靳歙
靳 歙は、秦から前漢にかけての武将。劉邦に従って数々の武功を挙げた。
生誕~死没 年不詳 ~ 紀元前183年最終更新 2026/10/16 14:54
基本情報
- 生誕 ~ 死没
- 年不詳 ~ 紀元前183年
- 出生
- 不詳
- 死去
- 高后5年(紀元前183年)
- 諡号
- 粛侯
- 爵位
- 臨平君→建武侯→信武侯
- 官位
- 中涓→騎都尉→車騎将軍
- 子
- 靳亭
靳 歙(きん きゅう、? - 前183年)は、秦から前漢にかけての武将。劉邦に従って数々の武功を挙げた。
経歴
中涓(侍従)として劉邦に従い、宛朐(冤句、えんく)から軍を起こした1。 秦二世2年(紀元前208年)、夏侯嬰と共に済陽を攻め、同年8月、劉邦軍主力の一員として李由軍の撃破に貢献した2。 秦二世3年(紀元前207年)3月、亳の南・啓封の北東で秦軍と戦い、騎千人の将一人を斬り、首五十七級を挙げ、七十三人を捕虜とした。この武功で爵位を賜わり、臨平君と号した。同年9月の藍田北の戦いでは3、車司馬二人、騎長一人を斬り、首二十八級を挙げ、五十七人を捕虜とした。
高祖元年(紀元前206年)正月、漢王に封ぜられた劉邦から建武侯の爵位を賜り、さらに騎都尉となって劉邦に従い三秦平定に貢献した1。高祖2年(紀元前205年)11月、別動隊として、おそらくは酈商の配下として隴西・北地方面へ侵攻し4、章平(章邯の弟あるいは子)軍を隴西で撃破して隴西六県を平定した。配下の兵も、車司馬、斥候をそれぞれ四人ずつ、騎長十二人を斬った。高祖2年4月、劉邦に従って東進し楚と戦って彭城にまで到達したが、漢軍が大敗したため(彭城の戦い)、雍丘に戻り立てこもった。のちに雍丘を去って謀反人の王武らを撃ち、梁を攻略した。漢軍本隊から別れ、邢説(けいえつ)の軍を菑南で破り、靳歙自らも邢説の都尉二人、司馬候十二人を捕らえ、吏卒四千一百八十人を降伏させた。また楚軍を滎陽の東で撃破した。
高祖2年8月、漢王から別れて河内に赴き、趙の将軍の賁郝(ひせき5)の軍を朝歌で撃ち、配下の兵は騎将二人を捕らえ、車馬二百五十匹を鹵獲した。 漢王に従い安陽から東を攻めて棘蒲に至り、七県を下した。また分かれて趙の軍を攻め破り、其の将司馬二人、候四人を捕らえ、吏卒二千四百人を降伏させた。
高祖3年(紀元前204年)、食邑四千二百戸を賜り、再び漢王に従って邯鄲を攻略した。分かれて平陽を下して守相(留守の宰相6)を自ら斬り、配下の兵も兵守・郡守各々一人を斬った。を降し、漢王に従って朝歌・邯鄲を攻め、及び分かれて趙軍を撃破し、邯鄲郡六県を降した。 軍を敖倉に戻し、成皋の南で項羽軍を破り、楚の糧道を分断した。 滎陽から兵を出して襄邑に至り、項冠の軍を魯付近で破った。 さらに土地を攻略して東は繒・郯・下邳に至り、南は蘄・竹邑に至った。済陽付近で項悍を撃破した。 軍を戻してを陳で攻め破った。別に江陵を平定し、江陵王の、大司馬以下八人を降伏させた。江陵王は靳歙自らが捕らえ、生かしたまま雒陽へ送り、南郡を平定した。 漢王と共に陳に赴き、楚王を捕らえた。割符を授かって子孫代々の世襲を許された。食邑四千六百石を賜わり、信武侯と号した。
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