黄蓋
黄 蓋は、中国後漢末期の武将。字は公覆。荊州零陵郡泉陵県の人。孫堅・孫策・孫権に仕えた宿将である。子は黄柄。
生誕~死没 145年 ~ 222年最終更新 2026/10/16 14:49
黄 蓋(こう がい、? - 建安19年(215年))は、中国後漢末期の武将。字は公覆。荊州零陵郡泉陵県の人。孫堅・孫策・孫権に仕えた宿将である。子は黄柄。
人物
経歴
『呉書』によると、祖先が南陽太守の黄子廉という人物で、その子孫は各地に散らばった。黄蓋の一族は祖父の時代に零陵へ移住してきたという。若い頃に父が亡くなり、貧しい生活をしていたが、常に大志を抱き、上表文の書き方や兵法の勉強に勤しんでいた。
郡の役人になった後、孝廉に推挙された。三公から招聘を受けたが、孫堅が挙兵するとこれに従い、荊州南部の反乱や董卓討伐に従軍して活躍し、別部司馬に任命された。
孫堅の死後は孫策に仕え、孫策の江東制覇に従った。孫策が劉表と黄祖の征伐報告をした時の上奏に、呂範・程普・孫権・韓当と共に黄蓋の名もある(「孫破虜討逆伝」が引く『呉録』)。孫策が早世すると、跡を継いだ孫権にも仕えて若い主君を支えた。
黄蓋は自ら甲冑をつけ、刀剣を振るって各地の反乱を鎮圧し、城を攻略した。統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、石城県・春穀県・尋陽県など9つの県に赴任し、丹陽都尉にまでなった。法令に厳格な処罰を行ないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、どの地も無事に平定された。また、土着民族たる山越までもが信服し、人々は平穏に暮らすことができた。
風貌に威厳があり、兵卒を思いやり優しく接したため、軍を率いた時に兵士達は命をふるって戦った。
建安12年(208年)、曹操が江南に進軍を開始し赤壁の戦いが始まると、黄蓋は周瑜の指揮下で従軍した。曹操軍の艦船を焼き討ちすることを進言し、偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。赤壁において、黄蓋は流れ矢に当たって長江に落ちてしまい、救い上げられたものの、黄蓋とわからなかったために、負傷したまま厠に放置されてしまった。しかし、同僚の韓当が見つけ手当てさせたため、九死に一生を得たという(「周瑜伝」、「黄蓋伝注引呉書」)。この功績で、武鋒中郎将に任命された。
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