牧野康成 (大胡藩主)
牧野 康成は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。徳川氏の家臣。はじめ三河国牛久保城主、のち上野国大胡藩初代藩主。官位は従五位下・右馬允。
生誕~死没 1555年 ~ 1610年最終更新 2026/10/16 14:51
牧野 康成(まきの やすなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。徳川氏の家臣。はじめ三河国牛久保城主、のち上野国大胡藩初代藩主。官位は従五位下・右馬允。
生涯
- 本節は特に注記のあるものを除き、『寛政重修諸家譜』巻第三百六十四「清和源氏支流・牧野」の康成の項を参考に記述している。
永禄9年(1566年)、牛久保城主であった父・牧野成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。その際に一族の牧野某(出羽守・成元また成真とも、牧野保成の子)と遺領争いとなるも、徳川家康の承認と後援の結果、成元を退け相続に成功した1。争いの原因のひとつに康成が今川氏の人質として2年間身柄拘束され(一説に吉田城で)、牛久保に不在であったことが挙げられる。
徳川家康に仕えた後は、その東三河旗頭である酒井忠次に属し、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど家康の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、また家康の指示により天正年間は諏訪原城(遠江国)・興国寺城(駿河国)・柾戸城(伊豆国)・長久保城(駿河国)と諸城を在番し、家康の平定戦に寄与した。その功績により、天正16年(1588年)4月までに従五位下・右馬允に叙位・任官、この時のでを称姓した(「柳営実録」)。また天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、大胡に2万石の所領を与えられ、大名に列した。
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