ウルグアイ戦争(ウルグアイせんそう、スペイン語: Guerra del Uruguay、ポルトガル語: Guerra do Uruguai。1864年10月10日-1865年2月20日)は、ウルグアイの与党ブランコ党と、ブラジル帝国及びウルグアイのコロラド党の同盟との間の戦争。アルゼンチンは秘密裏に同盟側を支持した。ウルグアイでは独立以来、コロラド党とブランコ党の紛争が断続的に続いており、1863年にはコロラド党首ベナンシオ・フローレスが解放十字軍をおこして、コロラド=ブランコ連立政府(「フシオニスタ」(fusionista、「融合派」の意味))のベルナルド・ベロ大統領を失脚させようとした。アルゼンチン大統領バルトロメ・ミトレはフローレスに補給、志願兵、河川での兵員輸送などの援助を提供した。
1850年代後半、コロラド党とブランコ党の指導層は和解を試みた。両党の多くの人々からの同意を受け、「フシオニスタ」(fusionista、「融合派」の意味)政策がとられ、政府や軍事における協力が始まった23。しかし、分裂を癒す試みは1858年にコロラド党の反動派が和解政策を拒否したことで一時挫折した。この反乱はフシオニスタ政府のガブリエル・アントニオ・ペレイラ大統領(在任:1856年 - 1860年、元コロラド党員)に鎮圧され、首謀者たちはネグロ川沿いのパソ・デ・キンテロス(Paso de Quinteros)で処刑された。処刑はさらなる紛争を生んだ。コロラド党はフシオニスタ派がブランコ党に肩入れしていると疑い、「キンテロスの殉教者」の仇討ちを呼び掛けたのであった35。
モンテビデオのアギレ政府は最初サライヴァの提案を受け入れたくなかった。パラグアイの支援がある以上、内戦終結もブラジルの要求の受け入れも利点が少なかった37。その理由は、歴史家のジェフリー・D・ニーデル(Jeffrey D. Needell)によると、「ウルグアイ大統領はこれら(の問題)を解決したくなかった。というのも、問題となっている、不満を抱いているブラジル人はアルゼンチンの傀儡かつ自身の打倒をもくろんでいるベナンシオ・フローレスの同盟者であるからだった」38。また、植民地時代のスペイン・ポルトガル間の長期間にわたる不信がそのままイスパノアメリカとブラジルの敵意に発展していた39。その結果、ブラジルとウルグアイはお互いを嫌った。ロバート・ボンタイン・カニンガム・グレアムが述べたように、「ブラジル人はウルグアイ人を血に飢えた野蛮人とこき下ろし、ウルグアイ人は返しとしてブラジル人の戦争を望まない態度をばかにし、ブラジル人が混血であることを軽蔑した」39。
ジョアキン・マルケス・リスボン中将(タマンダレ男爵)の命令に基づき、ブラジル艦隊がウルグアイ領海で待機していた。ブラジル艦隊はフリゲート1隻、コルベット6隻、砲艦5隻の蒸気船合計12隻だった42。1864年8月11日、タマンダレ男爵は戦争におけるブラジル陸軍と海軍の総指揮官として43、サライヴァからの指令を受けて報復攻撃を開始した44。ブラジル艦隊はサルト、パイサンドゥー、マルドナドに派遣され、名目上の目的を「ブラジル国民の保護」とした。一方、ウルグアイが有した軍艦はいずれも小型蒸気船のビリャ・デル・サルト(Villa del Salto)とヘネラル・アルティーガス(General Artigas)であり、ブラジル艦隊はこの2隻を無害化しようとした45。タマンダレはこれら2隻にドックに残るよう要求したが、ヘネラル・アルティーガスだけが従った46。
ウルグアイにいたブラジル艦隊は本来ならばブラジル陸軍と合同して行動する予定だった。しかし、数か月が経過して、リオグランデ・ド・スルのピライ・グランデ(Piraí Grande)に駐留していた「監視師団」(Divisão de Observação)は最後通牒ののち「南方軍」(Exército do Sul)に改名した後でもウルグアイ国境を越える準備が一向に整わなかった。この陸軍の目的はパイサンドゥー、サルト、メロを占領して、フローレスらコロラド党に引き渡すことだった53。
10月12日、ジョゼ・ルイス・メナ・バレット准将率いる旅団が本軍から分離、2日後にはブラジル領ジャグアラン近くからウルグアイのセロ・ラルゴ県に侵攻した。小競り合いを仕掛けてもブラジル軍の進軍が止まらないのを見ると、ブランコ党は県都メロを放棄、バレットの旅団は10月16日に無抵抗にメロに入城した。メロをコロラド党に引き渡すと、バレットの旅団は10月24日に撤退、南方軍と合流した54。次の標的はサルトだった。ペレイラ・ピントがジョアキン・ジョゼ・ピント中尉(Joaquim José Pinto)率いる砲艦2隻をサルトの海上封鎖に派遣した後、フローレスは11月24日に到着してサルト包囲戦を開始した。ウルグアイ駐留軍の指揮官ホセ・パロメケ大佐(José Palomeque)はほぼ無抵抗で11月28日の午後に降伏した55。フローレスは大砲4門を鹵獲、250人を捕虜にした56。サルトの占領軍としてコロラド党の軍勢300人、ブラジル軍150人がサルトに残った56。
サライヴァがウルグアイに最後通牒を突きつけてからほぼ4か月後の12月1日、南方軍はようやくウルグアイに侵攻した66。また、アントニオ・デ・ソウサ・ネト率いる別働隊1,300人(ブラジルのガウチョ騎兵で構成された)も同伴した67。こうして、ブラジルの兵士7,011人と台車200台66は抵抗に遭わないままウルグアイ領を通過、南西部のパイサンドゥーに向かった。ブランコ党の組織も紀律も乱れたガウチョ部隊はブラジル軍に敵うはずもなく、歴史家のトマス・L・ウィガム(Thomas L. Whigham)はウルグアイのガウチョ部隊には「戦闘の経験はあったが、訓練はなく、装備も一般的なマスケット銃、ボーラ、ファコン・ナイフしかないと不足していた」と述べた68。カニンガム・グレアムもウルグアイのガウチョで「火器を有していた者は稀だった。運よく、真ちゅうで取り付けられた長いピストルやフリントロック式らっぱ銃を有していたとしても、一般的には壊れていて使えなかった。一方、彼らは少しの訓練でサーベルやランスを持つ強敵になる。」と述べた69。
Barroso, Gustavo (1935) (ポルトガル語). História Militar do Brasil. São Paulo: Companhia Editora Nacional
Bethell, Leslie (1985). The Cambridge History of Latin America. 3. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-23224-4
Bormann, José Bernardino (1907) (ポルトガル語). A Campanha do Uruguay (1864–65). Rio de Janeiro: Imprensa Nacional
Carvalho, José Murilo de (2007) (ポルトガル語). D. Pedro II: Ser ou Não Ser. São Paulo: Companhia das Letras. ISBN 978-85-359-0969-2
Costa, Wilma Peres (1996) (ポルトガル語). A Espada de Dâmocles: o Exército, a Guerra do Paraguai e a Crise do Império. São Paulo: HUCITEC. ISBN 85-271-0245-5
Golin, Tau (2004) (ポルトガル語). A Fronteira. 2. Porto Alegre: L&PM. ISBN 978-85-254-1438-0
Graham, Robert Bontine Cunninghame (1933). Portrait of a Dictator. London: William Heinemann
Hooker, Terry D. (2008). The Paraguayan War. Nottingham: Foundry Books. ISBN 1-901543-15-3
Kraay, Hendrik; Whigham, Thomas L. (2004). I Die with My Country: Perspectives on the Paraguayan War, 1864–1870. Dexter, Michigan: Thomson-Shore. ISBN 978-0-8032-2762-0
Leuchars, Chris (2002). To the Bitter End: Paraguay and the War of the Triple Alliance. Westport, Connecticut: Greenwood Press. ISBN 0-313-32365-8
Maia, Prado (1975) (ポルトガル語). A Marinha de Guerra do Brasil na Colônia e no Império (2 ed.). Rio de Janeiro: Cátedra
Munro, Dana Gardner (1960). The Latin American Republics: A History (3 ed.). New York: Appleton-Century-Crofts
Needell, Jeffrey D. (2006). The Party of Order: the Conservatives, the State, and Slavery in the Brazilian Monarchy, 1831–1871. Stanford, California: Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-5369-2
Osório, Joaquim Luís; Osório, Fernando Luís (1915) (ポルトガル語). História do General Osório. 1. Pelotas: Tipografia do Diário Popular
Raine, Philip (1956). Paraguay. New Brunswick, New Jersey: Scarecrow Press
Schneider, Louis (2009) (ポルトガル語). A Guerra da Tríplice Aliança Contra o Paraguai. Porto Alegre: Pradense. ISBN 978-85-89072-13-7
Silva, Alfredo Pretextato Maciel da (1906) (ポルトガル語). Os Generais do Exército Brasileiro de 1822 a 1889: Traços Biográficos. 2. Rio de Janeiro: M. Orosco & C
Tasso Fragoso, Augusto (2009) (ポルトガル語). História da Guerra entre a Tríplice Aliança e o Paraguai. 1 (3 ed.). Rio de Janeiro: Biblioteca do Exército
Williams, Mary Wilhelmine (1937). Dom Pedro the Magnanimous, Second Emperor of Brazil. Chapel Hill, North Carolina: University of North Carolina Press
Whigham, Thomas L. (2002). The Paraguayan War: Causes and Early Conduct. 1. Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press. ISBN 978-0-8032-4786-4
同時代の文献ではGeorge ThompsonのThe War in Paraguay(1869年)、George Frederick MastermanのSeven eventful years in Paraguay(1870年)、Richard Francis BurtonのLetters from the battlefields of Paraguay(1870年)、Charles Ames WashburnのThe History of Paraguay(1871年)、Max von VersenのReisen in Amerika und der Südamerikanische Krieg(1872年)、Louis SchneiderのDer Krieg der Triple-Allianz(1872-1875年)があるが、いずれも具体的な数字に言及しなかった。以降の歴史書でもJosé Bernardino BormannのA Campanha do Uruguai(1907年)、Augusto Tasso FragosoのHistória da Guerra entre a Tríplice Aliança e o Paraguai(1934年)、Francisco DoratiotoのMaldita guerra: nova história da Guerra do Paraguai(2002年)で言及されず、英語の文献でウルグアイ戦争に触れたThomas L. WhighamのThe Paraguayan War: Causes and early conduct(2002年)、Chris LeucharsのTo the bitter end: Paraguay and the War of the Triple Alliance(2002年)、Hendrik KraayとThomas L. WhighamのI die with my country: perspectives on the Paraguayan War, 1864–1870(2004年)、Terry D. HookerのThe Paraguayan War(2008年)でも言及はなかった。 ↩
ウルグアイ戦争(ウルグアイせんそう、スペイン語: Guerra del Uruguay、ポルトガル語: Guerra do Uruguai。1864年10月10日-1865年2月20日)は、ウルグアイの与党ブランコ党と、ブラジル帝国及びウルグアイのコロラド党の同盟との間の戦争。アルゼンチンは秘密裏に同盟側を支持した。ウルグアイでは独立以来、コロラド党とブランコ党の紛争が断続的に続いており、1863年にはコロラド党首ベナンシオ・フローレスが解放十字軍をおこして、コロラド=ブランコ連立政府(「フシオニスタ」(fusionista、「融合派」の意味))のベルナルド・ベロ大統領を失脚させようとした。アルゼンチン大統領バルトロメ・ミトレはフローレスに補給、志願兵、河川での兵員輸送などの援助を提供した。
1850年代後半、コロラド党とブランコ党の指導層は和解を試みた。両党の多くの人々からの同意を受け、「フシオニスタ」(fusionista、「融合派」の意味)政策がとられ、政府や軍事における協力が始まった23。しかし、分裂を癒す試みは1858年にコロラド党の反動派が和解政策を拒否したことで一時挫折した。この反乱はフシオニスタ政府のガブリエル・アントニオ・ペレイラ大統領(在任:1856年 - 1860年、元コロラド党員)に鎮圧され、首謀者たちはネグロ川沿いのパソ・デ・キンテロス(Paso de Quinteros)で処刑された。処刑はさらなる紛争を生んだ。コロラド党はフシオニスタ派がブランコ党に肩入れしていると疑い、「キンテロスの殉教者」の仇討ちを呼び掛けたのであった35。
モンテビデオのアギレ政府は最初サライヴァの提案を受け入れたくなかった。パラグアイの支援がある以上、内戦終結もブラジルの要求の受け入れも利点が少なかった37。その理由は、歴史家のジェフリー・D・ニーデル(Jeffrey D. Needell)によると、「ウルグアイ大統領はこれら(の問題)を解決したくなかった。というのも、問題となっている、不満を抱いているブラジル人はアルゼンチンの傀儡かつ自身の打倒をもくろんでいるベナンシオ・フローレスの同盟者であるからだった」38。また、植民地時代のスペイン・ポルトガル間の長期間にわたる不信がそのままイスパノアメリカとブラジルの敵意に発展していた39。その結果、ブラジルとウルグアイはお互いを嫌った。ロバート・ボンタイン・カニンガム・グレアムが述べたように、「ブラジル人はウルグアイ人を血に飢えた野蛮人とこき下ろし、ウルグアイ人は返しとしてブラジル人の戦争を望まない態度をばかにし、ブラジル人が混血であることを軽蔑した」39。
ジョアキン・マルケス・リスボン中将(タマンダレ男爵)の命令に基づき、ブラジル艦隊がウルグアイ領海で待機していた。ブラジル艦隊はフリゲート1隻、コルベット6隻、砲艦5隻の蒸気船合計12隻だった42。1864年8月11日、タマンダレ男爵は戦争におけるブラジル陸軍と海軍の総指揮官として43、サライヴァからの指令を受けて報復攻撃を開始した44。ブラジル艦隊はサルト、パイサンドゥー、マルドナドに派遣され、名目上の目的を「ブラジル国民の保護」とした。一方、ウルグアイが有した軍艦はいずれも小型蒸気船のビリャ・デル・サルト(Villa del Salto)とヘネラル・アルティーガス(General Artigas)であり、ブラジル艦隊はこの2隻を無害化しようとした45。タマンダレはこれら2隻にドックに残るよう要求したが、ヘネラル・アルティーガスだけが従った46。
ウルグアイにいたブラジル艦隊は本来ならばブラジル陸軍と合同して行動する予定だった。しかし、数か月が経過して、リオグランデ・ド・スルのピライ・グランデ(Piraí Grande)に駐留していた「監視師団」(Divisão de Observação)は最後通牒ののち「南方軍」(Exército do Sul)に改名した後でもウルグアイ国境を越える準備が一向に整わなかった。この陸軍の目的はパイサンドゥー、サルト、メロを占領して、フローレスらコロラド党に引き渡すことだった53。
10月12日、ジョゼ・ルイス・メナ・バレット准将率いる旅団が本軍から分離、2日後にはブラジル領ジャグアラン近くからウルグアイのセロ・ラルゴ県に侵攻した。小競り合いを仕掛けてもブラジル軍の進軍が止まらないのを見ると、ブランコ党は県都メロを放棄、バレットの旅団は10月16日に無抵抗にメロに入城した。メロをコロラド党に引き渡すと、バレットの旅団は10月24日に撤退、南方軍と合流した54。次の標的はサルトだった。ペレイラ・ピントがジョアキン・ジョゼ・ピント中尉(Joaquim José Pinto)率いる砲艦2隻をサルトの海上封鎖に派遣した後、フローレスは11月24日に到着してサルト包囲戦を開始した。ウルグアイ駐留軍の指揮官ホセ・パロメケ大佐(José Palomeque)はほぼ無抵抗で11月28日の午後に降伏した55。フローレスは大砲4門を鹵獲、250人を捕虜にした56。サルトの占領軍としてコロラド党の軍勢300人、ブラジル軍150人がサルトに残った56。
サライヴァがウルグアイに最後通牒を突きつけてからほぼ4か月後の12月1日、南方軍はようやくウルグアイに侵攻した66。また、アントニオ・デ・ソウサ・ネト率いる別働隊1,300人(ブラジルのガウチョ騎兵で構成された)も同伴した67。こうして、ブラジルの兵士7,011人と台車200台66は抵抗に遭わないままウルグアイ領を通過、南西部のパイサンドゥーに向かった。ブランコ党の組織も紀律も乱れたガウチョ部隊はブラジル軍に敵うはずもなく、歴史家のトマス・L・ウィガム(Thomas L. Whigham)はウルグアイのガウチョ部隊には「戦闘の経験はあったが、訓練はなく、装備も一般的なマスケット銃、ボーラ、ファコン・ナイフしかないと不足していた」と述べた68。カニンガム・グレアムもウルグアイのガウチョで「火器を有していた者は稀だった。運よく、真ちゅうで取り付けられた長いピストルやフリントロック式らっぱ銃を有していたとしても、一般的には壊れていて使えなかった。一方、彼らは少しの訓練でサーベルやランスを持つ強敵になる。」と述べた69。
Barroso, Gustavo (1935) (ポルトガル語). História Militar do Brasil. São Paulo: Companhia Editora Nacional
Bethell, Leslie (1985). The Cambridge History of Latin America. 3. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-23224-4
Bormann, José Bernardino (1907) (ポルトガル語). A Campanha do Uruguay (1864–65). Rio de Janeiro: Imprensa Nacional
Carvalho, José Murilo de (2007) (ポルトガル語). D. Pedro II: Ser ou Não Ser. São Paulo: Companhia das Letras. ISBN 978-85-359-0969-2
Costa, Wilma Peres (1996) (ポルトガル語). A Espada de Dâmocles: o Exército, a Guerra do Paraguai e a Crise do Império. São Paulo: HUCITEC. ISBN 85-271-0245-5
Golin, Tau (2004) (ポルトガル語). A Fronteira. 2. Porto Alegre: L&PM. ISBN 978-85-254-1438-0
Graham, Robert Bontine Cunninghame (1933). Portrait of a Dictator. London: William Heinemann
Hooker, Terry D. (2008). The Paraguayan War. Nottingham: Foundry Books. ISBN 1-901543-15-3
Kraay, Hendrik; Whigham, Thomas L. (2004). I Die with My Country: Perspectives on the Paraguayan War, 1864–1870. Dexter, Michigan: Thomson-Shore. ISBN 978-0-8032-2762-0
Leuchars, Chris (2002). To the Bitter End: Paraguay and the War of the Triple Alliance. Westport, Connecticut: Greenwood Press. ISBN 0-313-32365-8
Maia, Prado (1975) (ポルトガル語). A Marinha de Guerra do Brasil na Colônia e no Império (2 ed.). Rio de Janeiro: Cátedra
Munro, Dana Gardner (1960). The Latin American Republics: A History (3 ed.). New York: Appleton-Century-Crofts
Needell, Jeffrey D. (2006). The Party of Order: the Conservatives, the State, and Slavery in the Brazilian Monarchy, 1831–1871. Stanford, California: Stanford University Press. ISBN 978-0-8047-5369-2
Osório, Joaquim Luís; Osório, Fernando Luís (1915) (ポルトガル語). História do General Osório. 1. Pelotas: Tipografia do Diário Popular
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Schneider, Louis (2009) (ポルトガル語). A Guerra da Tríplice Aliança Contra o Paraguai. Porto Alegre: Pradense. ISBN 978-85-89072-13-7
Silva, Alfredo Pretextato Maciel da (1906) (ポルトガル語). Os Generais do Exército Brasileiro de 1822 a 1889: Traços Biográficos. 2. Rio de Janeiro: M. Orosco & C
Tasso Fragoso, Augusto (2009) (ポルトガル語). História da Guerra entre a Tríplice Aliança e o Paraguai. 1 (3 ed.). Rio de Janeiro: Biblioteca do Exército
Williams, Mary Wilhelmine (1937). Dom Pedro the Magnanimous, Second Emperor of Brazil. Chapel Hill, North Carolina: University of North Carolina Press
Whigham, Thomas L. (2002). The Paraguayan War: Causes and Early Conduct. 1. Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press. ISBN 978-0-8032-4786-4
同時代の文献ではGeorge ThompsonのThe War in Paraguay(1869年)、George Frederick MastermanのSeven eventful years in Paraguay(1870年)、Richard Francis BurtonのLetters from the battlefields of Paraguay(1870年)、Charles Ames WashburnのThe History of Paraguay(1871年)、Max von VersenのReisen in Amerika und der Südamerikanische Krieg(1872年)、Louis SchneiderのDer Krieg der Triple-Allianz(1872-1875年)があるが、いずれも具体的な数字に言及しなかった。以降の歴史書でもJosé Bernardino BormannのA Campanha do Uruguai(1907年)、Augusto Tasso FragosoのHistória da Guerra entre a Tríplice Aliança e o Paraguai(1934年)、Francisco DoratiotoのMaldita guerra: nova história da Guerra do Paraguai(2002年)で言及されず、英語の文献でウルグアイ戦争に触れたThomas L. WhighamのThe Paraguayan War: Causes and early conduct(2002年)、Chris LeucharsのTo the bitter end: Paraguay and the War of the Triple Alliance(2002年)、Hendrik KraayとThomas L. WhighamのI die with my country: perspectives on the Paraguayan War, 1864–1870(2004年)、Terry D. HookerのThe Paraguayan War(2008年)でも言及はなかった。 ↩