孫慮
孫 慮は、中国三国時代の呉の皇族。字は子智。父は孫権。兄は孫登。弟は孫和・孫覇・孫奮・孫休・孫亮。妻は潘濬の娘。
生誕~死没 213年 ~ 232年最終更新 2026/10/16 14:47
孫 慮(そん りょ)は、中国三国時代の呉の皇族。字は子智。父は孫権。兄は孫登。弟は孫和・孫覇・孫奮・孫休・孫亮。妻は潘濬の娘。
生涯
幼いころから聡明で才芸を身につけたので、孫権に可愛がられた。黄武7年(228年)に建昌侯に封ぜられた。
黄龍元年(229年)、孫権は武昌から建業に再び遷都したが、武昌には太子孫登や皇子たちを置き、陸遜を武昌に召し寄せた上で、皇子や公子たちの教育係を務めさせた。当時、孫慮は闘鴨に熱中していたため、陸遜から学問に勤しむよう諌められたこともあった。孫慮はすぐに鴨の欄を取り壊したという1。
黄龍2年(230年)、顧雍は上奏し、孫慮の位を進めて王にすべきと進言した。孫権は一度これを拒絶したが、尚書僕射からも同様の勧めがあったため、王にする代わりに軍府を開くことを認めさせ、鎮軍大将軍に任じた。黄龍3年(231年)、九江付近の半州に開府した。このとき招かれた人物として薛綜がおり、長史として事務統括を任された2。
孫慮は年が若かったため、力量が危ぶまれたが、法を遵守し、師友の言葉を重んじたため、周囲の期待以上の治績を挙げた。
嘉禾元年(232年)春正月に死去3。享年20であった。孫権はその死を嘆き、食事も咽を通らないほどであった。
陳寿は、孫慮を孫和と共に「優れた資質を備え、自ら修養に励んだ人物」として評しつつも、短命に終わったことを哀しむべきことであったとしている。
参考文献
この記事は日本語版ウィキペディアの「孫慮」をもとに作成されており、 (r99696853) CC BY-SA 4.0 ライセンスのもとで利用できます。原文の投稿者一覧は 原文の履歴で確認できます。
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