アドルフ・ヒトラーの死 — OpenHistory
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アドルフ・ヒトラーの死 本項目では、第二次世界大戦末期の1945年4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、総統地下壕の一室で、夫人のエヴァ・ブラウンとともに自殺を遂げた経緯について記述する。 自殺の手段は、拳銃と劇薬であるシアン化物を複合的に用いたものとされている。ヒトラーの生前の意向に従い、夫妻の死体はガソリンをかけて燃やされたが、その遺骸はベルリンを占領した赤軍により発見、回収された。ヒトラーの遺骸は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと後継組織であるロシアのFSBに保管されていた記録が公開さ
開始 1945年4月30日 最終更新 2026/10/16 15:01
目次 1. 過程 2. 自殺 3. 余波 4. 同盟国の反応 5. 遺骨 6. 戯曲化 7. 参考文献 8. 関連書籍 9. 脚注 最終更新 2026/10/16 15:01 · r272344 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。
アメリカ軍は3月7日にドイツ軍の反撃を退け、レマーゲン鉄橋を確保 、初めてライン川を越えた。イギリス軍とカナダ軍もライン川を越え、ドイツの中心的工業地帯であるルール地方 に侵入しつつあった2 。その南では、ロレーヌ地方 を占領したアメリカ軍が、ライン川流域のマインツ とマンハイム に向かって進撃を続けていた2 。イタリア戦線 では、1945年春のアメリカ軍とイギリス連邦軍による攻勢の結果、ドイツ軍は北部に追い詰められた3 。軍事作戦と並行して、連合国は2月4日から11日にかけて首脳会談(ヤルタ会談 )を実施し、ヨーロッパにおける戦争終結の形態を議論した4 。
戦況の悪化を受け、ヒトラーは1月16日から総統地下壕 に居を移しており、以降ここから指揮統括を行っていた。ドイツ指導部は、ベルリンの戦い がヨーロッパ戦線における最後の戦いとなることを認識していた5 。3月中旬、ハンガリー の油田確保の名目で行われた春の目覚め作戦 は、赤軍の反撃によりドイツ軍はオーストリアまで潰走、僅かに残った機甲戦力を使い果たし、大規模な反攻作戦はここに全て終わった。アメリカ軍は4月11日までに、ベルリンの西方100kmに位置するエルベ川 を渡った6 。4月18日にはルール地方のB軍集団 の32万5,000人もの将兵が降伏し 、捕虜となった。これにより、アメリカ軍はベルリンに進撃することが可能となった。
東部戦線では4月16日、赤軍がオーデル川を渡り、ベルリンを守る最終防衛線であるゼーロウ高地 を突破するための戦いを開始していた7 。4月19日までにドイツ軍はゼーロウ高地から全面撤退し、ベルリン東方の防衛線は消滅した。ヒトラー56歳の誕生日である4月20日、ベルリンが初めて赤軍による砲撃を受けた。4月21日の夜までには、郊外に赤軍の機甲部隊が到達した8 。側近や国防軍首脳の一部は、ヒトラーに南部のベルヒテスガーデン への疎開を進言したが、彼はそれを拒否した。
4月22日午後の軍事情勢会議においてヒトラーは、フェリックス・シュタイナー SS大将 率いる「シュタイナー軍集団」が、前日にヒトラーから与えられたベルリン救援のための攻撃命令を実行していないと知らされたことで、明らかな神経衰弱 に陥った9 。ヒトラーは感情を抑えられなくなり、ドイツ軍司令官たちの不忠と無能さを怒りに任せて非難し、ついには戦争に敗北したことを初めて認めるに至った。さらに自分はあくまでもベルリンにとどまり、最後には銃で自決すると宣言した10 。
ヒトラーはその後、軍医であったヴェルナー・ハーゼ SS中佐 に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。ハーゼは「ピストルと毒」による自殺を提案し、シアン化物 の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用を勧めた11 。ヒトラーが自殺を決めたことを知ったヘルマン・ゲーリング 国家元帥 は、自身を後継者に指名した1941年の総統布告に基づいて、国家指揮権を自身に移譲するよう求める電報 をヒトラーに送った12 。この電報を受けた官房長のマルティン・ボルマン は、彼がクーデターを企てているとヒトラーに説き、彼もゲーリングの反逆を確信した13 。ヒトラーはゲーリングに返信し、全官職を辞さない限り処刑されることになると伝えた。同日、ヒトラーは彼をすべての官職から解任したうえで逮捕令を出した14 。
4月23日、赤軍がベルリン市内に突入した。ベルリンの外でも、4月25日にエルベ河畔のトルガウ でアメリカ軍と赤軍が邂逅 、東西の戦線が繋がった。4月27日の時点で、ベルリンはドイツのほかの地域から遮断されていた。防衛部隊との間の安定した無線通信も失われており、国防軍最高司令部 (OKW)は気球を打ち上げての短波通信に頼らざるを得ず、総統地下壕の司令官は電話回線 を用いて指示・命令を下すことを強いられていた。同様に、ニュースや情報の入手は公共のラジオ放送に頼らざるを得ない状況だった15 。4月28日、ロイター通信 発のBBC のニュース報道が地下壕で傍受され、その内容のコピーがヒトラーのもとに届けられた16 。この報道で、親衛隊全国指導者 ハインリヒ・ヒムラー が、西側連合国に対して独自に降伏を提案したが拒絶されたこと、ならびに彼が自らにドイツの降伏交渉を行う権限があると連合国側にほのめかしていたことが暴露された。ヒトラーはこれを自分に対する重大な反逆とみなし、同日の午後には抑えられない怒りと苦々しさから、ヒムラーに対する罵詈雑言を怒鳴り散らした17 。ヒトラーは直ちにヒムラーの逮捕令を出し、総統大本営 における彼の連絡将校 であったヘルマン・フェーゲライン SS中将を逮捕・銃殺刑に処した18 。
この時点で、赤軍はポツダム広場 にまで進出しており、総統官邸 への強襲が目前に迫っているという兆候が観察されていた。この危機的状況と、最後まで信じていたヒムラーと親衛隊にまで裏切られた形になった事に決定的な衝撃を受け、ヒトラーは人生の最期についていくつかの決定を下したと考えられる19 。ヒトラーはエヴァと結婚することを決め、4月28日の深夜、 2人は総統地下壕 の地図室でささやかな人前結婚式を挙げた20 。結婚式のあと、ヒトラーは妻となったエヴァとともに簡素な結婚披露宴を催した。その後、個人秘書官のトラウデル・ユンゲ を連れて別室に移動し、自身の遺言 を口述したとアントニー・ビーヴァー は考察している。午前4時、ヒトラーは遺言の書類に署名し床に就いた。なお、記録によってはヒトラーが遺書を口述したのは結婚式の直前だということになっているが、いずれにしても、サインのタイミングについては一致している21 22 。結果的にヒトラーとエヴァが正式な夫婦として生活したのは、40時間に満たなかった。
4月30日午前1時までに、ヒトラーがあてにしていたベルリン救援のためのドイツ軍部隊が、すべて包囲されるか守勢に立たされていることがOKW総長ヴィルヘルム・カイテル 元帥によって報告された26 。4月30日の朝遅くには、赤軍が総統地下壕から500mも離れていない場所にまで迫り、ヒトラーはベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング 大将と会談を持った。彼はベルリン防衛軍の弾薬がおそらく夜には尽きるであろうこと、ベルリンでの戦闘行為は24時間以内に停止せざるを得ないことをヒトラーに告げた26 。同時にヴァイトリングはヒトラーに脱出の許可を願い出た。彼は以前にも脱出許可を願い出て却下されていた。しかしヒトラーからの返答がなかったため、彼はベンドラーブロック (官庁街)にある本部に戻った。同日13時ごろ、ヴァイトリングは夜を待って脱出を試みることについてヒトラーからの許可を得た27 。
自殺 14時30分ごろ、ヒトラーとエヴァは執務室の奥にある居間に入っていった27 29 。「15時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人がのちに伝えている。
数分待って、ヒトラーの護衛係であった総統警護隊 のハインツ・リンゲ SS中佐が、ボルマンの立ち合いのもと居間のドアを開けた30 。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、リンゲはのちに証言している。これは青酸(シアン化水素 水溶液)の一般的な特徴として知られている30 。ヒトラーの副官のオットー・ギュンシェ SS少佐が居間に入り、ソファに腰かけた2人の死体を確認した。エヴァの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、彼から遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65 で自らを撃ったのだ」と述べた30 31 32 。今日では、ヒトラーはまずシアン化物(青酸カリ )のカプセルを噛み砕き、すぐに右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている33 。
自殺に使われたピストルはヒトラーの足元に落ちていた30 。彼の頭から滴った血が、居間の床に血だまりをつくっていた34 35 。総統護衛部隊員のローフス・ミシュ SS曹長によれば、ヒトラーの頭部は前方のテーブルの上に横たわっていたという36 。リンゲの証言では、エヴァの死体には外傷が見当たらず、その顔からはシアン化物を用いて服毒自殺したことが見て取れた37 。
ギュンシェが居間を出て、ヒトラーの死を地下壕に残る人々に発表した。その後すぐに、人々は煙草をふかし始めた(ヒトラーは生前喫煙を嫌悪 し、許可しなかった38 39 40 )。ヒトラーの生前の指示に従い、2人の死体は地上階に運ばれ、地下壕の非常口を経て、総統官邸 裏の中庭に開いた砲弾孔に降ろされたあと、燃やすためにガソリンを浴びせかけられた41 42 。ミッシュは、誰かが「早く上階へ急げ、彼らはボスを燃やしている」と叫んだのを聞いたと証言している36 。何度かガソリンへの点火に失敗したあと、リンゲはいったん地下壕に戻り、厚く巻かれた紙を持って帰ってきた。その後、ボルマンが紙に火をつけ、それを死体の上に投げた。燃え上がったヒトラーとエヴァの死体に向けて、地下壕出入り口のすぐ内側からボルマン、ギュンシェ、リンゲ、ゲッベルスのほか、ヒトラー専属運転手エーリヒ・ケンプカ SS中佐、RSD 刑事部長ペーター・ヘーグル SS中佐、総統護衛部隊員のエヴァルト・リンドロフ SS大尉とハンス・ライザーSS中尉らがナチス式敬礼 で送った43 44 。16時15分ごろ、リンゲはハインツ・クリューガーSS少尉とヴェルナー・シュヴィーデルSS曹長に、ヒトラーの居間の絨毯を巻き上げて燃やすよう命じた。シュヴィーデルは居間に入った瞬間、ソファのひじかけ付近に「大きな皿」ほどの大きさの血だまりがあるのが目に入ったとのちに語っている。シュヴィーデルは、空の薬莢 がひとつ、絨毯の上にピストルから1ミリほど離れて落ちているのに気づき、かがんで薬莢を拾い上げた45 。2人は血痕のついた絨毯を回収すると、総統官邸の中庭まで運び、その場で燃やした46 。
その日の午後を通して、赤軍は断続的に総統官邸の付近を砲撃していた。ヒトラーらの遺体をさらに燃やすため、親衛隊員が追加のガソリン缶を運んできた。リンゲによれば、燃やしたのが屋外であったため、2人の亡骸を完全に燃やし尽くすことはできなかったとしている47 。遺体の焼却は16時から18時30分にかけて行われた。18時30分ごろ、リンドルフとライザーが燃え残った2人の亡骸を掩蔽した48 。
余波 5月1日、ラジオ局「国家放送局ハンブルク(Reichssender Hamburg)」は通常の放送を中断し、ワーグナー の「ニーベルングの指輪 」第四部「神々の黄昏 」を流し、その合間にまもなく重大放送が発表されるとアナウンスした。その後、ブルックナー の「第七交響曲 」が流されたあと、アナウンサーが総統大本営 発表としてヒトラーが総統官邸で戦死し、遺言で後継者にカール・デーニッツ 海軍元帥を指名したことを発表した49 。デーニッツはドイツ国民に総統の死を悼むよう要求し、ヒトラーは首都を防衛するため英雄的な死を遂げたと述べた50 。この放送の際に、地下放送局のものと思われる「ウソだ」との声が一瞬割り込んでいる。デーニッツの演説が終わると、ドイツ国歌とナチス党歌「旗を高く掲げよ 」が演奏され、その後にデーニッツによる「全軍に対する布告」が放送され、兵士が存在する限りボリシェヴィキ との戦闘を継続し、総統への忠誠は自分に引き継がれるとして、将兵の義務を果たすよう求め、義務を放棄するものは卑怯者であり、裏切り者であると呼びかけた51 。
この「全軍に対する布告」は、可能な限りの通信手段を用いて各部隊に伝達された。軍と国家を維持するため、デーニッツは西部での英米への部分降伏を画策し、東部のドイツ軍部隊を西方に移動した。この結果、約180万人ものドイツ軍将兵がソ連の捕虜になることを回避することができた。デーニッツの方策は一定の成功を収めたが、一方で戦闘は5月8日まで継続されることとなり、人的被害は拡大した52 。
死から約13時間が経過した5月1日の朝、スターリン はヒトラーの自殺を知った53 。5月1日午前4時、陸軍参謀総長ハンス・クレープス 大将が、条件つき降伏を模索するために第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ 大将と会っており、その際にヒトラー死亡の報を伝えた54 55 。スターリンはドイツの無条件降伏を要求し、さらにヒトラーが死亡したことを確認するよう求めた。スターリンは赤軍の防諜部隊スメルシ に、ヒトラーの死体を発見するよう命じた56 。5月2日の早朝、赤軍は総統官邸を制圧した57 。官邸地下の総統地下壕では、クレープス大将とヴィルヘルム・ブルクドルフ 大将が頭部を撃ち抜いて自殺した58 。同日、スメルシの指揮官イワン・クリメンコがヒトラーの死体の捜索を始め、午後5時、ゲッベルス夫妻の焼け焦げた死体を見つけた59 。
5月4日、クリメンコは、ヒトラーとエヴァ、そして犬2匹(ブロンディ とその子ヴルフと考えられている)のひどく焼けた死体を発見した60 。ヒトラーらの遺骸は砲弾クレーターに埋もれており、翌日に掘り起こされた61 62 。スターリンはヒトラーの死を確信するのに慎重を期しており、その情報を公に発表することを禁じた63 64 。1945年5月11日までに、ヒトラーの歯科医フーゴ・ブラシュケ 、歯科助手のケーテ・ホイザーマン、歯科技師のフリッツ・エヒトマンらにより、クレーターから回収された歯の残骸がヒトラーとエヴァのものであることが確認され、回収された下顎(歯の治療跡があった)が、ヒトラーのものであることが証明された65 66 。公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は大敵の死を容易には信じようとしなかった67 68 。その後、ヒトラーとエヴァの遺骸は、スメルシによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。ヒトラーらの遺骸は当初、1945年6月上旬にベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、その後再び掘り出され、最初の埋葬から8か月後、マクデブルク の赤軍駐屯地に秘密裏に埋葬された69 。
政治的意図から、ソ連はヒトラーの最期について諸説を発表した70 71 。1945年以降の数年間、ソ連はヒトラーが逃走して生存しており、西側諸国によって保護されていると主張していた70 。このようなソ連の策略により、西側関係者の間にもヒトラーの生死について一時的混乱がもたらされた。ニュルンベルク裁判 におけるアメリカの検事トーマス・J・ドッド は、「ヒトラーが死んだと言い切ることは誰にもできない」と述べた。ポツダム会談 中の1945年8月、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマン はスターリンに「本当にヒトラーは死んだのか」と質問したが、彼はぶっきらぼうに「ノー」とだけ返答した。1945年11月、ベルリンのイギリス占領地区における防諜部門のトップであったディック・ホワイト は、部下のヒュー・トレヴァー=ローパー にヒトラーの死についての調査を行うよう命令し、ソ連の主張への反証を試みた。彼による調査の成果は、1947年に本として出版された72 。
同盟国の反応 その後、デーニッツの政権 が外務大臣に任命したフォン・クロージク 伯爵より、駐日ドイツ大使館に対して海軍の通信経由で「ドイツ政府が同盟国としての義務を果たせなくなったことに対して残念なことと、連合国と停戦に向けて交渉を行っている」ことを日本政府に外交文書で伝えるように依頼した。
しかし、自国の国家元首の死を同盟国にすぐに知らせることなく3日後に出先機関にラジオで知らせることになったことや、同盟国に事前に知らせることなく連合国と停戦に向けて交渉を行っているというドイツ政府の態度に怒った東郷外相は、当然受け取りを拒否した。さらに日本政府は、同盟国の国家元首に対して当然行うはずの公的な弔意表明や半旗 の掲揚などは一切行わなかった73 。日本のラジオ放送ではヒトラーの死と、デーニッツが国家元首の座に就いたこと、東郷茂徳 外務大臣 が「ドイツは三国同盟に違反した」ことを述べるにとどまった。また、『朝日新聞 』は訃報に「ヒ総統薨去 」の見出しを用い、外務省政務局の「世界情勢ノ動向」においても「『ヒットラー』総統薨去」の表現を用いている74 。
ドイツ降伏後の5月9日に、東京の駐日ドイツ大使館は、当時の公的機関としてはおそらく世界唯一のヒトラー追悼式を行った。しかし、今や無条件降伏し国家として消滅したドイツに日本政府は当然冷淡で、政府や軍の高官の出席は行わず儀礼的に外務省 の儀典課長を参列させるに留めた75 。その後、外務省は「国家として消滅した」ことを根拠に、駐日ドイツ大使館のすべての活動を禁止している76 。
遺骨 1970年には、スメルシの施設は KGB のコントロール下、東ドイツ 政府に移譲される予定だった。ヒトラーの埋葬場所がネオナチ の聖地になることを恐れ、KGB議長のユーリ・アンドロポフ は部隊に遺骸を破壊する許可を与えた77 。ソビエトのKGBチームは詳細な埋葬場所を指示され、1970年4月4日秘かに10体の遺骸を掘り出し完全に焼却して灰をエルベ川 に散骨 した78 。
この1年前の1969年にソビエトのジャーナリスト 、レヴ・ベジメンスキー(Lev Bezymensky)が、スメルシの検視 レポートに基づき西側で本を出版した。しかし初期の情報攪乱 のため、歴史家はその情報の信頼性に疑いを持つ場合がある79 。
しかしソビエト連邦の崩壊 後の1993年に、KGB (FSB )が、KGBの元メンバーによる公的検死記録その他の報告書を公表した。これらにより歴史家は、ヒトラーとエヴァの死体のその後について見解の一致に達した80 。また、これによりトレヴァー=ローパー の1947年の著書『The Last Days of Hitler 』で示されたヒトラーの死についての見解が裏付けられた。
1993年にロシア政府は、ヒトラーの下頤骨と銃弾の痕のある頭骨の一部を、モスクワ にあるロシア連邦保安庁 (FSB)の公文書館が保管していることを発表した。当時、アメリカ・コネチカット大学 のチームがロシア政府の許可を受けて頭骨のDNA鑑定 を実施したところ、この頭骨は女性のものであるとの結果が出たという。
2000年4月26日、モスクワ市内のロシア国立公文書館でヒトラーの頭骨の一部が報道陣に初公開された。遺骨の公開展示を企画した責任者であるFSBのニコライ・ミハンキン大佐はインターファックス通信とのインタビューで「ヒトラーの遺骨は二度とロシアから出ることはないだろう。我々は常にそれを監視している。」と語っている81 。
2018年、フランス人法医学 者のフィリップ・シャルリエ がロシアの連邦保安局 と国立公文書館の許可を受け、保管されていたヒトラーの遺骨の調査を開始した(遺骨調査の許可は1946年以来とされている)。公文書館にある頭蓋骨はケースに入っており触れることさえできなかったが、ロシアKSBに保管されていた義歯の断片については詳細な調査が許された。ヒトラーの生前に撮影されていたレントゲン写真 と照合したところ、義歯の形状が一致した。彼の骨格や歯の状態に合わせたオーダーメイドであり、別人のものとは考えがたい。また、表面の傷や付着した歯石は実際に使用されていたことを示しており、模造品とも考えがたい。偶然落ちた破片を持ち帰って付着物の組成を分析したところ、レタスの繊維などが見つかり、これも菜食主義者 であったヒトラーの食生活と合致する。以上のことから、この義歯は本物と断定された。そのうえで、頭蓋骨に残された弾痕、虫歯についた青みがかった付着物から、銃で頭を撃ち抜く行為も青酸カリを服用する行為も両方行われたのであろうと結論づけている82 。
戯曲化
参考文献
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エリヒ・ケムカ(長岡修一訳)『ヒットラーを焼いたのは俺だ』(同光社磯部書房、1953年)
エイダ・ペトロヴァ、ピーター・ワトソン(藤井留美訳)『ヒトラー最期の日―50年目の新事実―』(原書房、1996年)ISBN 4-562-02861-0
マルティン・ボルマン 記録(篠原正瑛 訳・解説)『ヒトラーの遺言』(原書房、1991年)ISBN 4-562-02246-9
トレヴァ=ローパー(橋下福夫訳)『ヒトラー最期の日』(筑摩書房、1975年)(原著:トレヴァー=ローパー, ヒュー (1947, reprint 1992). The Last Days of Hitler . Chicago, IL: University Of Chicago Press . ISBN 0-226-81224-3 )
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関連書籍
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濱崎一敏 『ヒトラーの死の謎 ナチズム文学研究における情報選択の問題(一考察) 』1991年7月31日
脚注
アメリカ軍は3月7日にドイツ軍の反撃を退け、レマーゲン鉄橋を確保 、初めてライン川を越えた。イギリス軍とカナダ軍もライン川を越え、ドイツの中心的工業地帯であるルール地方 に侵入しつつあった2 。その南では、ロレーヌ地方 を占領したアメリカ軍が、ライン川流域のマインツ とマンハイム に向かって進撃を続けていた2 。イタリア戦線 では、1945年春のアメリカ軍とイギリス連邦軍による攻勢の結果、ドイツ軍は北部に追い詰められた3 。軍事作戦と並行して、連合国は2月4日から11日にかけて首脳会談(ヤルタ会談 )を実施し、ヨーロッパにおける戦争終結の形態を議論した4 。
戦況の悪化を受け、ヒトラーは1月16日から総統地下壕 に居を移しており、以降ここから指揮統括を行っていた。ドイツ指導部は、ベルリンの戦い がヨーロッパ戦線における最後の戦いとなることを認識していた5 。3月中旬、ハンガリー の油田確保の名目で行われた春の目覚め作戦 は、赤軍の反撃によりドイツ軍はオーストリアまで潰走、僅かに残った機甲戦力を使い果たし、大規模な反攻作戦はここに全て終わった。アメリカ軍は4月11日までに、ベルリンの西方100kmに位置するエルベ川 を渡った6 。4月18日にはルール地方のB軍集団 の32万5,000人もの将兵が降伏し 、捕虜となった。これにより、アメリカ軍はベルリンに進撃することが可能となった。
東部戦線では4月16日、赤軍がオーデル川を渡り、ベルリンを守る最終防衛線であるゼーロウ高地 を突破するための戦いを開始していた7 。4月19日までにドイツ軍はゼーロウ高地から全面撤退し、ベルリン東方の防衛線は消滅した。ヒトラー56歳の誕生日である4月20日、ベルリンが初めて赤軍による砲撃を受けた。4月21日の夜までには、郊外に赤軍の機甲部隊が到達した8 。側近や国防軍首脳の一部は、ヒトラーに南部のベルヒテスガーデン への疎開を進言したが、彼はそれを拒否した。
4月22日午後の軍事情勢会議においてヒトラーは、フェリックス・シュタイナー SS大将 率いる「シュタイナー軍集団」が、前日にヒトラーから与えられたベルリン救援のための攻撃命令を実行していないと知らされたことで、明らかな神経衰弱 に陥った9 。ヒトラーは感情を抑えられなくなり、ドイツ軍司令官たちの不忠と無能さを怒りに任せて非難し、ついには戦争に敗北したことを初めて認めるに至った。さらに自分はあくまでもベルリンにとどまり、最後には銃で自決すると宣言した10 。
ヒトラーはその後、軍医であったヴェルナー・ハーゼ SS中佐 に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。ハーゼは「ピストルと毒」による自殺を提案し、シアン化物 の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用を勧めた11 。ヒトラーが自殺を決めたことを知ったヘルマン・ゲーリング 国家元帥 は、自身を後継者に指名した1941年の総統布告に基づいて、国家指揮権を自身に移譲するよう求める電報 をヒトラーに送った12 。この電報を受けた官房長のマルティン・ボルマン は、彼がクーデターを企てているとヒトラーに説き、彼もゲーリングの反逆を確信した13 。ヒトラーはゲーリングに返信し、全官職を辞さない限り処刑されることになると伝えた。同日、ヒトラーは彼をすべての官職から解任したうえで逮捕令を出した14 。
4月23日、赤軍がベルリン市内に突入した。ベルリンの外でも、4月25日にエルベ河畔のトルガウ でアメリカ軍と赤軍が邂逅 、東西の戦線が繋がった。4月27日の時点で、ベルリンはドイツのほかの地域から遮断されていた。防衛部隊との間の安定した無線通信も失われており、国防軍最高司令部 (OKW)は気球を打ち上げての短波通信に頼らざるを得ず、総統地下壕の司令官は電話回線 を用いて指示・命令を下すことを強いられていた。同様に、ニュースや情報の入手は公共のラジオ放送に頼らざるを得ない状況だった15 。4月28日、ロイター通信 発のBBC のニュース報道が地下壕で傍受され、その内容のコピーがヒトラーのもとに届けられた16 。この報道で、親衛隊全国指導者 ハインリヒ・ヒムラー が、西側連合国に対して独自に降伏を提案したが拒絶されたこと、ならびに彼が自らにドイツの降伏交渉を行う権限があると連合国側にほのめかしていたことが暴露された。ヒトラーはこれを自分に対する重大な反逆とみなし、同日の午後には抑えられない怒りと苦々しさから、ヒムラーに対する罵詈雑言を怒鳴り散らした17 。ヒトラーは直ちにヒムラーの逮捕令を出し、総統大本営 における彼の連絡将校 であったヘルマン・フェーゲライン SS中将を逮捕・銃殺刑に処した18 。
この時点で、赤軍はポツダム広場 にまで進出しており、総統官邸 への強襲が目前に迫っているという兆候が観察されていた。この危機的状況と、最後まで信じていたヒムラーと親衛隊にまで裏切られた形になった事に決定的な衝撃を受け、ヒトラーは人生の最期についていくつかの決定を下したと考えられる19 。ヒトラーはエヴァと結婚することを決め、4月28日の深夜、 2人は総統地下壕 の地図室でささやかな人前結婚式を挙げた20 。結婚式のあと、ヒトラーは妻となったエヴァとともに簡素な結婚披露宴を催した。その後、個人秘書官のトラウデル・ユンゲ を連れて別室に移動し、自身の遺言 を口述したとアントニー・ビーヴァー は考察している。午前4時、ヒトラーは遺言の書類に署名し床に就いた。なお、記録によってはヒトラーが遺書を口述したのは結婚式の直前だということになっているが、いずれにしても、サインのタイミングについては一致している21 22 。結果的にヒトラーとエヴァが正式な夫婦として生活したのは、40時間に満たなかった。
4月30日午前1時までに、ヒトラーがあてにしていたベルリン救援のためのドイツ軍部隊が、すべて包囲されるか守勢に立たされていることがOKW総長ヴィルヘルム・カイテル 元帥によって報告された26 。4月30日の朝遅くには、赤軍が総統地下壕から500mも離れていない場所にまで迫り、ヒトラーはベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング 大将と会談を持った。彼はベルリン防衛軍の弾薬がおそらく夜には尽きるであろうこと、ベルリンでの戦闘行為は24時間以内に停止せざるを得ないことをヒトラーに告げた26 。同時にヴァイトリングはヒトラーに脱出の許可を願い出た。彼は以前にも脱出許可を願い出て却下されていた。しかしヒトラーからの返答がなかったため、彼はベンドラーブロック (官庁街)にある本部に戻った。同日13時ごろ、ヴァイトリングは夜を待って脱出を試みることについてヒトラーからの許可を得た27 。
自殺 14時30分ごろ、ヒトラーとエヴァは執務室の奥にある居間に入っていった27 29 。「15時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人がのちに伝えている。
数分待って、ヒトラーの護衛係であった総統警護隊 のハインツ・リンゲ SS中佐が、ボルマンの立ち合いのもと居間のドアを開けた30 。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、リンゲはのちに証言している。これは青酸(シアン化水素 水溶液)の一般的な特徴として知られている30 。ヒトラーの副官のオットー・ギュンシェ SS少佐が居間に入り、ソファに腰かけた2人の死体を確認した。エヴァの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、彼から遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65 で自らを撃ったのだ」と述べた30 31 32 。今日では、ヒトラーはまずシアン化物(青酸カリ )のカプセルを噛み砕き、すぐに右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている33 。
自殺に使われたピストルはヒトラーの足元に落ちていた30 。彼の頭から滴った血が、居間の床に血だまりをつくっていた34 35 。総統護衛部隊員のローフス・ミシュ SS曹長によれば、ヒトラーの頭部は前方のテーブルの上に横たわっていたという36 。リンゲの証言では、エヴァの死体には外傷が見当たらず、その顔からはシアン化物を用いて服毒自殺したことが見て取れた37 。
ギュンシェが居間を出て、ヒトラーの死を地下壕に残る人々に発表した。その後すぐに、人々は煙草をふかし始めた(ヒトラーは生前喫煙を嫌悪 し、許可しなかった38 39 40 )。ヒトラーの生前の指示に従い、2人の死体は地上階に運ばれ、地下壕の非常口を経て、総統官邸 裏の中庭に開いた砲弾孔に降ろされたあと、燃やすためにガソリンを浴びせかけられた41 42 。ミッシュは、誰かが「早く上階へ急げ、彼らはボスを燃やしている」と叫んだのを聞いたと証言している36 。何度かガソリンへの点火に失敗したあと、リンゲはいったん地下壕に戻り、厚く巻かれた紙を持って帰ってきた。その後、ボルマンが紙に火をつけ、それを死体の上に投げた。燃え上がったヒトラーとエヴァの死体に向けて、地下壕出入り口のすぐ内側からボルマン、ギュンシェ、リンゲ、ゲッベルスのほか、ヒトラー専属運転手エーリヒ・ケンプカ SS中佐、RSD 刑事部長ペーター・ヘーグル SS中佐、総統護衛部隊員のエヴァルト・リンドロフ SS大尉とハンス・ライザーSS中尉らがナチス式敬礼 で送った43 44 。16時15分ごろ、リンゲはハインツ・クリューガーSS少尉とヴェルナー・シュヴィーデルSS曹長に、ヒトラーの居間の絨毯を巻き上げて燃やすよう命じた。シュヴィーデルは居間に入った瞬間、ソファのひじかけ付近に「大きな皿」ほどの大きさの血だまりがあるのが目に入ったとのちに語っている。シュヴィーデルは、空の薬莢 がひとつ、絨毯の上にピストルから1ミリほど離れて落ちているのに気づき、かがんで薬莢を拾い上げた45 。2人は血痕のついた絨毯を回収すると、総統官邸の中庭まで運び、その場で燃やした46 。
その日の午後を通して、赤軍は断続的に総統官邸の付近を砲撃していた。ヒトラーらの遺体をさらに燃やすため、親衛隊員が追加のガソリン缶を運んできた。リンゲによれば、燃やしたのが屋外であったため、2人の亡骸を完全に燃やし尽くすことはできなかったとしている47 。遺体の焼却は16時から18時30分にかけて行われた。18時30分ごろ、リンドルフとライザーが燃え残った2人の亡骸を掩蔽した48 。
余波 5月1日、ラジオ局「国家放送局ハンブルク(Reichssender Hamburg)」は通常の放送を中断し、ワーグナー の「ニーベルングの指輪 」第四部「神々の黄昏 」を流し、その合間にまもなく重大放送が発表されるとアナウンスした。その後、ブルックナー の「第七交響曲 」が流されたあと、アナウンサーが総統大本営 発表としてヒトラーが総統官邸で戦死し、遺言で後継者にカール・デーニッツ 海軍元帥を指名したことを発表した49 。デーニッツはドイツ国民に総統の死を悼むよう要求し、ヒトラーは首都を防衛するため英雄的な死を遂げたと述べた50 。この放送の際に、地下放送局のものと思われる「ウソだ」との声が一瞬割り込んでいる。デーニッツの演説が終わると、ドイツ国歌とナチス党歌「旗を高く掲げよ 」が演奏され、その後にデーニッツによる「全軍に対する布告」が放送され、兵士が存在する限りボリシェヴィキ との戦闘を継続し、総統への忠誠は自分に引き継がれるとして、将兵の義務を果たすよう求め、義務を放棄するものは卑怯者であり、裏切り者であると呼びかけた51 。
この「全軍に対する布告」は、可能な限りの通信手段を用いて各部隊に伝達された。軍と国家を維持するため、デーニッツは西部での英米への部分降伏を画策し、東部のドイツ軍部隊を西方に移動した。この結果、約180万人ものドイツ軍将兵がソ連の捕虜になることを回避することができた。デーニッツの方策は一定の成功を収めたが、一方で戦闘は5月8日まで継続されることとなり、人的被害は拡大した52 。
死から約13時間が経過した5月1日の朝、スターリン はヒトラーの自殺を知った53 。5月1日午前4時、陸軍参謀総長ハンス・クレープス 大将が、条件つき降伏を模索するために第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ 大将と会っており、その際にヒトラー死亡の報を伝えた54 55 。スターリンはドイツの無条件降伏を要求し、さらにヒトラーが死亡したことを確認するよう求めた。スターリンは赤軍の防諜部隊スメルシ に、ヒトラーの死体を発見するよう命じた56 。5月2日の早朝、赤軍は総統官邸を制圧した57 。官邸地下の総統地下壕では、クレープス大将とヴィルヘルム・ブルクドルフ 大将が頭部を撃ち抜いて自殺した58 。同日、スメルシの指揮官イワン・クリメンコがヒトラーの死体の捜索を始め、午後5時、ゲッベルス夫妻の焼け焦げた死体を見つけた59 。
5月4日、クリメンコは、ヒトラーとエヴァ、そして犬2匹(ブロンディ とその子ヴルフと考えられている)のひどく焼けた死体を発見した60 。ヒトラーらの遺骸は砲弾クレーターに埋もれており、翌日に掘り起こされた61 62 。スターリンはヒトラーの死を確信するのに慎重を期しており、その情報を公に発表することを禁じた63 64 。1945年5月11日までに、ヒトラーの歯科医フーゴ・ブラシュケ 、歯科助手のケーテ・ホイザーマン、歯科技師のフリッツ・エヒトマンらにより、クレーターから回収された歯の残骸がヒトラーとエヴァのものであることが確認され、回収された下顎(歯の治療跡があった)が、ヒトラーのものであることが証明された65 66 。公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は大敵の死を容易には信じようとしなかった67 68 。その後、ヒトラーとエヴァの遺骸は、スメルシによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。ヒトラーらの遺骸は当初、1945年6月上旬にベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、その後再び掘り出され、最初の埋葬から8か月後、マクデブルク の赤軍駐屯地に秘密裏に埋葬された69 。
政治的意図から、ソ連はヒトラーの最期について諸説を発表した70 71 。1945年以降の数年間、ソ連はヒトラーが逃走して生存しており、西側諸国によって保護されていると主張していた70 。このようなソ連の策略により、西側関係者の間にもヒトラーの生死について一時的混乱がもたらされた。ニュルンベルク裁判 におけるアメリカの検事トーマス・J・ドッド は、「ヒトラーが死んだと言い切ることは誰にもできない」と述べた。ポツダム会談 中の1945年8月、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマン はスターリンに「本当にヒトラーは死んだのか」と質問したが、彼はぶっきらぼうに「ノー」とだけ返答した。1945年11月、ベルリンのイギリス占領地区における防諜部門のトップであったディック・ホワイト は、部下のヒュー・トレヴァー=ローパー にヒトラーの死についての調査を行うよう命令し、ソ連の主張への反証を試みた。彼による調査の成果は、1947年に本として出版された72 。
同盟国の反応 その後、デーニッツの政権 が外務大臣に任命したフォン・クロージク 伯爵より、駐日ドイツ大使館に対して海軍の通信経由で「ドイツ政府が同盟国としての義務を果たせなくなったことに対して残念なことと、連合国と停戦に向けて交渉を行っている」ことを日本政府に外交文書で伝えるように依頼した。
しかし、自国の国家元首の死を同盟国にすぐに知らせることなく3日後に出先機関にラジオで知らせることになったことや、同盟国に事前に知らせることなく連合国と停戦に向けて交渉を行っているというドイツ政府の態度に怒った東郷外相は、当然受け取りを拒否した。さらに日本政府は、同盟国の国家元首に対して当然行うはずの公的な弔意表明や半旗 の掲揚などは一切行わなかった73 。日本のラジオ放送ではヒトラーの死と、デーニッツが国家元首の座に就いたこと、東郷茂徳 外務大臣 が「ドイツは三国同盟に違反した」ことを述べるにとどまった。また、『朝日新聞 』は訃報に「ヒ総統薨去 」の見出しを用い、外務省政務局の「世界情勢ノ動向」においても「『ヒットラー』総統薨去」の表現を用いている74 。
ドイツ降伏後の5月9日に、東京の駐日ドイツ大使館は、当時の公的機関としてはおそらく世界唯一のヒトラー追悼式を行った。しかし、今や無条件降伏し国家として消滅したドイツに日本政府は当然冷淡で、政府や軍の高官の出席は行わず儀礼的に外務省 の儀典課長を参列させるに留めた75 。その後、外務省は「国家として消滅した」ことを根拠に、駐日ドイツ大使館のすべての活動を禁止している76 。
遺骨 1970年には、スメルシの施設は KGB のコントロール下、東ドイツ 政府に移譲される予定だった。ヒトラーの埋葬場所がネオナチ の聖地になることを恐れ、KGB議長のユーリ・アンドロポフ は部隊に遺骸を破壊する許可を与えた77 。ソビエトのKGBチームは詳細な埋葬場所を指示され、1970年4月4日秘かに10体の遺骸を掘り出し完全に焼却して灰をエルベ川 に散骨 した78 。
この1年前の1969年にソビエトのジャーナリスト 、レヴ・ベジメンスキー(Lev Bezymensky)が、スメルシの検視 レポートに基づき西側で本を出版した。しかし初期の情報攪乱 のため、歴史家はその情報の信頼性に疑いを持つ場合がある79 。
しかしソビエト連邦の崩壊 後の1993年に、KGB (FSB )が、KGBの元メンバーによる公的検死記録その他の報告書を公表した。これらにより歴史家は、ヒトラーとエヴァの死体のその後について見解の一致に達した80 。また、これによりトレヴァー=ローパー の1947年の著書『The Last Days of Hitler 』で示されたヒトラーの死についての見解が裏付けられた。
1993年にロシア政府は、ヒトラーの下頤骨と銃弾の痕のある頭骨の一部を、モスクワ にあるロシア連邦保安庁 (FSB)の公文書館が保管していることを発表した。当時、アメリカ・コネチカット大学 のチームがロシア政府の許可を受けて頭骨のDNA鑑定 を実施したところ、この頭骨は女性のものであるとの結果が出たという。
2000年4月26日、モスクワ市内のロシア国立公文書館でヒトラーの頭骨の一部が報道陣に初公開された。遺骨の公開展示を企画した責任者であるFSBのニコライ・ミハンキン大佐はインターファックス通信とのインタビューで「ヒトラーの遺骨は二度とロシアから出ることはないだろう。我々は常にそれを監視している。」と語っている81 。
2018年、フランス人法医学 者のフィリップ・シャルリエ がロシアの連邦保安局 と国立公文書館の許可を受け、保管されていたヒトラーの遺骨の調査を開始した(遺骨調査の許可は1946年以来とされている)。公文書館にある頭蓋骨はケースに入っており触れることさえできなかったが、ロシアKSBに保管されていた義歯の断片については詳細な調査が許された。ヒトラーの生前に撮影されていたレントゲン写真 と照合したところ、義歯の形状が一致した。彼の骨格や歯の状態に合わせたオーダーメイドであり、別人のものとは考えがたい。また、表面の傷や付着した歯石は実際に使用されていたことを示しており、模造品とも考えがたい。偶然落ちた破片を持ち帰って付着物の組成を分析したところ、レタスの繊維などが見つかり、これも菜食主義者 であったヒトラーの食生活と合致する。以上のことから、この義歯は本物と断定された。そのうえで、頭蓋骨に残された弾痕、虫歯についた青みがかった付着物から、銃で頭を撃ち抜く行為も青酸カリを服用する行為も両方行われたのであろうと結論づけている82 。
戯曲化
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濱崎一敏 『ヒトラーの死の謎 ナチズム文学研究における情報選択の問題(一考察) 』1991年7月31日
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