撃隊に砲兵隊や騎兵隊、自転車中隊や軍楽隊などの組織が作られることになった。軍の影響力はさらに強まり、7月11日には「(突撃隊は)党の地区組織や党指導部から分離された、国民社会主義運動内部における別個の組織である。隊は突撃隊司令部の命令に従う」という命令が出された31 。
8月13日にグスタフ・シュトレーゼマン 内閣が成立し、これまでドイツ政府が取ってきたフランス軍ルール地方占領への「受動的抵抗」路線が放棄され、西欧列強との関係回復を目指すことになった。これに反発した右左双方によるシュトレーゼマン批判が強まった32 。
ミュンヘンでも中央政府打倒の機運が高まった。これに乗じてヒトラーは9月2日に突撃隊やオーバーラント義勇軍 などを結集させて右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟 」を結成させた。実質的指揮権はヒトラーが握りつつ、エーリヒ・ルーデンドルフ 歩兵大将に名誉総裁に就任してもらっている33 34 。中央政府への批判を強め、バイエルン州総督グスタフ・フォン・カール による「ベルリン進軍」の動きを支持するようになった。しかしやがてカールは中央政府からの圧力でベルリン進軍を日和見するようになり、これに固執するナチスを除外した右翼大連合政府を立ち上げようとしたため、ヒトラーは一揆を起こすことを決意した。9月26日にはレームも軍を退役し、ヒトラーの下に参じた35 。
ミュンヘン一揆 1923年11月8日午後8時30分、ヒトラーはドイツ闘争連盟を率いて、カール総督らが演説中のビュルガーブロイケラー を占拠し、一揆を起こした。ただし連絡が不十分であったため、突撃隊員全員が一揆に参加したわけではなかった。たとえば突撃隊第1大隊(600名)は100名ほどしか参加していない36 。第1大隊はオーバーラント義勇軍第3大隊とともに国軍第19連隊第1大隊から武器を確保しようとしたが、交渉に失敗して退却、その後ビュルガーブロイケラーへ帰還した。第2大隊は郷土軍が解散の際に隠した武器を確保してヴィッテルスバッハ橋で小休止した37 。第3大隊はビュルガーブロイケラーで待機した。一方レームは「帝国旗団」や「ミュンヘン闘争団 」、突撃隊の一部を率いて軍司令部を占拠した38 。また突撃隊の学生グループはルドルフ・ヘス の指揮のもとに州首相オイゲン・フォン・クニリング らの監禁にあたった39 。
軍の協力は得られず、逆に鎮圧軍が編成されたのを知ったヒトラーは、11月9日12時30分、ルーデンドルフとともにドイツ闘争同盟を率いてミュンヘン中心部のオデオン広場へ向かってデモ行進を開始した。「ヒトラー・ミュンヘン衝撃隊」が隊列の左側、オーバーラント同盟が隊列の右側、そして突撃隊は隊列の中央に付いて行進した40 。しかし警官隊から銃撃を受けて失敗した。突撃隊司令官ゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れ、突撃隊員に運ばれてその場を逃れ、オーストリア へ国外逃亡した41 。一方マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター と腕を組んでいたヒトラーは彼が撃たれた時に一緒に引きずられて倒れ、肩を脱臼した。突撃隊員に抱えられてその場を離れたが、結局逮捕された42 43 44 45 。軍司令部を占拠したレームたちも午後2時頃に鎮圧軍に投降した44 。
禁止時代 ヒトラーやレームら逮捕された一揆指導者は裁判にかけられ、1924年4月1日に判決が下った。ヒトラーは城塞禁固刑 5年の実刑判決(ただし執行6カ月後に保護観察に切り替える事も公約)、レームは1年3カ月の有罪判決を受けたが、彼は判決のその日のうちに仮釈放を受けた。ランツベルク刑務所 に収監されることとなったヒトラーは突撃隊やドイツ闘争連盟をレームに委任した46 47 。
レームは5月31日にドイツ闘争連盟の元隊員を集めてフロントバン を組織した48 41 。さらに他の全国準軍事組織との連絡のためにフロントリンク (Frontring)を結成した49 。8月28日にフロントバンの正式な設立大会が行われ、ヒトラー、ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グレーフェ の三人が政治指導者、レームが軍事指導者と定められた。またルーデンドルフが名誉総裁に就任している。フロントバンの隊員数は3万人にものぼったが、統一性は弱く、小右翼軍事組織の寄せ集めであった50 51 。また、突撃隊員が全員参加したというわけではなかった。フロントバンは突撃隊よりも政党から独立した準軍事組織の性格が強く52 53 、こうした非政治色に反発し、参加を見合わせた隊員も多かった54 。
再建 1924年12月20日にヒトラーは仮釈放され、1925年2月27日にビュルガーブロイケラー でナチスの再結党を宣言した。フロントバン・ミュンヘン司令部の隊員達が真っ先に党に復帰して突撃隊の活動を再開した55 56 。それ以外の隊員達も1925年末までにほとんどが突撃隊へ戻った。フロントバンに残っていた最後の者たちは「人狼団 」に吸収されて消滅した57 。一方でフロントバンの隊員の中にはルーデンドルフがフロントリンクを改組した「タンネンベルク同盟 」に参加した者もいる58 。
3月末から4月にかけてヒトラーとレームは突撃隊の再建にあたって、突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織にするか党に従属する党の宣伝・集会防衛組織にするかで激論した。前者の立場がレーム、後者がヒトラーの立場である。結局二人は決裂し、4月30日にレームは突撃隊司令官職とフロントバン司令官職を辞し、政界を去った59 60 。
ヒトラーは5月24日に突撃隊の再建命令を下したが、どこの党支部も組織の再建で手いっぱいであり、手が回らなかった。バイエルンでは比較的早期に突撃隊が再建されたが、それ以外の地区ではだいたい1926年春ごろ以降に再建されている61 。ベルリン ではクルト・ダリューゲ 、ルール地方 ではヴィクトール・ルッツェ が中心となり、突撃隊の再建が行われた57 。
ザロモン時代 党組織の再建がだいぶ進んでくると、ヒトラーは突撃隊を各支部ではなく、中央からコントロールすることを希望するようになった。1926年7月27日にヒトラーは、9月1日より突撃隊最高指導者(OSAF)を新設し、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン を11月1日から同職に就任させると発表した65 66 67 。
ザロモンは直ちに支部集団単位になっていた突撃隊を中央集権型の組織体制へ変更した。旅団 (2〜5個連隊で構成)、連隊 (2〜5個大隊で構成)、大隊 (2〜4個中隊で構成)、中隊 (5〜8個団で構成)、団 (6〜12人で構成)という指導者原理 に基づく垂直組織で構成させ、特に大隊を日常の活動の基本単位とした。1927年初頭には、18個大隊が編成された68 。突撃隊員はザロモンに忠誠を誓い、彼は党中央執行部のメンバーとして議長であるヒトラーに忠誠を誓う形となった69 。しかしこのために、大管区指導者 など党の政治組織の指導者からの指示に突撃隊が従う必要がなくなってしまい、後々の対立を招くことになる69 。
隊員数は、ザロモンの隊最高指導者就任時に2万人70 、1927年8月に3万人56 、1929年8月には5万人、1930年10月には6万人ほどになった71 。隊員は大多数が10~20代の若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り、大多数は従軍経験のない世代に変貌した72 。
同年3月頃にはナチスのヤング案 反対闘争で突撃隊員の暴力活動が増えた。ヒトラーは突撃隊を禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動を嫌がっていたが、禁止しすぎれば離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳しい締め付けを出来なかった。結果、国旗団 や赤色戦線戦士同盟などの左派武装組織との路上闘争が激しくなり、死傷者が頻繁に出るようになった74 。そのため6月5日にバイエルン州 でナチスの制服が禁止され、さらに6月11日にはプロイセン州 政府、6月13日にはバーデン州 でも禁止された74 75 。このため党は対抗措置として制服を白シャツに代えることで規制を切り抜けた75 。
ザロモンは突撃隊の福祉制度の充実も図った。負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。ここは失業者隊員の宿泊施設であり、また隊員のクラブとなった76 。
ザロモン時代に様々な組織が突撃隊のもとに創設・あるいは傘下に入れられた。1926年に彼が最高指導者に就任した直後に親衛隊 が傘下となっており、1934年までその状態が続いた77 。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海上突撃隊(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は、1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会 (DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団 (NSKK)として突撃隊から独立している78 。
シュテンネスの反乱 ナチスが有力政党として活動するようになると、保守勢力と協調する必要が生まれた。このため社会主義 的な思想を持つ古参党員や党内左派 の不満が増大した。特に突撃隊は労働者階級が多数を占めていたため、そういう者が多かった。
1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、ザロモンは突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求したが、ヒトラーは「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」としてこれを拒否した79 。不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職したため、9月1日にヒトラーが自ら突撃隊最高指導者に就任することになった80 。これが直接の引き金となり、各地の突撃隊員が党の政治組織から依頼された宣伝活動をボイコット するようになった。一番過激だったのはベルリンの突撃隊だった。1930年8月28日に突撃隊ベルリン東部指導者であったヴァルター・シュテンネス がミュンヘンの党本部に対してベルリン大管区指導者 であったゲッベルスの解任を要求した79 81 。党本部がこれを拒否すると、8月30日にシュテンネス一派はベルリン大管区本部の襲撃を開始した。ゲッベルスはクルト・ダリューゲ の親衛隊部隊を投入したが、突撃隊の方が数に勝り、鎮圧に失敗した。結局ゲッベルスは警察に介入してもらって鎮圧した。9月1日にはヒトラー自らがベルリンを訪れてシュテンネスを直接説得してひとまず収めた81 82 。
ヒトラーは、突撃隊の監視を強化するため、1930年11月7日に親衛隊は突撃隊指揮官の命令に従う必要はないと定めた(ただし形式的には長いナイフの夜 事件まで親衛隊は突撃隊の傘下にあった)83 。
レーム時代 選挙後の1930年11月末にヒトラーは突撃隊暴動再発を阻止すべく、隊員の待遇改善を約束し、隊員の人望厚いレームを南米ボリビア から呼び戻して突撃隊幕僚長に据えることを宣言した83 。1931年1月5日にレームを正式に突撃隊幕僚に任じた83 84 。
1931年4月2日にシュテンネスの再反乱があったが、ゲッベルスが動員したダリューゲの親衛隊部隊が鎮圧に成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。結果、シュテンネス一派の1万人が去ることとなった86 87 。
しかしこれによって突撃隊の過激派勢力が弱まったわけではなかった。ヒトラーやレームは党勢拡大のために入隊希望者を無制限に受け入れ、彼らに食事や宿舎の提供を行った為に世界恐慌 の影響で巷にあふれかえる失業者 がナチスや突撃隊に続々と参加したためである。こうした者は反資本主義 的で革命的な政治的急進派が多かった。こうした革命志向の隊員達は、「制服は褐色だが中身は赤い」としてステーキ に例えられていた88 89 。
1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチ党が政権を獲得する直前の1933年1月には50万人以上に達した88 90 。結果として隊員の質の低下は避けられず、しばしばゴロツキ同然の振る舞いを行う突撃隊員が増加した。またあまりに増大した突撃隊員に対する待遇は悪化した。突撃隊はますます過激化し、隊員達はヒトラーの「合法路線」にしびれを切らして、武装蜂起を求めるようになった。レームも隊員の不満を抑えるためにこうした声を代弁するようになり、1931年末にはヒトラーに武装蜂起を進言している91 。
1932年3月、ヒトラーが大統領選挙に出馬し、30パーセントの票を獲得した。4月14日、ナチ党の勢いを恐れたハインリヒ・ブリューニング 首相が突撃隊と親衛隊の禁止命令を出し、各地の突撃隊施設が当局に差し押さえられた92 93 。しかしこの禁止命令に国防次官クルト・フォン・シュライヒャー は反対であり、彼はナチ党と連携して倒閣活動を行った。その結果、ブリューニング内閣は倒れ、6月1日にシュライヒャーを国防相とするフランツ・フォン・パーペン 内閣が成立した94 。パーペン内閣のもとで6月16日に突撃隊・親衛隊禁止命令は解除された95 。
一方レームが突撃隊幕僚長になってから突撃隊内では同性愛が公然化していた。社民党の機関紙『ミュンヒナー・ポスト』も「ナチスは反同性愛政党でありながら身内の同性愛行為には目をつぶっている」と批判した96 。当時のドイツでは同性の性交渉は刑法175条 によって禁止されていた(この条項は1994年になって廃止された)97 。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」と述べており、突撃隊で同性愛が横行したのは彼らの革命的性質とも無関係ではなかったようである98 。
政権掌握 1933年1月30日夕刻、ヒトラーのドイツ首相就任を知った人々は大統領官邸に押し寄せていた。午後6時頃にヒンデンブルク 大統領とヒトラーとパーペン副首相が人々の前に姿を見せた。続いて松明を持った突撃隊がベルリン市内を行進し、その勢いを示した。ベルリンは翌1月31日に入った午前1時ぐらいまでお祭り騒ぎになった99 。
ゲーリングは1933年2月20日に突撃隊員と親衛隊員合わせて5万人と鉄兜団 1万人をプロイセン州警察の補助警察官として動員する事を決定した101 。2月24日には突撃隊がドイツ共産党 本部カール・リープクネヒト館 を襲撃している101 。2月27日に国会議事堂放火事件 が発生すると、ゲーリングは4000人の共産党員の逮捕を命じ、4月末までに2万5000人に及ぶ大量の左翼(共産党に加えて一部社民党員も)が補助警察官によって逮捕された102 103 。彼らを収容するために突撃隊員はあちこちに私的収容所を創設した。後にゲーリングに承認され、州公認の収容所となったオラニエンブルク強制収容所 はそのひとつであった104 。4月1日にはボイコット委員会委員長ユリウス・シュトライヒャー の指揮の下に突撃隊員がユダヤ人商店のボイコット運動をドイツ全国で行い、ユダヤ人商店を強制的に閉鎖していった105 。5月2日には左翼系労働組合の事務所を襲い、その財産を奪取した106 。6月21日には鉄兜団が突撃隊に吸収された107 。
ハインリヒ・ヘルト のバイエルン州政府が解体された後、レームは同州の州委員に任じられた。1933年3月12日にレームはバイエルンの7つの郡知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突撃隊を補助警察官として配置した108 。レームはこの「突撃隊最高指導部特別委員」制度を他の州にも導入させようと図り、5月にプロイセン州 で導入され、その後他の州でも続々と導入された109 。
しかしヒトラーもドイツ内相ヴィルヘルム・フリック もプロイセン州首相・内相ゲーリングも過激派の多い突撃隊に警察権力を集中させることには反対だった。警戒したゲーリングは1933年8月には補助警官隊に解散を命じ、他の州も続々とゲーリングに倣って補助警官隊を解散させた。ごく一部の突撃隊員が正規の警察官として採用されたが、他の大多数の突撃隊員は補助警察官として支給されていた給料を切られ、失業者に戻された。そのため突撃隊の不満が高まり、彼らは「第二革命 」を叫ぶようになり、1933年8月以降ドイツ各地で暴動を起こすようになった90 。
第二革命 結党から政権掌握までのナチス党史において、突撃隊が大きな力になったことは明らかであったが、独裁体制が安定するにつれて必要性は薄れ、ヒトラーにとって持て余す存在となっていった110 。保守派との協力を重視するヒトラーは、クルップ・フォン・ボーレン =テュッセン雇用者協会を復活させたり、大百貨店に敵対する小売業 闘争同盟を解散させるなど、保守政策を次々と打ち出したが、こうした態度は労働者階級からなり、社会主義的であった突撃隊員の不満を助長した111 。資本家や地主との妥協を止め、社会主義的政策を打ち出すことを求める「第二革命」運動が突撃隊内で強まった112 。突撃隊員の声を代弁するレームも公然とこれを唱え、ヒトラーの革命終了宣言に抵抗した113 114 。
レームは9月1日、バイエルンの突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止し、かわりにバイエルン州政府に突撃隊特別全権官、郡政府に突撃隊特別委任官を置いた。彼らの任務は「国家社会主義革命による発展が続けられているかを、官庁と協力しながら監視する」ことであった。これによって地方行政機関を第二革命に動かそうとした115 。10月には、ゲーリングの支配するプロイセン州にも、突撃隊特別全権官の設置を認めさせた。彼は突撃隊政治部長ゲオルク・フォン・デッテン から国会議事堂放火事件 の真相を暴露すると強請られ、渋々認めたという116 。各州もプロイセン州に倣って突撃隊特別全権官の設置を認めた。結果、突撃隊特別全権官による行政への横やりや命令無視が横行し、「ヒトラー政権は早晩崩壊するだろう」という噂が立つほどであった116 。
国軍との対立 突撃隊は国軍 とも対立を深めていた。国軍と突撃隊は、1933年5月に協定を結び、突撃隊と親衛隊と鉄兜団 は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りてフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー 突撃隊大将 の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかし、レームは東部国境守備隊の指揮権を要求し、またその武器庫を管理下に置こうとしたため、国軍と対立を深めた121 。
もともとレームは、貴族 が中心の国軍では、旧来のプロイセン王国と同じ古い戦術思想しか持ち得ない軍隊にしかならないと考え、これにかわって突撃隊を国民軍 として正規軍にするという構想があった122 。突撃隊は1934年春には300万人以上の人員を擁するようになっていた110 。うち武装兵士が50万人いた123 。ヴェルサイユ条約 で陸軍兵力10万人に限定されていた国軍にとって、これは大いに脅威となる存在であった。一方ヒトラーは、政権の維持のためには国軍の支持が不可欠と認識しており、再軍備は国軍を以って行うと決め、レームの国民軍構想を却下していた124 。
ドイツの国際連盟 脱退によって、ポーランド とフランス がドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感が高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは1934年1月15日に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど、第二革命問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して、突撃隊を正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。これが達成できれば、突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった119 。
ヒトラーは1934年1月2日、レームに対して友情とこれまでの功績への感謝を強調した私信を送った120 。その中で、安全保障は国軍に任せるべきであることを婉曲に伝えた。しかし、この手紙の真意を理解しなかったレームは、2月初めにヴェルナー・フォン・ブロンベルク 国防相に対して、国家安全保障は突撃隊の任務とする書簡を送った125 。この書簡を見たブロンベルクは「レームは全ての国防組織を突撃隊の傘下にして国軍をただの訓練機関にしようとしている」と結論し、ヒトラーに処置を要求した126 。2月末、ヒトラーの仲介で国防省において、ブロンベルクとレームが協定を結び、国軍が国で唯一の武装兵力であり、突撃隊はその補助のため国境地帯の警備や予備訓練を担当することが取りきめられた125 126 127 。しかしレームの反発は大きかった126 128 。
長いナイフの夜 突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の捏造を行った133 134 。そして1934年6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊による武装蜂起の噂が流れた。ヒトラーは6月4日に首相官邸でレームと会談を行った。会談の結果、高まる緊張を少しでも沈静化するため突撃隊の多くの部隊が一カ月の休暇に入り、レームも療養に入ることとなった135 136 。しかしヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相は、6月21日にノイデックの大統領私邸においてヒトラーに対し、もし事態の鎮静化ができないなら、権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した137 。最後通牒を突きつけられた形のヒトラーは、この日に突撃隊の粛清を決意したという138 。6月25日までにヒトラーはブロンベルクにレーム以下突撃隊幹部を粛清する旨を伝え、国軍もその準備に入った139 。
事件以降 長いナイフの夜で粛清を受けたのは上層部が中心だったが、事件は若い下級隊員たちを震え上がらせるのに十分な効果があった143 。事件後、大きな反発もなく突撃隊の力はそぎ落とされていった。ヒトラーの指示によりルッツェはベルリン親衛隊指導者クルト・ダリューゲ 親衛隊中将 にドイツ東部の突撃隊の解体と再編を依頼することになった。ダリューゲによって突撃隊最高指導部(OSAF)の主要な政治部門はすべて解体され、またその財産を没収させられた144 。親衛隊は正式に突撃隊から独立し、オラニエンブルク強制収容所 など突撃隊管理の強制収容所は親衛隊の管理下に移された145 。自動車突撃隊(Motor-SA)も国家社会主義自動車軍団 (NSKK)として突撃隊から独立した。16あった突撃隊上級集団(SA-Obergruppen)は解体され、突撃隊の最上級の編成は突撃隊集団(SA-Gruppen)になった142 。突撃隊員が武器を携帯することも禁止された146 。隊員数もこの後減少の一途をたどることになり、長いナイフの夜の頃には400万人を超えるといわれた突撃隊の隊員数は粛清の2ヶ月後の1934年9月に260万人、1935年10月に160万人、1938年には120万人にまで減少した。1940年初頭、SAの会員数はわずか約90万人になっていた146 。
事件後も青年に対する軍事訓練機関としての役割は残され、これが突撃隊の主要任務となった(ただし、1939年1月に突撃隊防衛団が組織されるまで武器の使用・所持は認められなかった)142 。これに次ぐ突撃隊の任務は行政機関や大管区などの布告を配布・宣伝することであった142 143 。毎年冬に行われるナチ党の慈善事業、冬季貧民救済事業 も突撃隊が行っていた147 。
1938年11月の水晶の夜 事件の際、ルッツェはヨーゼフ・ゲッベルス の指示を無視して、突撃隊集団指導者たちに対して反ユダヤ暴動に参加しないよう命じていたが148 、結局多数の突撃隊員が党政治指導部の命令で反ユダヤ暴動に参加した149 。
1939年1月には、国防軍 へ入隊する者の教育機関たることが突撃隊の唯一の役割と定められ142 、軍事訓練を担当する武装組織として「突撃隊防衛団(SA-Wehrmannschaften)」が創設された150 。戦争がはじまると突撃隊は国防軍に代わって入隊予定者の訓練に当たったほか、防空任務にも動員され151 111 、その他には警察・税関・親衛隊・国境警備など諸機関の補助員にも充てられた。ただ突撃隊員は兵役の義務を負い続けたため、隊員が国防軍に応召することで、突撃隊自体のマンパワーは減少の一途をたどった。また突撃隊防衛団の一部の部隊は、軍からの脱走者等を収容する強制収容所の管理や、占領地のパルチザン 掃討作戦に動員された152 。大戦末期には、国民突撃隊 に編入されている152 。
戦後 戦後のニュルンベルク裁判 において突撃隊は起訴された6組織の一つとなった(他にヒトラー内閣 、ナチ党全国指導部 、参謀本部 、親衛隊、ゲシュタポ )156 。この裁判で親衛隊とゲシュタポとナチ党指導部は「犯罪組織」と判決されたが、一方突撃隊は「特殊な場合に置いて突撃隊の若干部隊は戦争犯罪や人道に対する罪の遂行に使用されたが、その成員が一般に犯罪行為に参加していたとかまたは知っていたということはできない」とされて有罪判決を受けなかった157 。
突撃隊の組織論 ヒトラー自身の構想を見るならば、『我が闘争 』には「運動の世界観闘争の擁護と強化のための道具158 」というSAの規定が存在する。ナチ党の運動が必ずしもイデオロギー的・綱領的政治運動ではなくその世界観がヒトラーによって体現されたことを考えあわせると、SAはヒトラー及びナチ党の防衛組織・権力手段であり、それ以上の事がここで明記されている訳ではない。『我が闘争』ではこの規定とパラレルにSAの国防団体化・秘密組織化の否定が強調されており、ポイントは寧ろ後者にあった。この著書の刊行に先立って既に『フェルキッシャー・ベオバハター 』紙上でヒトラーは再建後のSAの構想を明らかにしていた。彼はそこでSAを1923年2月以前の状態に戻すと述べている。1923年11月以前としていない点が注目される。1923年2月という時期はバイエルンに於る民間国防団体統一化の為に結成された「祖国闘争共働団の指揮下にSAが属した時期を指しており、これ以後ヒトラーの意思を離れて「ビヤホール一揆 」迄にSAは益々その軍事団体的性格を強めていった。一揆の挫折は、ヒトラーをして合法戦術を以後とらしめるに至り、彼にとって民間国防団体から独立した新しい党を発足させる為にはSAの軍事団体的性格の払拭が必要であった。ヒトラーは同じ『フェルキッシャー・ベオバハター』紙の中で、SAが宣伝・集会防衛の組織であることを再確認し青年の身体訓練、共通の偉大な理念に対する規律・献身の教育、運動の秩序・啓蒙の完成をその課題に据えた。以上の様なヒトラーのSAについての展望は1920年に会場整理隊として出発したこの組織の非軍事団体的復活を宣していたものの具体的な組織構想とは言い難かった。
1926年から1930年迄の間、SA最高指導者のプフェッファー・フォン・ザロモンは鞏固でかつ弾力的な組織的枠組をSAに与え、有能な組織指導者であることを証明した。彼はSA命令 (SABE)、SA原則命令 (RUSA)を発し159 、SAの組織的性格を具体的に規定していった。その基調は概ねヒトラーの構想に沿っていた。SAの各隊員に課せられた職務としては、集会設営、会場整理、ビラ配布、パンフレツト・新聞販売、ポスター貼り、パトロールその他困難な特別任務などの活動が挙げられている。ただ、既に編成されていた党政治組織との対比に於てザロモンはSA独自の組織的位置を「SAは在来の議会政党からナチ党を区別するその本質的メルクマールをなし、議会主義とその制度に破綻が生じたその時こそSAはナチ党の勝利を保証するものとなる」と意味付けていた。更にザロモンはSABE第3の中でも党組織との区別を次のように行っている160 161 。
SA隊員は同時に党員でもあり、党員としては無論、政治指導部 の宣伝には出来るだけ協力しなければならない。しかしSAは政治指導部そのものではない。SAはそれに奉仕する機関ではない。
SA隊員は神聖な自由の闘争者であり、一般党員は策に富む宣伝者・狡滑なアジテーターである。政治的プロパガンダは敵を啓蒙し敵と論争しその立脚点を把握しその思想に係わり、ある程度まで敵を是認しようとする。しかしSAが登場するとこれは終わりとなる。SAが妥協することはない。敵に対して断固突き進むのみである。
このような規定をみると、党が宣伝方針を担当しSAが党の宣伝を実現するという役割分担が存在するものの、寧ろ公衆の眼前への登場それ自体、SAの存在そのものが宣伝価値を形成することになっている。政治的敵対者・大衆に対し恐怖・畏懼の念を植え付けることが、党の活動基盤を準備し拡大することになるのである。つまりSAの意味と機能は純然たる行動の中に、従ってまたその心理的モメントにあったといえる。ザウアーはSAと党との区別をその軍事的性格と政治的性格との差異に求めず「SAはゲヴァルト の道具であり、党は策略の道具である」と論じている162 。
SAと党政治組織との関係についていえば、「前者が後者に従属し、SAは党政治組織の要請に応じてその都度動員されるべき」とSABE第2の中に明記されている163 。
ただ動員の開始と共にその内部活動に関して党組織の干渉は許されなくなり、SAの従属は条件的なものとなる。ここにはSAを党政治組織とは異なった独自の命令系をもつ機構に編成せんとしたザロモンの志向が窺える。一方彼は1927年2月、SABE第15の中で初めてSAと軍事的組織、特に国防団体との区別を明示した164 165 。
彼にとって旧ドイツ帝国 軍の組織範型は二重の意味で(一つは目標価値に於て、また一つには指導原理に於て)否定されねばならなかった。第一にSAは武装組織であってはならなかった。文字通り最新の装備・戦術・戦略をSAに於て追求する意思は彼になく、また共和国政府が諸団体の軍事活動を一揆後は厳しく禁じていた為、当面純軍事的価値は追求できる目標ではなかった。SAは寧ろ内政的・党派政治的価値を「武器なき闘争」によって実現するものとされた。第二にSAの部隊操作に於ては、組織上の権威が指揮権の担い手個人から分離されてはならなかった。SAの指導原理は、個人としての指導者と被指導者の間にいわば心情倫理的なコンセンサスを要求し、軍指揮官の権限に基づく責任指導原理は、指導者が自らの良心にのみ責任を負う原理へと質的に変化させられなければならなかった。ナチズムの所謂、指導者原理 がプロイセン 軍の組織範型に由来することはしばしば指摘されてきた点であるが、SAの機動性は軍隊に於ける非人格的な指揮官・兵士関係の形式的ヒエラルヒーに求められるのではなく、寧ろ極めて人格的な指導・被指導関係に基づく同志的結合の中から生み出されるものとされた。パーソナルな接触に基づく恒常的共働活動を通じた実行力・信頼関係が重視されたのである。ヒトラーやザロモンの政治的視野に映った軍事的組織に対するこのような価値否定の判断は、一揆前に発生した義勇軍・国防団体・秘密組織が、鉄兜団やドイツ青年騎士団を除き、相対的安定期の内政展開の中で消滅することによって、その的確さを実証することになった。
ザロモンの強調した先の指導者原理は、また同時に他のあらゆる政党組織からナチ党を区別する組織的母斑でもあった。即ち、各組織毎に於る指導者は選挙によって選出されるのではなく各上位の指導者の決定による、とされた。党政治組織にあっては1929年にヒトラーが人事に関するデモクラシー的手続による慣行を正式に廃止する迄は地区指導者 が党員によって選出される制度が擬制であれ残存していたのに対し、SAに於ては上から下への任命系が最初から確立されていたのである。
ザロモンは1930年9月のナチ党の大躍進をみずにその指導者の地位を退いたが、彼がSAに与えた意味づけ・組織原理が継受されなかった訳ではない。
平安は存在しない。SAの意味は『突撃隊』というこの名称の中に在る。SAは運動の政治的兵士であり、理念の突貫者であらんと欲する。 — 南部SA最高指導者代理アウグスト・シュナイトフーバー の1930年11月の指令166
我々SA隊員は軍人でもなければ政治的弁論家でもない。我々は何よりアドルフ・ヒトラーの国民社会主義運動の『政治的兵士』たらんと欲する。 — 1932年ベルリンSA政治教育用パンフレット167
これらの表現の中にザロモンのSA独自のイデオロギー形成の痕跡をみることができる。なお、ここで用いられる「政治的兵土」という表現は、前線兵士との対比でエルンスト・レームや義勇軍の指導者達が嫌悪していた「政治的軍人(参媒将校群)」を意味するものではないことはもちろんである。このような原理に基づくSAの組織化は、共和国の政治空間の中では国防軍・国防団体も他の政党組織も持ち得ない戦闘的エネルギーをナチズム運動に与えることになった。
突撃隊の組織体制
編成
突撃隊最高指導部 (Oberste SA-Führung、OSAF)
上級集団(Obergruppe)8つの集団で編成、1934年廃止
集団(Gruppe)複数の旅団で編成
下級集団/旅団(Untergruppe/Brigade)3つから9つの連隊で編成
連隊(Standarte)3つから5つの大隊で編成
大隊(Sturmbann)3つから5つの中隊で編成
中隊(Sturm)3つから4つの小隊で編成
小隊(Trupp)3つから4つの分隊で編成
分隊(Schar)8人から16人で編成
突撃隊最高指導部 (Oberste SA-Führung)は1926年11月に創設された56 。最高指導部は突撃隊に関する全ての事務を取り扱い、その隷下の集団が最高指導部の指導のもとに各種訓練学校を運営していた142 。集団の数は1933年時に21個、開戦時に25個、戦時中には29個になった142 。
指揮権者 突撃隊最高指導者(Oberste SA-Führer)
身辺護衛連隊 1931年11月、SA『ホッホラント』管区集団「第1SA連隊(ミュンヘン市)(SA-Standarte 1 (München/Stadt))」から編成168 。
古参連隊
第1SA連隊(ミュンヘン市)(SA-Standarte 1 (München/Stadt))
第2SA連隊(ミュンヘン方面)(SA-Standarte 2 (München/Land))
第3SA連隊(オーバーバイエルン)(SA-Standarte 3 (Oberbayern))
衛兵連隊 司令官 - エーリッヒ・ライマンSA中将(1937-1945)
SA衛兵連隊『フェルトヘルンハレ 』(SA-Wachstandarte „Feldherrnhalle“)
第I衛兵大隊『ベルリン』(I. Wachsturmbann (Berlin))
第II衛兵大隊『ミュンヘン』(II. Wachsturmbann (München))
第III衛兵大隊『ハッティンゲン =ルール』(III. Wachsturmbann (Hattingen/ Ruhr))
第IV衛兵大隊『フィヒテンハイン及びクレーフェルト 』(IV. Wachsturmbann (Fichtenheim und Krefeld))
第V衛兵大隊『シュテティーン』(V. Wachsturmbann (Stettin))
第VI衛兵大隊『バート・カンシュタット 』(VI. Wachsturmbann (Bad Cannstadt bei Stuttgart))
第VII衛兵大隊『ウィーン 』(VII. Wachsturmbann (Wien)) - 1938年発足
第VIII衛兵大隊『リンダウ 』(VIII. Wachsturmbann (lindau) )- 1941年発足
第IX衛兵大隊『コーニッツ 』(IX. Wachsturmbann (Konitz/ Pommern))
第X衛兵大隊『ワルシャワ 』(X. Wachsturmbann (Warschau))
予備連隊
突撃隊の制服 初期の突撃隊は様々な制服が入り乱れて使用されたが、ミュンヘン一揆後に再建された突撃隊では褐色シャツ、ケピ帽 、乗馬ズボン、ブーツというスタイルで統一された63 。
褐色シャツはもともと東アフリカの旧ドイツ植民地 駐留軍の制服として作られた物だった。第一次世界大戦 後ドイツの植民地はすべて連合国 に奪われたためにこの制服の在庫が有り余った。そこでゲルハルト・ロスバッハが1924年にこの制服を安価に大量入手した。これが褐色シャツが制服になったきっかけだった62 63 64 。ちなみに褐色シャツはシャツ型の上着であり、その下には襟なしの褐色のシャツを着用していた170 。
突撃隊の制服というとこの褐色シャツ型制服が有名であるが、1932年以降には褐色チュニック が制服として使用されるようになっていった64 。
突撃隊海軍や突撃隊防衛団などは一般の突撃隊員とかなり異なった独自の制服を着用した171 。
突撃隊を描いた作品
参考文献
脚注
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