魏忠賢
魏 忠賢は、中国明代の宦官。
生誕~死没 1568年 ~ 1627年10月19日最終更新 2026/10/16 14:50
魏 忠賢(ぎ ちゅうけん、隆慶2年1月30日(1568年2月27日) - 天啓7年11月4日(1627年12月11日))は、中国明代の宦官。
生涯
河間府粛寧県の出身。もとの姓は魏。貧農の家庭に生まれ無頼の生活を送ってはいたが、弓術と乗馬は得意だった。しかし博打の負けで嬲り者にされ妻と離別、娘も売らざるを得なくなった。この時同じ賭場で宦官が贅沢三昧のまま優遇されてるのを目の当たりにし、衝動的に自ら去勢して名も李進忠と改め宦官として宮中に入る。皇子の朱由校の生母の食事係となり、手先が器用で媚びへつらいがうまい彼は後宮で勢力のある魏朝に目をかけられ、名も魏忠賢と改名。その引き立てで朝廷の内事を担当する司礼監だった王安に接近し、気に入られて皇子の食事を整える係となった1。そして皇子が特別の感情を持っている乳母の客氏の愛人になり後宮の実力者になる2。
万暦48年(1620年)に万暦帝が崩御し、同年に父の泰昌帝を経て朱由校が天啓帝として即位すると、同じく客氏と愛人関係にある魏朝と三角関係で対立しかけたが、王安に仲裁されて魏朝が退くことで決着がつき、二人はあえて夫婦になった。しかし魏忠賢は魏朝のみならず王安までも邪魔者と見なして殺し、皇帝の批答の代理を行うきわめて高い地位を得た。天啓帝は趣味の木工細工に熱中して政務に関心を持たなかったこともあり、魏忠賢自ら皇帝に代わって政務を司り朝廷のことは大小にかかわらず決裁した(皇帝が木工遊びに熱中している合間に上奏し結果的に承諾を得ていた)。をことごとく暗記する驚異的なの持ち主で、意に沿わない者と見るやその氏名や過去の行為果ては人相までも調べ上げた。そして罪科があると見れば違反があれば過度な厳刑で処刑し、批判的と見れば徹底的に論難しては非難の上で・殺害。瑕疵の無い者であっても容疑や罪科を捏造しては処断し、私怨であっても容赦なく報復的に処罰した。一方、出世や栄達を目論む者が靡くと見れば積極的に取り込んだ。
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