盧毓
盧 毓は、中国三国時代の魏の政治家。字は子家。父は盧植。兄たちの名は不詳(三人)。子は盧欽・盧珽(『新唐書』宰相世系表は、盧簡を含めた三子とする)。幽州涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の人。
生誕~死没 183年 ~ 257年最終更新 2026/10/16 14:54
盧 毓(ろ いく、183年 - 257年)は、中国三国時代の魏の政治家。字は子家。父は盧植。兄たちの名は不詳(三人)。子は盧欽・盧珽(『新唐書』宰相世系表は、盧簡を含めた三子とする)。幽州涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の人。
経歴
数え10歳で父を失い、二人の兄も後漢末の戦乱で失った。当時、袁紹と公孫瓚が争いを繰り広げていたため、食糧を確保できない状況だったが、盧毓は夫を亡くした嫂と兄の子を養いつつ生計を立てた。その後、学問・品行に優れているということで称えられた。
曹丕が五官中郎将になると召し出され、崔琰の推挙で冀州の主簿となった。戦乱の時代であったため、逃亡兵は厳罰に処され、妻子も連座して死刑に処せられることになっていた。名を白という逃亡兵の妻は、婚姻して数日しか経ていなかったが、それでも死刑を求刑された。このため盧毓は『詩経』・『尚書』などの古典を引き、死刑は重すぎると反対した。曹操は盧毓の主張に感嘆した。
曹丕(文帝)が即位すると黄門侍郎になり、さらに各地の太守を歴任した。しかし曹丕の機嫌を損ねた事から、一時左遷された事もあったという。
曹叡(明帝)の時代になると、諸葛誕や鄧颺らが名声を馳せ「四聡八達(四人の聡明な人物と八人の達人)」と呼ばれていた。曹叡は彼らを嫌い「しかるべき人物を得るかどうかは盧生にかかっている。官吏の選挙(選抜)は名声ある者を採ってはならない。名声は**画餅**(画に描いた餅)のようなもので、飢えを満たす事はできない」と詔勅を下した。盧毓は「名声は特別な人物を招くには不十分でも、普通の人物を得るにはよろしいでしょう。普通の人物は教えを敬い、善を慕いました後で、はじめて有名になるのですから、憎むべきものではありません」と答えた。
盧毓が無官の管寧を推挙したが、曹叡は登用する気になれなかったので、次善の候補を尋ねた。盧毓が韓曁・の起用を勧めると、曹叡は韓曁を起用した。盧毓は人材登用に人格・品行を最優先し、その後にはじめて才能に触れるという方針を採った。がその理由を尋ねると「才能を善行に役立てる事ができなければ、才能が役に立たないという事だ」と答えた。
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