張裔
張 裔は、中国後漢末期から三国時代の政治家・武将。字は君嗣。益州蜀郡成都県の人。子は張毣・張郁。
生誕~死没 167年 ~ 230年最終更新 2026/10/16 14:49
張 裔(ちょう えい)は、中国後漢末期から三国時代の政治家・武将。字は君嗣。益州蜀郡成都県の人。子は張毣・張郁。
経歴
孝廉に推挙されて劉璋に仕え、魚復県令・従事・帳下司馬を歴任した。劉備が益州に侵攻すると徳陽県の陌下で諸葛亮・張飛の軍と戦ったが、敗れて成都に帰還した1。その後、降伏の使者として劉備のもとに赴いている。
劉璋が降伏すると劉備に仕え、巴郡太守・司金中郎将に任じられ、農具と武器の製造を司った。益州太守の正昂が現地の豪族に殺害されると、後任として益州太守(永昌太守の説もあり)になったが、雍闓に捕らえられ呉に送られてしまった。後に鄧芝が講和のため呉に赴いた際、帰国を許された。この時58歳だったという。孫権は張裔がどのような人物か知らなかったため、帰国の前に引見した。孫権は張裔を気に入り、その才覚を認めて呉に留めようと追っ手を差し向けて連れ戻そうとした。このため、張裔は愚者のふりをしなかったことを後悔しつつ、船を急がせて逃げ延びた。
帰国すると早々に重用され、参軍・益州治中従事に任じられた。建興5年(227年)、諸葛亮が北伐のため漢中に駐屯した時には射声校尉の地位にあり、さらに留府長史を任された。丞相府の職務を統括し、兵糧や兵士を充足させたという2。諸葛亮は『出師表』において「侍中(郭攸之・費禕)・尚書(陳震)・長史()・参軍()、此れ悉く貞良死節の臣なり」と張裔を称えた。建興6年(228年)、前線の諸葛亮の下へ事務の打ち合わせに赴き、その際数百人もの人々が彼を見送ったという。
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