越
越は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。 『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。
建国~滅亡 年不詳 ~ 紀元前222年最終更新 2026/10/16 14:52
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている1。
呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常2は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。
闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなった。しかし勾践が臣従したことで滅亡は免れる。その後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借りて帰国に成功、夫差に面従腹背しながら逆襲の時を待った。越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉に圧迫されていた楚とも同盟を結んだ。夫差が伍子胥を殺害し中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて勾践は呉を攻めて大打撃を与えて夫差を自殺に追い込み、紀元前473年には呉を滅ぼした。
『越絶書』によると、呉を滅ぼした勾践は、越の都を瑯琊(現在の)に遷し、更に諸侯と会盟して中原のとなったという。しかし、『』の引く『』では勾践の4代後ののときに呉(現在の江蘇省)に遷都したとあり、『越絶書』とは異なる。
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