国民社会主義ドイツ労働者党 — OpenHistory
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国民社会主義ドイツ労働者党 国民社会主義ドイツ労働者党は、かつて存在したドイツの政党。公式の略称は、NSDAP。別称は、ナチ、ナチ党、ナチス、ナチス党。
設立~解散 1920年2月24日 ~ 1945年10月10日 最終更新 2026/10/16 15:03
基本情報
設立 ~ 解散 1920年2月24日 ~ 1945年10月10日
成立年月日 1920年2月24日
解散年月日 1945年10月10日
党員・党友数 3,900,000人(1933年), 8,500,000人(1945年)
シンボル 党鷲章(Parteiadler), 初期型, 後期型
位置 48.1453, 11.5675 大きな地図で同時代を見る → 目次 1. 概要 2. 名称 2.1. 正式名称 2.2. 略称 2.3. 訳語 3. 思想 3.1. 反ユダヤ主義・反共主義 3.2. 民族共同体 3.3. 農村政策 3.4. 青年崇拝 4. 党史 4.1. 黎明期 4.2. ドイツ労働者党 4.3. ヒトラーの入党 4.4. ヒトラーの台頭とドレクスラーの党首就任 国民社会主義ドイツ労働者党 (こくみんしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、ドイツ語 : Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 発音)は、かつて存在したドイツの政党 。公式の略称 は、NSDAP 1 。別称は、ナチ 、ナチ党 、ナチス 、ナチス党 。
概要
1924年5月4日総選挙では急進 右翼組織2 (極右 3 4 )、1930年9月の選挙戦以降左翼 以外の広範な支持を集める国民政党 となり5 、ヴァイマル共和政 末期には包括政党 の色彩が強くなった6 。その運動およびイデオロギー 、思想原理、理念・支配形態一般をナチズム という7 。
派生用語として生まれた「ネオナチ 」は、ナチズムとは別に極右民族主義 や反共産主義 などの極右思想 の組織 、また個人 等を包括的に表す言葉として国際的に使用される。 を問わず多岐に存在し、これら政治組織、 / 、 組織等は、 、 (FBI)、 (OHCHR)、日本の 等が警告している 。
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国民社会主義ドイツ労働者党
団体・機関 · 政治・外交
設立 ~ 解散 1920年2月24日 ~ 1945年10月10日
成立年月日 1920年2月24日
解散年月日 1945年10月10日
党員・党友数 3,900,000人(1933年), 8,500,000人(1945年)
シンボル 党鷲章(Parteiadler), 初期型, 後期型
位置 48.1453, 11.5675 大きな地図で同時代を見る → ヒトラー は党名について「民族的 national」とは「民族 全体に対する無限のあらゆるものを包む愛情、必要とあればそのために命をも投げ出すこと」、「社会主義的 sozialistische」 とは「民族同胞のための労働 という倫理 的義務 」、「労働者 Arbeiter」とは「体を使って働かない人」に対して「体を使って働く人」、「労働を軽視するユダヤ人 に対して労働を恥じないゲルマン人 」を意味すると説明した17 。一般にナチス 、ナチ党 、ナチス党 などと呼ばれる(詳細は#名称 を参照)。
日本では、国家社会主義ドイツ労働者党 18 、国民社会主義ドイツ労働者党 、民族社会主義ドイツ労働者党 というように少なくとも3つの訳が通用しており、それぞれ少しずつニュアンスが異なってくる19 。また、国粋社会主義ドイツ労働者党 などとも訳される(詳細は訳語 参照)。
名称
正式名称
略称 「ナチ (Nazi、ナーツィ)」という略称は「Na tionalsozi alist」を短く縮めたものであり、「Sozi alist」(対立党派であるドイツ社会民主党 員および社会主義者)の略語である「ゾチ(Sozi、ゾーツィ)」との類推で造られた21 22 。「ナチス (Nazis、ナーツィス)」は複数形である。元来はヴァイマル共和政時代に対立する党派がナチ党員および国民社会主義者に蔑称として付けたものである。したがって、映画 などの創作で、ナチ党員が自らを「ナチ」や「ナチス」と呼ぶのは本来は誤りであり、実際には党名の略称である「NSDAP (エンエスデーアーペー)」、「NS (エンエス)」、或いは単に「Partei (パルタイ)」と呼び、党員同士は「党同志」を意味する「Parteigenosse (パルタイゲノッセ)」、もしくはその略語「PG (ペーゲー)」、「同志」を意味する「Kamerad (カメラート)」などと呼び合った。
しかし、ナチスという呼称はドイツ 国外でも戦前から広まっており、党の通称として反対・賛成する勢力を問わず広く用いられた20 。日本でもナチおよびナチスの呼称が当時から使用されている23 。現在は他の非ドイツ語圏でもナチス・ドイツ などの呼称が広く使用されており、ドイツ語 にも同様の「Nazi-Deutschland」などの用語もあるが、分断時代の西ドイツ においても「NSDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった20 。また上述のNSを接頭語にして、例えばドイツ歴史博物館 が運営する生きている博物館オンライン (LeMO)では、1933年から1939年の時代を指し示す用語として「NS-Regime、(エンエス・レジーム)」、党の指導者を示す用語として「NS-Führung、(エンエス・フュールング)」などの造語が用いられている24 。
訳語 邦訳は、「Nationalsozialismus」の「National」の解釈の違いにより「国民 社会主義 ドイツ労働者党25 26 」のほか、「国家 社会主義27 」、「国粋 社会主義28 」なども使用される。日本の高校歴史教科書では「国民- 」とするのが主流となっている29 。同様に、同党が掲げた主義思想も「国民- 」30 、「民族- 」などの訳語が使用されている。
略称の日本語訳は、「ナチス」の他、戦前・戦中は「国粋社会党 31 」「国民社会党 32 」なども使用された。
また「Arbeiterpartei」の部分について「労働者党 」ではなく「労働党 」と訳す例もある33 。
教育史 学者の小峰総一郎 によると、「„nationalsozialistisch“の訳語として『民族社会主義の』『国家社会主義の』も誤りではないが、近年では『国民社会主義党(ナチ党)の』『ナチズムの』『ナチスの』のように、ヒトラーの『ナチ党』(=『国民社会主義ドイツ労働者党』 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiter Partei <NSDAP>)を表す簡明な表現が一般的となっている。」と形容詞表現の用法について述べた34 。
なお中国語 では「民族 社會主義德意志工人黨」35 や「國家 社會主義德意志工人黨」36 や「國家 社會主義德國工人黨」37 など。略称は「納粹黨」38 。最初「Nazi」は上海語 の発音に基づいて「南尖」([\nø tɕi](/ja/w/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7))と訳していたが、後に当時駐在ドイツ武官を務めていた国民革命軍 少将の酆悌 が「納粹」と訳した。「納粹」([nɑ̂ tsʰwêɪ] )は「Nazi」([ˈnaːtsi] )という音を表すとともに、「精粋を納める」という意味を表す。肯定的な意味を持つ「納粹」という単語は「Nazi」を訳すときに使われていたが、現在では「納粹」が固有名詞として使われるようになり、肯定的な意味を持っていない。
「国家社会主義」は誤訳か否か ナチス・ドイツ時代のメディア などを研究する佐藤卓己 は、「国民 社会主義」と訳すべきと主張する29 。佐藤は、「National」を「国家-」とするのは誤訳であり29 、現代ドイツ史の専門家でこのように訳す者はいないと主張する39 。佐藤はさらに、「国家- 」と誤訳され続ける背景には「国家の責任のみ追及して国民の責任を問おうとしない心性」があると主張する29 。
「国民社会主義ドイツ労働者党」とする主張とその理由 ドイツ近現代史専門の石田勇治 によると「National」は「国家(Staat)ではなく、国民あるいは民族という意味で用いられている」という40 。石田は、「ナチズムは国家ではなく、国民・民族を優先する思想」であり、党名を「国家- 」と訳すとそのナチズムの本質を見誤ってしまうため、日本語訳は「国民- 」とすべきと主張する40 。石田によれば、国民社会主義における「国民主義」とは「民族を軸に国民を統合する」という考え方であり、「社会主義」とは「マルクス主義・階級意識を克服して国民を束ねる共同体主義」を意味した41 。両者についてヒトラーは、しばしば「同一である」と主張していたという41 。
田野大輔 は「ヒトラーは社会主義者だ」とする主張に反論するうえで、党名の訳語についても触れ、「『国家(Staat)』と『国民(Nation)』の混同を避ける目的から、近年では『国民社会主義』という訳語が一般的になっている」としている42 。
小野寺拓也 は、高校世界史教科書での具体的な採用状況を挙げたうえで(「国民社会主義ドイツ労働者党」(東京書籍 、帝国書院 、実教出版 )、「国民(国家)社会主義」(山川出版社 ))、上記の2つの主張を踏まえて「国民社会主義」との訳語の方が適切である旨述べている43 。
「民族社会主義ドイツ労働者党」とする主張とその理由 田村栄一郎 は「国家を民族の生存のための単なる手段とみなしている点では、これを『民族』社会主義として差支えなかろう。しかしこの場合も、ある人はこれを『国家』社会主義、他の人はこれを『国民』社会主義と訳している―大きな困難を伴うことが予想される。」と述べた44 。
伊集院立 がエバーハルト・イェッケル の『ヒトラー 全記録 1905-1924 (シュツットガルト、1980年)』に基づいて、ナチ党の名称はヒトラーの考えでは『国民社会主義ドイツ労働者党』ではなく『民族社会主義ドイツ労働者党』であったと主張した際、西川正雄 との間に緊張が生じたといい、西川は「できれば国民社会主義にしてはどうだろうか」と述べたという45 。
山本秀行 は「教科書などでは『国民』の訳が定着しているが、1935年以降については『民族』とした方が、ぴったりくるようにも思われる。」と述べた46 。
経済学者の瀬戸岡紘 は、「ファシズムにとって『階級』ならぬ『民族』を意識させ『民族』意識をテコとすることは決定的に重要だった」との理由から、「国家- 」ではなく「民族- 」の訳語を用いている47 。
飯島滋明 は「民族社会主義ドイツ労働者党」と訳し、「ヒトラー・ナチスが目指したのは優秀かつ健康な『アーリア人 』による国づくりである。ユダヤ人 などが含まれた『国民』『国家』を目指すものではない。そうである以上、『国家社会主義ドイツ労働者党』『国民社会主義ドイツ労働者党』と訳すのはナチスの意図をあいまいにし、適切でないように思われる。」と述べた50 。
山本孝二 ・大木毅 はリチャード・J・エヴァンズ の『第三帝国の歴史』において「『ナチズム』の原語であるNationalsozialismusは『国民社会主義』、『民族社会主義』など、様々に訳し得る。体制期に展開された、いわゆるゲルマン系 の他国民に対する政策などに鑑み、『民族社会主義』もしくは『ナチズム』とした。」と記し51 、大木は『戦車将軍グデーリアン』において「民族社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 」と訳した52 。
思想 党内ではヒトラー の指導を絶対のものとして受け入れるという点においては、あまり異論はなかったが、ナチ運動の内実は地域ごとの党組織や党職能組織、突撃隊、党有力者がその時々の状況に応じて勝手に活動していることが多く、統一された運動とは言い難い。農民に対する物を除けばまとまった政策綱領のようなものは存在しなかった。しかしそれが党の各組織を競合的に発展させ、運動にダイナミズムを与えていた53 。
世界恐慌 による社会不安や議会政治の混迷の原因をすべてヴェルサイユ条約 、ヴァイマル共和政 、ユダヤ人 、ボルシェヴィズム に帰せ、強力な指導者が導く「民族共同体 」を樹立することが必要であるとする単純なスローガン や運動が持つ若々しさは恐慌に喘ぐ国民に現状突破のシンボルとして広く訴えかけるものがあった53 。ナチ党はヴァイマル憲法体制を一括して全否定することによって自らを既存体制側政党と対決する基本的選択肢であることを示した。競合する他党を影響力を持つ社会的利害団体の傀儡に過ぎないと中傷して自らを唯一の国民運動と宣伝した54 。
反ユダヤ主義・反共主義 ヒトラー にとって反ユダヤ主義 と反共主義 は一体である。ヒトラーはマルクス主義 について「国際的な世界ユダヤ人が自由独立の国民国家の経済的基礎や国民的工業と国民的商業を破壊し、それとともに国家を超えた世界金融=ユダヤ主義のために自由な諸民族を奴隷化するのに利用する経済的武器」と断じている55 。
ナチ党内の多数派によって唱えられた党の目標として「労働者階級の国民化」という要求があった。これはナチ党は労働者大衆をマルクス主義的国際主義から解放して「ドイツ的社会主義」へ導く労働者党であるべきという主張であった。ヒトラーははっきりとこの立場を代表しており、「(労働者を)国民的に感じ、国民的であることを望む団結した価値ある要因として民族共同体に連れ戻すこと」がナチ党の活動の最も重要な目標の一つとしている56 。
民族共同体 ヒトラー は「ユダヤ人とマルクス主義者の国際連帯によるドイツ民族の分断(階級闘争 )」に対抗するため民族共同体 構想を提唱した。「公益を私益に優先させる」民族共同体によって国内を平等化あるいは協調的な形にまとめあげ、国民の諸階層が調和した社会を作る。それにより国内の階級闘争は止揚 され、階級を超えた「国民」が創造される。そうすれば「国民」は国内の利害対立から解放されて一丸となって国民全体の利害追求(対外的な膨張)に向かうことができるという理念である57 。
ヒトラー は「都市の人間でも、田舎の人間でもなく、肉体労働者でも、ホワイトカラー でも、熟練工でも、農民でも、学生でも、ブルジョワでもなく、あるいは特定のイデオロギーの追従者でもなく、我々はみな民族の一員である」「今まで常に我々を分け隔ててきた職業や階級といった全ての理念を超えて単一に結合された国民が存在しないなら、そしてそれが存在するまでは民族共同体はあり得ない」「国家社会主義は、社会生活上好ましくない対立に橋を架け、平等化し、協調的な形に全体をまとめることを目標としている」と論じる58 。
民族共同体を実現させるため、ヴァイマルの「民主主義原理」は「指導者原理 」に置き換え、自由主義的な夜警国家 は打破し、国家は国民経済に積極的な責任を果たさなければならないというのがナチ党の基本的な国家像であった57 。
農村政策 もともとナチ党は都市的な傾向を持っていたが、農村部の困窮が深まる1928年初夏以降からは農村での党活動を重視するようになった。農村におけるナチ党は「農民の窮状は社民党 政権と結託した暴利を貪るユダヤ資本のせいである」というステレオタイプに基づく反ユダヤ主義宣伝に終始した。困窮深まる農村部では既存体制と根本から対決する政党が求められていたため、ナチ党は農村部に浸透することに成功したが、農村部ではナチ党の「社会主義」を警戒する向きも強かったので、農民向け宣伝をしやすくするため、1928年にヒトラーは彼の慣習に反して党綱領 の正式な解釈を制定した。それにより綱領17条「公益目的のための土地の無償収用」の対象はもっぱら「ユダヤ人の投機による利得」に限定されるものであって私有財産制 は維持されるとしている59 。
青年崇拝 社民党やブルジョワ諸政党と比較して若者が多い党だったため、同時代に普及していた青年運動 を積極的に動員した。それにより1920年代後半から強まった世代間対立で党は大きな利益を得ることに成功した。ナチ党はその反動的なイデオロギーにも関わらず、新たな技術的手段を積極的に受け入れる姿勢、ブルジョワ的旧秩序の拒否の姿勢から青年層を大いに惹きつけた54 。
党史
黎明期 第一次世界大戦 中の1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」という労働者グループがブレーメン で結成された。国有鉄道ミュンヘン 本工場に勤務する鉄道金具工60 のアントン・ドレクスラー はその地方組織を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。この団体はマルクス主義、ボルシェヴィズム、平和主義、ユダヤ人、フリーメーソン、戦時不当利得者、ヤミ商人と闘争することを目的としていた61 。
この委員会に参加したのはドレクスラーの同僚であるミュンヘン鉄道工場の熟練工たちが中心だったが、委員会の好戦的ナショナリズムは、厭戦気分が高まっていた大戦末の人民の感情とかみ合っておらず、支持者は一向に増えず、会員40人を超えることができないでいた61 。
そこでドレクスラーは10月2日にトゥーレ協会 会員でジャーナリストのカール・ハラー とともに「政治的労働者サークル」を結成し、トゥーレ協会の後援を受けてドイツ労働者党の結成準備を行った。トゥーレ協会は右翼民族主義団体「ゲルマン騎士団 」のバイエルン地方支部を基礎として1918年1月に結成された反ユダヤ主義 的な右翼団体であり、当時バイエルンにおいて220人ほどの会員をもち、バイエルンにおける様々な右翼団体・反ユダヤ主義団体に影響力を持っていた62 。
ドイツ労働者党 1919年1月5日、ドレクスラーの同僚の鉄道員25人が集まったミュンヘンの酒場「フュルステンフェルダー・ホーフ(Fürstenfelder Hof)」での集会においてドイツ労働者党 (Deutsche Arbeiterpartei 略称DAP)の結党が行われた。党首にあたる第一議長にはハラーが就任した。結党時の党員は40人ほどであり、社会主義 と反ユダヤ主義 の色彩を帯びたナショナリズム を標榜した60 。
この際にドレクスラーもトゥーレ協会へ加入し、ディートリヒ・エッカート やゴットフリート・フェーダー といったトゥーレ協会員たちがドイツ労働者党に協力し、ドレクスラーの活動にも影響を与えるようになった63 。「政治的労働者サークル」はもっぱらトゥーレ協会の指揮下にあったが、ドイツ労働者党は本質的にドレクスラーが作った党であり、彼の起草による方針を定めた。その方針には次のようなものがあった。「党は精神的および肉体的な意味での創造的な民族同胞をすべて糾合した社会主義的組織であって、ただドイツ人指導者によってのみ指導される。」「党はドイツ労働者の高尚化を欲する。熟練の定住労働者は中産階級 としての評価を受ける権利を持つ。労働者とプロレタリア との間には厳重な区別が設けられなければならない」「大資本はパン及び労働者の供給者であるから保護しなければならない。彼らが労働者を無遠慮に搾取して、労働者の人間らしい存在を不可能にしない限りは」「党はドイツ経済生活の社会化はドイツ国民経済を破滅させると考える。ゆえに社会化なしで労働者に対する利益の分配が必要である」「党は全力を挙げて不当利得者、物価つり上げに反対する。何らの価値も創造しない者、いかなる精神的・肉体的労働も行わない者が高い利得を得ることには反対する」「党の主要目標の一つは手工業 の奨励である。最も有能な手工業者はもっと多くの利得を得るべきであり、熟練労働者 は中産階級と同等の国家公民であるべきである。大資本主義者の犠牲となっている中産階級の増大と安定が必要である」64
バイエルンに社会主義政権が君臨している間は反ユダヤ主義に反対する空気がこの地方に強かったので、ドイツ労働党も公然たるユダヤ人攻撃は控えていたが、政府軍のミュンヘン進攻を受けてレーテ共和国 が崩壊した後には反ユダヤ主義言論を強めるようになった64 。
ヒトラーの入党 レーテ共和国崩壊後のアドルフ・ヒトラー は、ミュンヘンを占領したアルノルト・フォン・メール 歩兵大将を司令官とする政府軍(ドイツ国軍 第4軍集団を名乗っていた)が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしており、元々ドイツ労働者党に接近したのは、上官であるカール・マイヤー 大尉にスパイを命じられたためであった。同党が1919年9月12日にミュンヘン中心部タール街 54番地にある酒場「シュテルンエッカー・ブロイ 」で開いた集会に参加したヒトラーは、ドイツ統一主義者として、バイエルン独立論者アダルベルト・バウマン 教授と激論した。これをきっかけにドレクスラーから注目され、彼のパンフレット『我が政治的目覚め あるドイツの社会主義的労働者の日記より (Mein politisches Erwachen aus dem Tagebuch eines deutschen sozialistischen Arbeiters)』を贈られるとともに再来を懇願された65 66 。
その後ヒトラーの下に「入党許可状」付きのはがきが送られてきて、9月16日にヘーレン通り(Herrnstraße)にある「アルテス・ローゼンバート(Altes Rosenbad)」で開催される党委員会に出席してほしいと要請があった67 66 。『我が闘争 』の中でのヒトラーの主張によれば、この党委員会に出席した後にヒトラーはこの党のために活動することを決心したという68 。マイヤー大尉の許可を得て、10月19日にドイツ労働者党へ入党した69 。
ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は(党員を多く見せかけるため、501番から始まる)555番であり、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、入会証や名簿作成以前の正式な記録が無いため明確にはなっていない70 。
ヒトラーの台頭とドレクスラーの党首就任 ヒトラーは自身が党を指導するようになってから党員や聴衆が急増したことを印象付けようとして初期の党を実際以上に小政党に描こうとする傾向があり71 、『我が闘争 』の中では1919年10月16日の「ホフブロイハウス 」での集会の聴衆を111人、11月13日の「エーベルブロイケラー」での集会を130人、12月20日の「ドイチェス・ビアホール」での集会を140人だったとしているが72 73 、ミュンヘン警察情報部や軍情報部の記録によればどの集会も300人程度の聴衆があったようである。党はトゥーレ協会の後援もあって、300人程度の聴衆をコンスタントに集める組織力は結党時から持っていたとみられる。とはいえヒトラーが党の存在を一般民衆に広めようと精力的に活動し、彼の巧みな演説が人気を博して党勢の拡大につながったことは事実である74 。ヒトラーは演説のうまさに加え、党最初の有給幹部でヒトラーの軍隊仲間だったルドルフ・シュスラー (Rudolf Schüßler)らの支持を受けていたため、ヒトラーの党内における地位は無視できないものとなった75 。
10月16日の「ホフブロイハウス」での集会から党は入場料の徴収と会場内での寄付金募集を行うようになった。入場料徴収と寄付金募集というのは右翼運動としては新しい形態だったが、これにより党財政は安定した75 69 。
初期の党委員会の会議はヘーレン通りの酒場「アルテス・ローゼンバート」の一室で行われることが多かった。党に送られてきた市民や党員からの手紙を読んだり、返信を書いたり、集会の打ち合わせをしたり、政治問題の議論をしていた。しかしヒトラーはこうした委員会の在り方を「おしゃべりクラブ」と呼んで、その不活発さにいら立っていた76 。
12月11日、ヒトラーはドイツ労働者党の党改革案を提出し、党委員会は公開の党員集会で選出されること、また党委員会は党綱領にのみ従い、トゥーレ協会から完全独立した委員会になることを要求した。トゥーレ協会員で党を特殊意識を育てる秘密政治サークルに留めようとしていたハラー議長はこれに怒ってヒトラーと対立したが、結局ハラーが敗れ、翌1920年1月にハラーは党を出ていくことになった76 71 。
12月22日にはこれまでも党集会場の一つとして使ってきた酒場「シュテルンエッカーブロイ」内の一室を賃貸して小さな党本部事務所を設けた。この賃貸契約書に党を代表して署名しているのはヒトラーである75 71 。
1920年1月5日にドレクスラーとヒトラーは議長であったハラーを解任し、ドレクスラーが新議長に就任した77 。ハラーはトゥーレ協会員として党を後援する立場にあったため、彼の追放により党とトゥーレ協会の直接の関係は切れることとなった78 。ドレクスラー新党首の下でヒトラーは第一宣伝部長に就任した79 77 。
改名 1920年1月5日以来ドレクスラーによって「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」への党名変更が提案されていた。「ドイツ労働者党」では、マルクス主義的国際主義政党と間違われるというのがその理由だった77 。「国民社会主義」というのは、ドレクスラーが影響を受けていたオーストリア のドイツ国民社会主義労働者党 に倣ったものである76 。この党名変更は2月20日に行われた80 。ヒトラーは当初「社会革命党」を提案したが、ルドルフ・ユングに説得され、ドレクスラーの案を承諾した81 。
1920年1月1日時点において党員は190人ほどで平均年齢は32歳だった。そのうち熟練労働者と手工業者は33%、知的な自由職業者は14.5%、公務員と使用人は14%、軍人は13%、商業は12%、学生は7%、店舗・工場など事業所所有者は4%、不熟練労働者は2.5%となっている。比較的多数を占める熟練労働者と手工業者はドレクスラーとともにミュンヘン鉄道工場で働く者たちで、そのため初期の党には「鉄道労働者党」の感があった。知的な自由職業者の内訳は文筆家・ジャーナリスト・編集者などが7人、技師が6人、芸術家が6人、医師が3人である。190人の党員のうち182人までがミュンヘン在住者であった79 。
この時期のナチ党はまた存在を広く知られていたわけではなく、党財政は各界の有力者の寄付によるよりも、大衆による献金と彼らの犠牲的献身によって支えられていた。したがって「支配勢力がナチ党を培養し育成した」等の主張は正確とは言えないが、当時のバイエルン支配勢力は再度のレーテ共和国樹立を阻止するためにバイエルン内のあらゆる反共・保守系団体に援助しており、ナチ党もその範囲内で援助を受けることはできた82 。
2月4日に反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義 、企業の国有化 、利子制度打破などを訴える25カ条綱領 が起草された。この綱領はドレクスラーが主として作り、フェーダーとヒトラーが協力して完成させたものだと言われている83 。綱領は2月24日ミュンヘン のビアホール「ホフブロイハウス 」で開かれた集会(参加者2000名)で正式採択された33 。
またこの集会での会場警備隊が党の一機関であることも正式に決定され、これがのちに突撃隊 へと発展する76 。
また1920年中にハーケンクロイツ を党のシンボルに採用し、党旗、党章、腕章などを取り入れた84 。ハーケンクロイツ(スワスチカ )は元々は普遍的な幸運のシンボルであったが、同時にアーリア人 の優等性を示す人種主義の象徴としても用いられており、ドイツ攻守同盟 やエアハルト海兵旅団 などが使用していた。ハーケンクロイツには向きが左回りと右回りの二種類があったが、ヒトラーは右回りで統一している84 。
ヒトラーとドレクスラーの対立 当時のオーストリアのドイツ国民社会主義労働者党は革命によってではなく議会によって変革することを目指しており、議会政治に参加していた。ドレクスラーが目指すのも議会政党であったが、当時のヒトラーは革命主義者で議会政治への参加に反対していた88 。
さらに1921年3月26日から28日にかけてのツァイクの大会においてドレクスラーとドイツ社会党 のアルフレート・ブルンナー が党を合同させようとした時にもヒトラーが反対した。ヒトラーは自分たちと他の国民社会主義政党では原則的にも戦術的にも相いれないため、統一によって規模が拡大したとしても内部的団結や闘争能力は弱まると考えていた87 。
いずれの合流計画もヒトラーの反対で流産したため、ドレクスラー派はヒトラーと対立を深めた89 。
ヒトラーの党首就任 ヒトラー は、1921年3月31日に軍を退役し、以降党務に専念するようになっていた90 。
1921年6月初めから7月にかけてヒトラー はエッカートとともに『フェルキッシャー・ベオバハター』の資金集めのためにベルリンへ赴いたが、その間にドレクスラーと反ヒトラー派の党幹部たちが、ヒトラーが反対していたユリウス・シュトライヒャー 率いるドイツ社会党との連携を模索した。この動きを知ったヒトラーは、7月10日にミュンヘンへ取って返し、11日にも党委員会に宛てて離党の手紙を書いた。これは党指導部には想定外のことで、ヒトラーを失うか、自分たちが退陣するかの選択を迫られた。さらにヒトラーは7月14日に自分が再入党する条件として、党委員会の即時辞職および独裁権限を持った議長の地位を要求した。一番聴衆を集められる稼ぎ頭の弁士だったヒトラーには自分抜きでは党は立ち行かないという自負があった91 。7月15日に党委員会はヒトラーの要求を受け入れ、7月29日にホフブロイハウスで開かれた臨時大会で554名中553名の支持を得てヒトラーが議長に選出された。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされた92 。
このころからヒトラーはエッカートやヘスといった自派の党員から指導者を意味する「Führer(フューラー)」と呼ばれるようになり70 、党内に定着した。やがてこれはヒトラー終生の肩書きとなった(総統 を参照)。
ヒトラーは同年8月に従来のナチ党の会場警備隊を「体育スポーツ局 (Sportabteilung)」に改組し、エルンスト・レーム 大尉の推薦で反革命義勇軍 エアハルト海兵旅団 のハンス・ウルリヒ・クリンチュ 元海軍少尉をその指揮官に任じた。同組織は9月に「突撃隊 (Sturmabteilung, SA)」に改称された93 。突撃隊は共産主義者による党集会妨害を排除92 するとともに、他党の同種団体との街頭闘争において主力となる準軍事組織だった。突撃隊の幹部は禁止されたエアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。
またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラーユーゲント の前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツ の党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはニュルンベルク のドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。しかし11月18日にはプロイセン自由州 においてナチ党が禁止され、ザクセン州 、テューリンゲン州 等でも禁止されたため、ナチ党の活動はバイエルン州に限られることになった。しかし、ドイツ国内の不景気とインフレはナチ党を含む極右急進派、共産党を含む極左急進派への支持をさらに高めた94 。また右翼的なバイエルン州政府も反ボリシェヴィキ 的なナチ党を庇護する方針をとった94 。
1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州 でも有数の政党になっていた。2月には、国軍 が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。
ミュンヘン一揆 5月26日には党員の一人アルベルト・レオ・シュラゲター がフランス軍に捕らえられ、軍法会議 にかけられた上で処刑された。彼の死をナチスが喧伝したことにより、右翼はもとより左翼からも英雄視された95 。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。
不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト 大統領による非常事態宣言 によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール 主導のベルリン進軍 は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ビアホール「ビュルガーブロイケラー 」においてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000-3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。
首謀者ヒトラー を初め、参加した党員らは逮捕され、国内に残った幹部はアルフレート・ローゼンベルク などわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラー の独演会と化し、かえってヒトラー と党の知名度は高まることとなった。ヒトラー はランツベルク刑務所 で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反共和政の気運の高まりは衰えることはなく、ナチ党のいくつかの偽装団体が活動を続けた。
ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼は指導力に乏しく、分派争いがひどくなった。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサー はヒトラー無き党内で勢力を拡大した。ルーデンドルフを担ぐドイツ民族自由党 と共同して国民社会主義自由運動 を結成し、1924年5月の選挙 で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済 が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルス はこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、彼の有力な腹心となった。同年12月の選挙 では、国民社会主義自由運動の議席は14議席に減少し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。
また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリンク (Frontring) という組織を結成した。1924年8月28日に同組織はフロントバン と改称された。
党勢の拡大 1924年12月20日、ヒトラー が監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルト とヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルト はヒトラー の恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた96 。
1925年2月27日に「ビュルガーブロイケラー 」においてナチ党再結党大会を行った。大会は公開で行われ、党関係者の他、一般聴衆も加わって参加者はおよそ3000人に及んだという97 。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。
1925年3月29日の大統領選挙の第一次選挙にはルーデンドルフが出馬し、ナチ党も彼を支持したが、得票率1パーセントの泡沫候補で終わり、ルーデンドルフは政治生命を失った98 。
4月中旬、レームはヒトラーと会談し、再建される突撃隊をナチ党から自立した国防団体(国軍補助兵力)にすることを要求したが、ヒトラーはこれを拒否した。この決裂でレームは突撃隊司令官もフロントバン司令官も辞し、政界引退を表明した。その後軍事顧問として南米へ渡っていった99 。
7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争 」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。しかしレンテンマルク の導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案 受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊 」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。
1926年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日にバンベルク で招集されたバンベルク会議 において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理 」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマル で党大会 が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントなど各種団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ が党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない100 。
1927年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5月20日、ナチス党として初めての国政選挙 に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案 が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング 内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙 では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党 、ドイツ国家人民党 とともにハルツブルク戦線 という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。
しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス 大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。
1932年4月には大統領選挙 が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルク が圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー 中将の策謀によりパーペン 内閣が成立した。7月の選挙 でナチ党は全584議席中230議席101 を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求した(のちに全権委任法 として現実の物となる)。ヒトラーの要求はヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチ党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙 を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。
ナチ党による権力掌握 11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。
この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカー と大統領官房長オットー・マイスナー を味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日にヒトラー内閣 が発足した。発足当時、入閣したナチ党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州 内相に就任したゲーリング が国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。
組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件 が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。
選挙の結果、ナチ党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州 国家代理官のゲーリングを始めとする各地方の党員は鉤十字 の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法 を国会承認させ、立法権 を国会からヒトラー政権に委譲させた。この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味していた。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法 に定められた基本的人権 や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には国会選挙 が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められたが、1942年にこの条文は削除されている102 。
1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊 参謀長レーム など党内外の政敵を一斉に粛清(長いナイフの夜 )し、独裁権力は確実なものとなった。ヴァイマル共和国軍 や資本家 とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人 住宅・商店・シナゴーグ などを襲撃・放火している(水晶の夜 )。
党による全国支配 1933年4月7日、州政府にナチ党幹部が国家代理官 として送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。
党の組織上の単位である大管区 、管区、支部、細胞 、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合 に代わる「ドイツ労働戦線 」や、下部組織の「歓喜力行団 」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで党によって支配されていた。また青少年はヒトラー・ユーゲント への加入が義務づけられた。これらの組織は第二次世界大戦 では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍 の「国民突撃隊 」の母体にもなっている。
敗戦後 第二次世界大戦 終結直前の1945年4月30日にヒトラーが総統地下壕 で自殺した後、遺言によってマルティン・ボルマン が「党担当大臣」に任命された。しかし遺書は広く知られなかった上に、まもなくボルマンは消息を絶った。ヒトラー無きナチ党は統制能力を失い、事実上解散状態となった。この間にヒムラーら一部の幹部は逃亡を図っている。
1946年9月30日、ロンドン憲章 に基づく「ニュルンベルク裁判 」により、党指導部・親衛隊・ゲシュタポが「犯罪的な組織」と認定された。ニュルンベルク裁判や継続裁判 など占領地域で行われたその後の非ナチ化法廷により15万人もの党員が逮捕されたが、実際に裁判を受けたのは3万人である。また占領下やその後の新ドイツにおいては、ナチ党の影響を減少させる「非ナチ化 」の施策が行われた。
幹部
指導者 党首にあたる職は本来は第一議長(ドイツ語 : erster Vorsitzender)であったが、ヒトラーが党内支持者から呼ばれた指導者 (独 : Führer、総統 )という呼称がやがて公的なものとなった。党の組織は階層化されており、それぞれの階層の指導者がその階層以下を支配するという指導者原理 に基づく運営が行われていた。党のすべてにわたる独裁権を握っていた。
全国指導者 全国指導部 (Reichsleitung) は、職能別に党務を分担して指導者ヒトラーを補佐する17-20人の全国指導者 から構成された(1934年時点の党組織図では18名が挙げられている)。全国指導者には、1933年の政権奪取後のヒトラー内閣 で国務大臣を兼務する者が多く含まれていた。
組織
指導者代理幕僚部・党官房 指導者代理幕僚部(副総統官房 )は1941年までのナチ党の支配機構。指導者代理のルドルフ・ヘスは党のあらゆる事項について、指導者ヒトラーの名によって決定する権限を持っていた。ただし、実務能力に疎いヘスはこの巨大な権力を使いこなすことができず、実権は「指導者代理幕僚長」兼「指導者代理秘書」のマルティン・ボルマンに移っていった。
1941年5月に指導者代理ルドルフ・ヘスがイギリスに飛行したことによって失脚し、ヘスに附設していた指導者代理幕僚部は廃止された。その後継機関として指導者ヒトラーが直接に党を支配するための機構である党官房が設置された。政権末期のナチ党の実務は官房長マルティン・ボルマンが差配しており、事実上、彼が党の実権を握るにいたった。
指導者官房
党裁判所
各部局
党中央政治委員会
党中央政治委員会事務局長(Politischen Zentralkommission der NSDAP): ルドルフ・ヘス
組織局 ナチ党の初期には、組織局はナチ党の最も重要な組織であり、その長である組織全国指導者は名実共にナチ党のNo.2であった。しかし、グレゴール・シュトラッサーが党から追放されるとともに、組織局の重要性は薄れていった。
書記局
書記全国指導者 (Schriftführer der NSDAP) 後に地方行政本部長 (Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik) : カール・フィーラー
司法局
出納局
宣伝局 宣伝を重視したヒトラーは、初期には宣伝全国指導者を自ら兼任していた。後、この職は「プロパガンダの天才」と呼ばれたヨーゼフ・ゲッベルス の就任するところとなり、ナチ党の政権奪取とその後の世論誘導に決定的な役割を果たすことになる。
全国宣伝指導者 (Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長): アドルフ・ヒトラー (-1926)、グレゴール・シュトラッサー (1926-1929)、ヨーゼフ・ゲッベルス (1929-1945)。
出版局
報道局
農業政策局 都市を基盤にしていたナチスにとって、農業政策に関する部局が置かれたのは比較的遅かった。後に農民局に名称変更されている。
国防政策局 第二次世界大戦 の勃発後に東方占領地を獲得すると、植民政策局に改められた。
対外政策局 またヨアヒム・リッベントロップはリッベントロップ機関 という組織を立ち上げ、外交での主導権を握ろうとしている。
国会議員団 ナチス党が選挙に出馬して以降、国会議員の数も増加した。しかしヒトラーが独裁権力を握ると、ほとんど名誉職に過ぎなくなった。
地方組織 地方組織は規模ごとに大管区 (Gau)、管区 (Kreis)、地区 (Ort)、拠点分区 (Stüzpunkt)、細胞 (Zelle)、街区 (Block)、支部 (Stelle)、組合(Mitglieder)、班(Zug)と分けられており、それぞれに政治指導者 がいた。大管区の範囲は州レベルであり、街区の構成は、約40~60世帯である。また、政権獲得後にドイツの占領区域が増加すると帝国大管区 が設置されている。
大管区はナチ党の地方組織としての最大の単位で、そこには大管区指導者 (1935年には33人)が置かれた。ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者は宣伝全国指導者(宣伝大臣兼務)のゲッベルスであり、彼は全国指導者と大管区指導者を兼任していた唯一の人物であった。また、南ハノーファー・ブラウンシュヴァイク大管区指導者ベルンハルト・ルスト は1934年以降、国の文部大臣でもあった。
下位の指導者の人数は1935年時点でそれぞれ管区指導者 (Kreisleiter) は827人、地区指導者 (Ortsgruppenleiter) は20,724人、細胞指導者 (Zellenleiter) は976人、街区指導者 (Blockleiter) は204,359人となっている。
突撃隊 当時のドイツの政党は、ドイツ社会民主党 の「国旗団 」、ドイツ国家人民党 の友好団体「鉄兜団 」、ドイツ共産党 の「赤色戦線戦士同盟 」といった、統一された制服を着、旗を掲げて街頭を行進する集団を抱えていた。エルンスト・レーム の設立した党内組織の「体育スポーツ局」が改称されて生まれた突撃隊 はそのような性格の組織であり、街頭行進や他党の活動妨害を行った。突撃隊はナチス党の知名度を上げるのに役立ったが、後に粗暴なならず者の集団であるという評判が立った。この事が後の長いナイフの夜 事件による突撃隊幹部粛清の一因となった。しかしその後も国内最大の組織として存続した。
親衛隊 1935年には国防軍にも警察にも所属しない軍事組織「親衛隊特務部隊 」が設けられた。ここに志願すれば、国防軍と同様義務兵役年限に算入された。1940年には武装親衛隊 と改名されて、陸軍・海軍・空軍と並ぶ第四の軍隊と認知された。
青少年組織 政権獲得後、18歳以下の青少年は青少年全国指導者が支配する組織への入隊を義務付けられた。
国家社会主義義勇労働奉仕団
その他の組織 パートタイム的に招集される一般党員のほか、下記の組織に入ることも出来た。
党員 ナチ党の一般的な党員は主として田舎や都市部の中流階級から構成されていた。7%は上流階級に属し、7%は農民であった。35%は産業労働者であり、51%は中流階級に所属した。最大の単一職業集団は小学校教師であった。党が結成された1920年には党員数は約2000人に過ぎなかった。その後フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツの提案で党員番号を通し番号にする改革が行われたため、正確な党員数は不明となり、党員番号による推定が行われている。1930年代以降は党員数が飛躍的に上昇し、1932年には最大の党員番号が120万であったが、政権奪取の後はさらに入党希望者が続出し、年末には党員番号が390万を超えるまでに膨れあがっていた。このため1933年4月には新規入党を制限する措置が執られ、それ以降の党員数の伸びはほとんど無くなった(ナチ党入党制限 )。しかし1939年5月以降新規入党制限が撤廃され、1945年の段階で党員番号は850万を超えていた。
党員証明書・手帳 新規入党した党員には、党員証明書 (Partei-Mitgliedskarte)が発行された。党員証明書の表には党員の個人情報、裏面には年間の党費切手 が貼り付けられた。2年間、党への在籍と党費の支払いを満了した者には、党員手帳 (Partei-Mitgliedsbuch)が発行された。
党員証明書
所属地区
党員番号
性別・氏名
出生時の姓(旧姓)
住所
入党年月日/発行年月日
党全国指導部入党認可記名
党員手帳
党員番号
氏名
資格及び職業
住所
生年月日
出身地
入党申請年月日
離党申請年月日
再入党申請年月日
党本部認可年月日
総統署名・全国財政指導者署名
党員の制服
党員の階級 党員の階級は30以上に分けられており襟章を用いた。下記の表は1939年導入時のもの。
ドイツ国防軍におけるナチ党員 ヴァイマル共和国軍 においては1921年の防衛法により、将兵が政党の党員となることは禁じられていた106 。しかしナチ党員が軍において勢力を拡大しようとする動きはあり、ウルム国軍訴訟 ではこの動きが裁かれている。
党のシンボル ナチ党は複数の党歌を採用したが、その中で最もよく知られているのが『旗を高く掲げよ 』(ホルスト・ヴェッセル・リート)である。1930年に共産党員により命を落とした突撃隊員ホルスト・ヴェッセル が作詞したもので、当時流行していた歌謡曲(原曲はオペラの曲)がつけられ、党員の間で大流行した。やがては対立政党が揶揄するために替え歌を作るなど、ナチ党の象徴として扱われた。ヒトラーが政権の座に就くと第二の国歌的に扱われた。また、イギリスファシスト連合 やファランヘ党 等海外のファシスト政党の間でも歌詞を変えて歌われている。
関連施設 党の発祥の地であるミュンヘンには通称「褐色館 」と呼ばれる本部が置かれた。隣接してミュンヘンの総統官邸も置かれた。戦後、党本部は破壊されたが、総統官邸はミュンヘン音楽・演劇大学 の校舎として残っている。
創設当時の党が大会を開き、ミュンヘン一揆の舞台となったビアホールビュルガーブロイケラー は党の聖地視され、毎年ミュンヘン一揆の記念日にはヒトラーが古参党員を前に演説した。ビュルガーブロイケラーは1979年まで存在していたが、現在は案内板が残るのみとなっている。
ベルヒテスガーデン 近郊オーバーザルツベルク にはヒトラーの別荘ベルクホーフ が存在し、後にはオーバーザルツベルク一帯が党の所有となった。ヒトラーはベルクホーフでの生活を好み、長い期間をそこで過ごした。オーバーザルツベルクには党幹部達の別荘も置かれたが、大半が終戦間際の空襲と親衛隊員による破壊で焼失した。しかしヒトラーのもう一つの別荘であったケールシュタインハウス は現存している。
プロパガンダ 党は多くの機関紙や雑誌を発刊し、選挙戦術や国内統制に利用した。また、党幹部やグループもそれぞれの新聞や雑誌を発売し、その総数は調査によってもはっきりしなかった108 。中心となったのはヒトラーが自ら買収交渉に参加したこともあるフェルキッシャー・ベオバハター であり、1926年から1930年にかけては他の新聞や雑誌は十分に機能していたとは言えなかった109 。
1930年の選挙による大躍進以降は発行部数、種類ともに大幅に増加している109 。同時代には1932年3月時点で120のナチス系定期刊行物が挙げられているが、戦後にペーター・シュタイン が行った調査では、同時期のものとして159の新聞が挙げられている108 。
ナチス党のプロパガンディストとして最も知られているのがヨーゼフ・ゲッベルス である。ゲッベルスは「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と日記に記しており、政敵の共産党 の手法を利用し、かつそれを凌駕する規模で行った。
戸別訪問 113 、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈なネガティブ・キャンペーン 、ラジオを利用した政見放送 、航空機を利用した遊説旅行、町の壁を埋め尽くすポスター等は他党のそれを上まわる強烈なインパクトを与えた。また娯楽の中にさりげなく党の宣伝を織り交ぜる手法で宣伝効果を浸透させる手法を用いている。
宣伝全国指導者であったゲッベルスは1927年に首都ベルリン で新聞『デア・アングリフ 』紙を発刊した。この新聞は『フェルキッシャー・ベオバハター』と同じく、プロパガンダとして成功した珍しい例である114 。新聞は他の新聞や他の政党を大きな活字で口汚く罵るもので、攻撃された新聞が反論の記事を書けば書くほど、ナチスの宣伝になってしまう効果もあったため、わざと讒言で他紙を「釣る」ことすらあった。また、時にはテロに訴えることもあった。1930年2月23日、党員ホルスト・ヴェッセル が共産党員アルブレヒト・ヘーラー (de:Albrecht Höhler )に暗殺されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。ヴェッセルが作詞した「旗を高く掲げよ 」は、最も著名なナチ党党歌として知られる。
1932年にはナチス系新聞は78万部を発行していた115 。
さらにナチ党は政府の権力を用いた言論統制 や、退廃芸術 等に見られるような価値観統一政策、「強制的同一化 」に乗りだしている。1933年3月には国民啓蒙・宣伝省 が設置され、ゲッベルスが国民啓蒙・宣伝大臣に任命された。政権獲得後の1933年にはナチス系新聞の発行部数は319万部にのぼり116 、さらに他の新聞や雑誌も次々とナチスの支配下に置かれた。ただし幹部同士が新聞紙上で争うことは続いており114 、ゲッベルスも対応を行うことを検討している117 。
類似政党 ドイツ本国だけでなく、国外にもナチズムに近い思想を持った政党が存在した。第二次世界大戦時、これらの政党はナチス・ドイツによる傀儡政権 の支持政党としても活動したりした。オーストリア・ナチスとズデーテン・ドイツ人党は後にナチス党に合流している。
ヨーロッパ
南北アメリカ
アフリカ
大日本帝国
戦後
非ナチ化 日本では一時期「ドイツではナチス犯罪に時効 はない」という報道が行われた事があったが、実際にはドイツ刑法はナチスとは関わりなく「謀殺罪 (計画的殺人)」の時効が無いということである。その罪に該当しないナチス時代の犯罪は全て時効が成立している。また、ドイツのEU 加盟後は同様の法律をEU圏内に広めることについての論議も行われている。
ネオナチ ナチス党が崩壊した後も、世界各地にはナチズムを受け継ぐと称した団体が多く存在している。また、ホロコースト否定 など、ナチス・ドイツ における犯罪を否定する動きも根強く残っている。
参考文献
脚注
黎明期
国民社会主義ドイツ労働者党 (こくみんしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、ドイツ語 : Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 発音)は、かつて存在したドイツの政党 。公式の略称 は、NSDAP 1 。別称は、ナチ 、ナチ党 、ナチス 、ナチス党 。
概要
1924年5月4日総選挙では急進 右翼組織2 (極右 3 4 )、1930年9月の選挙戦以降左翼 以外の広範な支持を集める国民政党 となり5 、ヴァイマル共和政 末期には包括政党 の色彩が強くなった6 。その運動およびイデオロギー 、思想原理、理念・支配形態一般をナチズム という7 。
派生用語として生まれた「ネオナチ 」は、ナチズムとは別に極右民族主義 や反共産主義 などの の 、また 等を包括的に表す言葉として国際的に使用される。 を問わず多岐に存在し、これら政治組織、 / 、 組織等は、 、 (FBI)、 (OHCHR)、日本の 等が警告している 。
ヒトラー は党名について「民族的 national」とは「民族 全体に対する無限のあらゆるものを包む愛情、必要とあればそのために命をも投げ出すこと」、「社会主義的 sozialistische」 とは「民族同胞のための労働 という倫理 的義務 」、「労働者 Arbeiter」とは「体を使って働かない人」に対して「体を使って働く人」、「労働を軽視するユダヤ人 に対して労働を恥じないゲルマン人 」を意味すると説明した17 。一般にナチス 、ナチ党 、ナチス党 などと呼ばれる(詳細は#名称 を参照)。
日本では、国家社会主義ドイツ労働者党 18 、国民社会主義ドイツ労働者党 、民族社会主義ドイツ労働者党 というように少なくとも3つの訳が通用しており、それぞれ少しずつニュアンスが異なってくる19 。また、国粋社会主義ドイツ労働者党 などとも訳される(詳細は訳語 参照)。
名称
正式名称
略称 「ナチ (Nazi、ナーツィ)」という略称は「Na tionalsozi alist」を短く縮めたものであり、「Sozi alist」(対立党派であるドイツ社会民主党 員および社会主義者)の略語である「ゾチ(Sozi、ゾーツィ)」との類推で造られた21 22 。「ナチス (Nazis、ナーツィス)」は複数形である。元来はヴァイマル共和政時代に対立する党派がナチ党員および国民社会主義者に蔑称として付けたものである。したがって、映画 などの創作で、ナチ党員が自らを「ナチ」や「ナチス」と呼ぶのは本来は誤りであり、実際には党名の略称である「NSDAP (エンエスデーアーペー)」、「NS (エンエス)」、或いは単に「Partei (パルタイ)」と呼び、党員同士は「党同志」を意味する「Parteigenosse (パルタイゲノッセ)」、もしくはその略語「PG (ペーゲー)」、「同志」を意味する「Kamerad (カメラート)」などと呼び合った。
しかし、ナチスという呼称はドイツ 国外でも戦前から広まっており、党の通称として反対・賛成する勢力を問わず広く用いられた20 。日本でもナチおよびナチスの呼称が当時から使用されている23 。現在は他の非ドイツ語圏でもナチス・ドイツ などの呼称が広く使用されており、ドイツ語 にも同様の「Nazi-Deutschland」などの用語もあるが、分断時代の西ドイツ においても「NSDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった20 。また上述のNSを接頭語にして、例えばドイツ歴史博物館 が運営する生きている博物館オンライン (LeMO)では、1933年から1939年の時代を指し示す用語として「NS-Regime、(エンエス・レジーム)」、党の指導者を示す用語として「NS-Führung、(エンエス・フュールング)」などの造語が用いられている24 。
訳語 邦訳は、「Nationalsozialismus」の「National」の解釈の違いにより「国民 社会主義 ドイツ労働者党25 26 」のほか、「国家 社会主義27 」、「国粋 社会主義28 」なども使用される。日本の高校歴史教科書では「国民- 」とするのが主流となっている29 。同様に、同党が掲げた主義思想も「国民- 」30 、「民族- 」などの訳語が使用されている。
略称の日本語訳は、「ナチス」の他、戦前・戦中は「国粋社会党 31 」「国民社会党 32 」なども使用された。
また「Arbeiterpartei」の部分について「労働者党 」ではなく「労働党 」と訳す例もある33 。
教育史 学者の小峰総一郎 によると、「„nationalsozialistisch“の訳語として『民族社会主義の』『国家社会主義の』も誤りではないが、近年では『国民社会主義党(ナチ党)の』『ナチズムの』『ナチスの』のように、ヒトラーの『ナチ党』(=『国民社会主義ドイツ労働者党』 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiter Partei <NSDAP>)を表す簡明な表現が一般的となっている。」と形容詞表現の用法について述べた34 。
なお中国語 では「民族 社會主義德意志工人黨」35 や「國家 社會主義德意志工人黨」36 や「國家 社會主義德國工人黨」37 など。略称は「納粹黨」38 。最初「Nazi」は上海語 の発音に基づいて「南尖」([\nø tɕi](/ja/w/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7))と訳していたが、後に当時駐在ドイツ武官を務めていた国民革命軍 少将の酆悌 が「納粹」と訳した。「納粹」([nɑ̂ tsʰwêɪ] )は「Nazi」([ˈnaːtsi] )という音を表すとともに、「精粋を納める」という意味を表す。肯定的な意味を持つ「納粹」という単語は「Nazi」を訳すときに使われていたが、現在では「納粹」が固有名詞として使われるようになり、肯定的な意味を持っていない。
「国家社会主義」は誤訳か否か ナチス・ドイツ時代のメディア などを研究する佐藤卓己 は、「国民 社会主義」と訳すべきと主張する29 。佐藤は、「National」を「国家-」とするのは誤訳であり29 、現代ドイツ史の専門家でこのように訳す者はいないと主張する39 。佐藤はさらに、「国家- 」と誤訳され続ける背景には「国家の責任のみ追及して国民の責任を問おうとしない心性」があると主張する29 。
「国民社会主義ドイツ労働者党」とする主張とその理由 ドイツ近現代史専門の石田勇治 によると「National」は「国家(Staat)ではなく、国民あるいは民族という意味で用いられている」という40 。石田は、「ナチズムは国家ではなく、国民・民族を優先する思想」であり、党名を「国家- 」と訳すとそのナチズムの本質を見誤ってしまうため、日本語訳は「国民- 」とすべきと主張する40 。石田によれば、国民社会主義における「国民主義」とは「民族を軸に国民を統合する」という考え方であり、「社会主義」とは「マルクス主義・階級意識を克服して国民を束ねる共同体主義」を意味した41 。両者についてヒトラーは、しばしば「同一である」と主張していたという41 。
田野大輔 は「ヒトラーは社会主義者だ」とする主張に反論するうえで、党名の訳語についても触れ、「『国家(Staat)』と『国民(Nation)』の混同を避ける目的から、近年では『国民社会主義』という訳語が一般的になっている」としている42 。
小野寺拓也 は、高校世界史教科書での具体的な採用状況を挙げたうえで(「国民社会主義ドイツ労働者党」(東京書籍 、帝国書院 、実教出版 )、「国民(国家)社会主義」(山川出版社 ))、上記の2つの主張を踏まえて「国民社会主義」との訳語の方が適切である旨述べている43 。
「民族社会主義ドイツ労働者党」とする主張とその理由 田村栄一郎 は「国家を民族の生存のための単なる手段とみなしている点では、これを『民族』社会主義として差支えなかろう。しかしこの場合も、ある人はこれを『国家』社会主義、他の人はこれを『国民』社会主義と訳している―大きな困難を伴うことが予想される。」と述べた44 。
伊集院立 がエバーハルト・イェッケル の『ヒトラー 全記録 1905-1924 (シュツットガルト、1980年)』に基づいて、ナチ党の名称はヒトラーの考えでは『国民社会主義ドイツ労働者党』ではなく『民族社会主義ドイツ労働者党』であったと主張した際、西川正雄 との間に緊張が生じたといい、西川は「できれば国民社会主義にしてはどうだろうか」と述べたという45 。
山本秀行 は「教科書などでは『国民』の訳が定着しているが、1935年以降については『民族』とした方が、ぴったりくるようにも思われる。」と述べた46 。
経済学者の瀬戸岡紘 は、「ファシズムにとって『階級』ならぬ『民族』を意識させ『民族』意識をテコとすることは決定的に重要だった」との理由から、「国家- 」ではなく「民族- 」の訳語を用いている47 。
飯島滋明 は「民族社会主義ドイツ労働者党」と訳し、「ヒトラー・ナチスが目指したのは優秀かつ健康な『アーリア人 』による国づくりである。ユダヤ人 などが含まれた『国民』『国家』を目指すものではない。そうである以上、『国家社会主義ドイツ労働者党』『国民社会主義ドイツ労働者党』と訳すのはナチスの意図をあいまいにし、適切でないように思われる。」と述べた50 。
山本孝二 ・大木毅 はリチャード・J・エヴァンズ の『第三帝国の歴史』において「『ナチズム』の原語であるNationalsozialismusは『国民社会主義』、『民族社会主義』など、様々に訳し得る。体制期に展開された、いわゆるゲルマン系 の他国民に対する政策などに鑑み、『民族社会主義』もしくは『ナチズム』とした。」と記し51 、大木は『戦車将軍グデーリアン』において「民族社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 」と訳した52 。
思想 党内ではヒトラー の指導を絶対のものとして受け入れるという点においては、あまり異論はなかったが、ナチ運動の内実は地域ごとの党組織や党職能組織、突撃隊、党有力者がその時々の状況に応じて勝手に活動していることが多く、統一された運動とは言い難い。農民に対する物を除けばまとまった政策綱領のようなものは存在しなかった。しかしそれが党の各組織を競合的に発展させ、運動にダイナミズムを与えていた53 。
世界恐慌 による社会不安や議会政治の混迷の原因をすべてヴェルサイユ条約 、ヴァイマル共和政 、ユダヤ人 、ボルシェヴィズム に帰せ、強力な指導者が導く「民族共同体 」を樹立することが必要であるとする単純なスローガン や運動が持つ若々しさは恐慌に喘ぐ国民に現状突破のシンボルとして広く訴えかけるものがあった53 。ナチ党はヴァイマル憲法体制を一括して全否定することによって自らを既存体制側政党と対決する基本的選択肢であることを示した。競合する他党を影響力を持つ社会的利害団体の傀儡に過ぎないと中傷して自らを唯一の国民運動と宣伝した54 。
反ユダヤ主義・反共主義 ヒトラー にとって反ユダヤ主義 と反共主義 は一体である。ヒトラーはマルクス主義 について「国際的な世界ユダヤ人が自由独立の国民国家の経済的基礎や国民的工業と国民的商業を破壊し、それとともに国家を超えた世界金融=ユダヤ主義のために自由な諸民族を奴隷化するのに利用する経済的武器」と断じている55 。
ナチ党内の多数派によって唱えられた党の目標として「労働者階級の国民化」という要求があった。これはナチ党は労働者大衆をマルクス主義的国際主義から解放して「ドイツ的社会主義」へ導く労働者党であるべきという主張であった。ヒトラーははっきりとこの立場を代表しており、「(労働者を)国民的に感じ、国民的であることを望む団結した価値ある要因として民族共同体に連れ戻すこと」がナチ党の活動の最も重要な目標の一つとしている56 。
民族共同体 ヒトラー は「ユダヤ人とマルクス主義者の国際連帯によるドイツ民族の分断(階級闘争 )」に対抗するため民族共同体 構想を提唱した。「公益を私益に優先させる」民族共同体によって国内を平等化あるいは協調的な形にまとめあげ、国民の諸階層が調和した社会を作る。それにより国内の階級闘争は止揚 され、階級を超えた「国民」が創造される。そうすれば「国民」は国内の利害対立から解放されて一丸となって国民全体の利害追求(対外的な膨張)に向かうことができるという理念である57 。
ヒトラー は「都市の人間でも、田舎の人間でもなく、肉体労働者でも、ホワイトカラー でも、熟練工でも、農民でも、学生でも、ブルジョワでもなく、あるいは特定のイデオロギーの追従者でもなく、我々はみな民族の一員である」「今まで常に我々を分け隔ててきた職業や階級といった全ての理念を超えて単一に結合された国民が存在しないなら、そしてそれが存在するまでは民族共同体はあり得ない」「国家社会主義は、社会生活上好ましくない対立に橋を架け、平等化し、協調的な形に全体をまとめることを目標としている」と論じる58 。
民族共同体を実現させるため、ヴァイマルの「民主主義原理」は「指導者原理 」に置き換え、自由主義的な夜警国家 は打破し、国家は国民経済に積極的な責任を果たさなければならないというのがナチ党の基本的な国家像であった57 。
農村政策 もともとナチ党は都市的な傾向を持っていたが、農村部の困窮が深まる1928年初夏以降からは農村での党活動を重視するようになった。農村におけるナチ党は「農民の窮状は社民党 政権と結託した暴利を貪るユダヤ資本のせいである」というステレオタイプに基づく反ユダヤ主義宣伝に終始した。困窮深まる農村部では既存体制と根本から対決する政党が求められていたため、ナチ党は農村部に浸透することに成功したが、農村部ではナチ党の「社会主義」を警戒する向きも強かったので、農民向け宣伝をしやすくするため、1928年にヒトラーは彼の慣習に反して党綱領 の正式な解釈を制定した。それにより綱領17条「公益目的のための土地の無償収用」の対象はもっぱら「ユダヤ人の投機による利得」に限定されるものであって私有財産制 は維持されるとしている59 。
青年崇拝 社民党やブルジョワ諸政党と比較して若者が多い党だったため、同時代に普及していた青年運動 を積極的に動員した。それにより1920年代後半から強まった世代間対立で党は大きな利益を得ることに成功した。ナチ党はその反動的なイデオロギーにも関わらず、新たな技術的手段を積極的に受け入れる姿勢、ブルジョワ的旧秩序の拒否の姿勢から青年層を大いに惹きつけた54 。
党史
黎明期 第一次世界大戦 中の1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」という労働者グループがブレーメン で結成された。国有鉄道ミュンヘン 本工場に勤務する鉄道金具工60 のアントン・ドレクスラー はその地方組織を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。この団体はマルクス主義、ボルシェヴィズム、平和主義、ユダヤ人、フリーメーソン、戦時不当利得者、ヤミ商人と闘争することを目的としていた61 。
この委員会に参加したのはドレクスラーの同僚であるミュンヘン鉄道工場の熟練工たちが中心だったが、委員会の好戦的ナショナリズムは、厭戦気分が高まっていた大戦末の人民の感情とかみ合っておらず、支持者は一向に増えず、会員40人を超えることができないでいた61 。
そこでドレクスラーは10月2日にトゥーレ協会 会員でジャーナリストのカール・ハラー とともに「政治的労働者サークル」を結成し、トゥーレ協会の後援を受けてドイツ労働者党の結成準備を行った。トゥーレ協会は右翼民族主義団体「ゲルマン騎士団 」のバイエルン地方支部を基礎として1918年1月に結成された反ユダヤ主義 的な右翼団体であり、当時バイエルンにおいて220人ほどの会員をもち、バイエルンにおける様々な右翼団体・反ユダヤ主義団体に影響力を持っていた62 。
ドイツ労働者党 1919年1月5日、ドレクスラーの同僚の鉄道員25人が集まったミュンヘンの酒場「フュルステンフェルダー・ホーフ(Fürstenfelder Hof)」での集会においてドイツ労働者党 (Deutsche Arbeiterpartei 略称DAP)の結党が行われた。党首にあたる第一議長にはハラーが就任した。結党時の党員は40人ほどであり、社会主義 と反ユダヤ主義 の色彩を帯びたナショナリズム を標榜した60 。
この際にドレクスラーもトゥーレ協会へ加入し、ディートリヒ・エッカート やゴットフリート・フェーダー といったトゥーレ協会員たちがドイツ労働者党に協力し、ドレクスラーの活動にも影響を与えるようになった63 。「政治的労働者サークル」はもっぱらトゥーレ協会の指揮下にあったが、ドイツ労働者党は本質的にドレクスラーが作った党であり、彼の起草による方針を定めた。その方針には次のようなものがあった。「党は精神的および肉体的な意味での創造的な民族同胞をすべて糾合した社会主義的組織であって、ただドイツ人指導者によってのみ指導される。」「党はドイツ労働者の高尚化を欲する。熟練の定住労働者は中産階級 としての評価を受ける権利を持つ。労働者とプロレタリア との間には厳重な区別が設けられなければならない」「大資本はパン及び労働者の供給者であるから保護しなければならない。彼らが労働者を無遠慮に搾取して、労働者の人間らしい存在を不可能にしない限りは」「党はドイツ経済生活の社会化はドイツ国民経済を破滅させると考える。ゆえに社会化なしで労働者に対する利益の分配が必要である」「党は全力を挙げて不当利得者、物価つり上げに反対する。何らの価値も創造しない者、いかなる精神的・肉体的労働も行わない者が高い利得を得ることには反対する」「党の主要目標の一つは手工業 の奨励である。最も有能な手工業者はもっと多くの利得を得るべきであり、熟練労働者 は中産階級と同等の国家公民であるべきである。大資本主義者の犠牲となっている中産階級の増大と安定が必要である」64
バイエルンに社会主義政権が君臨している間は反ユダヤ主義に反対する空気がこの地方に強かったので、ドイツ労働党も公然たるユダヤ人攻撃は控えていたが、政府軍のミュンヘン進攻を受けてレーテ共和国 が崩壊した後には反ユダヤ主義言論を強めるようになった64 。
ヒトラーの入党 レーテ共和国崩壊後のアドルフ・ヒトラー は、ミュンヘンを占領したアルノルト・フォン・メール 歩兵大将を司令官とする政府軍(ドイツ国軍 第4軍集団を名乗っていた)が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしており、元々ドイツ労働者党に接近したのは、上官であるカール・マイヤー 大尉にスパイを命じられたためであった。同党が1919年9月12日にミュンヘン中心部タール街 54番地にある酒場「シュテルンエッカー・ブロイ 」で開いた集会に参加したヒトラーは、ドイツ統一主義者として、バイエルン独立論者アダルベルト・バウマン 教授と激論した。これをきっかけにドレクスラーから注目され、彼のパンフレット『我が政治的目覚め あるドイツの社会主義的労働者の日記より (Mein politisches Erwachen aus dem Tagebuch eines deutschen sozialistischen Arbeiters)』を贈られるとともに再来を懇願された65 66 。
その後ヒトラーの下に「入党許可状」付きのはがきが送られてきて、9月16日にヘーレン通り(Herrnstraße)にある「アルテス・ローゼンバート(Altes Rosenbad)」で開催される党委員会に出席してほしいと要請があった67 66 。『我が闘争 』の中でのヒトラーの主張によれば、この党委員会に出席した後にヒトラーはこの党のために活動することを決心したという68 。マイヤー大尉の許可を得て、10月19日にドイツ労働者党へ入党した69 。
ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は(党員を多く見せかけるため、501番から始まる)555番であり、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、入会証や名簿作成以前の正式な記録が無いため明確にはなっていない70 。
ヒトラーの台頭とドレクスラーの党首就任 ヒトラーは自身が党を指導するようになってから党員や聴衆が急増したことを印象付けようとして初期の党を実際以上に小政党に描こうとする傾向があり71 、『我が闘争 』の中では1919年10月16日の「ホフブロイハウス 」での集会の聴衆を111人、11月13日の「エーベルブロイケラー」での集会を130人、12月20日の「ドイチェス・ビアホール」での集会を140人だったとしているが72 73 、ミュンヘン警察情報部や軍情報部の記録によればどの集会も300人程度の聴衆があったようである。党はトゥーレ協会の後援もあって、300人程度の聴衆をコンスタントに集める組織力は結党時から持っていたとみられる。とはいえヒトラーが党の存在を一般民衆に広めようと精力的に活動し、彼の巧みな演説が人気を博して党勢の拡大につながったことは事実である74 。ヒトラーは演説のうまさに加え、党最初の有給幹部でヒトラーの軍隊仲間だったルドルフ・シュスラー (Rudolf Schüßler)らの支持を受けていたため、ヒトラーの党内における地位は無視できないものとなった75 。
10月16日の「ホフブロイハウス」での集会から党は入場料の徴収と会場内での寄付金募集を行うようになった。入場料徴収と寄付金募集というのは右翼運動としては新しい形態だったが、これにより党財政は安定した75 69 。
初期の党委員会の会議はヘーレン通りの酒場「アルテス・ローゼンバート」の一室で行われることが多かった。党に送られてきた市民や党員からの手紙を読んだり、返信を書いたり、集会の打ち合わせをしたり、政治問題の議論をしていた。しかしヒトラーはこうした委員会の在り方を「おしゃべりクラブ」と呼んで、その不活発さにいら立っていた76 。
12月11日、ヒトラーはドイツ労働者党の党改革案を提出し、党委員会は公開の党員集会で選出されること、また党委員会は党綱領にのみ従い、トゥーレ協会から完全独立した委員会になることを要求した。トゥーレ協会員で党を特殊意識を育てる秘密政治サークルに留めようとしていたハラー議長はこれに怒ってヒトラーと対立したが、結局ハラーが敗れ、翌1920年1月にハラーは党を出ていくことになった76 71 。
12月22日にはこれまでも党集会場の一つとして使ってきた酒場「シュテルンエッカーブロイ」内の一室を賃貸して小さな党本部事務所を設けた。この賃貸契約書に党を代表して署名しているのはヒトラーである75 71 。
1920年1月5日にドレクスラーとヒトラーは議長であったハラーを解任し、ドレクスラーが新議長に就任した77 。ハラーはトゥーレ協会員として党を後援する立場にあったため、彼の追放により党とトゥーレ協会の直接の関係は切れることとなった78 。ドレクスラー新党首の下でヒトラーは第一宣伝部長に就任した79 77 。
改名 1920年1月5日以来ドレクスラーによって「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」への党名変更が提案されていた。「ドイツ労働者党」では、マルクス主義的国際主義政党と間違われるというのがその理由だった77 。「国民社会主義」というのは、ドレクスラーが影響を受けていたオーストリア のドイツ国民社会主義労働者党 に倣ったものである76 。この党名変更は2月20日に行われた80 。ヒトラーは当初「社会革命党」を提案したが、ルドルフ・ユングに説得され、ドレクスラーの案を承諾した81 。
1920年1月1日時点において党員は190人ほどで平均年齢は32歳だった。そのうち熟練労働者と手工業者は33%、知的な自由職業者は14.5%、公務員と使用人は14%、軍人は13%、商業は12%、学生は7%、店舗・工場など事業所所有者は4%、不熟練労働者は2.5%となっている。比較的多数を占める熟練労働者と手工業者はドレクスラーとともにミュンヘン鉄道工場で働く者たちで、そのため初期の党には「鉄道労働者党」の感があった。知的な自由職業者の内訳は文筆家・ジャーナリスト・編集者などが7人、技師が6人、芸術家が6人、医師が3人である。190人の党員のうち182人までがミュンヘン在住者であった79 。
この時期のナチ党はまた存在を広く知られていたわけではなく、党財政は各界の有力者の寄付によるよりも、大衆による献金と彼らの犠牲的献身によって支えられていた。したがって「支配勢力がナチ党を培養し育成した」等の主張は正確とは言えないが、当時のバイエルン支配勢力は再度のレーテ共和国樹立を阻止するためにバイエルン内のあらゆる反共・保守系団体に援助しており、ナチ党もその範囲内で援助を受けることはできた82 。
2月4日に反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義 、企業の国有化 、利子制度打破などを訴える25カ条綱領 が起草された。この綱領はドレクスラーが主として作り、フェーダーとヒトラーが協力して完成させたものだと言われている83 。綱領は2月24日ミュンヘン のビアホール「ホフブロイハウス 」で開かれた集会(参加者2000名)で正式採択された33 。
またこの集会での会場警備隊が党の一機関であることも正式に決定され、これがのちに突撃隊 へと発展する76 。
また1920年中にハーケンクロイツ を党のシンボルに採用し、党旗、党章、腕章などを取り入れた84 。ハーケンクロイツ(スワスチカ )は元々は普遍的な幸運のシンボルであったが、同時にアーリア人 の優等性を示す人種主義の象徴としても用いられており、ドイツ攻守同盟 やエアハルト海兵旅団 などが使用していた。ハーケンクロイツには向きが左回りと右回りの二種類があったが、ヒトラーは右回りで統一している84 。
ヒトラーとドレクスラーの対立 当時のオーストリアのドイツ国民社会主義労働者党は革命によってではなく議会によって変革することを目指しており、議会政治に参加していた。ドレクスラーが目指すのも議会政党であったが、当時のヒトラーは革命主義者で議会政治への参加に反対していた88 。
さらに1921年3月26日から28日にかけてのツァイクの大会においてドレクスラーとドイツ社会党 のアルフレート・ブルンナー が党を合同させようとした時にもヒトラーが反対した。ヒトラーは自分たちと他の国民社会主義政党では原則的にも戦術的にも相いれないため、統一によって規模が拡大したとしても内部的団結や闘争能力は弱まると考えていた87 。
いずれの合流計画もヒトラーの反対で流産したため、ドレクスラー派はヒトラーと対立を深めた89 。
ヒトラーの党首就任 ヒトラー は、1921年3月31日に軍を退役し、以降党務に専念するようになっていた90 。
1921年6月初めから7月にかけてヒトラー はエッカートとともに『フェルキッシャー・ベオバハター』の資金集めのためにベルリンへ赴いたが、その間にドレクスラーと反ヒトラー派の党幹部たちが、ヒトラーが反対していたユリウス・シュトライヒャー 率いるドイツ社会党との連携を模索した。この動きを知ったヒトラーは、7月10日にミュンヘンへ取って返し、11日にも党委員会に宛てて離党の手紙を書いた。これは党指導部には想定外のことで、ヒトラーを失うか、自分たちが退陣するかの選択を迫られた。さらにヒトラーは7月14日に自分が再入党する条件として、党委員会の即時辞職および独裁権限を持った議長の地位を要求した。一番聴衆を集められる稼ぎ頭の弁士だったヒトラーには自分抜きでは党は立ち行かないという自負があった91 。7月15日に党委員会はヒトラーの要求を受け入れ、7月29日にホフブロイハウスで開かれた臨時大会で554名中553名の支持を得てヒトラーが議長に選出された。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされた92 。
このころからヒトラーはエッカートやヘスといった自派の党員から指導者を意味する「Führer(フューラー)」と呼ばれるようになり70 、党内に定着した。やがてこれはヒトラー終生の肩書きとなった(総統 を参照)。
ヒトラーは同年8月に従来のナチ党の会場警備隊を「体育スポーツ局 (Sportabteilung)」に改組し、エルンスト・レーム 大尉の推薦で反革命義勇軍 エアハルト海兵旅団 のハンス・ウルリヒ・クリンチュ 元海軍少尉をその指揮官に任じた。同組織は9月に「突撃隊 (Sturmabteilung, SA)」に改称された93 。突撃隊は共産主義者による党集会妨害を排除92 するとともに、他党の同種団体との街頭闘争において主力となる準軍事組織だった。突撃隊の幹部は禁止されたエアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。
またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラーユーゲント の前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツ の党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはニュルンベルク のドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。しかし11月18日にはプロイセン自由州 においてナチ党が禁止され、ザクセン州 、テューリンゲン州 等でも禁止されたため、ナチ党の活動はバイエルン州に限られることになった。しかし、ドイツ国内の不景気とインフレはナチ党を含む極右急進派、共産党を含む極左急進派への支持をさらに高めた94 。また右翼的なバイエルン州政府も反ボリシェヴィキ 的なナチ党を庇護する方針をとった94 。
1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州 でも有数の政党になっていた。2月には、国軍 が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。
ミュンヘン一揆 5月26日には党員の一人アルベルト・レオ・シュラゲター がフランス軍に捕らえられ、軍法会議 にかけられた上で処刑された。彼の死をナチスが喧伝したことにより、右翼はもとより左翼からも英雄視された95 。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。
不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト 大統領による非常事態宣言 によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール 主導のベルリン進軍 は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ビアホール「ビュルガーブロイケラー 」においてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000-3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。
首謀者ヒトラー を初め、参加した党員らは逮捕され、国内に残った幹部はアルフレート・ローゼンベルク などわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラー の独演会と化し、かえってヒトラー と党の知名度は高まることとなった。ヒトラー はランツベルク刑務所 で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反共和政の気運の高まりは衰えることはなく、ナチ党のいくつかの偽装団体が活動を続けた。
ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼は指導力に乏しく、分派争いがひどくなった。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサー はヒトラー無き党内で勢力を拡大した。ルーデンドルフを担ぐドイツ民族自由党 と共同して国民社会主義自由運動 を結成し、1924年5月の選挙 で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済 が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルス はこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、彼の有力な腹心となった。同年12月の選挙 では、国民社会主義自由運動の議席は14議席に減少し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。
また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリンク (Frontring) という組織を結成した。1924年8月28日に同組織はフロントバン と改称された。
党勢の拡大 1924年12月20日、ヒトラー が監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルト とヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルト はヒトラー の恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた96 。
1925年2月27日に「ビュルガーブロイケラー 」においてナチ党再結党大会を行った。大会は公開で行われ、党関係者の他、一般聴衆も加わって参加者はおよそ3000人に及んだという97 。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。
1925年3月29日の大統領選挙の第一次選挙にはルーデンドルフが出馬し、ナチ党も彼を支持したが、得票率1パーセントの泡沫候補で終わり、ルーデンドルフは政治生命を失った98 。
4月中旬、レームはヒトラーと会談し、再建される突撃隊をナチ党から自立した国防団体(国軍補助兵力)にすることを要求したが、ヒトラーはこれを拒否した。この決裂でレームは突撃隊司令官もフロントバン司令官も辞し、政界引退を表明した。その後軍事顧問として南米へ渡っていった99 。
7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争 」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。しかしレンテンマルク の導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案 受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊 」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。
1926年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日にバンベルク で招集されたバンベルク会議 において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理 」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマル で党大会 が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントなど各種団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ が党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない100 。
1927年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5月20日、ナチス党として初めての国政選挙 に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案 が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング 内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙 では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党 、ドイツ国家人民党 とともにハルツブルク戦線 という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。
しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス 大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。
1932年4月には大統領選挙 が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルク が圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー 中将の策謀によりパーペン 内閣が成立した。7月の選挙 でナチ党は全584議席中230議席101 を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求した(のちに全権委任法 として現実の物となる)。ヒトラーの要求はヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチ党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙 を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。
ナチ党による権力掌握 11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。
この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカー と大統領官房長オットー・マイスナー を味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日にヒトラー内閣 が発足した。発足当時、入閣したナチ党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州 内相に就任したゲーリング が国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。
組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件 が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。
選挙の結果、ナチ党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州 国家代理官のゲーリングを始めとする各地方の党員は鉤十字 の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法 を国会承認させ、立法権 を国会からヒトラー政権に委譲させた。この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味していた。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法 に定められた基本的人権 や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には国会選挙 が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められたが、1942年にこの条文は削除されている102 。
1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊 参謀長レーム など党内外の政敵を一斉に粛清(長いナイフの夜 )し、独裁権力は確実なものとなった。ヴァイマル共和国軍 や資本家 とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人 住宅・商店・シナゴーグ などを襲撃・放火している(水晶の夜 )。
党による全国支配 1933年4月7日、州政府にナチ党幹部が国家代理官 として送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。
党の組織上の単位である大管区 、管区、支部、細胞 、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合 に代わる「ドイツ労働戦線 」や、下部組織の「歓喜力行団 」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで党によって支配されていた。また青少年はヒトラー・ユーゲント への加入が義務づけられた。これらの組織は第二次世界大戦 では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍 の「国民突撃隊 」の母体にもなっている。
敗戦後 第二次世界大戦 終結直前の1945年4月30日にヒトラーが総統地下壕 で自殺した後、遺言によってマルティン・ボルマン が「党担当大臣」に任命された。しかし遺書は広く知られなかった上に、まもなくボルマンは消息を絶った。ヒトラー無きナチ党は統制能力を失い、事実上解散状態となった。この間にヒムラーら一部の幹部は逃亡を図っている。
1946年9月30日、ロンドン憲章 に基づく「ニュルンベルク裁判 」により、党指導部・親衛隊・ゲシュタポが「犯罪的な組織」と認定された。ニュルンベルク裁判や継続裁判 など占領地域で行われたその後の非ナチ化法廷により15万人もの党員が逮捕されたが、実際に裁判を受けたのは3万人である。また占領下やその後の新ドイツにおいては、ナチ党の影響を減少させる「非ナチ化 」の施策が行われた。
幹部
指導者 党首にあたる職は本来は第一議長(ドイツ語 : erster Vorsitzender)であったが、ヒトラーが党内支持者から呼ばれた指導者 (独 : Führer、総統 )という呼称がやがて公的なものとなった。党の組織は階層化されており、それぞれの階層の指導者がその階層以下を支配するという指導者原理 に基づく運営が行われていた。党のすべてにわたる独裁権を握っていた。
全国指導者 全国指導部 (Reichsleitung) は、職能別に党務を分担して指導者ヒトラーを補佐する17-20人の全国指導者 から構成された(1934年時点の党組織図では18名が挙げられている)。全国指導者には、1933年の政権奪取後のヒトラー内閣 で国務大臣を兼務する者が多く含まれていた。
組織
指導者代理幕僚部・党官房 指導者代理幕僚部(副総統官房 )は1941年までのナチ党の支配機構。指導者代理のルドルフ・ヘスは党のあらゆる事項について、指導者ヒトラーの名によって決定する権限を持っていた。ただし、実務能力に疎いヘスはこの巨大な権力を使いこなすことができず、実権は「指導者代理幕僚長」兼「指導者代理秘書」のマルティン・ボルマンに移っていった。
1941年5月に指導者代理ルドルフ・ヘスがイギリスに飛行したことによって失脚し、ヘスに附設していた指導者代理幕僚部は廃止された。その後継機関として指導者ヒトラーが直接に党を支配するための機構である党官房が設置された。政権末期のナチ党の実務は官房長マルティン・ボルマンが差配しており、事実上、彼が党の実権を握るにいたった。
指導者官房
党裁判所
各部局
党中央政治委員会
党中央政治委員会事務局長(Politischen Zentralkommission der NSDAP): ルドルフ・ヘス
組織局 ナチ党の初期には、組織局はナチ党の最も重要な組織であり、その長である組織全国指導者は名実共にナチ党のNo.2であった。しかし、グレゴール・シュトラッサーが党から追放されるとともに、組織局の重要性は薄れていった。
書記局
書記全国指導者 (Schriftführer der NSDAP) 後に地方行政本部長 (Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik) : カール・フィーラー
司法局
出納局
宣伝局 宣伝を重視したヒトラーは、初期には宣伝全国指導者を自ら兼任していた。後、この職は「プロパガンダの天才」と呼ばれたヨーゼフ・ゲッベルス の就任するところとなり、ナチ党の政権奪取とその後の世論誘導に決定的な役割を果たすことになる。
全国宣伝指導者 (Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長): アドルフ・ヒトラー (-1926)、グレゴール・シュトラッサー (1926-1929)、ヨーゼフ・ゲッベルス (1929-1945)。
出版局
報道局
農業政策局 都市を基盤にしていたナチスにとって、農業政策に関する部局が置かれたのは比較的遅かった。後に農民局に名称変更されている。
国防政策局 第二次世界大戦 の勃発後に東方占領地を獲得すると、植民政策局に改められた。
対外政策局 またヨアヒム・リッベントロップはリッベントロップ機関 という組織を立ち上げ、外交での主導権を握ろうとしている。
国会議員団 ナチス党が選挙に出馬して以降、国会議員の数も増加した。しかしヒトラーが独裁権力を握ると、ほとんど名誉職に過ぎなくなった。
地方組織 地方組織は規模ごとに大管区 (Gau)、管区 (Kreis)、地区 (Ort)、拠点分区 (Stüzpunkt)、細胞 (Zelle)、街区 (Block)、支部 (Stelle)、組合(Mitglieder)、班(Zug)と分けられており、それぞれに政治指導者 がいた。大管区の範囲は州レベルであり、街区の構成は、約40~60世帯である。また、政権獲得後にドイツの占領区域が増加すると帝国大管区 が設置されている。
大管区はナチ党の地方組織としての最大の単位で、そこには大管区指導者 (1935年には33人)が置かれた。ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者は宣伝全国指導者(宣伝大臣兼務)のゲッベルスであり、彼は全国指導者と大管区指導者を兼任していた唯一の人物であった。また、南ハノーファー・ブラウンシュヴァイク大管区指導者ベルンハルト・ルスト は1934年以降、国の文部大臣でもあった。
下位の指導者の人数は1935年時点でそれぞれ管区指導者 (Kreisleiter) は827人、地区指導者 (Ortsgruppenleiter) は20,724人、細胞指導者 (Zellenleiter) は976人、街区指導者 (Blockleiter) は204,359人となっている。
突撃隊 当時のドイツの政党は、ドイツ社会民主党 の「国旗団 」、ドイツ国家人民党 の友好団体「鉄兜団 」、ドイツ共産党 の「赤色戦線戦士同盟 」といった、統一された制服を着、旗を掲げて街頭を行進する集団を抱えていた。エルンスト・レーム の設立した党内組織の「体育スポーツ局」が改称されて生まれた突撃隊 はそのような性格の組織であり、街頭行進や他党の活動妨害を行った。突撃隊はナチス党の知名度を上げるのに役立ったが、後に粗暴なならず者の集団であるという評判が立った。この事が後の長いナイフの夜 事件による突撃隊幹部粛清の一因となった。しかしその後も国内最大の組織として存続した。
親衛隊 1935年には国防軍にも警察にも所属しない軍事組織「親衛隊特務部隊 」が設けられた。ここに志願すれば、国防軍と同様義務兵役年限に算入された。1940年には武装親衛隊 と改名されて、陸軍・海軍・空軍と並ぶ第四の軍隊と認知された。
青少年組織 政権獲得後、18歳以下の青少年は青少年全国指導者が支配する組織への入隊を義務付けられた。
国家社会主義義勇労働奉仕団
その他の組織 パートタイム的に招集される一般党員のほか、下記の組織に入ることも出来た。
党員 ナチ党の一般的な党員は主として田舎や都市部の中流階級から構成されていた。7%は上流階級に属し、7%は農民であった。35%は産業労働者であり、51%は中流階級に所属した。最大の単一職業集団は小学校教師であった。党が結成された1920年には党員数は約2000人に過ぎなかった。その後フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツの提案で党員番号を通し番号にする改革が行われたため、正確な党員数は不明となり、党員番号による推定が行われている。1930年代以降は党員数が飛躍的に上昇し、1932年には最大の党員番号が120万であったが、政権奪取の後はさらに入党希望者が続出し、年末には党員番号が390万を超えるまでに膨れあがっていた。このため1933年4月には新規入党を制限する措置が執られ、それ以降の党員数の伸びはほとんど無くなった(ナチ党入党制限 )。しかし1939年5月以降新規入党制限が撤廃され、1945年の段階で党員番号は850万を超えていた。
党員証明書・手帳 新規入党した党員には、党員証明書 (Partei-Mitgliedskarte)が発行された。党員証明書の表には党員の個人情報、裏面には年間の党費切手 が貼り付けられた。2年間、党への在籍と党費の支払いを満了した者には、党員手帳 (Partei-Mitgliedsbuch)が発行された。
党員証明書
所属地区
党員番号
性別・氏名
出生時の姓(旧姓)
住所
入党年月日/発行年月日
党全国指導部入党認可記名
党員手帳
党員番号
氏名
資格及び職業
住所
生年月日
出身地
入党申請年月日
離党申請年月日
再入党申請年月日
党本部認可年月日
総統署名・全国財政指導者署名
党員の制服
党員の階級 党員の階級は30以上に分けられており襟章を用いた。下記の表は1939年導入時のもの。
ドイツ国防軍におけるナチ党員 ヴァイマル共和国軍 においては1921年の防衛法により、将兵が政党の党員となることは禁じられていた106 。しかしナチ党員が軍において勢力を拡大しようとする動きはあり、ウルム国軍訴訟 ではこの動きが裁かれている。
党のシンボル ナチ党は複数の党歌を採用したが、その中で最もよく知られているのが『旗を高く掲げよ 』(ホルスト・ヴェッセル・リート)である。1930年に共産党員により命を落とした突撃隊員ホルスト・ヴェッセル が作詞したもので、当時流行していた歌謡曲(原曲はオペラの曲)がつけられ、党員の間で大流行した。やがては対立政党が揶揄するために替え歌を作るなど、ナチ党の象徴として扱われた。ヒトラーが政権の座に就くと第二の国歌的に扱われた。また、イギリスファシスト連合 やファランヘ党 等海外のファシスト政党の間でも歌詞を変えて歌われている。
関連施設 党の発祥の地であるミュンヘンには通称「褐色館 」と呼ばれる本部が置かれた。隣接してミュンヘンの総統官邸も置かれた。戦後、党本部は破壊されたが、総統官邸はミュンヘン音楽・演劇大学 の校舎として残っている。
創設当時の党が大会を開き、ミュンヘン一揆の舞台となったビアホールビュルガーブロイケラー は党の聖地視され、毎年ミュンヘン一揆の記念日にはヒトラーが古参党員を前に演説した。ビュルガーブロイケラーは1979年まで存在していたが、現在は案内板が残るのみとなっている。
ベルヒテスガーデン 近郊オーバーザルツベルク にはヒトラーの別荘ベルクホーフ が存在し、後にはオーバーザルツベルク一帯が党の所有となった。ヒトラーはベルクホーフでの生活を好み、長い期間をそこで過ごした。オーバーザルツベルクには党幹部達の別荘も置かれたが、大半が終戦間際の空襲と親衛隊員による破壊で焼失した。しかしヒトラーのもう一つの別荘であったケールシュタインハウス は現存している。
プロパガンダ 党は多くの機関紙や雑誌を発刊し、選挙戦術や国内統制に利用した。また、党幹部やグループもそれぞれの新聞や雑誌を発売し、その総数は調査によってもはっきりしなかった108 。中心となったのはヒトラーが自ら買収交渉に参加したこともあるフェルキッシャー・ベオバハター であり、1926年から1930年にかけては他の新聞や雑誌は十分に機能していたとは言えなかった109 。
1930年の選挙による大躍進以降は発行部数、種類ともに大幅に増加している109 。同時代には1932年3月時点で120のナチス系定期刊行物が挙げられているが、戦後にペーター・シュタイン が行った調査では、同時期のものとして159の新聞が挙げられている108 。
ナチス党のプロパガンディストとして最も知られているのがヨーゼフ・ゲッベルス である。ゲッベルスは「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と日記に記しており、政敵の共産党 の手法を利用し、かつそれを凌駕する規模で行った。
戸別訪問 113 、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈なネガティブ・キャンペーン 、ラジオを利用した政見放送 、航空機を利用した遊説旅行、町の壁を埋め尽くすポスター等は他党のそれを上まわる強烈なインパクトを与えた。また娯楽の中にさりげなく党の宣伝を織り交ぜる手法で宣伝効果を浸透させる手法を用いている。
宣伝全国指導者であったゲッベルスは1927年に首都ベルリン で新聞『デア・アングリフ 』紙を発刊した。この新聞は『フェルキッシャー・ベオバハター』と同じく、プロパガンダとして成功した珍しい例である114 。新聞は他の新聞や他の政党を大きな活字で口汚く罵るもので、攻撃された新聞が反論の記事を書けば書くほど、ナチスの宣伝になってしまう効果もあったため、わざと讒言で他紙を「釣る」ことすらあった。また、時にはテロに訴えることもあった。1930年2月23日、党員ホルスト・ヴェッセル が共産党員アルブレヒト・ヘーラー (de:Albrecht Höhler )に暗殺されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。ヴェッセルが作詞した「旗を高く掲げよ 」は、最も著名なナチ党党歌として知られる。
1932年にはナチス系新聞は78万部を発行していた115 。
さらにナチ党は政府の権力を用いた言論統制 や、退廃芸術 等に見られるような価値観統一政策、「強制的同一化 」に乗りだしている。1933年3月には国民啓蒙・宣伝省 が設置され、ゲッベルスが国民啓蒙・宣伝大臣に任命された。政権獲得後の1933年にはナチス系新聞の発行部数は319万部にのぼり116 、さらに他の新聞や雑誌も次々とナチスの支配下に置かれた。ただし幹部同士が新聞紙上で争うことは続いており114 、ゲッベルスも対応を行うことを検討している117 。
類似政党 ドイツ本国だけでなく、国外にもナチズムに近い思想を持った政党が存在した。第二次世界大戦時、これらの政党はナチス・ドイツによる傀儡政権 の支持政党としても活動したりした。オーストリア・ナチスとズデーテン・ドイツ人党は後にナチス党に合流している。
ヨーロッパ
南北アメリカ
アフリカ
大日本帝国
戦後
非ナチ化 日本では一時期「ドイツではナチス犯罪に時効 はない」という報道が行われた事があったが、実際にはドイツ刑法はナチスとは関わりなく「謀殺罪 (計画的殺人)」の時効が無いということである。その罪に該当しないナチス時代の犯罪は全て時効が成立している。また、ドイツのEU 加盟後は同様の法律をEU圏内に広めることについての論議も行われている。
ネオナチ ナチス党が崩壊した後も、世界各地にはナチズムを受け継ぐと称した団体が多く存在している。また、ホロコースト否定 など、ナチス・ドイツ における犯罪を否定する動きも根強く残っている。
参考文献
脚注
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