孫韶
孫 韶は、中国後漢末期から三国時代の武将。呉の宗室の一人。字は公礼。叔父は孫河。孫策・孫権の甥。従弟は孫桓。子は孫楷・孫越・孫異・孫奕・孫恢。
生誕~死没 188年 ~ 241年最終更新 2026/10/16 14:48
孫 韶(そん しょう)は、中国後漢末期から三国時代の武将。呉の宗室の一人。字は公礼。叔父は孫河。孫策・孫権の甥。従弟は孫桓。子は孫楷・孫越・孫異・孫奕・孫恢。
経歴
孫河は呉郡の兪氏の出身であった。なお『呉書』では、元々孫姓だったが兪氏の養子となったとある。
孫韶が17歳のとき、丹陽で変事が勃発し孫河が殺害されたため、その後を継ぎ軍勢を率いた。京城の補修をし、櫓を立て兵器や軍備を整えて敵の侵攻に備えた。孫権は豫章の椒丘で変事を聞き、すぐに丹陽に戻り事態を収拾した。帰還の途中で呉郡に立ち寄り、試しに城へ攻撃を仕掛けてみたところ、秩序だった迎撃を受けたため、孫権が正体を明かしたところ、攻撃はすぐに止んだ。孫韶の見事な防御態勢を見て感心した孫権は次の日に孫韶と会い、任務をよく果たしたことを褒め、承烈校尉に任命し、孫河の部曲を継がせ、曲阿と丹徒の二県を奉邑として与えた。孫河と同等の権限を与えたため、孫韶は自分の判断で県の幹部を任用することができた。のちに広陵太守・偏将軍となった。孫権が呉王になると、揚威将軍に昇進し、建徳侯に封じられた。
黄武元年(222年)、曹休が20余り方面軍を率いて洞口に攻めてきた時には、孫韶は呉の将たちと肩を並べて呂範の配下で戦い、一時は悪天候で呉軍に劣勢に立たされた。後に呂範が残って指揮を続け、残った諸将達と共に魏軍を反撃して破り、勝利に乗じて曹休・張遼などを打ち破ると、魏軍を撃退した。
黄武4年(225年)、魏の曹丕が224年に続いて10余万の軍勢を率いて再び広陵に侵攻してきたが、長江が凍りついたため船を入れられず撤退した。それを機と読んだ孫韶は、敵の退路において伏兵として決死隊を5百用意したところ、敵が現れた際に夜襲をかけ、曹丕の度肝を抜き1、孫韶に敗れると、寿春へ敗走した。曹丕の乗馬車・羽蓋と魏軍の輜重を奪い、曹丕を討ち取る寸前まで追い詰めたという戦果を挙げた。孫権が即位すると、鎮北将軍となった。
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