阿難
阿難は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた。禅宗では摩訶迦葉の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。阿難陀は漢語意訳では歓喜・慶喜とも記される。 なお各種仏典には、仏弟子や龍王をはじめとして、「-nanda(○○難陀)」という名前が頻繁に登場する。たとえば孫陀羅難陀も本項の阿難陀と名前が似ているため、よく混同されるが別人である。
生誕 年不詳最終更新 2026/10/16 14:51
阿難(あなん、梵/巴:Ānanda आनन्द アーナンダ 阿難陀)は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた。禅宗では摩訶迦葉の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。1阿難陀は漢語意訳では歓喜・慶喜とも記される。
なお各種仏典には、仏弟子や龍王をはじめとして、「-nanda(○○難陀)」という名前が頻繁に登場する。たとえば孫陀羅難陀も本項の阿難陀と名前が似ているため、よく混同されるが別人である。
人物・出身
彼の出身は仏典によって諸説あり一致しない(後述)が、一般的には釈迦の従弟で、様々な仏典に釈迦とその教団に違背した悪人として描かれているデーヴァダッタ(提婆達多)の弟と言われる。
彼は、釈迦が成道した夜に生まれたといわれる。大智度論によると、彼の父である斛飯王(こくぼんのう、ドローノーダナ)が、釈迦の実父であるシュッドーダナ王(浄飯王)のもとに使者を送り、阿難の誕生を知らせた時、浄飯王は非常に喜んだので「アーナンダ(歓喜)」と名づけられたといい、また国民は皆、王子の誕生を喜び、それによって名づけられたともいわれる。彼も阿那律(アヌルッダ)などの諸王子と共に釈迦仏の元に赴き仏弟子となった。時に釈迦が55歳、阿難が25歳といわれる(もしくは8歳で沙彌=年少の修行者となったという説もある)。
なお、『仏本行集経』によると、出家する時に釈迦仏から許しを得ず、阿難と提婆達多の2人だけは、雪山(ヒマラヤ)のふもとの長老、優波陀(ウバッダ)に就いて出家し具足戒を受け、師の許しを得て仏所へ赴いて弟子となったとされる。
彼は美男子ゆえに、女難を被ることが度々あったと言われるが、志操堅固にして身を護り修行を全うした。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、漏尽通を起くことができず、仏の入滅時には未だ有学の人で阿羅漢果を得ていなかったと言われる。
釈迦の養母・摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい=マハー・プラジャパティー)たちが出家する際、釈迦が女人の出家をなかなか認めなかったので、阿難が釈迦仏を説得し、釈迦が女人の出家を認めるようになったことは特筆する点である(ただし、釈迦が女人の出家を躊躇ったとの逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付加されたものである可能性が高いと植木雅俊は主張している2)。
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