赤座直保
赤座 直保は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。官位は従五位下・備後守。
生誕~死没 年不詳 ~ 1606年最終更新 2026/10/16 15:00
赤座 直保(あかざ なおやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。官位は従五位下・備後守。
生涯
朝倉家臣時代
赤座氏は朝倉氏家臣123家を所収した『一乘録』にその名が記されており、直保や父の直則も朝倉氏家臣であった可能性が高い。
信長家臣時代
天正元年(1573年)8月、織田信長の朝倉氏討滅後、信長に降り信長書状によって本領を安堵されたのが直保の初出である。その後、越前国守護代となった桂田長俊(前波吉継)の下で信長に仕え、天正3年(1575年)11月には長俊の書出しに基づいて府中火内村56石の加増を受けた。この所領は翌年、府中三人衆から打ち渡しを受けている。このころ堀江・新開・千福・赤座・鞍谷・諏訪といった越前の諸士は柴田勝家や府中三人衆の与力とされており、前田氏とは関係があった。
秀吉家臣時代
天正10年(1582年)の本能寺の変で父・直則が討ち死にすると家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて所領を安堵される。天正17年(1589年)10月、南条郡大桐村に灰焼きの営業独占権を与えた文書が現存する。天正18年(1590年)の小田原征伐では石田三成の麾下で武蔵国の岩槻城、忍城の攻略に参加し、この功によって従五位下備後守に任官、越前国今庄2万石に加増され大名に列する。しかしその地位は小早川秀秋や堀尾吉晴の与力であり、独立の大名ではなかった。今庄は直保が居館を置いたことからその統治下において発展し、その統治は結城秀康の街道整備政策によって引き継がれての宿駅として栄えるに至る。
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最終更新 2026/10/16 15:00 · r270107 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。