顔良
顔 良は、中国後漢時代末期の武将。
生誕~死没 年不詳 ~ 200年最終更新 2026/10/16 14:44
顔 良(がん りょう、簡体字: 颜良; 繁体字: 顏良、? - 200年5月30日)は、中国後漢時代末期の武将。
生涯
袁紹配下。麴義誅殺後から文醜と共に徐々に頭角を表し、建安4年(199年)頃には、共に袁紹軍の将帥として知られるようになり、曹操配下であった孔融にも袁紹軍の勇将の筆頭として名前を挙げられている1。 孔融の発言だけでなく三国志武帝紀においても文醜と共に袁紹軍の「名将」であったと記載されている2
建安5年(200年)、それまで睨み合っていた袁紹・曹操がついに対決した(官渡の戦い)。開戦に際し、沮授が「顔良は偏狭なので単独で任用してはいけません」と諌めた。袁紹はそれを聞き、白馬津を守る曹操軍の劉延を、郭図・淳于瓊・顔良に攻撃させた3。
これに対して、曹操は荀攸の献策に従い、于禁と楽進を派遣して袁紹軍の背後を突く動きを見せつつ、猪突してくる顔良が孤立した所を叩く作戦に出た。この作戦は的中し、背後に気付いた郭図と淳于瓊が反応して引き返す中、顔良だけは判断を誤り寡兵で白馬津の戦場に踏み留まってしまった。手薄となった顔良隊に対し、曹操は張遼と当時客将となっていた関羽に命じて、直ちに攻撃させた。顔良を見た関羽は敵軍の中にただ一騎で分け入り、顔良を刺し殺しその首を持ち帰った4。程無く文醜も討たれ、袁紹軍では立て続けに名だたる将軍を2人も失ったため、一方ならぬ恐怖を抱いたという5。
曹操軍の荀彧は、上記の孔融に対し「顔良と文醜は匹夫の勇のみです。一戦にして生け捕れます」と答えており、まさにその通りとなった6。
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