捻軍
捻軍(ねんぐん)は、太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力。清国側は捻匪や捻賊と呼ぶ。捻乱とも言う。「捻」とは「ひねる」「こよる」という意味の語であるが、淮河北方の方言では「一本一本の糸をよりあげる」ことから転じて「人々の集まり」を示す。捻軍の起源は「捻子」という遊民の集団で安徽省・河南省一帯に広がっていった。
開始~終了 1851年 ~ 1868年最終更新 2026/10/16 14:49
基本情報
- 開始 ~ 終了
- 1851年 ~ 1868年
捻軍(ねんぐん)は、太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力。清国側は捻匪や捻賊と呼ぶ。捻乱とも言う。「捻」とは「ひねる」「こよる」という意味の語であるが、淮河北方の方言では「一本一本の糸をよりあげる」ことから転じて「人々の集まり」を示す。捻軍の起源は「捻子」という遊民の集団で安徽省・河南省一帯に広がっていった。
捻軍起義
咸豊2年(1852年)の飢饉で加入者が増加すると、18名の首領が会合し、張楽行を盟主として活動が活発化した。咸豊3年(1853年)、太平天国が北伐を開始すると、安徽省・河南省の捻軍はこれに呼応していたるところで蜂起した。
咸豊5年(1855年)、黄河の堤防が決壊すると、山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの民衆が難民となり、捻軍に加入した。捻軍は亳州で張楽行を「大漢盟主」とし、黄・白・藍・黒・紅の「五旗軍制」を制定し、雉河集を根拠地とした。数十万人が集まり、淮河の南北はみな捻軍という状況であった。咸豊6年(1856年)、交通の要衝の潁州三河尖を占領し、太平天国の陳玉成と緊密な連携を持つこととなった。
咸豊8年(1858年)から同治元年(1862年)まで捻軍は山東・江蘇・安徽を転戦する。これに対し清朝はモンゴル族の勇将センゲリンチン(僧格林沁)を投入、同治2年(1863年)にセンゲリンチンは雉河集を攻略し、張楽行を捕らえ処刑した。しかし同治3年(1864年)に太平天国が滅亡すると、太平天国の遵王頼文光は張楽行の甥の張宗禹ら捻軍の残存勢力と連合して組織の改編を行った。頼文光は捻軍の部将に太平天国の王号を授け、10万人の騎兵を擁するようになった。
同治4年(1865年)、捻軍は山東省の曹州でセンゲリンチンの騎兵部隊を壊滅させ(高楼寨の戦い)、英雄を失った清朝を震え上がらせた。清朝は曽国藩に捻軍の討伐を命じ、曽国藩は湘軍・淮軍8万を率いてあたったが、捻軍は包囲を突破して湖北省に入ったため、曽国藩はを解任され、に代わった。
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最終更新 2026/10/16 14:49 · r237814 · 記事の内容は CC BY-SA 4.0 のもとで利用できます。