シベリア出兵 — OpenHistory
ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害されたとされる3 )。
また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる4 。
背景 戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね、経済は破綻した。
このため、ドイツは東部戦線 の兵力を西部戦線 に集中することができ、フランス、イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争 を開始し、その一環としてロシア極東のウラジオストク に「チェコ 軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。
すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス、フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。
日本政府 のシベリア出兵に対する態度は、出兵という点では一致していた。しかし積極的な出兵論と消極的な出兵論の2つが存在し対立していた。
積極的な出兵論とは、イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく、日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場である。
対米協定にもとづく妥協案が形成され、出兵に踏み切った。
レオナード・ハンフリーズ (Leonard Humphreys) は
そこで寺内首相 は同地域において日本の息のかかった傀儡政権を樹立する事を参謀本部第二部長中島正武 少将に命じた5 。
経過 1918年夏、日本はアメリカとの間で、日本が単独では進軍しないこと、兵力はそれぞれ8000人程度とすることを取り決めた上で出兵した。
イギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたため動員した兵力は少数であり、兵力の大半はアメリカとの協定を破って3万7千の大軍を動員した日本軍であった。
1918年11月に起こったドイツ革命 によって第一次世界大戦は停戦する。これによってシベリア出兵の目的を喪失した連合国各国は、1920年に相次いで撤兵したが、その後も日本軍だけは駐留を続行した。
日本は当初のウラジオストクより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザン との戦闘を繰り返しながら、北樺太 、沿海州 や満洲を鉄道 沿いにバイカル湖 東部まで侵攻し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツク にまで占領地を拡大した。
日本は連合国各国よりも数十倍多い兵力を動員し、各国撤退後もシベリア駐留を続けたうえ、さらに占領地に傀儡国家の建設を画策したことから、ロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランス、中華民国などの連合国からも領土的野心を疑われることになった。
日本
パルチザン(ゲリラ)戦争 1919年1月から、労働者 ・農民 などで組織されたパルチザンによる遊撃戦 に苦戦。次第に交通の要衝を確保するのが精一杯の状態に陥った。日本軍はパルチザンが潜む可能性がある村落への懲罰攻撃を行った。
1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎 少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発している。
またウラジオストク派遣軍政務部長松平恒雄 の内田外相 宛の電報「別電一五九号」には次のように記されている。
同年1月アムール州「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起し、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まった。
日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため撤兵、村は一時赤軍パルチザン により解放された。しかし守備隊長マエダ大尉(前田多仲大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村に到着するや、逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った7 。
とあり、掠奪、ゲリラ作戦への懲膺を理由として村の全民家を焼夷したと記されている。
同年2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に100名以上刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った」とし、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある8 。
ユフタの闘い 同年2月25日にはアムール州のユフタにおいて日本軍310人がパルチザンと戦ってほぼ全滅した闘いである。
日本軍「パルチザン討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパルチザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊 第三大隊は同月26日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる8 。
イワノフカ事件 その後3月22日にはイワノフカ村「過激派大討伐」を敢行(イワノフカ事件 )。同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わなかった。
そこでロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行った。
しかしこうした抑圧政策は村民を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより深く浸透させる結果となり、アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団(師団長大井成元 中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派大討伐」作戦を敢行。
しかしパルチザンに対する数度の作戦は全て失敗し損害を拡大させて終わった。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。
ウラジオストク派遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には
翌年2月、同州にソビエト権力が復活すると同村において州都ブラゴヴェシチェンスク の某新聞社が再度調査を行なった。
この結果、死者総数は291名(内中国人 6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。
こうした作戦が招いた惨禍の中、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク 政権は赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、1920年に崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。
ボグダットの戦い
尼港事件 1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いるロシア人、朝鮮人、中国人4,000名から成る、共産パルチザン (遊撃隊)が黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ )の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊 第3大隊)および日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した。
この事件を契機として、日本軍はシベリア出兵後も1925年に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北樺太(サガレン州)を保障占領 した。
日本軍の宣撫工作 日本軍は出兵当初から「露国領土の保全」と「内政不干渉」を謳った「1918年8月2日布告」9 の普及に努めたが、ロシア人住民の対日感情が芳しくないことを熟知すると、日本国内の宗教団体 を利用する方式を採用し、日本正教会 と西本願寺 に白羽の矢が立った。前者からは、三井道朗 、森田亮、瀬沼烙三郎 、石川喜三郎 、計4名の神父、後者からはウラジオストクの西本願寺布教場の大田覚眠 師が工作員に指名された。
そこには「表面全然政府ト関係ナキ体裁」をとることなど、工作を実施する上での規定が詳細に記されている。
日本軍特務機関 および総領事と緊密な関係を保ちつつ、森田と瀬沼はウラジオストク方面を中心に活動し、三井と石川は北満州・ザバイカル州方面、さらにはチタからイルクールクまで足を伸ばした。
後者は遊説の傍らハルビン で購入した食料品や日用品の廉売に従事したとされる。西本願寺の大田もウラジオストクで宣撫活動に従事。
しかし1919年頃まで続いた活動の成果は芳しくなかったとされる10 。
現地における日本軍将兵の実態 一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られた。
また、チェコ軍救済と称してウスリー鉄道沿いにシマノフカまで前進した日本軍先陣部隊が、その先には「ロシア人しかいないと言われて引き返し」、その後再び前線に送り出されるという「滑稽な一幕」もあったという11 。
士官・幹部も同様で、ウラジオストクの某参謀将校が毎日「裸踊り」の観覧にうつつを抜かしていたことについての報告が残っている12 。戦線が泥沼化した1920年の段階でも同地の派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁将棋に日を消し」ており、少壮将校は「酒楼に遊蕩」していたとされる13 。
このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極秘トシテ当路扱ヒ少数識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。
同「絶叫書」の内容は全8節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。
「軍紀頽廃ノ実例」の節は、さらに「(イ)敬礼ヲ避ケル」「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無価値」の各小節に分かれている。
(ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかった14 。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡状 州里駅より中東鉄道に達せる報告に日本兵は薪及鶏類を窃み又駅員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」15 )。また、同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戦国ノ住民ニ対スル」ような態度を糾弾している。
「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な青年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社会主義 」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。
治安当局は「過激派」による「危険思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「秘 帰還兵ノ言動」では、「危険思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戦地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ッテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第72連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ対シテ圧制ナリ」として「下士以下全員著剣シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また、第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治1ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジオストク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戦場ナラ彼等ハ命幾何アッテモ足ラン 弾丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」16 。
戦線が泥沼化した1920年頃には、前線の兵士は一日も早い帰国を望むようになったとされる(「他国の党派争ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」)17 。
また新聞記者の大庭柯公 は、大井師団長が過激派所属の一切の資産を日本軍の鹵獲品と見做すとの布告を発し、これが全道ロシア民を反対抗議を招いたと記述している18 。
白色テロへの日本軍の幇助 ロシア語学者の八杉貞利 (当時、東京外国語学校 教授)は、1920年7月28日、アムール・ウスリー旅行を企てた。同旅行中の日記はシベリア戦争下の現地状況について記されており、その中には日本軍の白色テロ に対する幇助の模様も含まれている。
ポーランド孤児の救済 1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。計763人の孤児たちは付添の大人のポーランド人65名とともにウラジオストクから船で敦賀に入り、宿舎となった東京の福田会 育児院、大阪天王寺の大阪市立公民病院 看護婦寮に収容され、全国からは寄付金や支援物資が集まった20 21 。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした22 。また、これとは別に1920年9月からは、日本の福田会など複数の孤児院 が戦災孤児数百人の引き取りを始め23 、後にポーランドへ帰還させた。
シベリア出兵に従軍し孤児を救った51名の日本軍将校 に対し、ポーランド政府は1925年にヴィルトゥティ・ミリターリ勲章 を授与して、その功績に報いた。また、腸チフス の孤児たちの看病中に自らも罹患して23歳で亡くなった日本赤十字の看護婦・松澤フミにもポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞が授与された24 。
2001年にはポーランドでドキュメンタリー映画『SYBERYJSKIE SNY (シベリアの夢) 』25 、2003年には日本でドラマ『ワルシャワの秋 (テレビドラマ) 』、2020年にドキュメンタリー番組『未来に伝えたい 100年前のニッポン人 ~ポーランド孤児救出の軌跡~』26 が制作された。
シベリアからの撤兵 日本では、寺内内閣 のときにロシア革命 への干渉戦争として始められたシベリア出兵であったが、1921年のワシントン会議 開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった加藤友三郎 海軍大臣 が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち内閣総理大臣 となった加藤は1922年6月23日の閣議 で、この年の10月末日までの沿海州 からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。
加藤高明 は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をももたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評価している27 。
ソビエト連邦からの報復 として、過去のシベリア出兵に求めて正当性を示した。この要求は、同年8月18日、トルーマンは日本本土への連合国軍進駐について「連合国の要求する降伏諸事項を履行させるために一時的に日本本土を占領する必要な処置」とし、ソビエト連邦による北海道の所領化を拒否。実現されることはなかった28 。
参考文献
E.H.カー 『ボリシェビキ革命1 』1967年 みすず書房
松尾勝造 『シベリア出征日記 』風媒社 1978年
細谷千博 『シベリア出兵の史的研究』2005年 岩波現代文庫
菊地昌典 『ロシア革命と日本人 』1973年 筑摩書房
広岩近広『シベリア出兵 「住民虐殺戦争」の真相』2019年 花伝社
Wright, Damien. "Churchill's Secret War with Lenin: British and Commonwealth Military Intervention in the Russian Civil War, 1918-20", Solihull, UK, 2017
Graves, William S. (1931). America's Siberian Adventure 1918-1920 . New York: Peter Smith. http://www.e-reading.co.uk/book.php?book=133957
Beattie, Steuart (1957). Canadian Intervention in Russia, 1918-1919 (MA). McGill University .
Moffat, Ian C.D. The Allied Intervention in Russia, 1918–1920: The Diplomacy of Chaos (2015) excerpt
Smith, Gaddis (1959). “Canada and the Siberian Intervention, 1918–1919”. The American Historical Review 64 (4): 866–877. doi :10.2307/1905120 . JSTOR 1905120 .
Humphreys, Leonard A. (1996). The Way of the Heavenly Sword: The Japanese Army in the 1920s . Stanford University Press. ISBN 0-8047-2375-3. https://books.google.com/books?id=vlA3wijPak4C
James, Brigadier E.A. (1978). British Regiments 1914–18 . London: Samson Books Limited. ISBN 0-906304-03-2. https://books.google.com/books?id=2ky-BAAAQBAJ
Kinvig, Clifford (2006). Churchill's Crusade: The British Invasion of Russia, 1918–1920 . Continuum International Publishing Group. ISBN 1-85285-477-4. https://books.google.com/books?id=uKGspZ8XmNYC
White, John Albert (1950). The Siberian Intervention . Princeton University Press . ISBN 9780837119762. https://books.google.com/books?id=CHAjAQAAIAAJ
シベリア出兵を題材とした作品
脚注
脚注
シベリア出兵 (シベリアしゅっぺい、英 : Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦 の連合国 (イギリス ・日本 ・フランス ・イタリア ・アメリカ ・カナダ ・中華民国 )が「革命軍によって囚われたチェコ軍団 を救出する」を名目にシベリア に共同出兵した、ロシア革命 に対する干渉戦争 の一つ1 。シベリア事変 とも言う。
共産主義 の封じ込めという目的のほかに帝政 時代の外債 と、露亜銀行 などのさまざまな外資 を保全する狙いもあった。
日本は1918年8月11日のウラジオストク 上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える兵力7万2,000人を派兵2 。ハバロフスク や東シベリア一帯を占領したが、日本の反 政権樹立工作は酷寒と の抵抗にあって不成功に終った 。 1919年秋には白軍の 政権が崩壊したことで英仏による革命政権圧殺の計画は不可能に陥り、ヨーロッパ革命情勢への危惧もあって両国はシベリア撤兵を決定した。アメリカもチェコ軍団の引揚げ完了で出兵目的は達成されたとして1920年1月にシベリア撤退を決定した。しかし日本の は、列国の撤兵後も出兵目的を居留民保護とロシア過激派が や に影響力を伸ばすことの防止に変更することで駐兵を継続しようとした 。そのためアメリカなどから日本への不信感が高まり、日本国内でも批判が高まった結果、1922年10月に日本も撤兵となった。この出兵で日本は3500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、 の悪化を招き、日ソ国交回復の妨げにもなったとされる 。
ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害されたとされる3 )。
また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる4 。
背景 戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね、経済は破綻した。
このため、ドイツは東部戦線 の兵力を西部戦線 に集中することができ、フランス、イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争 を開始し、その一環としてロシア極東のウラジオストク に「チェコ 軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。
すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス、フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。
日本政府 のシベリア出兵に対する態度は、出兵という点では一致していた。しかし積極的な出兵論と消極的な出兵論の2つが存在し対立していた。
積極的な出兵論とは、イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく、日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場である。
対米協定にもとづく妥協案が形成され、出兵に踏み切った。
レオナード・ハンフリーズ (Leonard Humphreys) は
そこで寺内首相 は同地域において日本の息のかかった傀儡政権を樹立する事を参謀本部第二部長中島正武 少将に命じた5 。
経過 1918年夏、日本はアメリカとの間で、日本が単独では進軍しないこと、兵力はそれぞれ8000人程度とすることを取り決めた上で出兵した。
イギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたため動員した兵力は少数であり、兵力の大半はアメリカとの協定を破って3万7千の大軍を動員した日本軍であった。
1918年11月に起こったドイツ革命 によって第一次世界大戦は停戦する。これによってシベリア出兵の目的を喪失した連合国各国は、1920年に相次いで撤兵したが、その後も日本軍だけは駐留を続行した。
日本は当初のウラジオストクより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザン との戦闘を繰り返しながら、北樺太 、沿海州 や満洲を鉄道 沿いにバイカル湖 東部まで侵攻し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツク にまで占領地を拡大した。
日本は連合国各国よりも数十倍多い兵力を動員し、各国撤退後もシベリア駐留を続けたうえ、さらに占領地に傀儡国家の建設を画策したことから、ロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランス、中華民国などの連合国からも領土的野心を疑われることになった。
日本
パルチザン(ゲリラ)戦争 1919年1月から、労働者 ・農民 などで組織されたパルチザンによる遊撃戦 に苦戦。次第に交通の要衝を確保するのが精一杯の状態に陥った。日本軍はパルチザンが潜む可能性がある村落への懲罰攻撃を行った。
1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎 少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発している。
またウラジオストク派遣軍政務部長松平恒雄 の内田外相 宛の電報「別電一五九号」には次のように記されている。
同年1月アムール州「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起し、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まった。
日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため撤兵、村は一時赤軍パルチザン により解放された。しかし守備隊長マエダ大尉(前田多仲大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村に到着するや、逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った7 。
とあり、掠奪、ゲリラ作戦への懲膺を理由として村の全民家を焼夷したと記されている。
同年2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に100名以上刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った」とし、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある8 。
ユフタの闘い 同年2月25日にはアムール州のユフタにおいて日本軍310人がパルチザンと戦ってほぼ全滅した闘いである。
日本軍「パルチザン討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパルチザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊 第三大隊は同月26日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる8 。
イワノフカ事件 その後3月22日にはイワノフカ村「過激派大討伐」を敢行(イワノフカ事件 )。同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わなかった。
そこでロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行った。
しかしこうした抑圧政策は村民を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより深く浸透させる結果となり、アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団(師団長大井成元 中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派大討伐」作戦を敢行。
しかしパルチザンに対する数度の作戦は全て失敗し損害を拡大させて終わった。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。
ウラジオストク派遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には
翌年2月、同州にソビエト権力が復活すると同村において州都ブラゴヴェシチェンスク の某新聞社が再度調査を行なった。
この結果、死者総数は291名(内中国人 6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。
こうした作戦が招いた惨禍の中、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク 政権は赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、1920年に崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。
ボグダットの戦い
尼港事件 1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いるロシア人、朝鮮人、中国人4,000名から成る、共産パルチザン (遊撃隊)が黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ )の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊 第3大隊)および日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した。
この事件を契機として、日本軍はシベリア出兵後も1925年に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北樺太(サガレン州)を保障占領 した。
日本軍の宣撫工作 日本軍は出兵当初から「露国領土の保全」と「内政不干渉」を謳った「1918年8月2日布告」9 の普及に努めたが、ロシア人住民の対日感情が芳しくないことを熟知すると、日本国内の宗教団体 を利用する方式を採用し、日本正教会 と西本願寺 に白羽の矢が立った。前者からは、三井道朗 、森田亮、瀬沼烙三郎 、石川喜三郎 、計4名の神父、後者からはウラジオストクの西本願寺布教場の大田覚眠 師が工作員に指名された。
そこには「表面全然政府ト関係ナキ体裁」をとることなど、工作を実施する上での規定が詳細に記されている。
日本軍特務機関 および総領事と緊密な関係を保ちつつ、森田と瀬沼はウラジオストク方面を中心に活動し、三井と石川は北満州・ザバイカル州方面、さらにはチタからイルクールクまで足を伸ばした。
後者は遊説の傍らハルビン で購入した食料品や日用品の廉売に従事したとされる。西本願寺の大田もウラジオストクで宣撫活動に従事。
しかし1919年頃まで続いた活動の成果は芳しくなかったとされる10 。
現地における日本軍将兵の実態 一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られた。
また、チェコ軍救済と称してウスリー鉄道沿いにシマノフカまで前進した日本軍先陣部隊が、その先には「ロシア人しかいないと言われて引き返し」、その後再び前線に送り出されるという「滑稽な一幕」もあったという11 。
士官・幹部も同様で、ウラジオストクの某参謀将校が毎日「裸踊り」の観覧にうつつを抜かしていたことについての報告が残っている12 。戦線が泥沼化した1920年の段階でも同地の派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁将棋に日を消し」ており、少壮将校は「酒楼に遊蕩」していたとされる13 。
このような状況を、匿名の投書で告発する兵士も出現した。黒竜会の機関紙『亜細亜時論』へ投書された告発書は、その内容ゆえに公表が一時憚られたが、「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」(以下「絶叫書」と略記)なるタイトルが付され「極秘トシテ当路扱ヒ少数識者ノ間ニ頒ツ」(同序文)こととされた(外務省記録、「出兵及撤兵」)。
同「絶叫書」の内容は全8節からなる長大なものだった。以下内容の一部を紹介する。
「軍紀頽廃ノ実例」の節は、さらに「(イ)敬礼ヲ避ケル」「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無価値」の各小節に分かれている。
(ハ)の項では、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる兵士の不品行を糾弾している。このような事態を派遣軍司令部も把握しており、当時兵士に配布されていた「兵士ノ心得」にも不法行為を禁止する戒めの言葉が記されていたが、全く効果はなかった14 。ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある(「日本兵の亡状 州里駅より中東鉄道に達せる報告に日本兵は薪及鶏類を窃み又駅員其他の家屋に押入りて婦人を辱めたり」15 )。また、同「絶叫書」中「最高幹部の非常識」の項では、匿名投書子は大井師団長がブラゴヴェンシチェンスク市へ入ったときにロシア人住民に対して取った「敗戦国ノ住民ニ対スル」ような態度を糾弾している。
「(ロ)社会主義ノ気分漲ル」項目では、敵=過激派による感化の事実などではなく、無知な青年将校が理屈に合わない無茶なことを命令し、兵士を叱り飛ばす。これに少しでも不満を漏らそうものなら、すぐ「社会主義 」だと決めつけ、のけものにするとし、指揮官の兵隊に対する非人間的な扱いと、それに起因する不満の鬱積を指摘している。
治安当局は「過激派」による「危険思想」の伝播にも神経を尖らせており、帰還兵士の言動にも厳重な監視の目を光らせた(軍も独自に調査を行ったとされる)が、治安当局が作成した内偵資料「秘 帰還兵ノ言動」では、「危険思想」浸潤の事実よりも、将校・下士官の横暴な振る舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占めたとされる。また一方で、将校は「戦地」では「常ニ部下ノ機嫌ヲ取ッテ居ル」という声も相当数見られる。同資料によれば、戦地では将校は「歩兵隊式」と呼ばれた結党を伴う仕返し、集団的実力行使を恐れたからだとされる。たとえば、歩兵第72連隊の某帰還兵士の証言によれば、第二中隊では「中隊長ハ下士以下ニ対シテ圧制ナリ」として「下士以下全員著剣シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせたとされる。また、第一中隊では平素傲慢な態度をとる特務曹長が、機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治1ヶ月の重傷を負った。いずれもウラジオストク滞在中の事件だが、だからその程度で済んだ、と某帰還兵はつけ加える。「戦場ナラ彼等ハ命幾何アッテモ足ラン 弾丸ハ向フヘバカリ飛バンカラ」16 。
戦線が泥沼化した1920年頃には、前線の兵士は一日も早い帰国を望むようになったとされる(「他国の党派争ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」)17 。
また新聞記者の大庭柯公 は、大井師団長が過激派所属の一切の資産を日本軍の鹵獲品と見做すとの布告を発し、これが全道ロシア民を反対抗議を招いたと記述している18 。
白色テロへの日本軍の幇助 ロシア語学者の八杉貞利 (当時、東京外国語学校 教授)は、1920年7月28日、アムール・ウスリー旅行を企てた。同旅行中の日記はシベリア戦争下の現地状況について記されており、その中には日本軍の白色テロ に対する幇助の模様も含まれている。
ポーランド孤児の救済 1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。計763人の孤児たちは付添の大人のポーランド人65名とともにウラジオストクから船で敦賀に入り、宿舎となった東京の福田会 育児院、大阪天王寺の大阪市立公民病院 看護婦寮に収容され、全国からは寄付金や支援物資が集まった20 21 。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした22 。また、これとは別に1920年9月からは、日本の福田会など複数の孤児院 が戦災孤児数百人の引き取りを始め23 、後にポーランドへ帰還させた。
シベリア出兵に従軍し孤児を救った51名の日本軍将校 に対し、ポーランド政府は1925年にヴィルトゥティ・ミリターリ勲章 を授与して、その功績に報いた。また、腸チフス の孤児たちの看病中に自らも罹患して23歳で亡くなった日本赤十字の看護婦・松澤フミにもポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞が授与された24 。
2001年にはポーランドでドキュメンタリー映画『SYBERYJSKIE SNY (シベリアの夢) 』25 、2003年には日本でドラマ『ワルシャワの秋 (テレビドラマ) 』、2020年にドキュメンタリー番組『未来に伝えたい 100年前のニッポン人 ~ポーランド孤児救出の軌跡~』26 が制作された。
シベリアからの撤兵 日本では、寺内内閣 のときにロシア革命 への干渉戦争として始められたシベリア出兵であったが、1921年のワシントン会議 開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった加藤友三郎 海軍大臣 が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち内閣総理大臣 となった加藤は1922年6月23日の閣議 で、この年の10月末日までの沿海州 からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。
加藤高明 は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をももたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評価している27 。
ソビエト連邦からの報復 として、過去のシベリア出兵に求めて正当性を示した。この要求は、同年8月18日、トルーマンは日本本土への連合国軍進駐について「連合国の要求する降伏諸事項を履行させるために一時的に日本本土を占領する必要な処置」とし、ソビエト連邦による北海道の所領化を拒否。実現されることはなかった28 。
参考文献
E.H.カー 『ボリシェビキ革命1 』1967年 みすず書房
松尾勝造 『シベリア出征日記 』風媒社 1978年
細谷千博 『シベリア出兵の史的研究』2005年 岩波現代文庫
菊地昌典 『ロシア革命と日本人 』1973年 筑摩書房
広岩近広『シベリア出兵 「住民虐殺戦争」の真相』2019年 花伝社
Wright, Damien. "Churchill's Secret War with Lenin: British and Commonwealth Military Intervention in the Russian Civil War, 1918-20", Solihull, UK, 2017
Graves, William S. (1931). America's Siberian Adventure 1918-1920 . New York: Peter Smith. http://www.e-reading.co.uk/book.php?book=133957
Beattie, Steuart (1957). Canadian Intervention in Russia, 1918-1919 (MA). McGill University .
Moffat, Ian C.D. The Allied Intervention in Russia, 1918–1920: The Diplomacy of Chaos (2015) excerpt
Smith, Gaddis (1959). “Canada and the Siberian Intervention, 1918–1919”. The American Historical Review 64 (4): 866–877. doi :10.2307/1905120 . JSTOR 1905120 .
Humphreys, Leonard A. (1996). The Way of the Heavenly Sword: The Japanese Army in the 1920s . Stanford University Press. ISBN 0-8047-2375-3. https://books.google.com/books?id=vlA3wijPak4C
James, Brigadier E.A. (1978). British Regiments 1914–18 . London: Samson Books Limited. ISBN 0-906304-03-2. https://books.google.com/books?id=2ky-BAAAQBAJ
Kinvig, Clifford (2006). Churchill's Crusade: The British Invasion of Russia, 1918–1920 . Continuum International Publishing Group. ISBN 1-85285-477-4. https://books.google.com/books?id=uKGspZ8XmNYC
White, John Albert (1950). The Siberian Intervention . Princeton University Press . ISBN 9780837119762. https://books.google.com/books?id=CHAjAQAAIAAJ
シベリア出兵を題材とした作品
脚注
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