長禄の変
長禄の変(ちょうろくのへん)は、室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)とされる兄弟を討って神璽を持ち去った事件。ただし、赤松氏の遺臣らは、この際、一度は神璽の奪取に成功するものの、吉野の郷民に奪い返されてしまい、翌年3月、改めて奪回作戦を決行している。森茂暁は『闇の歴史、後南朝:後醍醐流の抵抗と終焉』でこの長禄元年と2年の事件を合わせて長禄の変と呼んでいる。
開始 1457年12月18日最終更新 2026/10/16 14:50
長禄の変(ちょうろくのへん)は、室町時代の長禄元年12月2日(1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)とされる兄弟を討って神璽を持ち去った事件。ただし、赤松氏の遺臣らは、この際、一度は神璽の奪取に成功するものの、吉野の郷民に奪い返されてしまい、翌年3月、改めて奪回作戦を決行している。森茂暁は『闇の歴史、後南朝:後醍醐流の抵抗と終焉』でこの長禄元年と2年の事件を合わせて長禄の変と呼んでいる1。
経過
三種の神器の内、神璽は禁闕の変で吉野朝廷(南朝)復興を唱える勢力(後南朝)によって持ち去られたままとなっていた。長禄の変とは、この神璽を嘉吉の乱により滅亡した赤松家の遺臣が奪い返した事件であるが、決行に当たり彼らは神璽を奪回した暁には次郎法師丸(後の赤松政則)を家督として赤松家の再興を認めるという後花園天皇の綸旨と足利義政の御内書を得ていたとされる。そうした消息を伝えるのが「堀秀世上月満吉連署注進状」2と呼ばれる史料で、事件に関った赤松家遺臣の一人である上月左近将監満吉が事件後20余年を経た文明10年(1478年)に事件の顚末を記したもの。その冒頭で「綸旨并御内書等当方御頂戴之間」と事が後花園天皇の綸旨と足利義政の御内書を得て行われたことが明記されている。また赤松氏の一族である因幡守入道定阿が天正16年(1588年)に著した『赤松記』3にも同様の趣旨が記されており、こちらには綸旨や御内書についての言及はないものの、「赤松衆□□□天下第一の忠賞に預り、この家再興を致さんとの望みにて、工夫してこの吉野殿を討果し神璽を取り返し奉るべし。然らば次郎法師丸に御安堵有るべきかと内々を以て訴訟申す所に、上意の御内証相叶ひ、三條殿を以て禁中へも申し上ぐ」と将軍の「上意」を得た上で内大臣・を通して宮中へも話が通じていたことが記されている。さらに同書には赤松遺臣らは三條実量の「御内」(家臣)である石見太郎右衛門を介して三條実量に働きかけていた経緯も記されている。この石見太郎右衛門についての僧・太極正易の日記『碧山日録』の長禄3年11月24日の条には「洛有(邑)の石見太郎は亡臣赤松氏の家客なり」とあり、元は赤松家の客分だったことがうかがえる。
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最終更新 2026/10/16 14:50 · r243009 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。