吉田茂 — OpenHistory
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吉田茂 吉田 茂は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓:竹内(たけうち)。 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)、日本自由党総裁(第2代)、民主自由党総裁、自由党総裁(初代)を歴任した。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した
生誕~死没 1878年9月22日 ~ 1967年10月20日 最終更新 2026/10/16 15:01
基本情報
生誕 ~ 死没 1878年9月22日 ~ 1967年10月20日
生年月日 1878年9月22日
没年月日 (1967-10-20) 1967年10月20日(89歳没) 子女 吉田健一 (長男) 吉田桜子(長女) 吉田正男(次男) 吉田江子(次女) 麻生和子 (三女)
在任期間 1946年5月22日 - 1947年5月24日1948年10月15日 - 1954年12月10日 内閣 東久邇宮内閣 , 幣原内閣 , 第1次吉田内閣第2次吉田内閣, 第3次吉田内閣, 第3次吉田第1次改造内閣, 第3次吉田第2次改造内閣, 第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1945年9月17日 - 1947年5月24日(1946年5月22日から総理兼任)1948年10月19日 - 1952年4月30日(総理兼任)
内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1947年1月30日 - 1947年2月15日(総理兼任)
内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1946年5月22日 - 1946年6月15日(総理兼任)
当選回数 7回
在任期間 1947年4月25日 - 1963年10月23日
位置 35.6994, 139.7637 大きな地図で同時代を見る → 目次 1. 生涯 1.1. 生い立ち 1.2. 学生時代 1.3. 外交官時代 1.4. 第二次世界大戦後 1.5. 内閣総理大臣退任後 2. 実施した政策 3. 人物 3.1. 性格・特徴 3.2. 尊皇家・臣茂 3.3. 住居 3.4. 趣味・嗜好 3.5. 車における英国趣味 3.6. 愛犬家 3.7. この記事は日本語版ウィキペディアの「吉田茂 」をもとに作成されており、 (r104076152) CC BY-SA 4.0 ライセンスのもとで利用できます。原文の投稿者一覧は 原文の履歴 で確認できます。
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生誕 ~ 死没 1878年9月22日 ~ 1967年10月20日
生年月日 1878年9月22日
没年月日 (1967-10-20) 1967年10月20日(89歳没) 子女 吉田健一 (長男) 吉田桜子(長女) 吉田正男(次男) 吉田江子(次女) 麻生和子 (三女)
在任期間 1946年5月22日 - 1947年5月24日1948年10月15日 - 1954年12月10日 内閣 東久邇宮内閣 , 幣原内閣 , 第1次吉田内閣第2次吉田内閣, 第3次吉田内閣, 第3次吉田第1次改造内閣, 第3次吉田第2次改造内閣, 第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1945年9月17日 - 1947年5月24日(1946年5月22日から総理兼任)1948年10月19日 - 1952年4月30日(総理兼任)
内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1947年1月30日 - 1947年2月15日(総理兼任)
内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1946年5月22日 - 1946年6月15日(総理兼任)
当選回数 7回
在任期間 1947年4月25日 - 1963年10月23日
位置 35.6994, 139.7637 大きな地図で同時代を見る → 政治姿勢
東久邇宮内閣 や幣原内閣 で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻 をこよなく愛したことから「和製チャーチル 」とも呼ばれた。
生涯
生い立ち 吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新 をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった4 。その養母は徳川期儒学 の所産であった4 。
学生時代 少年期は、大磯町 西小磯で養母に厳しく育てられ、戸太町 立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾 に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。
同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)9月に無試験で東京帝国大学 法科大学 に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官 および領事官 試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅 の他、武者小路公共 、池邊龍一 、林久治郎 、藤井實 らがいた。
外交官時代 1918年山東省 の済南 で領事 として勤務していた吉田は、岳父の牧野伸顕 と共にパリ講和会議 に出席した7 。当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる8 。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相 や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満洲事変 以後もその点で一貫していた9 。中華民国 の奉天総領事館 で総領事 を務めた時代に東方会議 へ参加。政友会 の対中強硬論者である森恪 と連携し、いわゆる「満蒙分離論 」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣 の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官2 に就任する10 。
しかし1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉 を引き合わせ、後の近衛上奏文 につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊 に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾 陸相の配慮によるものではないかとされている)14 。40日あまり後に不起訴・釈放となったが15 、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる14 2 。
第二次世界大戦後
外務大臣就任 終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣 の外務大臣に就任2 。 短期間のうちに東久邇宮内閣が立ち行かなくなると東久邇、木戸幸一 、近衛文麿 らは吉田に後継首相となるよう説得に当たったが固辞16 。同年10月には吉田も後押しした幣原が首相に担ぎ上げられ、吉田は引き続き幣原内閣 の外務大臣に就任した。同年12月、貴族院議員に勅選される。
内閣総理大臣就任
第2次、3次吉田内閣 1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー 少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義 の悪と戦う手段として、私は、長い間、米議会 の下院非米活動委員会 をモデルにした「非日活動委員会」を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法 と公安調査庁 、内閣調査室 が、1952年(昭和27年)に、設置、施行されるきっかけを作る20 。アメリカでは当時、赤狩り 旋風が吹き荒れていた。
サンフランシスコ平和条約 側近の白洲次郎 などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投した。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散 )した。第25回衆議院議員総選挙 で自由党 の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣 を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田が衆議院予算委員会で質問者(西村栄一 )に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり21 、三木武吉 ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯 やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散 )で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党 との閣外協力 で第5次吉田内閣 を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。
1954年(昭和29年)1月から強制捜査 が始まった造船疑獄 では、犬養健 (法務大臣)を通して、検事総長 に佐藤栄作 (幹事長)の収賄罪 の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法 違反で在宅起訴 されるが国連 加盟恩赦 で免訴となる)。これが戦後唯一の指揮権 発動である。当然ながら、新聞などに多大なる批判を浴びせられた22 。また、同年6月3日の警察庁 及び道府県警察 を設置する警察法 全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎 に議院警察権 を発動させて国会 に警官 隊を初めて投入した23 。同年7月1日には保安庁 と保安隊 を防衛庁 と自衛隊 に改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせたものと言われている。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎 ら側近に諌められて24 断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任した。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日2 。
造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問 を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法 違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分 とした。
内閣総理大臣退任後 1955年(昭和30年)の自由民主党 結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人 の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學 総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙 への不出馬を表明し政界を引退した。しかし、引退後も大磯 の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老 」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。
その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、『ブリタニカ百科事典 』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century" (邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞 を発症した。このときは、あわてて駆けつけた義理の甥にあたる武見太郎 (医師会 会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。
死去前日の10月19日に「富士山 が見たい」と病床で呟き、三女の和子 に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である25 。翌20日正午ごろ、大磯の自邸にて死去した。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという26 。享年90(満89歳没)。
佐藤栄作 首相は東南アジア訪問中だったが27 28 、予定を繰り上げて21日夜に帰国28 、羽田空港から吉田邸に直行して遺体と対面した28 。22日未明に鎌倉の別邸に戻り28 29 、同日夜に再度吉田邸を訪問した28 。棺に納められていた吉田愛用のステッキが遺族から佐藤に贈られた28 。佐藤は代わりに自分のステッキを棺に入れた28 。
10月22日に死後洗礼を受け30 31 、洗礼名は「ヨゼフ・トーマス・モア吉田茂」であった30 31 。
吉田が死去した当時、存命中の内閣総理大臣経験者としては最高齢(1953年の阿部信行 没後自身が死去するまで)であった(最古参は東久邇宮稔彦王のまま)。
実施した政策
1946年9月27日 : 労働関係調整法の公布・施行41
1946年11月3日 : 日本国憲法の公布42
1947年3月31日 : 教育基本法の公布・施行43
1947年3月31日 : 学校教育法の公布・施行、学校制度改革、義務教育は中学3年まで延長44 。
1947年4月7日 : 労働基準法の公布・施行45
1947年4月14日 : 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の公布・施行46
1947年5月3日 : 日本国憲法の発効42
1949年1月1日 : 日本国憲法に適合させる改正刑事訴訟法の施行47
1949年6月1日 : 労働組合法の公布・施行48
1950年4月15日 : 公職選挙法の公布・施行49
1950年5月4日 : 生活保護法の公布・施行50
1950年6月5日 : 住宅金融公庫法の公布・施行51
1950年12月13日 : 地方公務員法の公布52
1950年12月28日 : 毒物及び劇物取締法の公布・施行53
1951年2月13日 : 地方公務員法の施行
1951年3月31日 : 結核予防法の公布・施行54
1951年6月30日 : 覚せい剤取締法の公布・施行55
1951年9月8日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の署名
1951年11月18日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の批准
1952年4月28日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の発効
1952年7月21日 : 破壊活動防止法の公布・施行56
1953年3月17日 : 麻薬及び向精神薬取締法の公布・施行57
1954年5月19日 : 厚生年金保険法の公布・施行58
1954年6月8日 : 警察法の公布・施行59
1954年6月9日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の公布60
1954年7月1日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の施行
人物
性格・特徴
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の風刺漫画 の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生 の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという61 。
吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。昭和天皇 に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である小沢佐重喜 の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。
尊皇家・臣茂
尊皇家であり、終戦後、昭和天皇 が戦争責任をとって退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという62 。
1952年(昭和27年)11月の明仁親王 の立太子礼 に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂 」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣 は総理大臣の臣だ」とやり返した。
住居
幣原内閣 で外相に就任した際、東京・芝 白金台 の旧朝香宮邸 を借り上げ、外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱 に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇 の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
佐藤栄作が内閣総理大臣であったころに吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという63 。
首相退陣後は神奈川県 大磯町 で暮らした。1884年に吉田茂の養父である吉田健三が土地を購入、別荘を建てていたが、養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継いだもので、1945年から大磯の邸宅が本邸となり晩年を過ごした64 。元は「こりん」の名で新橋の芸者だった「坂本喜代 」とともに暮らしたが、正式に妻として入籍することはなかったと伝えられ、これには吉田の貴族趣味が関係しているとする見方もある。吉田の生前も死後も報道陣の取材には応じず何も語らず亡くなった。
首相退陣後も政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された65 。ただ孫の麻生太郎は再建は意味がないとして当初は反対したという66 。同年10月23日には、河野太郎 外相と訪日したミクロネシア連邦 大統領との懇談・夕食会場として使われた67 。
趣味・嗜好
鼻眼鏡 をかけていた。当時でも鼻眼鏡をかける人は少なかった68 69 。
大の葉巻 好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナ を喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライト に切り替えた。
吉田は落語が好きで、六代目春風亭柳橋 を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代わりにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎 は、吉田に連れられて鈴本演芸場 に行くエピソードを著書で紹介している。
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。新人の番記者 だった三宅久之 は、吉田の印象について「傲岸不遜な『クソ爺』だった」と述べている70 。とくに晩年は大磯邸の豪邸ぶりとと相俟って、この貴族趣味ということが必要以上の贅沢をしているようなイメージを世間に与え、非難の対象となった。
もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった白洲次郎 は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
車における英国趣味
英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代ロールス・ロイス の中型モデル、「25/30HP 」1937年式でフーパー製サルーンボディを架装した個体を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍などへの「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30HPロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホール を頼んでまで使い続けた。
一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、西ドイツ 首相コンラート・アデナウアー と個人的に交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ 「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉 に引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている71 。特にロールス・ロイスは、吉田に関連するテレビドラマやイベントでも公開され、公衆の目に触れる機会が多い。
愛犬家
愛犬家で多いときには10匹以上の犬を飼っていた。そのため「ワンワン宰相」というあだ名もあった。とくに知られているのがアメリカでサンフランシスコ講和条約を締結し帰国する際につがいで購入したケアンテリアで、とくにお気に入りだったとも伝えられる72 。仔犬が生まれると、やはり愛好家の政財界人に分けていたと伝えられる。
1959年ころから大映映画製作のテレビ番組『少年ジェット』に出てくるシェパード犬「シェーン号」を見て気に入り、欲しがったもののシェーン号は徳川義親がすでに購入、次いでシェーン号の仔犬を入手しようとしたが、二頭の仔犬の内の一頭は明仁皇太子(当時)の飼い犬となり、もう一頭は警察犬となっていた72 73 。さらに大映女優の若尾文子の飼い犬がシェーン号の子を身ごもっていると聞き若尾と交渉して、その飼い犬の出産によりようやく子犬を入手した72 。
大磯の旧吉田邸の庭には多数の愛犬の墓石がある。72
政治姿勢
駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ 首相 に初めて挨拶に行った際、イタリアの外務省 からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
首相時代、利益誘導 をしてもらうべく、たびたび地元高知県 から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
逸話
辞めたくなったら…… 自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄 と、駐米大使や駐英大使を歴任して当時は宮内大臣 として宮中にあった松平恒雄 だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅 の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸 に訪ね、「あの殿様77 じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。
ところが元政友会幹事長の松野鶴平 が、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。松野はその手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた。松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、このころから2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。
蓋を開けてみると、吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、
金作りは一切やらない
閣僚の選考に一切の口出しは無用
辞めたくなったらいつでも辞める
という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた2 。しかし総選挙からすでに1か月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くかわからなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した78 。
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した79 。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。自由党総務会 で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣 が発足した。
吉田学校・ワンマン体制 自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。そこで、官僚 出身者を中心とした吉田学校 と呼ばれる集団を形成した。1949年(昭和24年)の第24回総選挙 で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅 や大野伴睦 らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。吉田学校の主な人物として、佐藤栄作 ・池田勇人 ・田中角栄 ・大平正芳 がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流 を形成することになる。
孤高のサイン 講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員 でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシー に体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジ を眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約 に一人で署名した80 。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。
マッカーサーとの関係 吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン 大統領 によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったという話もある。
吉田のユーモアはマッカーサーに対しても発揮されている。戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と辞退したという。また、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者は出なかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と切り返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという81 。
復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は、1964年東京オリンピック にマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬 に参列した。
なお、東方会議 をリードし治安維持法 に死刑条項を設けたため、公職追放 の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたといわれている82 。
曲学阿世の徒 サンフランシスコ講和会議 直前、ソ連 や中国共産党 の政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学 総長南原繁 がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は1950年5月3日、「これは国際問題を知らぬ曲学阿世 の徒、学者の空論に過ぎない」と発言、「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。5月6日、南原は学問への権力的弾圧と反論した。
同会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物 に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。
上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党 に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの園 を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。
水をかける 1952年(昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名である。
このエピソードの背景にはある事情がある。吉田は妻の雪子 を1941年(昭和16年)に亡くしていた。まもなく、愛人の芸者で花柳流 の名取 でもあった小りん (本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて同居を始めている。ただし岳父・牧野伸顕 の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られた。吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには悪感情を持っていたのである。ただし、小りんとの関係が公表されてしまったおかげで世間体を気にする必要もなくなり、1944年(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。
後に皇太子明仁親王 から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際、吉田は「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した。それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。
人を食っております 日米修好通商 百年祭に日本の代表として訪米し、外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」と応じた。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には、「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した83 。
吉田は米寿 をすぎてもまだ矍鑠としていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった84 。
ユーモア 寺内正毅 が首相に就任する際、寺内の朝鮮総督 時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から首相秘書官 就任を要請された。しかし吉田は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と返答した。
また、ある日会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれた。抗議をする客人に対し、吉田は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かなことはないだろう」と言い訳した。
1964年(昭和39年)11月、赤坂御用地 での園遊会 では、昭和天皇 が「大磯 はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている85 。
第二次世界大戦が始まる数年前、在英日本大使館を訪れ要人待遇を求める外遊中の国会議員に対して三度居留守を使ったが、三度目にその議員が怒り始めると、吉田本人が姿を現し、大使は不在で面会に応じる気はない、今あなたに向かって話をしているのが吉田大使なのだから、本当だと思ってもらって結構と述べている86 。
皮肉な言動 帝国憲法改正 を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “G o H ome Q uickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。
バカヤロー解散における広川弘禅農林大臣らの裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川農相は僧籍を持っている)と皮肉を言った。
天国泥棒 妻の雪子 がカトリック だったこともあり、吉田家は長男の健一 を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。1964年(昭和39年)に建設された東京カテドラル 聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父の牧野伸顕 のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼 を受けなかった。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎 に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田の死後、ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」という霊名がつけられた87 88 。
同姓同名
その他の逸話
最初の妻・雪子と結婚する際に、痔 に悩まされていることを岳父の牧野伸顕 に伝えたところ、牧野からすぐにでも治すように言われ、結婚式では吉田本人が出席できず、吉田家伝来の太刀 が代わりに新郎の席に飾られていた89 。
対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の吉田は、外務次官のポストを得ようとしたが、首相の田中義一 にいったん拒絶され、スウェーデン 公使に出されることになった。吉田は首相官邸 に乗り込み、田中に向かって長時間に渡り、次官の自己推薦のための口舌をぶち、その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、外務次官になってもらうよ。まさか異論はないだろうね」ととぼけた口調でいわれ、吉田は驚きつつも次官就任を快諾した。以後、吉田は終生、田中のことを尊敬するようになったという。
学習院 時代の恩師に海軍の命令で軍事教練担当の教師として派遣されていた鈴木貫太郎 がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田は総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねた。鈴木は吉田に、例えば「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること。つまり、負けっぷりをよくすることだよ」などと伝えていたと言われている。
幣原喜重郎 外相の下で次官を務めていた際、省内の文書が次官の吉田の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、能書家として知られていた幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。
晩年に大勲位菊花大綬章 を授与された後、養父である吉田健三の墓前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。
1947年(昭和22年)、GHQの民主化路線に乗じて勢いを増した労働組合 がストライキ を乱発し、政治闘争を突っ走っていたころ、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(「不逞の輩」発言:参照 - 二・一ゼネスト )。
名前に二つの『し』があることを無駄に長いと感じ、小学校時代のあだ名は、二つある『し』の間を省略して『よしげる』であった。
名字は「𠮷 」の表記であったが、1949年4月28日に当用漢字 字体表が告示されると同時に、官報 の表記が「吉 」に改められた90 。
ノーベル平和賞候補 ノーベル平和賞 に3回推薦されている。ノルウェー・ノーベル委員会が守秘義務期間を過ぎ開示した選考資料によれば、1965年、1966年、1967年の候補になっていたことが明らかになっている91 。特に1965年には当時の首相佐藤栄作や外相椎名悦三郎 、また日本政府の働きかけによって元米国務長官ディーン・アチソン 、元西ドイツ首相コンラート・アデナウアー からの推薦も得て吉田を平和賞候補にする推薦状が作られ、最終審査対象リストにも残っている92 93 。1965年と1966年の推薦状作成の過程については、外交史料館の推薦史料を調査した吉武信彦(高崎経済大学 )の論文が詳しい94 95 。
経歴
年譜
1878年(明治 11年)9月22日 - 東京 神田駿河台 に生まれる
1881年(明治14年)8月 - 吉田家と養子縁組。戸太町 立太田学校(後の横浜市立太田小学校)卒業
1889年(明治22年)2月 - 寄宿制私立中学耕余義塾 入学
1894年(明治27年)4月 - 耕余義塾卒業
1895年(明治28年)9月 - 高等商業学校 (後の一橋大学 )入学
1896年(明治29年)3月 - 正則尋常中学校(後の正則高等学校 )卒業
1897年(明治30年)10月 - 学習院高等学科 入学
1901年(明治34年)8月 - 学習院高等学科卒業
1904年7月 - 学習院大学科退校(翌年、学習院大学科が閉鎖されるため)
1906年(明治39年)7月 - 東京帝国大学法科大学 政治科卒業
9月 - 外交官および領事官試験合格、外務省入省
11月 - 領事官補として天津 に赴任
1907年(明治40年)2月 - 奉天 領事館に赴任
1909年(明治42年)5月9日 - 牧野伸顕 の長女雪子 と結婚後ロンドン に赴任。12月、駐伊 大使館附三等書記官
1912年(大正 元年)8月 - 安東領事
1916年(大正5年)8月 - 在米 大使館附二等書記官
1917年(大正6年)7月 - 文書課長心得
1918年(大正7年)2月 - 済南 領事
1919年(大正8年)2月 - パリ講和会議 随員
1920年(大正9年)5月 - 在英 大使館附一等書記官
1922年(大正11年)3月 - 天津総領事
1925年(大正14年)10月 - 奉天総領事
1928年(昭和 3年)3月 - 外駐スウェーデン 公使。高等官一等
1930年(昭和5年) 12月 - 駐伊大使
1932年(昭和7年) - 待命
1934年(昭和9年)10月 - 外務査察使として欧米をまわる。娘和子が付き添う。
1935年(昭和10年)秋 - 外務省退官
1936年(昭和11年)6月24日 - 駐英大使
1938年(昭和13年)9月 - 帰朝命令
10月19日 - 帰朝のため離英96
1945年(昭和20年)4月 - 近衛上奏文事件で憲兵隊 に拘置
1946年(昭和21年)1月 - 外相のまま終戦連絡事務局総裁を兼任。同次長に白洲次郎 を起用
1947年(昭和22年)4月25日 - 第23回総選挙 に旧高知全県区から出馬して初当選
1948年(昭和23年)3月 - 民主自由党 総裁
1949年(昭和24年)1月23日 - 第24回総選挙 で2選
1950年(昭和25年)3月 - 自由党 総裁
1951年(昭和26年)7月4日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田第2次改造内閣 )
1952年(昭和27年)8月1日 - 保安庁 発足、長官を兼任
1953年(昭和28年)4月19日 - 第26回総選挙 で4選
1954年(昭和29年)12月10日 - 造船疑獄 などの影響により内閣総辞職
1955年(昭和30年)2月27日 - 第27回総選挙 で5選
1958年(昭和33年) 5月22日 - 第28回総選挙 で6選
1960年(昭和35年)11月20日 - 第29回総選挙 で7選
1963年(昭和38年)2月 - 池田総理の要請で特使として台湾を訪問し、国民政府 との親善関係を修復
10月14日 - 次期総選挙への不出馬を表明
10月23日 - 衆議院解散にともない、政界を引退
1964年(昭和39年)4月 - マッカーサーの国葬に参列
1967年(昭和42年)10月20日 - 神奈川県 大磯 の私邸で永眠(89歳)
栄誉・栄典
1907年(明治40年)2月1日 - 従七位 97
1930年(昭和5年)12月27日 - 正四位 98
1967年(昭和42年)10月20日 - 従一位
著書
単著
書簡
回想十年 中央公論社(1998年、改版2014年-2015年)
『回想十年 新版』毎日ワンズ、2012年11月。ISBN 9784901622653
『回想十年 新書版』毎日ワンズ、2022年9月。ISBN 978-4909447227
共著
一族
家族・親族
実父:竹内綱 (実業家、政治家)
実母:瀧子
ただし実母は芸者 某とする説がある。『日本の上流社会と閨閥』203頁によると、「…母親の名も素性もはっきりしないが、後年、名門出の雪子夫人との間にすき間風が吹き始め、芸者遊び に精を出すようになると、雪子は “芸者の子は芸者が好きね” と言ったそうだから想像がつく。…」という。『吉田茂とその時代(上)』6頁によると、「…実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三 の庇護のもとで茂を生んだのである…初期の戸籍 は明らかに母 “不詳” としているが、吉田の存命中は竹内の本妻に生まれたという虚構の説が公に唱えられ、出生をめぐる回想のなかでも吉田は実母に言及することを用心深くさけている…」という。
実兄:竹内明太郎 (実業家、政治家)
姉:菊(白石直治 の妻) 菊の子息である白石宗城 は、昭和26年に日窒(現・チッソ )社長となり、水俣病 の発生、患者の公式確認(昭和31年)の事態を引き起こした(「助触媒の変更」が原因)。昭和33年退任。後任社長の吉岡喜一 は有罪確定となったが、白石は訴追されていない。白石は、吉田の甥にあたり、社長就任時、吉田政権下であった。
系譜 佐藤秀助 ┏佐藤市郎━━━━佐藤信太郎
┣━━━━━━╋岸信介━━━━洋子━━━━━━━━━━━┳安倍晋三
┏茂世 ┗佐藤栄作━━━┳佐藤龍太郎━佐藤栄治 ┗岸信夫
┃ ┗佐藤信二
佐藤信彦━━━┻さわ━━━━━━吉田寛
┃
竹内綱━━━┓ ┃
┃ ┃ 鈴木善幸━┳━━━━鈴木俊一
吉田健三==┸吉田茂 ┏桜子 ┗千賀子
┣━━━━━━━╋吉田健一━━┳吉田健介 ┃
牧野伸顕━━━━雪子(1) ┣吉田正男 ┗吉田暁子 ┣麻生将豊
┃ ┣江子 ┃
喜代(2) ┗和子 ┏━━━━麻生太郎
┣━━━━╋麻生泰
麻生太吉━━━━麻生太郎━━━麻生太賀吉 ┣雪子
┣旦子
┗信子
┣━━━━━┳彬子女王
三笠宮崇仁親王━━━寛仁親王 ┗瑶子女王
吉田茂を扱った作品
小説
映画
テレビドラマ
漫画
参考文献
内閣印刷局 『職員録 』内閣印刷局、東京、1935年、2頁。
吉田茂『回想十年 (全4巻)』新潮社→東京白川書院。 中公文庫 (全4巻、新版全3巻)
吉田茂 『大磯随想』中公文庫、1991年、改版2001年
『世界と日本』中公文庫、1992年
『日本を決定した百年』中公文庫、1999年(解説粕谷一希 )
ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳
西村熊雄 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』
池田勇人 『財政均衡、付・占領下三年の思い出』
岡崎勝男 『戦後二十年の遍歴』
今日出海 『吉田茂』 講談社、1967年 - 以上は各・**中公文庫 **で再刊。
吉田健一 『父のこと』 中公文庫、2017年(オリジナル版)。第2部は対談「大磯清談」
衆議院憲政記念館 編 『特別展吉田茂とその時代 ― サンフランシスコ講和条約発効50年』 2002年
吉田茂記念財団編 『清水崑 画 吉田茂諷刺漫画集』 原書房 、1989年→中央公論新社 、2005年
原彬久 『吉田茂-尊皇の政治家-』岩波新書 、2005年。
麻生和子 『父 吉田茂』光文社 〈知恵の森文庫〉、2007年。 新潮文庫、2012年
麻生太郎 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』徳間文庫 、2007年。
白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ→新潮文庫 、2006年
戸川猪佐武 『小説吉田学校 』 学陽書房〈人物文庫全8巻〉。新版
ジョン・ダワー 著、大窪愿二 訳 編『吉田茂とその時代 (上)』TBSブリタニカ、1981年。 →中公文庫(改版)
ジョン・ダワー 著、大窪愿二 訳 編『吉田茂とその時代 (下)』TBSブリタニカ、1981年。 →中公文庫(改版)
有岡二郎『100人の20世紀 (下) (57) 吉田茂』〈朝日文庫〉2001年。
“緊急特集吉田茂の生涯”. アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 . (1967).
佐藤寛子 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』朝日新聞社 、1974年。
鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社、1965年 54-62頁
早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 200-203頁
広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社、2000年 75、173、262、263、333頁
神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 30-44頁
『実録首相列伝―国を担った男達の本懐と蹉跌 』学研〈歴史群像シリーズ(70号)〉、2003年6月、98-103頁。ISBN 978-4056031515。http://hon.gakken.jp/book/1860315100 。
粟屋憲太郎 『文庫版 昭和の歴史 第6巻 昭和の政党』 小学館 、1988年11月1日第1版第1刷発行、ISBN 4-09-401106-4
神田文人 『文庫版 昭和の歴史 第8巻 占領と民主主義』 小学館、1989年1月1日第1版第1刷発行、ISBN 4-09-401108-0
関連文献
井上寿一 『吉田茂と昭和史』講談社現代新書 、2009年6月。ISBN 978-4062879996。
小倉和夫 『吉田茂の自問-敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』藤原書店 、2003年9月。ISBN 978-4-89-434352-8。
北康利 『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』講談社 、2009年4月。ISBN 978-4062149389。 講談社文庫 (上下)、2012年11月
北康利『吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし』扶桑社 、2010年5月。ISBN 978-4594061784。
北康利『吉田茂 独立心なくして国家なし』扶桑社新書 、2016年8月。ISBN 978-4594075187。
工藤美代子 『赫奕たる反骨 吉田茂』日本経済新聞出版社 、2010年2月。ISBN 978-4532167325。
高坂正尭 『宰相吉田茂』中央公論新社〈中公クラシックス 〉、2006年11月。ISBN 978-4121600936。
保阪正康 『吉田茂という逆説』中央公論新社、2000年8月。ISBN 978-4120030185。 中公文庫、2003年、ISBN 978-4122042070
新版『吉田茂 戦後日本の設計者』朝日選書 、2020年。ISBN 978-4022630957
『吉田茂=マッカーサー往復書簡集 1945-1951』袖井林二郎 編訳、法政大学出版局 、2000年。 元版は英語原文を収録。
吉岡専造 撮影、吉田茂国際基金 編『吉田茂 写真集』中央公論新社(発売)、2004年7月。ISBN 978-4120035456。
吉田茂記念事業財団 編『吉田茂書翰』中央公論社、1994年2月。ISBN 978-4120022937。
柴田紳一 、吉田茂国際基金 編『吉田茂書翰 追補』中央公論新社(発売)、2011年3月。ISBN 978-4120042089。
吉田茂記念事業財団 編『人間 吉田茂』中央公論社、1991年8月。ISBN 978-4120020407。
吉田茂国際基金 編『歴史としての吉田時代-いま、吉田茂に学ぶもの』中央公論新社(発売)、2009年9月。ISBN 978-4120040627。
『ニューズウィーク日本版別冊 激動の昭和』TBSブリタニカ、1989年。
脚注
趣味・嗜好
東久邇宮内閣 や幣原内閣 で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻 をこよなく愛したことから「和製チャーチル 」とも呼ばれた。
生涯
生い立ち 吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新 をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった4 。その養母は徳川期儒学 の所産であった4 。
学生時代 少年期は、大磯町 西小磯で養母に厳しく育てられ、戸太町 立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾 に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。
同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)9月に無試験で東京帝国大学 法科大学 に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官 および領事官 試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅 の他、武者小路公共 、池邊龍一 、林久治郎 、藤井實 らがいた。
外交官時代 1918年山東省 の済南 で領事 として勤務していた吉田は、岳父の牧野伸顕 と共にパリ講和会議 に出席した7 。当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる8 。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相 や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満洲事変 以後もその点で一貫していた9 。中華民国 の奉天総領事館 で総領事 を務めた時代に東方会議 へ参加。政友会 の対中強硬論者である森恪 と連携し、いわゆる「満蒙分離論 」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣 の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官2 に就任する10 。
しかし1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉 を引き合わせ、後の近衛上奏文 につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊 に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾 陸相の配慮によるものではないかとされている)14 。40日あまり後に不起訴・釈放となったが15 、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる14 2 。
第二次世界大戦後
外務大臣就任 終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣 の外務大臣に就任2 。 短期間のうちに東久邇宮内閣が立ち行かなくなると東久邇、木戸幸一 、近衛文麿 らは吉田に後継首相となるよう説得に当たったが固辞16 。同年10月には吉田も後押しした幣原が首相に担ぎ上げられ、吉田は引き続き幣原内閣 の外務大臣に就任した。同年12月、貴族院議員に勅選される。
内閣総理大臣就任
第2次、3次吉田内閣 1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー 少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義 の悪と戦う手段として、私は、長い間、米議会 の下院非米活動委員会 をモデルにした「非日活動委員会」を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法 と公安調査庁 、内閣調査室 が、1952年(昭和27年)に、設置、施行されるきっかけを作る20 。アメリカでは当時、赤狩り 旋風が吹き荒れていた。
サンフランシスコ平和条約 側近の白洲次郎 などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投した。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散 )した。第25回衆議院議員総選挙 で自由党 の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣 を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田が衆議院予算委員会で質問者(西村栄一 )に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり21 、三木武吉 ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯 やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散 )で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党 との閣外協力 で第5次吉田内閣 を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。
1954年(昭和29年)1月から強制捜査 が始まった造船疑獄 では、犬養健 (法務大臣)を通して、検事総長 に佐藤栄作 (幹事長)の収賄罪 の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法 違反で在宅起訴 されるが国連 加盟恩赦 で免訴となる)。これが戦後唯一の指揮権 発動である。当然ながら、新聞などに多大なる批判を浴びせられた22 。また、同年6月3日の警察庁 及び道府県警察 を設置する警察法 全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎 に議院警察権 を発動させて国会 に警官 隊を初めて投入した23 。同年7月1日には保安庁 と保安隊 を防衛庁 と自衛隊 に改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせたものと言われている。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎 ら側近に諌められて24 断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任した。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日2 。
造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問 を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法 違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分 とした。
内閣総理大臣退任後 1955年(昭和30年)の自由民主党 結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人 の仲介で1957年(昭和32年)に入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學 総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙 への不出馬を表明し政界を引退した。しかし、引退後も大磯 の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老 」などと呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。
その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、『ブリタニカ百科事典 』1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century" (邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞 を発症した。このときは、あわてて駆けつけた義理の甥にあたる武見太郎 (医師会 会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。
死去前日の10月19日に「富士山 が見たい」と病床で呟き、三女の和子 に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である25 。翌20日正午ごろ、大磯の自邸にて死去した。突然の死だったため、その場には医師と看護婦3人しか居合わせず、身内は1人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという26 。享年90(満89歳没)。
佐藤栄作 首相は東南アジア訪問中だったが27 28 、予定を繰り上げて21日夜に帰国28 、羽田空港から吉田邸に直行して遺体と対面した28 。22日未明に鎌倉の別邸に戻り28 29 、同日夜に再度吉田邸を訪問した28 。棺に納められていた吉田愛用のステッキが遺族から佐藤に贈られた28 。佐藤は代わりに自分のステッキを棺に入れた28 。
10月22日に死後洗礼を受け30 31 、洗礼名は「ヨゼフ・トーマス・モア吉田茂」であった30 31 。
吉田が死去した当時、存命中の内閣総理大臣経験者としては最高齢(1953年の阿部信行 没後自身が死去するまで)であった(最古参は東久邇宮稔彦王のまま)。
実施した政策
1946年9月27日 : 労働関係調整法の公布・施行41
1946年11月3日 : 日本国憲法の公布42
1947年3月31日 : 教育基本法の公布・施行43
1947年3月31日 : 学校教育法の公布・施行、学校制度改革、義務教育は中学3年まで延長44 。
1947年4月7日 : 労働基準法の公布・施行45
1947年4月14日 : 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の公布・施行46
1947年5月3日 : 日本国憲法の発効42
1949年1月1日 : 日本国憲法に適合させる改正刑事訴訟法の施行47
1949年6月1日 : 労働組合法の公布・施行48
1950年4月15日 : 公職選挙法の公布・施行49
1950年5月4日 : 生活保護法の公布・施行50
1950年6月5日 : 住宅金融公庫法の公布・施行51
1950年12月13日 : 地方公務員法の公布52
1950年12月28日 : 毒物及び劇物取締法の公布・施行53
1951年2月13日 : 地方公務員法の施行
1951年3月31日 : 結核予防法の公布・施行54
1951年6月30日 : 覚せい剤取締法の公布・施行55
1951年9月8日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の署名
1951年11月18日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の批准
1952年4月28日 : 日本国との平和条約、日本国とアメリカ合衆国の安全保障条約の発効
1952年7月21日 : 破壊活動防止法の公布・施行56
1953年3月17日 : 麻薬及び向精神薬取締法の公布・施行57
1954年5月19日 : 厚生年金保険法の公布・施行58
1954年6月8日 : 警察法の公布・施行59
1954年6月9日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の公布60
1954年7月1日 : 自衛隊法&防衛庁設置法の施行
人物
性格・特徴
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の風刺漫画 の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生 の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという61 。
吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。昭和天皇 に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である小沢佐重喜 の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。
尊皇家・臣茂
尊皇家であり、終戦後、昭和天皇 が戦争責任をとって退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという62 。
1952年(昭和27年)11月の明仁親王 の立太子礼 に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂 」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣 は総理大臣の臣だ」とやり返した。
住居
幣原内閣 で外相に就任した際、東京・芝 白金台 の旧朝香宮邸 を借り上げ、外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱 に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇 の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
佐藤栄作が内閣総理大臣であったころに吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという63 。
首相退陣後は神奈川県 大磯町 で暮らした。1884年に吉田茂の養父である吉田健三が土地を購入、別荘を建てていたが、養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継いだもので、1945年から大磯の邸宅が本邸となり晩年を過ごした64 。元は「こりん」の名で新橋の芸者だった「坂本喜代 」とともに暮らしたが、正式に妻として入籍することはなかったと伝えられ、これには吉田の貴族趣味が関係しているとする見方もある。吉田の生前も死後も報道陣の取材には応じず何も語らず亡くなった。
首相退陣後も政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された65 。ただ孫の麻生太郎は再建は意味がないとして当初は反対したという66 。同年10月23日には、河野太郎 外相と訪日したミクロネシア連邦 大統領との懇談・夕食会場として使われた67 。
趣味・嗜好
鼻眼鏡 をかけていた。当時でも鼻眼鏡をかける人は少なかった68 69 。
大の葉巻 好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナ を喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライト に切り替えた。
吉田は落語が好きで、六代目春風亭柳橋 を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代わりにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎 は、吉田に連れられて鈴本演芸場 に行くエピソードを著書で紹介している。
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。新人の番記者 だった三宅久之 は、吉田の印象について「傲岸不遜な『クソ爺』だった」と述べている70 。とくに晩年は大磯邸の豪邸ぶりとと相俟って、この貴族趣味ということが必要以上の贅沢をしているようなイメージを世間に与え、非難の対象となった。
もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった白洲次郎 は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
車における英国趣味
英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代ロールス・ロイス の中型モデル、「25/30HP 」1937年式でフーパー製サルーンボディを架装した個体を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍などへの「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30HPロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホール を頼んでまで使い続けた。
一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、西ドイツ 首相コンラート・アデナウアー と個人的に交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ 「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉 に引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている71 。特にロールス・ロイスは、吉田に関連するテレビドラマやイベントでも公開され、公衆の目に触れる機会が多い。
愛犬家
愛犬家で多いときには10匹以上の犬を飼っていた。そのため「ワンワン宰相」というあだ名もあった。とくに知られているのがアメリカでサンフランシスコ講和条約を締結し帰国する際につがいで購入したケアンテリアで、とくにお気に入りだったとも伝えられる72 。仔犬が生まれると、やはり愛好家の政財界人に分けていたと伝えられる。
1959年ころから大映映画製作のテレビ番組『少年ジェット』に出てくるシェパード犬「シェーン号」を見て気に入り、欲しがったもののシェーン号は徳川義親がすでに購入、次いでシェーン号の仔犬を入手しようとしたが、二頭の仔犬の内の一頭は明仁皇太子(当時)の飼い犬となり、もう一頭は警察犬となっていた72 73 。さらに大映女優の若尾文子の飼い犬がシェーン号の子を身ごもっていると聞き若尾と交渉して、その飼い犬の出産によりようやく子犬を入手した72 。
大磯の旧吉田邸の庭には多数の愛犬の墓石がある。72
政治姿勢
駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ 首相 に初めて挨拶に行った際、イタリアの外務省 からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
首相時代、利益誘導 をしてもらうべく、たびたび地元高知県 から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
逸話
辞めたくなったら…… 自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄 と、駐米大使や駐英大使を歴任して当時は宮内大臣 として宮中にあった松平恒雄 だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると、古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶した。そこで鳩山は、松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅 の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸 に訪ね、「あの殿様77 じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。
ところが元政友会幹事長の松野鶴平 が、この日の夜から毎晩のように吉田のもとに押しかけて後継総裁を受けるよう口説き、ついにはその気にさせた。松野はその手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた。松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、このころから2人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。
蓋を開けてみると、吉田は松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、
金作りは一切やらない
閣僚の選考に一切の口出しは無用
辞めたくなったらいつでも辞める
という勝手な3条件を提示して鳩山を憤慨させた2 。しかし総選挙からすでに1か月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くかわからなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した78 。
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した79 。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。自由党総務会 で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣 が発足した。
吉田学校・ワンマン体制 自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。そこで、官僚 出身者を中心とした吉田学校 と呼ばれる集団を形成した。1949年(昭和24年)の第24回総選挙 で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅 や大野伴睦 らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。吉田学校の主な人物として、佐藤栄作 ・池田勇人 ・田中角栄 ・大平正芳 がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流 を形成することになる。
孤高のサイン 講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員 でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシー に体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジ を眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約 に一人で署名した80 。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。
マッカーサーとの関係 吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン 大統領 によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったという話もある。
吉田のユーモアはマッカーサーに対しても発揮されている。戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と辞退したという。また、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者は出なかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と切り返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという81 。
復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は、1964年東京オリンピック にマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬 に参列した。
なお、東方会議 をリードし治安維持法 に死刑条項を設けたため、公職追放 の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたといわれている82 。
曲学阿世の徒 サンフランシスコ講和会議 直前、ソ連 や中国共産党 の政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学 総長南原繁 がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は1950年5月3日、「これは国際問題を知らぬ曲学阿世 の徒、学者の空論に過ぎない」と発言、「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。5月6日、南原は学問への権力的弾圧と反論した。
同会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物 に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。
上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党 に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの園 を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。
水をかける 1952年(昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名である。
このエピソードの背景にはある事情がある。吉田は妻の雪子 を1941年(昭和16年)に亡くしていた。まもなく、愛人の芸者で花柳流 の名取 でもあった小りん (本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて同居を始めている。ただし岳父・牧野伸顕 の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られた。吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには悪感情を持っていたのである。ただし、小りんとの関係が公表されてしまったおかげで世間体を気にする必要もなくなり、1944年(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。
後に皇太子明仁親王 から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際、吉田は「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した。それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。
人を食っております 日米修好通商 百年祭に日本の代表として訪米し、外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」と応じた。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には、「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した83 。
吉田は米寿 をすぎてもまだ矍鑠としていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった84 。
ユーモア 寺内正毅 が首相に就任する際、寺内の朝鮮総督 時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から首相秘書官 就任を要請された。しかし吉田は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と返答した。
また、ある日会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれた。抗議をする客人に対し、吉田は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かなことはないだろう」と言い訳した。
1964年(昭和39年)11月、赤坂御用地 での園遊会 では、昭和天皇 が「大磯 はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている85 。
第二次世界大戦が始まる数年前、在英日本大使館を訪れ要人待遇を求める外遊中の国会議員に対して三度居留守を使ったが、三度目にその議員が怒り始めると、吉田本人が姿を現し、大使は不在で面会に応じる気はない、今あなたに向かって話をしているのが吉田大使なのだから、本当だと思ってもらって結構と述べている86 。
皮肉な言動 帝国憲法改正 を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “G o H ome Q uickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。
バカヤロー解散における広川弘禅農林大臣らの裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川農相は僧籍を持っている)と皮肉を言った。
天国泥棒 妻の雪子 がカトリック だったこともあり、吉田家は長男の健一 を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。1964年(昭和39年)に建設された東京カテドラル 聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父の牧野伸顕 のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼 を受けなかった。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎 に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田の死後、ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」という霊名がつけられた87 88 。
同姓同名
その他の逸話
最初の妻・雪子と結婚する際に、痔 に悩まされていることを岳父の牧野伸顕 に伝えたところ、牧野からすぐにでも治すように言われ、結婚式では吉田本人が出席できず、吉田家伝来の太刀 が代わりに新郎の席に飾られていた89 。
対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の吉田は、外務次官のポストを得ようとしたが、首相の田中義一 にいったん拒絶され、スウェーデン 公使に出されることになった。吉田は首相官邸 に乗り込み、田中に向かって長時間に渡り、次官の自己推薦のための口舌をぶち、その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、外務次官になってもらうよ。まさか異論はないだろうね」ととぼけた口調でいわれ、吉田は驚きつつも次官就任を快諾した。以後、吉田は終生、田中のことを尊敬するようになったという。
学習院 時代の恩師に海軍の命令で軍事教練担当の教師として派遣されていた鈴木貫太郎 がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田は総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねた。鈴木は吉田に、例えば「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること。つまり、負けっぷりをよくすることだよ」などと伝えていたと言われている。
幣原喜重郎 外相の下で次官を務めていた際、省内の文書が次官の吉田の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、能書家として知られていた幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。
晩年に大勲位菊花大綬章 を授与された後、養父である吉田健三の墓前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。
1947年(昭和22年)、GHQの民主化路線に乗じて勢いを増した労働組合 がストライキ を乱発し、政治闘争を突っ走っていたころ、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(「不逞の輩」発言:参照 - 二・一ゼネスト )。
名前に二つの『し』があることを無駄に長いと感じ、小学校時代のあだ名は、二つある『し』の間を省略して『よしげる』であった。
名字は「𠮷 」の表記であったが、1949年4月28日に当用漢字 字体表が告示されると同時に、官報 の表記が「吉 」に改められた90 。
ノーベル平和賞候補 ノーベル平和賞 に3回推薦されている。ノルウェー・ノーベル委員会が守秘義務期間を過ぎ開示した選考資料によれば、1965年、1966年、1967年の候補になっていたことが明らかになっている91 。特に1965年には当時の首相佐藤栄作や外相椎名悦三郎 、また日本政府の働きかけによって元米国務長官ディーン・アチソン 、元西ドイツ首相コンラート・アデナウアー からの推薦も得て吉田を平和賞候補にする推薦状が作られ、最終審査対象リストにも残っている92 93 。1965年と1966年の推薦状作成の過程については、外交史料館の推薦史料を調査した吉武信彦(高崎経済大学 )の論文が詳しい94 95 。
経歴
年譜
1878年(明治 11年)9月22日 - 東京 神田駿河台 に生まれる
1881年(明治14年)8月 - 吉田家と養子縁組。戸太町 立太田学校(後の横浜市立太田小学校)卒業
1889年(明治22年)2月 - 寄宿制私立中学耕余義塾 入学
1894年(明治27年)4月 - 耕余義塾卒業
1895年(明治28年)9月 - 高等商業学校 (後の一橋大学 )入学
1896年(明治29年)3月 - 正則尋常中学校(後の正則高等学校 )卒業
1897年(明治30年)10月 - 学習院高等学科 入学
1901年(明治34年)8月 - 学習院高等学科卒業
1904年7月 - 学習院大学科退校(翌年、学習院大学科が閉鎖されるため)
1906年(明治39年)7月 - 東京帝国大学法科大学 政治科卒業
9月 - 外交官および領事官試験合格、外務省入省
11月 - 領事官補として天津 に赴任
1907年(明治40年)2月 - 奉天 領事館に赴任
1909年(明治42年)5月9日 - 牧野伸顕 の長女雪子 と結婚後ロンドン に赴任。12月、駐伊 大使館附三等書記官
1912年(大正 元年)8月 - 安東領事
1916年(大正5年)8月 - 在米 大使館附二等書記官
1917年(大正6年)7月 - 文書課長心得
1918年(大正7年)2月 - 済南 領事
1919年(大正8年)2月 - パリ講和会議 随員
1920年(大正9年)5月 - 在英 大使館附一等書記官
1922年(大正11年)3月 - 天津総領事
1925年(大正14年)10月 - 奉天総領事
1928年(昭和 3年)3月 - 外駐スウェーデン 公使。高等官一等
1930年(昭和5年) 12月 - 駐伊大使
1932年(昭和7年) - 待命
1934年(昭和9年)10月 - 外務査察使として欧米をまわる。娘和子が付き添う。
1935年(昭和10年)秋 - 外務省退官
1936年(昭和11年)6月24日 - 駐英大使
1938年(昭和13年)9月 - 帰朝命令
10月19日 - 帰朝のため離英96
1945年(昭和20年)4月 - 近衛上奏文事件で憲兵隊 に拘置
1946年(昭和21年)1月 - 外相のまま終戦連絡事務局総裁を兼任。同次長に白洲次郎 を起用
1947年(昭和22年)4月25日 - 第23回総選挙 に旧高知全県区から出馬して初当選
1948年(昭和23年)3月 - 民主自由党 総裁
1949年(昭和24年)1月23日 - 第24回総選挙 で2選
1950年(昭和25年)3月 - 自由党 総裁
1951年(昭和26年)7月4日 - 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田第2次改造内閣 )
1952年(昭和27年)8月1日 - 保安庁 発足、長官を兼任
1953年(昭和28年)4月19日 - 第26回総選挙 で4選
1954年(昭和29年)12月10日 - 造船疑獄 などの影響により内閣総辞職
1955年(昭和30年)2月27日 - 第27回総選挙 で5選
1958年(昭和33年) 5月22日 - 第28回総選挙 で6選
1960年(昭和35年)11月20日 - 第29回総選挙 で7選
1963年(昭和38年)2月 - 池田総理の要請で特使として台湾を訪問し、国民政府 との親善関係を修復
10月14日 - 次期総選挙への不出馬を表明
10月23日 - 衆議院解散にともない、政界を引退
1964年(昭和39年)4月 - マッカーサーの国葬に参列
1967年(昭和42年)10月20日 - 神奈川県 大磯 の私邸で永眠(89歳)
栄誉・栄典
1907年(明治40年)2月1日 - 従七位 97
1930年(昭和5年)12月27日 - 正四位 98
1967年(昭和42年)10月20日 - 従一位
著書
単著
書簡
回想十年 中央公論社(1998年、改版2014年-2015年)
『回想十年 新版』毎日ワンズ、2012年11月。ISBN 9784901622653
『回想十年 新書版』毎日ワンズ、2022年9月。ISBN 978-4909447227
共著
一族
家族・親族
実父:竹内綱 (実業家、政治家)
実母:瀧子
ただし実母は芸者 某とする説がある。『日本の上流社会と閨閥』203頁によると、「…母親の名も素性もはっきりしないが、後年、名門出の雪子夫人との間にすき間風が吹き始め、芸者遊び に精を出すようになると、雪子は “芸者の子は芸者が好きね” と言ったそうだから想像がつく。…」という。『吉田茂とその時代(上)』6頁によると、「…実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三 の庇護のもとで茂を生んだのである…初期の戸籍 は明らかに母 “不詳” としているが、吉田の存命中は竹内の本妻に生まれたという虚構の説が公に唱えられ、出生をめぐる回想のなかでも吉田は実母に言及することを用心深くさけている…」という。
実兄:竹内明太郎 (実業家、政治家)
姉:菊(白石直治 の妻) 菊の子息である白石宗城 は、昭和26年に日窒(現・チッソ )社長となり、水俣病 の発生、患者の公式確認(昭和31年)の事態を引き起こした(「助触媒の変更」が原因)。昭和33年退任。後任社長の吉岡喜一 は有罪確定となったが、白石は訴追されていない。白石は、吉田の甥にあたり、社長就任時、吉田政権下であった。
系譜 佐藤秀助 ┏佐藤市郎━━━━佐藤信太郎
┣━━━━━━╋岸信介━━━━洋子━━━━━━━━━━━┳安倍晋三
┏茂世 ┗佐藤栄作━━━┳佐藤龍太郎━佐藤栄治 ┗岸信夫
┃ ┗佐藤信二
佐藤信彦━━━┻さわ━━━━━━吉田寛
┃
竹内綱━━━┓ ┃
┃ ┃ 鈴木善幸━┳━━━━鈴木俊一
吉田健三==┸吉田茂 ┏桜子 ┗千賀子
┣━━━━━━━╋吉田健一━━┳吉田健介 ┃
牧野伸顕━━━━雪子(1) ┣吉田正男 ┗吉田暁子 ┣麻生将豊
┃ ┣江子 ┃
喜代(2) ┗和子 ┏━━━━麻生太郎
┣━━━━╋麻生泰
麻生太吉━━━━麻生太郎━━━麻生太賀吉 ┣雪子
┣旦子
┗信子
┣━━━━━┳彬子女王
三笠宮崇仁親王━━━寛仁親王 ┗瑶子女王
吉田茂を扱った作品
小説
映画
テレビドラマ
漫画
参考文献
内閣印刷局 『職員録 』内閣印刷局、東京、1935年、2頁。
吉田茂『回想十年 (全4巻)』新潮社→東京白川書院。 中公文庫 (全4巻、新版全3巻)
吉田茂 『大磯随想』中公文庫、1991年、改版2001年
『世界と日本』中公文庫、1992年
『日本を決定した百年』中公文庫、1999年(解説粕谷一希 )
ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳
西村熊雄 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』
池田勇人 『財政均衡、付・占領下三年の思い出』
岡崎勝男 『戦後二十年の遍歴』
今日出海 『吉田茂』 講談社、1967年 - 以上は各・**中公文庫 **で再刊。
吉田健一 『父のこと』 中公文庫、2017年(オリジナル版)。第2部は対談「大磯清談」
衆議院憲政記念館 編 『特別展吉田茂とその時代 ― サンフランシスコ講和条約発効50年』 2002年
吉田茂記念財団編 『清水崑 画 吉田茂諷刺漫画集』 原書房 、1989年→中央公論新社 、2005年
原彬久 『吉田茂-尊皇の政治家-』岩波新書 、2005年。
麻生和子 『父 吉田茂』光文社 〈知恵の森文庫〉、2007年。 新潮文庫、2012年
麻生太郎 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』徳間文庫 、2007年。
白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ→新潮文庫 、2006年
戸川猪佐武 『小説吉田学校 』 学陽書房〈人物文庫全8巻〉。新版
ジョン・ダワー 著、大窪愿二 訳 編『吉田茂とその時代 (上)』TBSブリタニカ、1981年。 →中公文庫(改版)
ジョン・ダワー 著、大窪愿二 訳 編『吉田茂とその時代 (下)』TBSブリタニカ、1981年。 →中公文庫(改版)
有岡二郎『100人の20世紀 (下) (57) 吉田茂』〈朝日文庫〉2001年。
“緊急特集吉田茂の生涯”. アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 . (1967).
佐藤寛子 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』朝日新聞社 、1974年。
鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社、1965年 54-62頁
早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 200-203頁
広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社、2000年 75、173、262、263、333頁
神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 30-44頁
『実録首相列伝―国を担った男達の本懐と蹉跌 』学研〈歴史群像シリーズ(70号)〉、2003年6月、98-103頁。ISBN 978-4056031515。http://hon.gakken.jp/book/1860315100 。
粟屋憲太郎 『文庫版 昭和の歴史 第6巻 昭和の政党』 小学館 、1988年11月1日第1版第1刷発行、ISBN 4-09-401106-4
神田文人 『文庫版 昭和の歴史 第8巻 占領と民主主義』 小学館、1989年1月1日第1版第1刷発行、ISBN 4-09-401108-0
関連文献
井上寿一 『吉田茂と昭和史』講談社現代新書 、2009年6月。ISBN 978-4062879996。
小倉和夫 『吉田茂の自問-敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』藤原書店 、2003年9月。ISBN 978-4-89-434352-8。
北康利 『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』講談社 、2009年4月。ISBN 978-4062149389。 講談社文庫 (上下)、2012年11月
北康利『吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし』扶桑社 、2010年5月。ISBN 978-4594061784。
北康利『吉田茂 独立心なくして国家なし』扶桑社新書 、2016年8月。ISBN 978-4594075187。
工藤美代子 『赫奕たる反骨 吉田茂』日本経済新聞出版社 、2010年2月。ISBN 978-4532167325。
高坂正尭 『宰相吉田茂』中央公論新社〈中公クラシックス 〉、2006年11月。ISBN 978-4121600936。
保阪正康 『吉田茂という逆説』中央公論新社、2000年8月。ISBN 978-4120030185。 中公文庫、2003年、ISBN 978-4122042070
新版『吉田茂 戦後日本の設計者』朝日選書 、2020年。ISBN 978-4022630957
『吉田茂=マッカーサー往復書簡集 1945-1951』袖井林二郎 編訳、法政大学出版局 、2000年。 元版は英語原文を収録。
吉岡専造 撮影、吉田茂国際基金 編『吉田茂 写真集』中央公論新社(発売)、2004年7月。ISBN 978-4120035456。
吉田茂記念事業財団 編『吉田茂書翰』中央公論社、1994年2月。ISBN 978-4120022937。
柴田紳一 、吉田茂国際基金 編『吉田茂書翰 追補』中央公論新社(発売)、2011年3月。ISBN 978-4120042089。
吉田茂記念事業財団 編『人間 吉田茂』中央公論社、1991年8月。ISBN 978-4120020407。
吉田茂国際基金 編『歴史としての吉田時代-いま、吉田茂に学ぶもの』中央公論新社(発売)、2009年9月。ISBN 978-4120040627。
『ニューズウィーク日本版別冊 激動の昭和』TBSブリタニカ、1989年。
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