秦 (문서 활동)
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| r258638위키백과봇2026-10-16 | 1 | 秦 |
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| 4 | 全国統一時の秦の版図(紀元前210年) | |
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| 6 | **秦**(しん、[[拼音]]: Qín、紀元前905年 - 紀元前206年)は、[[中国]]の[[王朝]]である。[[周]]代・[[春秋時代]]・[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間を**[[秦朝]]**、**秦代**と呼ぶ。紀元前221年に中国史上初めて[[天下統一]]を果たした王の姓は**[[嬴]]**(えい)、氏は**[[趙 (姓)|趙]]**[^8]。統一時の首都は[[咸陽市|咸陽]]。 | |
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| 8 | ## 歴史 | |
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| 10 | ### 周代 | |
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| 12 | 紀元前905年に、周の[[孝王 (周)|孝王]]に仕えていた[[非子]]が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、[[大夫]]となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の[[甘粛省]][[張家川回族自治県]])であったという。 | |
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| 14 | 伝説上では嬴姓は[[舜]]の臣の[[益 (中国神話)|伯益]]が賜ったとされている。それ以前の趙氏は魯に居住していたとされる。 | |
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| 16 | 周朝の属国として、その後秦人と[[西戎]]は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年に[[荘公 (秦)|荘公]]の代で、西戎を破った功により領土が広がり、[[西垂]](現在の[[陝西省]][[眉県]])の大夫になった。 | |
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| 18 | ### 春秋・戦国時代 | |
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| 20 | #### 春秋時代 | |
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| 22 | ##### 襄公の受封 | |
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| 24 | 紀元前770年、周の[[幽王 (周)|幽王]]が[[申侯の乱|申侯の反乱]]に遭い、侵攻した[[犬戎]]に[[鎬京]]が荒され、幽王と[[褒姒]]、太子の[[伯服]]が殺された[^9][^10]。この時、[[襄公 (秦)|襄公]]は兵を率いて周を救うために戦った。申侯により[[平王 (周)|平王]]が擁立されて洛邑に東遷した際も、周の洛邑東徙で周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、[[岐山]]以西の地を賜り、[[伯爵]]となった。これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省[[礼県]])であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。 | |
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| 26 | ##### 早期の歴史 | |
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| 28 | [[春秋時代]]に入ると同時に諸侯になった秦だが、[[中原]]諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。前762年、2代君主の[[文公 (秦)|文公]]は[[汧水]]・[[渭水]]の合流地点(秦)に行き、「昔、[[周]]の[[孝王 (周)|孝王]]が我が祖先の[[非子|秦嬴]]をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。紀元前714年には[[平陽県 (陝西省)|平陽]]へ遷都。紀元前677年には首都を[[雍城|雍]](現在の陝西省[[宝鶏市]][[鳳翔区]]の南東)に置いた。 | |
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| 30 | ##### 覇者 | |
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| 32 | [[穆公 (秦)|穆公]]は[[百里奚]]などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国[[晋 (春秋)|晋]]にも匹敵する国力をつけた。晋が[[驪姫]]による[[驪姫の乱]]で混乱すると、秦は[[恵公 (晋)|恵公]]を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(**韓原の戦い**)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子[[文公 (晋)|重耳]]を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君の**文公**となり、その治世時には晋にやや押され気味になった([[殽の戦い]]、彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は[[春秋五覇]]の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが[[殉死]]し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。 | |
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| 34 | #### 戦国時代 | |
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| 36 | [[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には[[戦国七雄|七雄]]の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に[[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[趙 (戦国)|趙]]の三国に分裂した([[晋陽の戦い]])。この内の魏が戦国初期には[[文侯 (魏)|文侯]]により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる([[洛陰の戦い]])。紀元前383年、[[献公 (秦)|献公]]は[[櫟陽]](れきよう、現在の陝西省[[西安市]][[閻良区]])に遷都した。 | |
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| 38 | この状況に憤慨した25代[[孝公 (秦)|孝公]]は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが[[商鞅]]である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた(詳細は[[商鞅]]の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の[[法家|法治]]主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に[[涇陽]](現在の陝西省[[涇陽県]])付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を[[咸陽]]と改めた。 | |
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| 40 | その後、孝公の子の[[恵文王 (秦)|恵文王]]が紀元前324年に**王**を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・[[燕 (春秋)|燕]]・[[楚 (春秋)|楚]]の五カ国連合軍が攻めて来たが、[[樗里疾]]がこれを破った([[函谷関の戦い (紀元前318年)|函谷関の戦い]])。紀元前316年に恵文王は[[巴蜀 (歴史)|巴蜀]](現在の[[四川省]])を占領し([[秦滅巴蜀の戦い]])、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、[[長江]]の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた[[張儀]]を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し([[藍田の戦い]])、楚の[[懐王]]を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の[[武王 (秦)|武王]]との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。 | |
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| 42 | 紀元前298年、斉の宰相の[[孟嘗君]]が韓・魏との連合軍を組織し、[[匡章]]を統帥として秦に侵攻した([[函谷関の戦い (紀元前298年)|函谷関の戦い]])。秦が函谷関に追いつめられると趙・[[宋 (春秋)|宋]]も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には斉の[[湣王]]が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の[[楽毅]]が指揮する五国連合軍により、都の[[臨淄]]が陥落([[済西の戦い]])。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。 | |
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| 44 | 恵文王の子で、武王の異母弟の[[昭襄王]]の時代に宰相の[[魏冄]]と[[白起]]将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた[[范雎]]を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な[[遠交近攻]]策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。 | |
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| 46 | 紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、[[長平の戦い]]で撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋めにして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。紀元前259年、将軍を[[王齕]]に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の[[平原君]]のもとに援軍として現れた魏の[[信陵君]]と楚の[[春申君]]の活躍によって阻まれた([[邯鄲の戦い]])。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、[[賜死|死を賜った]]。 | |
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| 48 | これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の[[呂不韋]]が、子楚に投資をし始める。孝文王(昭襄王の子)の後、[[荘襄王]]として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]との間に、子を儲けた。それが政である。紀元前256年に[[楊摎]]の進軍を妨害した、[[周|東周]]と[[西周公]]は**秦**の支配下に入り、程なく[[赧王]]と[[文公 (西周)|文公]]が死んだため、完全に周は[[東周の滅亡|滅び]]その領地を接収したものの[^11]、紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と[[蒙驁]]の迎撃軍が敗退し[[函谷関]]まで撤退させられた([[河外の戦い]])。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の[[安釐王]]に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。 | |
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| 50 | #### 統一戦争 | |
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| 52 | →詳細は「[[秦の統一戦争]]」を参照 | |
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| 54 | 紀元前247年、[[始皇帝|秦王政]]が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた[[相国]]呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕[^12] の五カ国[[合従連衡|合従軍]]が攻めてきたが、[[函谷関の戦い (紀元前241年)|函谷関の戦い]]で撃退した[^13][^14][^15][^16][^17]。その後も王弟の長安君[[成蟜]]の反乱や母の[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]と愛人の[[嫪アイ|嫪毐]]の反乱が起きた[^18]。紀元前238年に[[嫪毐の乱]]に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。 | |
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| 56 | ##### 韓と趙の滅亡 | |
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| 58 | 紀元前236年、趙の[[鄴]]を[[王翦]]と[[桓齮]]・[[楊端和]]が落とし、統一戦争が始まった[^19][^20]。紀元前234年に桓齮が平陽の戦いで敵将扈輒を討ち取り趙兵10万人を斬首した[^21][^22]。紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[^23]。同年、韓の公子(君主の子)である[[韓非]]との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。しかし、その韓非を自害に追い込んだ[[李斯]]が丞相に任じられると、国力増強に貢献した。 | |
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| 60 | しかし、[[肥下の戦い]]で桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた[^24]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[^25][^26][^27][^28]。また、紀元前232年にも番吾の戦いでも李牧に敗れた。 | |
| 61 | ||
| 62 | 紀元前230年、[[内史騰]]が韓を[[韓攻略|滅ぼした]][^29][^30][^31]。 | |
| 63 | ||
| 64 | 紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された[^24][^29][^32][^33]。 | |
| 65 | ||
| 66 | 紀元前228年、趙を[[趙攻略|滅ぼした]]。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で[[幽繆王]]の兄の[[代王嘉|公子嘉]]を擁立し[[代 (戦国)|代国]]とした[^34][^29][^30][^31]。 | |
| 67 | ||
| 68 | ##### 燕との戦いと、魏の滅亡 | |
| 69 | ||
| 70 | 紀元前227年、燕の[[燕太子丹|太子丹]]が[[刺客]]の[[荊軻]]を送りこんだ。政の[[暗殺]]に失敗し、難を逃れた政は激怒した。紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。[[燕王喜]]らは[[遼東]]に逃亡した。 | |
| 71 | ||
| 72 | 紀元前225年、魏の都の[[大梁]]を攻め、魏を[[魏攻略|滅ぼした]][^35][^36][^31]。これにより[[三晋]]はすべて滅んだ[^31]。 | |
| 73 | ||
| 74 | ##### 楚と燕、斉の滅亡 | |
| 75 | ||
| 76 | 同年、[[李信]]と[[蒙恬]]が[[楚 (春秋)|楚]]に侵攻したが[[項燕]]の奇襲により、[[城父の戦い|大敗した]][^37][^38]。 | |
| 77 | ||
| 78 | 紀元前223年、秦の将軍[[王翦]]が楚を[[楚攻略|滅亡させ]][^31]、紀元前222年に代と燕を[[燕攻略|滅ぼし]][^39][^40][^41][^31]、紀元前221年には斉を[[斉攻略|滅ぼし]]中国を統一した[^41][^31]。 | |
| 79 | ||
| 80 | ### 中華統一 | |
| 81 | ||
| 82 | →「[[秦朝]]」も参照 | |
| 83 | ||
| 84 | 秦王政は中華統一後、自ら[[皇帝]]を名乗ったが、これを中国で初めて称したことから、**始皇帝**(秦始皇)と呼ばれた[^42]。この称号は、伝説上の聖王である[[三皇五帝]]からとったものとも言われるが、『史記』秦始皇本紀によると、大臣や博士たちが「古に[[天皇 (三皇)|天皇]](**てんこう**、日本の天皇とは別)、[[地皇 (三皇)|地皇]]、[[人皇|泰皇]]が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう」と勧めたが、政は「泰皇の泰を去り、古([[夏 (三代)|夏]]・[[殷]])の君主が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう」としたものと有る。 | |
| 85 | ||
| 86 | 始皇帝は[[度量衡]]・文字の統一[^43]、郡県制の実施など様々な改革を行った[^42]。また、[[匈奴]]などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し[[万里の長城]]を建設、それに加えて[[阿房宮]]という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお[[焚書坑儒]]などの思想政策も断行したが[^44]、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に[[儒教]]弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。 | |
| 87 | ||
| 88 | 匈奴に対しては、[[蒙恬]]を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、[[南海郡 (中国)|南海郡]](現在の[[広東省]][[広州市]])・[[桂林郡]](現在の[[広西チワン族自治区]][[桂林市]])・[[象郡]](現在の[[ベトナム]]北部、[[前漢]]以降は[[日南郡]]と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。 | |
| 89 | ||
| 90 | 秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には[[九原郡]](現在の包頭市南西)を置いた。 | |
| 91 | ||
| 92 | また[[不老不死]]に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には[[徐福]]のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な[[水銀]]すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。 | |
| 93 | ||
| 94 | ### 混乱と滅亡 | |
| 95 | ||
| 96 | 紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた[[宦官]]の[[趙高]]で、長男の[[扶蘇]]ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な[[胡亥|二世皇帝]]を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には[[陳勝・呉広の乱]]が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。 | |
| 97 | ||
| 98 | 二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された[[章邯]]は軍事的能力を発揮し、[[陳勝]]軍を撃破すると、さらにその後を受けた[[項梁]]軍も撃破した。しかし、項梁の甥の[[項羽]]との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。 | |
| 99 | ||
| 100 | その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには[[劉邦]]が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、[[子嬰]]を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。 | |
| 101 | ||
| 102 | 紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王([[司馬欣]]が王となる)、翟王([[董翳]]が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。 | |
| 103 | ||
| 104 | ## 政治 | |
| 105 | ||
| 106 | 秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。 | |
| 107 | ||
| 108 | 秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを**先秦時代**と呼ぶこともある。 | |
| 109 | ||
| 110 | ### 官制 | |
| 111 | ||
| 112 | 秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・[[太尉]](軍事)・[[御史大夫]](監察・あるいは副首相)の[[三公]]を頂点とする三公九卿制である(詳しくは[[前漢]]を参照)。 | |
| 113 | ||
| 114 | 地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の[[県]]に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが[[郡県制]]である。県の上に上級の行政単位である[[郡]]を置き、郡守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った[[封建制]]の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。 | |
| 115 | ||
| 116 | ### 法制 | |
| 117 | ||
| 118 | 秦といえば[[商鞅]]により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。 | |
| 119 | ||
| 120 | 漢の[[蕭何]]は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「[[律九章]]」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『[[晋書]]』にはある。しかしこの記載が『[[漢書]]』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。 | |
| 121 | ||
| 122 | そして秦の法律に関する一次資料として『[[睡虎地秦簡]]』と呼ばれるものがある。これは1975年に[[湖北省]]雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる[[喜 (秦)|喜]]と言う人物の墓に入れてあった[[竹簡]]群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。 | |
| 123 | ||
| 124 | ## 経済 | |
| 125 | ||
| 126 | 始皇帝は中国統一後に[[度量衡]]の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた[[半両銭]]への統一、車の幅の統一などを行った。 | |
| 127 | ||
| 128 | ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『[[史記]]』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。 | |
| 129 | ||
| 130 | ## 文化 | |
| 131 | ||
| 132 | 統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。 | |
| 133 | ||
| 134 | 石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は[[北京市|北京]]の[[紫禁城|故宮博物院]]に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。 | |
| 135 | ||
| 136 | 詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。 | |
| 137 | ||
| 138 | この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい[[篆書]](てんしょ)と言う書体を流通させた。 | |
| 139 | ||
| 140 | 思想的には[[法家]]が当然強いが、[[道家]]も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で[[司馬遷]]が[[老子]]と[[韓非子]]を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。 | |
| 141 | ||
| 142 | [[世界遺産]]に登録されている[[始皇帝陵]]は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が窺えるようになっている。 | |
| 143 | ||
| 144 | ## 歴代君主 | |
| 145 | ||
| 146 | ### 伝説時代(趙氏の祖先) | |
| 147 | ||
| 148 | (ここまでは趙の祖先神話である) | |
| 149 | ||
| 150 | ### 伝説時代 | |
| 151 | ||
| 152 | (秦は分家であり本家である趙氏の配下として寄寓していた) | |
| 153 | ||
| 154 | ## 参考文献 | |
| 155 | ||
| 156 | - [[佐藤信弥]]『周-理想化された古代王朝』中央公論新社、2016年。[[ISBN]] 978-4-12-102396-4。 | |
| 157 | - [[島崎晋]]『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。[[ISBN]] 978-4-575-45788-9。 | |
| 158 | - [[寺田隆信]]『物語 中国の歴史』中央公論新社、1997年。[[ISBN]] 4-12-101353-0。 | |
| 159 | - Li, Bo; Zheng, Yin (2001) (中国語), *《中华五千年》 \[5000 years of Chinese History\]*, Inner Mongolian People's publishing, [[ISBN]] 7-204-04420-7 . | |
| 160 | ||
| 161 | ## 脚注 | |
| 162 | ||
| 163 | [^1]: [[鸟虫篆]]文体 | |
| 164 | [^2]: 前905年、周の[[孝王 (周)|孝王]]に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、秦の地に封ぜられた。 | |
| 165 | [^3]: 前770年([[平王 (周)|平王]]元年)、襄公は伯爵となった。 | |
| 166 | [^4]: 325年([[顕王]]44年)、[[恵文王 (秦)|恵王]]は王となった。 | |
| 167 | [^5]: 前288年([[赧王]]27年)、[[昭襄王|昭王]]は西帝となった。 | |
| 168 | [^6]: 前221年に[[始皇帝]]は中華を統一して[[大秦帝国]]を創立。 | |
| 169 | [^7]: 皇帝ではなく秦王を称した。 | |
| 170 | [^8]: この時代の中国では「姓」と「氏」は別である。秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常、男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」)。 [[女防]]生[[旁皋]],旁皋生[[太幾]],太幾生[[大駱]],大駱生[[非子]]。**以[[造父]]之寵,皆蒙趙城,姓趙氏**。 秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。**然秦以其先造父封趙城,為趙氏。**([[司馬遷]]『[[史記]]』秦本紀) | |
| 171 | [^9]: 『[史記 巻四 周本紀](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷04)』:幽王以虢石父為卿,用事,国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利,王用之。又廢申后,去太子也。申侯怒,與繒・西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵,兵莫至。遂殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼,是為平王,以奉周祀。 | |
| 172 | [^10]: 『[史記 巻四十二 鄭世家](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷042)』:二歳,犬戎殺幽王於驪山下,並殺桓公。 | |
| 173 | [^11]: [[秦|佐藤信弥 2016]], pp. 209–210. | |
| 174 | [^12]: [『史記』始皇本紀](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷006)では[[衛]]となっている。 | |
| 175 | [^13]: [[秦|島崎晋 2019]], pp. 79–81. | |
| 176 | [^14]: 『[史記 巻六 秦始皇本紀](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷006)』:([[始皇帝|始皇]])六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。 | |
| 177 | [^15]: 『[史記 巻四十三 趙世家](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷043)』:([[悼襄王]])四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜;移攻斉,取饒安。 | |
| 178 | [^16]: 『[史記 巻四十 楚世家](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷040)』:([[考烈王]])二十二年,與諸侯共伐秦,不利而去。 | |
| 179 | [^17]: 『[史記 巻七十八 春申君列伝](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷078)』:攻秦至函谷関。 | |
| 180 | [^18]: [[秦|島崎晋 2019]], pp. 32–34. | |
| 181 | [^19]: 鄴攻めではなく[[平陽の戦い (紀元前234年)|平陽の戦い]]を統一戦争の始まりとすることもある。 | |
| 182 | [^20]: (中国語) [*秦滅趙之戦 \[Qin's conquest of Zhao\]*](http://www.hudong.com/wiki/秦灭赵之战) (wiki), Hudong Baike, [http://www.hudong.com/wiki/秦灭赵之战](http://www.hudong.com/wiki/秦灭赵之战) | |
| 183 | [^21]: 『史記』秦始皇本紀「十三年,桓齮攻趙平陽,【正義】:括地志云:「平陽故城在相州臨漳県西二十五里。」又云:「平陽,戦国時属韓,後属趙。」殺趙将扈輒,【正義】:「扈音戸。輒,張猟反,趙之将軍。」斬首十万。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,【正義】:括地志云:「宜安故城在常山城県西南二十五里也。」破之,殺其将軍。桓齮定平陽、武城。【正義】:「即貝州武城県外城是也。七国時趙邑。」」 | |
| 184 | [^22]: 『史記』廉頗藺相如趙奢李牧列伝「七年,秦破殺趙将扈輒于武遂,斬首十万」 | |
| 185 | [^23]: 『史記』趙世家「二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻赤麗、宜安...」 | |
| 186 | [^24]: [巻二十一 趙策四](http://www.chineseclassic.com/content/1200) | |
| 187 | [^25]: 『[資治通鑑 巻六 秦紀一](https://ja.wikisource.org/wiki/資治通鑑/卷006)』:桓齮伐趙,敗趙將扈輒於平陽,斬首十萬,殺扈輒。 〔冬,十月,桓齮復伐趙〕桓齮伐趙,〔殺其趙將〕,取宜安、平陽、武城。〔趙王以李牧為大將軍,戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧為武安君〕。 | |
| 188 | [^26]: 『[史記 巻六 秦始皇本紀 第六](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷006)』:十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。……十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。 | |
| 189 | [^27]: 『[史記 巻八十一 廉頗藺相如列伝](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷081)』:後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧為大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧為武安君。 | |
| 190 | [^28]: 『[史記 巻四十三 趙世家](https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷043)』:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻 赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。 | |
| 191 | [^29]: “[秦滅韓和破趙](https://web.archive.org/web/20150923201442/http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang78.htm)”. 中華文化信息网. 2015年9月23日時点の[オリジナル](http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang78.htm)よりアーカイブ。2014年1月3日閲覧。 | |
| 192 | [^30]: [[秦|Li & Zheng 2001]], p. 184. | |
| 193 | [^31]: [[秦|寺田隆信 1997]], pp. 48–49. | |
| 194 | [^32]: [廉頗藺相如列傳第二十一](http://www.chineseclassic.com/content/1061) | |
| 195 | [^33]: [趙世家第十三](http://www.chineseclassic.com/content/1023) | |
| 196 | [^34]: 代は燕と連携をとり秦に対抗する。[[王賁]]により代王嘉が捕虜になる紀元前222年まで命脈を保った([[燕攻略]]も参照)。 | |
| 197 | [^35]: [[秦|Li & Zheng 2001]], p. 187. | |
| 198 | [^36]: (中国語) [*秦滅魏之戦 \[Qin's conquest of Wei\]*](http://www.hudong.com/wiki/秦灭魏之战) (wiki), Hudong Baike, [http://www.hudong.com/wiki/秦灭魏之战](http://www.hudong.com/wiki/秦灭魏之战) | |
| 199 | [^37]: 『[[史記]]』楚世家 | |
| 200 | [^38]: [秦滅楚](http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang80.htm) [Archived](https://web.archive.org/web/20150923201455/http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang80.htm) 2015-09-23 at the [[ウェイバックマシン|Wayback Machine]]. 中華文化信息网 | |
| 201 | [^39]: [[馮夢竜]]『[[東周列国志]]』“王賁兵渡鴨緑江,圍平壌城,破之,虜燕王喜,送入咸陽,廢為庶人。”但純属小説家之言,不足為信。 | |
| 202 | [^40]: この時点で趙の滅亡とすることもある。 | |
| 203 | [^41]: [秦滅燕、趙和破斉](http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang81.htm) [Archived](https://web.archive.org/web/20150923201457/http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang81.htm) 2015-09-23 at the [[ウェイバックマシン|Wayback Machine]]. 中華文化信息网 | |
| 204 | [^42]: Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). *World History: Volume I: To 1800*. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78. | |
| 205 | [^43]: 柿沼2015 | |
| 206 | [^44]: Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). *Rise and Fall of the Qin Dynasty*. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721. | |
| 207 | [^45]: 即位して3日後に死去した。 | |
| 208 | [^46]: 中国統一後に皇帝を称した。 | |
| 209 | [^47]: 在位46日。 |