王粲
王 粲は、中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。兗州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。曾祖父は王龔。祖父は王暢。父は王謙。子は男子二人。文人としても名を残したため、建安七子の1人に数えられる。
生誕~死没 177年 ~ 217年最終更新 2026/10/16 14:45
王 粲(おう さん、熹平6年(177年) - 建安22年1月24日(217年2月17日))は、中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。兗州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。曾祖父は王龔。祖父は王暢。父は王謙。子は男子二人。文人としても名を残したため、建安七子の1人に数えられる。
略歴
曾祖父の王龔・祖父の王暢が共に三公に至ったという名門の家に生まれる。父の王謙は何進の長史だったが、彼の縁組申し入れを拒絶した後、病気のため免職となり、家で亡くなった。
初平元年(190年)、董卓の遷都により長安に移住した。大学者として有名だった蔡邕から非常に目をかけられ、彼の蔵書を預かることとなった。
17歳で司徒に招かれ、黄門侍郎にも任命されたが、どちらにも就任せず、戦乱打ち続く長安を族兄の王凱や蔡睦と一緒に離れ1、祖父王暢の弟子でもある荊州刺史の劉表を頼った。劉表は当初、娘を王粲に嫁がせることを考えたが、その容貌が醜く行動が軽率であるのを嫌い、容姿端麗な王凱に娘を嫁がせた2。
建安13年(208年)、劉表が亡くなると後継者の劉琮を説得し、曹操に帰服させた。曹操から招かれて丞相掾となり、関内侯の爵位を授けられた。軍師祭酒を経て、建安18年(213年)に曹操が魏公に即くと、侍中に任命された。
優れた記憶力を持ち、碁盤の石が散らばっても全て元通りに戻すことができた。博学多識で、曹操が儀礼制度を制定する時は、必ず王粲が主催した。弁論は臨機応変で、その上奏や論文は大臣の鍾繇・でも手を下せないほど。算術にも長じ、算法を作ってその道理を極めた。
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