雪舟 — OpenHistory生涯
応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃に京都の相国寺へ移り、春林周藤に師事して禅宗の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。
享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内教弘の庇護を受け1、画室雲谷庵(山口県山口市天花〈てんげ〉)を構える2。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。
長禄元年(1457年)、拙宗等楊から改号したと推定されている1。拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある3。
拙宗の真筆とされる作品は十数点が現存している。拙宗が雪舟の若い頃の号とすると、のちに風景画が多くなるのに対して、渡明前は仏画や人物画が多い45。「拙宗」期を含むと、雪舟の現存作品数は約50点とされる6。
応仁元年(1467年)に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)。更に北京に赴き、政府の建物に壁画を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った『破墨山水図』にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪や李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した(『彷夏珪山水図』『彷李唐牧牛図』はいずれも重要文化財)。中国大陸の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した(雪舟の書いた風景画の景観は、中国の各地に現代も残っている)。
文明元年(1469年)に帰国し、周防国のほか豊後国や石見国で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃国へ旅行。文亀元年(1501年)頃には、丹後国の天橋立に赴き『天橋立図』を残している7。日本美術史を研究する学習院大学教授の島尾新は、雪舟が各地を訪れたのは単なる漂泊ではなく、足利義尹を擁しての上洛など大内氏の軍事・外交政策のための地理調査と関連があると推測している1。『天橋立図』は天橋立そのものだけでなく周辺の寺社が詳細に描かれている。このため同地にある籠神社の別当智海や、丹後の支配者で大内氏と連携していた一色義直の依頼で制作された可能性が指摘されている8。
没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある1。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見国益田の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の『牛庵一代御奉公之覚書』には次の記述がある9。
「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」
(雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…)。
雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。墓所と伝わる場所も複数箇所ある。
主要作品
国宝
- 『秋冬山水図』2幅、各47.7cm×30.2cm(東京国立博物館)10
- 『四季山水図巻(山水長巻)』1巻、縦39.7cm×横1592.0cm(毛利博物館) 文明18年(1486年)の年記がある11
- 『山水図』(破墨山水図)縦148.6cm×横32.7cm(東京国立博物館) 明応4年(1495年)の自題及び月翁周鏡等六僧の賛がある12
- 『慧可断臂図』(愛知県・斉年寺) 「七十七歳」の款記がある。明応5年(1496年)作。13
- 『天橋立図』縦89.5cm×横169.5cm(京都国立博物館)14
- 『山水図』牧松周省・了庵桂悟賛(個人蔵)
重要文化財
その他(国宝・重要文化財以外)
- 『破墨山水図』景徐周麟賛(出光美術館)
- 『倣夏珪 山水図』(個人蔵、山口県立美術館寄託) -元は上記の「倣〇〇」掛軸6点とセットで、江戸時代の狩野常信の模本から最低でも12図あったことが知られている。1933年の入札図録に掲載された後、所在不明となっていたが、2017年に84年ぶりに再発見された1516171819。)
関連する場所
-
井山宝福寺 (岡山県総社市)- 涙でネズミの絵を描いたことで有名。境内には少年雪舟像が置かれている20。
-
雪舟誕生地公園(岡山県総社市) - 生誕600年を記念し令和2年に開園。
展示室や銅像、国宝に指定された6つの作品全てを精密に再現した銅版画などがある21。
-
相国寺(京都府京都市) - 雪舟が修行を行ったとされる寺。
-
雲谷庵(山口県山口市) - 1464年と晩年まで開き定住していた画房22。
-
天開図画廊(大分県大分市)- 1469年に中国から帰国後、北九州の大分にてしばらく営んだ画房。2324。
雪舟庭
雪舟が築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。
墓所
- 島根県益田市の大喜庵は雪舟が晩年を過した東光寺の焼失した跡に建てられ、雪舟の墓所がある25。
- 岡山県井原市の重玄寺跡には雪舟のものと伝えられる墓が残る26。
- 雪舟の遺骸は崇観寺(医光寺)で火葬にふされ、灰塚に納められたと伝わっている27。
参考事項
涙で描いた鼠
宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱に縛りつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
神格化
雪舟の神格化は江戸時代から始まった。当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。雪舟の人気を反映して、『祇園祭礼信仰記』32のような作品が上演された。日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。
参考文献
・『画聖 雪舟の素顔 天橋立図に隠された謎』 (島尾新、朝日新書、2022年)
- 『雪舟等楊 「雪舟への旅」展研究図録』(山口県立美術館、中央公論美術出版、2006年)
- 『明代絵画と雪舟』(図録、根津美術館、2005年)
- 『「雪舟」 没後500年特別展』(図録、東京国立博物館、京都国立博物館、2002年)
- 金澤弘『雪舟の芸術・水墨画論集』(秀作社出版、新版2015年)ISBN 978-4-88265-559-6
- 山下裕二、赤瀬川原平『雪舟応援団』(中央公論新社、2002年)ISBN 978-4120-03249-3
- 『雪舟はどう語られてきたか』(山下裕二編・監修、平凡社ライブラリー、2002年)ISBN 978-4-582-76424-6
- 沼田頼輔『画聖雪舟』(田中優子解説、論創叢書:論創社、2002年)ISBN 978-4846-00241-1
- 中島純司ほか『雪舟 水墨画の巨匠 第1巻』(講談社、1994年)ISBN 978-4-062-53921-0
- 中島純司『雪舟 新編名宝日本の美術14』(小学館、1991年)ISBN 978-4-093-75114-8
- 『雪舟 決定版 生誕六〇〇年』(島尾新・山下裕二監修、平凡社 別冊太陽 日本のこころ、2020年)ISBN 978-4582922783
脚注
参考文献
作品のうち『天橋立図』『秋冬山水図』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。
生涯
応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃に京都の相国寺へ移り、春林周藤に師事して禅宗の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。
享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内教弘の庇護を受け1、画室雲谷庵(山口県山口市天花〈てんげ〉)を構える2。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。
長禄元年(1457年)、拙宗等楊から改号したと推定されている1。拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある3。
拙宗の真筆とされる作品は十数点が現存している。拙宗が雪舟の若い頃の号とすると、のちに風景画が多くなるのに対して、渡明前は仏画や人物画が多い45。「拙宗」期を含むと、雪舟の現存作品数は約50点とされる6。
応仁元年(1467年)に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)。更に北京に赴き、政府の建物に壁画を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った『破墨山水図』にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪や李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した(『彷夏珪山水図』『彷李唐牧牛図』はいずれも重要文化財)。中国大陸の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した(雪舟の書いた風景画の景観は、中国の各地に現代も残っている)。
文明元年(1469年)に帰国し、周防国のほか豊後国や石見国で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃国へ旅行。文亀元年(1501年)頃には、丹後国の天橋立に赴き『天橋立図』を残している7。日本美術史を研究する学習院大学教授の島尾新は、雪舟が各地を訪れたのは単なる漂泊ではなく、足利義尹を擁しての上洛など大内氏の軍事・外交政策のための地理調査と関連があると推測している1。『天橋立図』は天橋立そのものだけでなく周辺の寺社が詳細に描かれている。このため同地にある籠神社の別当智海や、丹後の支配者で大内氏と連携していた一色義直の依頼で制作された可能性が指摘されている8。
没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある1。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見国益田の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の『牛庵一代御奉公之覚書』には次の記述がある9。
「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」
(雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…)。
雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。墓所と伝わる場所も複数箇所ある。
主要作品
国宝
- 『秋冬山水図』2幅、各47.7cm×30.2cm(東京国立博物館)10
- 『四季山水図巻(山水長巻)』1巻、縦39.7cm×横1592.0cm(毛利博物館) 文明18年(1486年)の年記がある11
- 『山水図』(破墨山水図)縦148.6cm×横32.7cm(東京国立博物館) 明応4年(1495年)の自題及び月翁周鏡等六僧の賛がある12
- 『慧可断臂図』(愛知県・斉年寺) 「七十七歳」の款記がある。明応5年(1496年)作。13
- 『天橋立図』縦89.5cm×横169.5cm(京都国立博物館)14
- 『山水図』牧松周省・了庵桂悟賛(個人蔵)
重要文化財
その他(国宝・重要文化財以外)
- 『破墨山水図』景徐周麟賛(出光美術館)
- 『倣夏珪 山水図』(個人蔵、山口県立美術館寄託) -元は上記の「倣〇〇」掛軸6点とセットで、江戸時代の狩野常信の模本から最低でも12図あったことが知られている。1933年の入札図録に掲載された後、所在不明となっていたが、2017年に84年ぶりに再発見された1516171819。)
関連する場所
-
井山宝福寺 (岡山県総社市)- 涙でネズミの絵を描いたことで有名。境内には少年雪舟像が置かれている20。
-
雪舟誕生地公園(岡山県総社市) - 生誕600年を記念し令和2年に開園。
展示室や銅像、国宝に指定された6つの作品全てを精密に再現した銅版画などがある21。
-
相国寺(京都府京都市) - 雪舟が修行を行ったとされる寺。
-
雲谷庵(山口県山口市) - 1464年と晩年まで開き定住していた画房22。
-
天開図画廊(大分県大分市)- 1469年に中国から帰国後、北九州の大分にてしばらく営んだ画房。2324。
雪舟庭
雪舟が築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。
墓所
- 島根県益田市の大喜庵は雪舟が晩年を過した東光寺の焼失した跡に建てられ、雪舟の墓所がある25。
- 岡山県井原市の重玄寺跡には雪舟のものと伝えられる墓が残る26。
- 雪舟の遺骸は崇観寺(医光寺)で火葬にふされ、灰塚に納められたと伝わっている27。
参考事項
涙で描いた鼠
宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱に縛りつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
神格化
雪舟の神格化は江戸時代から始まった。当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。雪舟の人気を反映して、『祇園祭礼信仰記』32のような作品が上演された。日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。
参考文献
・『画聖 雪舟の素顔 天橋立図に隠された謎』 (島尾新、朝日新書、2022年)
- 『雪舟等楊 「雪舟への旅」展研究図録』(山口県立美術館、中央公論美術出版、2006年)
- 『明代絵画と雪舟』(図録、根津美術館、2005年)
- 『「雪舟」 没後500年特別展』(図録、東京国立博物館、京都国立博物館、2002年)
- 金澤弘『雪舟の芸術・水墨画論集』(秀作社出版、新版2015年)ISBN 978-4-88265-559-6
- 山下裕二、赤瀬川原平『雪舟応援団』(中央公論新社、2002年)ISBN 978-4120-03249-3
- 『雪舟はどう語られてきたか』(山下裕二編・監修、平凡社ライブラリー、2002年)ISBN 978-4-582-76424-6
- 沼田頼輔『画聖雪舟』(田中優子解説、論創叢書:論創社、2002年)ISBN 978-4846-00241-1
- 中島純司ほか『雪舟 水墨画の巨匠 第1巻』(講談社、1994年)ISBN 978-4-062-53921-0
- 中島純司『雪舟 新編名宝日本の美術14』(小学館、1991年)ISBN 978-4-093-75114-8
- 『雪舟 決定版 生誕六〇〇年』(島尾新・山下裕二監修、平凡社 別冊太陽 日本のこころ、2020年)ISBN 978-4582922783
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