菅達長
菅 達長は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。通称は平右衛門。淡路十人衆の1人。淡路島の東の海の水軍を率いた。本拠地は志知・釜口・岩屋・須本など諸説ある。
生誕~死没 年不詳 ~ 1615年1月25日最終更新 2026/10/16 14:59
菅 達長(かん みちなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。通称は平右衛門。淡路十人衆の1人。淡路島の東の海の水軍を率いた。本拠地は志知・釜口・岩屋・須本など諸説ある。
生涯
菅氏は、菅原道真を輩出した菅原氏を本姓とする東坊城家から派生したとされるが、裏付けには乏しく、淡路国の国衆(土豪)だったと考えられている。達長の生い立ちなどは不明である。
天正年間に入り、中国地方の毛利氏と近畿を治め台頭する織田信長が争うようになり、当時の淡路島は両勢力がぶつかる狭間にある拠点だったため、淡路の国衆はどちらにつくか迷っていた。結果、達長のみ毛利方につき、あとは安宅信康が織田方につき、その他の国衆(船越景直など)は、なお決めかねていた。そのような中、天正4年(1576年)に室町幕府15代将軍・足利義昭を擁する毛利輝元の軍勢が信康の守る淡路島岩屋城を落城させると、毛利方の達長が岩屋城主になった。以後、石山本願寺攻めでも毛利方に与した。ところが天正9年(1581年)の11月中旬、織田方の攻めの足がかりとして、淡路にがと共に攻め入ると、1日で岩屋城は落城。淡路島は掃討され、国衆はほとんど滅ぼされたが、達長はこれを逃れて潜伏した。
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