人吉城
人吉城(ひとよしじょう)は、熊本県人吉市麓町(旧・肥後国球磨郡人吉村)にあった日本の城(平山城)。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
造営 1199年最終更新 2026/10/16 14:44
人吉城(ひとよしじょう)は、熊本県人吉市麓町(旧・肥後国球磨郡人吉村)1にあった日本の城(平山城)。相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
概要
人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。 中世には本丸から谷を挟んで、南・南東・東の丘に上原城・中原城・下原城という支城もあったとされるが、現在の城跡公園には含まれていない。
幕末に築かれた御館の石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、上からなら割合簡単に落下できるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。この城壁は日本の城では他に函館の五稜郭と龍岡城にしかない(城以外も含めればお台場にも見られる)珍しいもので、いずれも人吉城の石垣程の規模ではない。 この武者返しは球磨川に面した面が最も高く大きくなっているが、これは球磨川対岸の火事が飛び火した「寅助火事」で城郭が炎上したために、防火の意味ももたせたためである。
現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が木造復元されている。また、城址の西側には相良護国神社がある。またかつては城内に野球のグラウンドと人吉市役所、市民会館があったが、熊本地震の被害を契機に移転、現在は人吉城歴史館と駐車場になっている。
歴史・沿革
鎌倉時代
源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。この地はの家臣のが城を構え支配する所であった。主馬佑は長頼に反抗したため、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺した。これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。後に三の丸には鎮魂の為に「お津賀の社」が建立された(現在は残っていない)。
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最終更新 2026/10/16 14:44 · r212714 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。