王濬
王 濬は、中国三国時代から西晋にかけての人物。魏・西晋に仕えた。字は士治。司隸弘農郡湖県(現在の河南省三門峡市霊宝市)の出身。妻は徐邈の娘。
生誕~死没 206年 ~ 286年最終更新 2026/10/16 14:49
王 濬(おう しゅん、拼音:Wáng Jùn)は、中国三国時代から西晋にかけての人物。魏・西晋に仕えた。字は士治。司隸弘農郡湖県(現在の河南省三門峡市霊宝市)の出身。妻は徐邈の娘。
生涯
代々2千石の家柄で、若い頃から経籍に精通し、また容姿に優れていたが、名声を求める行ないをしなかったため、郷里の有力者達から評価されなかった。後に意を改めて大志を抱き、司隸から招聘され河東従事となった。当時の司隷校尉が徐邈であり、王濬は徐邈から娘を妻として貰い受けることを許された。
羊祜の参軍事となり、羊祜に優待された。羊祜の甥の羊曁が王濬のことを「志は大きいが奢侈で節義が無いので、専任すべきではありません」と進言したが、羊祜は王濬の才腕が必要だと考えたため取り合わなかった。
益州の巴郡太守・広漢太守に昇進し、当地の兵役を緩め恵みをもたらしたため、郡民に喜ばれた。刺史の皇甫晏が張弘の乱によって殺害されると、代わって刺史となり張弘を誅殺し、その後も蛮夷を懐柔して多数を帰属させた。この功績で宮廷に入り、右衛将軍、さらに大司農となった。しかし、王濬を奇略の持ち主と知る羊祜は、密かに上表して再び彼を益州刺史とさせた。王濬は蜀漢の旧臣である何攀を重用し、羊祜とも連絡を取り合い呉討伐の協議を進めた。詔勅が下ると、呉を討伐するための大船団の建造を開始した1。咸寧3年(277年)には、益州で五斗米道の一派を率いていた陳瑞を「不孝」であるとして誅殺し、巴郡太守の唐定をはじめ、配下の中で入信した者達を免官にした。また当時、山川を祀った祠には松柏が植えられていたが、王濬はこれを「非礼」であるとして破壊・焼却し、松柏を船建造の材料として押収した。しかしそれでも資材が足りなくなると、何攀の進言で墳墓に植えられた松柏を市場で買い取ったという。その後、詔勅により屯田兵600人を建造に動員し、工事を急がせた。さらに、呉討伐慎重派によって却下されるリスクを恐れたため、何攀の進言で休養中の兵士1万人を勝手に動員した。こうした突貫工事の結果、上流では建造の過程で発生した無数の木屑が流れ、川幅何キロもある長江の河の色が変わるほどであったという。
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